
私は二か月のあいだ、あの子の母親を疑っていた。
曲がったストローを作るために、あの子は毎週、売店のレジへ来ていた。
病院の一階にあるコンビニで、私は夕方のレジに立っている。
火曜と金曜の六時五十分になると、小さな足音が冷蔵ケースの前で止まった。
小学三年生くらいの男の子だった。
ランドセルに貼られた名札には、「ゆうと」とひらがなで書いてあった。
ランドセルの横に、緑色の三角定規がぶら下がっていた。
シャツの背中には、いつも灰色の毛玉がついていた。
彼はいちご牛乳の紙パックを一つ、両手でレジ台にのせた。
「ストロー、二本ください」
最初の日は、きょうだいの分だろうと思った。
二度目も、三度目も、同じ言葉だった。
値段は148円。
小銭入れから、百円玉を一枚、十円玉を四枚、一円玉を八枚。
一円玉を数えるとき、彼の唇が小さく動いた。
数え間違えたことは、一度もなかった。
払い終えると、彼は袋詰め台の端へ移った。
彼は三角定規の斜めの辺にストローを当てて、ぎゅっと曲げた。
曲げるのは、一本だけだった。
もう一本は、まっすぐなまま、ズボンのポケットに消えた。
それから彼は、パックを胸に抱え、エレベーターのほうへ走って行った。
走ってはいけないと言いたかったが、一度も言えなかった。
緑の三角定規
二週間が過ぎても、彼は一人で来ていた。
大人が付き添っている姿を、私は一度も見ていない。
「親御さん、見かけないですよね」
レジを交代した上野さんが、冷蔵ケースを補充しながら言った。
「夕方に、八歳くらいの子を一人で歩かせるって、どうなんでしょう」
私は何も答えなかった。
答えられなかったのではなく、同じことを、とっくに考えていたからだ。
いちご牛乳の甘い匂いと、病棟から流れてくる消毒液の匂い。
その二つが混ざる夕方のレジで、私は顔も知らない母親を、頭の中に作り上げていった。
忙しいのか、疲れているのか。
子どもを売店へ使いに出して、自分は病室で休んでいるのだろう。
そんな決めつけが、日ごとに固まっていった。
三週目の金曜、彼の小銭入れから、一円玉が七枚しか出てこない日があった。
「あれ……」
彼の顔が、すっと白くなった。
「いいよ、今日は一円くらい」
私が言いかけると、彼は首を横に振って、パックをレジ台に戻した。
「たりないのは、だめです」
「たりないのは、だめって、お母さんが言うの?」
彼は答えずに、小さく頭を下げて走って行った。
次の火曜、彼はいつもの時間に来て、レジ台に白い封筒を置いた。
鉛筆の字で、「いちえん かりました」と書いてあった。
中には、一円玉がきっちり一枚、入っていた。
その日の夕方、常連の老人が、缶コーヒーを手にレジで笑った。
「あの子ね、エレベーターでよく一緒になるんだよ」
「紙パックを、生まれたての猫みたいに抱えてね。ずっと両手で、落とさないように」
老人はそう言って、小銭をゆっくり数えた。
私は、その話を、聞こえなかったことにした。
私はそれをレジに入れず、自分の財布にしまった。
その日、余っていたストローを束で差し出してみた。
「もっとあげようか。余っているから」
「二本でいいです。もらいすぎちゃだめだから」
彼は少し迷ってから、付け足した。
「あの、曲げるのは、ぼくがやります。ちゃんと測ってからにします」
何を測るのか、私は訊かなかった。
店長の小堺さんから、前にきつく言われていたからだ。
「お客さんの事情に、勝手に踏み込まないこと」
それでも私は、家に帰ってからも、あの子の背中の毛玉を思い出した。
休憩室で、上野さんにだけ、一円の封筒の話をした。
「その子、将来、すごい経理になるよ」
上野さんは笑ったが、すぐに真顔になった。
「でもさ、八歳が一円足りないだけで、あんな顔するのは、普通じゃないと思う」
「普通じゃない家、なのかな」
私は、紙コップのお茶を見つめた。
疑いは、そのときもう、ほとんど確信の形をしていた。
ある火曜の八時半、段ボールを出しに裏の搬入口へ回った。
雨上がりのアスファルトが、街灯の下で濡れて光っていた。
時間外出入口の前に、白い軽バンが、ハザードを点けて止まっている。
運転席から降りてきたのは、作業着姿の男の人だった。
帽子のつばの下の顔は疲れていて、目だけが、ずっと出入口を見ていた。
悠斗くんが駆けてきて、男の人の腰に、ぶつかるように抱きついた。
男の人は何も言わず、大きな手で、その頭を二度なでた。
母親が来ない夜に、迎えに来るのは、いつもこの人なのだろう。
私はそう思い、段ボールの角で、指先を少し切った。
いちご牛乳が切れた夜
六月の第二金曜、朝から雨が降り続いていた。
雨音が、売店のガラス戸を、一日中たたいていた。
傘立てのビニール傘が、床に細い水の筋を引いている。
こういう日は面会の人も少なく、コーヒーマシンの低い唸りだけが、よく聞こえた。
それでも私は、六時五十分を待っていた。
待っている自分に気づいて、少し腹が立った。
夕方には、駐車場の水たまりが、売店のガラス戸の前まで広がっていた。
配送のトラックは、高速の通行止めで、昼になっても着かなかった。
冷蔵ケースの、いちご牛乳の段だけが、空だった。
六時五十分、いつもの足音が止まった。
彼は空の棚を見て、それから私を見た。
濡れたランドセルから、小さな水滴が床に落ちた。
傘は、持っていない。
渡り廊下を、雨の中、走ってきたのだろう。
「今日は、ないんですか」
「ごめんね。雨で、トラックが来られなくて」
彼は何も言わなかった。
泣きもせず、ごねもしなかった。
ただ、ランドセルの横の三角定規を、ぎゅっと握った。
その手の甲に、濡れた髪から、しずくが一粒落ちた。
「……じゃあ、ストローだけください。二本」
「ストローだけで、いいの?」
「いちご牛乳がないと、だめなんです」
その声は、細くて、ひどく静かだった。
売店の蛍光灯が、一度だけ、ちらついた。
床のしずくが、足もとで小さな水たまりになっていく。
私は、かける言葉を探して、見つけられなかった。
スタッフ用の冷蔵庫に、朝、自分用に買ったいちご牛乳が一つ入っていることを、私は思い出した。
昼に飲むつもりで、そのまま忘れていたものだ。
「ちょっと、待ってて」
バックヤードの冷蔵庫から、紙パックを取り出す。
指先が、冷たさで少ししびれた。
「これ、売り物じゃないけど、今日は私の」
「だめです。はらいます」
彼は小銭入れを開いた。
百円玉が一枚、十円玉が四枚、一円玉が八枚。
一円玉を数える唇が、今日は少しふるえていた。
受け取っていいのか、私は迷った。
けれど、受け取らなければ、この子が何かを失う気がした。
私は148円を、レジに入れた。
彼はいつもの場所で、いつもの角度に、ストローを一本だけ曲げた。
上野さんが、私の背中を押した。
「行ってきなよ。五分だけ、私が見てるから」
私はエプロンのまま、彼を追った。
エレベーターホールには、夕食を下げる配膳車の、甘辛い煮物の匂いが残っていた。
階数表示が、2、3、4と、ゆっくり光った。
曲がったストローの行き先
エレベーターの扉が閉まる前に、小さな運動靴が滑り込んだ。
五階のボタンが、彼の指で光る。
チャイムが鳴り、扉が開いた。
長い廊下の先に、「512」というプレートが見えた。
私は少し離れた柱の陰で、足を止めた。
病室の引き戸は、半分だけ開いていた。
窓の外では、雨が静かにガラスを伝っている。
ベッドの足もとの棚には、飲み終えた紙パックが、洗って、きれいに並べてあった。
どれも、ストローの穴が、同じ向きだった。
中から、小さな声が聞こえてくる。
「いくよ。いち、に、さん」
のぞいた私は、息を止めた。
悠斗くんは、部屋の隅の来客用ソファに、仰向けに寝ていた。
ランドセルは床に置かれ、両腕だけが、天井に向かって伸びている。
手には、私が渡した紙パック。
口には、曲がったストロー。
顔を天井に向けたまま、彼はゆっくり、いちご牛乳を吸った。
喉が、一度、静かに動く。
二度、動く。
しばらくして、彼は大きく息を吐いた。
「……むせない。だいじょうぶ」
彼はランドセルの横から三角定規を外し、ストローの曲がり具合を、もう一度、目で測った。
指先でほんの少し、角度を直す。
その真剣な横顔は、売店で見るどの顔よりも、大人びていた。
来客用ソファの灰色の布が、悠斗くんのシャツの毛玉と同じ色をしていた。
彼は起き上がり、パックを両手で持って、ベッドへ近づいた。
白いカーテンの向こうに、母親が仰向けに横たわっていた。
枕元の台には、緑色の三角定規が置いてあった。
「お母さん、今日のいちご牛乳、特別なんだよ」
「特別って?」
「売店のお姉さんがくれた。すごく冷たいやつ」
彼は曲がったストローの先を、母親の唇のそばへ、そっと運んだ。
母親は、ほんの少しだけ顎を引いて、小さく一口、吸った。
「……あ、ほんとに冷たい」
その声は、細くて、嬉しそうだった。
廊下で立ち尽くす私の肩に、誰かの手が触れた。
看護師の岡村さんだった。
「売店の方ですね。悠斗くんが、いつもお話ししてくれます」
「あの……お母さんは」
「背骨の手術のあとで、三週間は仰向けのままなんです」
「咳をすると、背中に響くので、むせるのが一番こわくて」
「最初の週に、一度むせてしまって。悠斗くん、その場にいたんです」
「それから、ストローの角度は自分で決めると言い出して」
「ご主人は夜勤の配送で、面会が終わる八時半まで、あの子はここで待っています」
岡村さんが、引き戸をそっと押して、私を中へうながした。
「売店の方、ですか。顔が向けられなくて、ごめんなさい」
天井を向いたまま、母親が言った。
「いえ……」
「あの子、お姉さんの話ばっかりなんです。ストローを二本しかもらわないのは、約束だからって」
「約束、ですか」
母親の声は、天井に向かって、まっすぐ上がっていく。
その向こうで、点滴の袋が、小さく揺れた。
「ひとつ多くもらえば、誰かの分がひとつ減るでしょう。そう教えたら、二本って決めてしまって」
悠斗くんが、母親の口もとからパックを離し、私に気づいて固まった。
「あ……おねえさん」
「いちご牛乳、ちゃんと冷たかった?」
「うん。すごく冷たかった」
彼はそう言って、ストローの先を、白いティッシュでそっと拭いた。
私は何も言えなかった。
二か月のあいだ、私は冷蔵ケースの前で、顔のない母親を責めていた。
その母親は、枕から頭を上げることも許されないまま、息子が運んでくる一口を待っていた。
悠斗くんは、毎晩、母より先に、仰向けでいちご牛乳を飲んでいた。
緑の三角定規の角度は、母親の唇に届く前に、彼が自分の喉で確かめて決めたものだった。
まっすぐなストロー
悠斗くんの母親が退院したのは、七月の最初の土曜日だった。
私は遅番で、レジに背を向けて品出しをしていた。
「すみません」
振り向くと、腰にコルセットをつけた女性が、ゆっくりと立っていた。
その袖を、悠斗くんがしっかりつかんでいる。
「ストロー、二本ください。まっすぐのでいいです」
母親が、そう言って笑った。
悠斗くんは、いちご牛乳を二つ、レジ台に置いた。
「もう、曲げなくていいんだよ」
彼は私に向かって、少し照れくさそうに言った。
二人は売店の外のベンチに並んで座り、紙パックをこつんと合わせた。
新しいシャツの背中には、もう毛玉がなかった。