
地図に穴が空いている路地
俺には、どうしても届けられない荷物がある。
宛先は知っている。
住所も、表札の欠けた角も、玄関先の鉢の並びも、全部覚えている。
それでも俺は、七年、その家の前を素通りしてきた。
都内の運送会社で配達をしている。
担当は墨田の、京島から曳舟にかけての一角だ。
軽トラックがやっと通れる幅の道に、瓦屋根の家が肩を寄せて並んでいる。
夏は打ち水の匂いがする。
冬は石油ストーブの煙が路地に低く漂う。
豆腐屋のラッパが聞こえなくなったのは、いつからだろう。
店は減り、家は建て替わり、それでも路地の形だけは変わらない。
この街は、俺が生まれ育った場所だ。
高校を出てすぐ、俺は家を飛び出した。
それが十八のときで、いまは三十二になる。
母とは、十四年会っていない。
この街で荷物を配るようになって、七年になる。
七年、俺は二丁目の路地だけを避けて走ってきた。
地図のその一角にだけ、穴が空いているみたいに。
※
靴箱の上の三千円
母は俺に大学へ行ってほしかったらしい。
朝も夜もパートを掛け持ちして、学費を貯めていた。
当時の俺には、その苦労がまるで見えていなかった。
勉強は嫌いだったし、早く自分の金で暮らしたかった。
「あんたの将来を思って言ってるの」
母はそう繰り返した。
食卓の向かいで、薄緑色の湯呑みを両手で包みながら。
俺にはそれが、自分の夢を押しつけているようにしか聞こえなかった。
「うるせえよ。俺の人生だろ」
最後の夜、俺はそう吐き捨てて家を出た。
振り返らなかった。
母が玄関先に立っていたことに気づいたのは、翌朝になってからだ。
靴箱の上に、茶封筒が置いてあった。
中に千円札が三枚。
封筒の表に、母の丸い字で「体に気をつけて」と書いてあった。
あの三千円を、俺はいまだに財布の奥に持っている。
使えないまま、札の折り目だけが白くなった。
配達の仕事に就いたのは二十五のときだ。
いくつか職を変えたあと、たまたま求人を見つけた。
担当が実家のある一角だと知ったのは、初日である。
異動を願い出ようかと思った。
「あそこは道が複雑だから、土地勘のある奴じゃないと務まらない」
先輩にそう言われて、断る理由が見つからなかった。
母の家は、ルートから二本横の路地にある。
普通に走れば、前を通ることはない。
一度だけ、間違えて曲がったことがある。
見覚えのある塀が目に入った瞬間、心臓が跳ねた。
玄関先には、昔と同じ鉢が並んでいた。
赤いサルビアと、小さな紫陽花。
鉢の土は湿っていて、今朝水をやったばかりのようだった。
俺はバックミラーも見ずに走り抜けた。
※
この仕事は、体が先に道を覚える。
路地に入る角度、塀の出っ張り、猫の通り道。
台風の翌朝は、どの家の前に鉢が転がっているかまで分かる。
雨の日は、玄関先で傘を差してくれる家が三軒ある。
そのうち二軒は、俺が子どものころからそこにある家だ。
母の家の前だけは、体が覚えないようにしていた。
覚えたら、寄ってしまう気がした。
会社に一度、問い合わせの電話があったと聞いたことがある。
受けたのは事務の高木さんだ。
「配達の人のお名前は言えますか、って年配の女の人から」
「なんて答えたんですか」
「個人情報なので、って断りました。そしたら、そうですよね、って」
高木さんは、少し申し訳なさそうに言った。
「それで、切れちゃって。何も言わずに」
俺は「そうですか」とだけ返した。
その日の午後、俺はいつもより丁寧にインターホンを押していた。
理由は自分でも分からなかった。
※
三丁目の縁側と、縁の欠けた湯呑み
三丁目の角に、田中さんという八十過ぎの人が住んでいる。
週に一度か二度、通販の荷物を届ける。
届けるたびに「まあまあ、お茶でも飲んでいきなさい」と引き止められた。
最初は断っていた。
けれど田中さんは、いつも玄関先に湯呑みを二つ用意して待っていた。
断ると、本当に寂しそうな顔をする。
それで五分だけと決めて、縁側に座るようになった。
田中さんが出してくれる湯呑みは、薄い緑色をしていた。
縁がほんの少し欠けている。
持つと掌にちょうど収まる大きさで、妙に懐かしい重みがあった。
麦茶の冷たさが、陶器を通してじんわり手に伝わってくる。
ある日、俺はその湯呑みをじっと見つめていた。
「どうしたの、そんな顔して」
田中さんが不思議そうに聞いた。
「いや……うちの母親が、これとそっくりのを使ってたなと思って」
口に出してから、しまったと思った。
母の話など、誰にもしたことがなかったのに。
田中さんは少し黙ってから、「お母さん、元気?」と聞いた。
「……さあ。もう何年も会ってないんで」
「そう」
それ以上は聞かず、田中さんは麦茶を足してくれた。
蝉の声が、やけに大きく聞こえた。
荷物のことも、そのころから少しずつ引っかかりはじめていた。
田中さんに届くのは、いつも同じような箱だ。
軽くて、角が潰れやすくて、伝票の品名欄が「食品」とだけ書いてある。
麦茶のパック。
佃煮。
干菓子の詰め合わせ。
八十過ぎの一人暮らしにしては、量が多いと思っていた。
そして、そのどれもが、二人で飲み食いできるものだった。
※
火曜と金曜だけ開く窓
何度か通ううちに、田中さんは少しずつ話をしてくれるようになった。
近所の人のこと。
商店街の豆腐屋が店を畳んだこと。
町内会の花壇の世話を誰がしているか。
話の端々に、この街で静かに暮らす人たちの輪郭が浮かんだ。
そして、ある梅雨の日のことだった。
「ねえ、あんた。二丁目の角の家、知ってる?」
俺の手が止まった。
二丁目の角。
それは母の家だ。
「サルビアを育ててる家よ。あそこの奥さんとね、私、もう四十年の付き合いなの」
俺は黙って麦茶を飲んだ。
欠けた縁が、唇に当たった。
「あの人ね、息子さんの話をよくするのよ。配達の仕事をしてるんだって、嬉しそうに」
「……知ってるんですか」
「最初から知ってたわよ。あんた、昔この辺を自転車で走り回ってた子でしょう」
田中さんは穏やかに笑った。
「大きくなったわねえ」
俺は何も言えなかった。
「お母さん、あんたが来る曜日を知ってるの。火曜と金曜でしょう、このあたり」
俺は頷いた。
「その日だけ、二階の窓を開けるの」
「窓」
「あんたのトラックが、遠くを通るのが見えるんだって」
湯呑みを持つ手が震えた。
「今日も元気そうだったって、私に報告するのよ。毎回」
俺はあの路地を避けていた。
母の家の前を通らないように、わざと遠回りをしていた。
けれど母は知っていた。
俺がこの街で荷物を届けていることを。
火曜と金曜に近くを通ることを。
そして二階の窓から、遠くに見える軽トラックを探していた。
七年、俺は母から逃げていたつもりだった。
母は一度も追いかけてこなかった。
ただ窓を開けて、待っていただけだった。
「あんたが会いに来ないのも、お母さんは分かってるみたいよ」
「怒ってないんですか」
「怒ってなんかいないわ」
田中さんは、もう一度麦茶を注いだ。
「『あの子はあの子なりに頑張ってるんだから』って、いつも言ってる」
※
田中さんの家には、仏壇がある。
ご主人は十年前に亡くなったそうだ。
縁側に座ると、線香の匂いがかすかに流れてくる。
「お父さん、麦茶が嫌いでね」
田中さんはよくそう言って笑った。
「夏でも熱いお茶なの。汗かきながら飲むのよ」
俺が「うちの母もそうです」と言うと、田中さんは何も言わずに頷いた。
いま思えば、あのとき田中さんは、全部知っていた。
知っていて、一度も先に踏み込まなかった。
五分と決めていた滞在は、いつのまにか十分になっていた。
俺が座ると、田中さんは必ず麦茶を注ぎ足した。
一杯目より、二杯目のほうが長くかかる。
そういう注ぎ方だった。
あるとき、荷物を渡しながら伝票を見て、俺は妙なことに気づいた。
時間帯指定が、いつも午前中になっている。
置き配の指定は、一度もない。
八十過ぎの一人暮らしなら、置き配のほうが楽なはずだ。
「置いていってもいいですよ」
そう言ったら、田中さんは首を横に振った。
「顔見ないと、意味がないでしょう」
そのときは、独り暮らしの寂しさだと思った。
依頼主の欄は、いつも通販会社の名前だった。
だから俺は、それ以上考えなかった。
伝票というのは、見ているようで見ていない。
一日に二百枚も剥がしていると、字は模様になる。
※
母が窓を開けていた七年
母がいつから窓を開けていたのか、俺は知らない。
田中さんの話では、少なくとも五年は続いているという。
二階の、道に面した六畳だ。
俺が高校まで使っていた部屋である。
あの部屋の窓からは、大通りが一区画ぶん見える。
白い箱型のトラックが通れば、たしかに分かる。
ただし、うちの会社の車は他にも走っている。
色も形も同じだ。
母が見ていたのが本当に俺のトラックだったかどうかは、誰にも分からない。
分からないまま、母は毎回、田中さんに報告していた。
今日も元気そうだった、と。
俺はその話を聞いてから、火曜と金曜だけ、大通りを一本余計に走るようになった。
路地には入らない。
ただ、見えるところをゆっくり通る。
それが、俺にできる唯一の返事だった。
俺が家を出た夜のことを、母は一度も人に話さなかったらしい。
喧嘩の中身も、俺が吐いた言葉も、田中さんは知らなかった。
「息子さん、家を出たのよ、としか聞いてないの」
「怒ってたでしょう」
「泣いてたわ。三日、泣いてた」
三日。
その数字を、俺はそのときは聞き流した。
「四日目に、いつも通りパートに出たって」
母は当時、朝は弁当屋、昼から夕方まではクリーニングの受付をしていた。
掛け持ちの理由が、俺の学費だったことは知っている。
俺が家を出た時点で、その貯金には行き先がなくなったはずだ。
「あのお金、どうしたんでしょうね」
俺がそう言うと、田中さんは湯呑みを置いた。
「使ってないと思うわよ」
「なんで分かるんですか」
「通帳の話、一度もしないもの。ある人はするの、そういう話」
それきり、田中さんはその話をしなかった。
その梅雨の日、田中さんはいつもと違うことを言った。
「私ね、来月から世田谷へ行くの」
「引っ越しですか」
「娘のところ。足がね、もうだめなのよ」
縁側の下に、段ボールが三つ積んであった。
これまで気づかなかったわけではない。
荷物を届ける人間は、家の中の変化に気づいても、口に出さない訓練をしている。
「じゃあ、荷物も」
「そう。もう届かない」
田中さんは、そこで一度、麦茶を口に含んだ。
「だからね、今日は少し長く座っていってちょうだい」
俺は腕時計を見て、それから見なかったことにした。
その日の残りは、あと十四個だった。
十四個くらい、遅れてもどうにかなる。
そう思ったのは、この仕事に就いて初めてだった。
「あんたに言わないまま行くと、私、あの人に怒られるから」
あの人、というのが誰のことなのか、そのときはまだ分からなかった。
庭で、紫陽花の葉から雨粒が落ちた。
音がしないほど小さい雨だった。
※
依頼主の欄にあった名前
その梅雨の日、田中さんは立ち上がって、奥の押し入れを開けた。
戻ってきたとき、手に小さな段ボールを持っていた。
潰れかけた、みかん箱より一回り小さい箱だ。
「これね、あんたに渡さないかんと思って、ずっと置いてあったの」
蓋を開けると、丸めた新聞紙が詰めてあった。
日付は、俺が家を出た年のものだった。
新聞紙の下に、包装紙が一枚、畳んで入っていた。
そして、その上に送り状が一枚。
「中身はね、いまあんたが持ってるそれ」
俺は自分の手の中の湯呑みを見た。
薄い緑。
欠けた縁。
「お母さんが、送ってきたのよ。宅配便で。歩いて三分の距離なのに」
「なんで、わざわざ」
「手渡しだと、話をしないといけないからでしょう」
田中さんは、湯呑みのほうを見たまま言った。
「電話でね、こう言われたの。『家に置いといたら、私、毎日出してしまうから』って」
俺は言葉が出なかった。
「あの人、息子さんの湯呑みを、自分の手元に置いておけなかったの」
「じゃあ、これは」
「あんたのよ。ずっと」
俺は七年、この家でこれに口をつけてきた。
自分の湯呑みだとは知らずに。
「毎週、荷物が届くのも」
俺が言いかけると、田中さんは小さく頷いた。
「私、通販なんてやり方も知らないのよ」
「じゃあ、あの箱は全部」
「お母さんが、私の名前で注文してるの。麦茶とか、お菓子とか」
「なんで、そんな」
「頼まれたからよ。あの子が来たら、五分でいいから座らせてやってって」
湯呑みの底に、麦茶がわずかに残っていた。
「一度だけね、自分の家宛てに注文しかけたことがあるらしいの」
田中さんは、思い出すように天井を見た。
「取り消したって。呼びつけることになるから、って」
俺は送り状を手に取った。
薄い複写の紙で、字が滲みかけている。
お届け先の欄に、田中さんの名前。
ご依頼主の欄に、母の名前があった。
その上に、受付の日付印が押してあった。
送り状の日付は、俺が家を出た三日後だった。
配達員になる、七年も前のことだ。
母は、息子がこの街に戻ることも、この家に上がることも、知らなかった。
ただ、出せなくなった一杯を、二軒先に預けただけだった。
それが、七年後に俺の口へ戻ってきた。
母親が茶碗をひとつだけ大事にしていた話は、母が欠けさせなかった茶碗にも書かれている。
配れないまま鞄に残る荷物のことなら、島で一通だけ配れない手紙のほうが近い。
※
二丁目の角の家
その日の配達を終えたあと、俺はいつものルートを走らなかった。
ハンドルを切って、二丁目の路地に入った。
狭い道の両側に、見覚えのある塀が続いている。
夕暮れの光が瓦屋根を橙色に染めていた。
どこかの家から、味噌汁の匂いが漂ってきた。
母の家の前で、トラックを止めた。
サルビアは、七年前と同じ場所に咲いていた。
紫陽花は前より少し大きくなっている。
表札の文字は薄くなっていたが、読めないほどではなかった。
エンジンを切った。
降りた。
足が重かった。
助手席の湯呑みを、俺は両手で持ち直した。
インターホンに手を伸ばしたとき、玄関の引き戸が開いた。
母が立っていた。
十四年分、小さくなったように見えた。
髪に白いものが増えていた。
エプロンの裾で手を拭きながら、俺を見上げている。
目だけは、変わっていなかった。
怒ってもいなかったし、泣いてもいなかった。
ただ静かに、そこにいた。
「おかえり」
母はそれだけ言った。
まるで俺が朝出かけて、夕方帰ってきたみたいに。
謝りたかった。
あの夜のことを。
十四年、連絡しなかったことを。
けれど喉の奥が、石でも詰まったように動かなかった。
母は俺の顔を見て、少し笑った。
「お茶、入れるから。上がんなさい」
台所から、ほうじ茶の匂いがした。
卓の上に、湯呑みが二つ並んでいた。
一つは母のもの。
もう一つは、縁の欠けていない、新しい薄緑だった。
買い直したのだと、すぐに分かった。
毎日、二つ並べて。
俺は持ってきた欠けたほうを、その隣に置いた。
三つになった。
母は何も聞かなかった。
俺も何も言わなかった。
ただ向かい合って座り、欠けたほうを両手で包んだ。
ほうじ茶の温かさが、指先からゆっくり体に染みていった。
三千円は、まだ財布の中にある。
いつか返そうと思っていた。
けれど今日は、それを渡す日ではない。
まずはこの一杯を、ちゃんと受け取ることが先だった。