母が欠けさせなかった茶碗

湯気立つ古い台所のひととき

湯気は、天井の梁にぶつかって、いったん止まる。

それからゆっくり横へ流れて、煤けた電球のまわりを回った。

大釜の縁に柄杓を当てると、かん、と鈍い音がする。

母の柄杓は、いつも奥から動いた。

いちばん奥に座った子から汁をよそって、手前へ、手前へと戻ってくる。

私の椀は、いつも最後だった。

五十年近く経った今も、その順番が体に残っている。

※

私は今、山をひとつ越えた町の小学校で用務員をしている。

朝は花壇に水をやり、昼は給食のワゴンを二階と三階へ上げて、午後は割れた窓の型ガラスを測りに行く。

十二時十五分になると、廊下じゅうに味噌の匂いが満ちる。

子どもたちが「いただきます」を言い終えるまで、私は配膳室の丸椅子に座って待つ。

全員が食べ終わって、食缶が空になって、それから自分の分を食べる。

同僚の若い先生に、一度そのことを笑われたことがある。

「山根さん、冷めますよ」

冷めていい、と答えた。

理由は言わなかった。

言えば長くなるし、それに私は、その理由を三十年ものあいだ、憎んでいた。

※

母の名は、山根タヅという。

今年で九十四になる。

三十年、会っていない。

先月、澄夫さんから電話があった。

「ふゆちゃん、おふくろさんな、来月から別のとこに移るげな」

澄夫さんは私より十一下で、母がいちばん最初に預かった子だ。

「家ば引き払うことになった。荷物ば、あんたが見らんね」

見らん、とは言えなかった。

私は一日だけ有給を取って、電車を三本乗り継いだ。

※

昭和三十七年。

私が生まれ育った黒木原は、山の斜面に炭住が段々に貼りついた町だった。

朝は坑口の汽笛で起き、夜はボタ山の向こうが赤くなるのを見ながら寝た。

雨の日は、道の水たまりまで黒かった。

父は、私が四つのときに坑の底から戻らなかった。

だから父の顔は、写真でしか知らない。

母はそれから、鉱員社宅の共同炊事場で飯を炊く仕事についた。

朝の四時に起きて、大釜に米を張る。

一日に三度、四十人分の飯と汁を作って、洗って、また張る。

母の手は、冬でも湯気で赤かった。

指の節だけが、いつも白かった。

※

昭和四十年の秋に、坑口が閉じた。

町から人が抜けるのは、思っていたよりずっと早かった。

はじめは荷馬車で、途中からは夜のうちに。

朝、隣の家の雨戸が開かなくなっていて、それでああ行ったのだ、と知る。

そういうことが、毎週のようにあった。

炊事場の人数はどんどん減って、母の仕事は三度から二度になり、やがて一度になった。

※

澄夫さんが来たのは、その冬だ。

朝、母と私が炊事場の戸を開けると、三つになる男の子が、階段の下の石にちょこんと座っていた。

膝を抱えて、片方だけ靴を履いていた。

母は何も言わずに、その子を中に入れた。

椀に飯をよそって、湯を注いで、塩を少しふって、渡した。

その子は両手で椀を持って、震えながら啜った。

「お母さんな」

母が聞くと、その子は首を横に振った。

「どっちも?」

もう一度、首を横に振った。

母はそれきり、何も聞かなかった。

その日から、その子は私たちの家にいた。

※

二年で、七人になった。

四年で、十二人になった。

母は誰にも「もらった」とは言わなかった。

「預かっとるだけ」

役場の人が来ても、近所が何か言っても、母はそれしか言わなかった。

預かっているのだから、いつか返さないといけない。

だから母は、その子たちの名前を一度も変えなかったし、家の中で「うちの子」と呼ぶこともしなかった。

——ただし、私を除いて。

私だけは「うちの子」だった。

そして、うちの子であることは、あの家の中で、いちばん割の悪いことだった。

※

風呂は、四人ずつ入った。

薪が高かったから、湯は毎日は替えない。

奥から順に、小さい子から。

私は最後だった。

十六の冬、湯船に足を入れたら、湯というより灰色の水だった。

底に、髪の毛が細く渦を巻いていた。

私は台所に戻って、母の背中に言った。

「なんで、私がいっつも最後なん」

母は洗い物の手を止めなかった。

「あんたは、うちの子やけん」

その一言だった。

いつも、その一言だけだった。

うちの子やけん、我慢しなさい。

うちの子やけん、後でよか。

うちの子やけん、そこにおって。

私は、うちの子でなければよかったのに、と本気で思った。

※

茶碗のことも、ずっと引っかかっていた。

母は、子どもの茶碗が欠けても捨てなかった。

縁がひとつ欠けた茶碗を、そのまま元の場所に戻す。

「もったいなかろうもん」

そうではない、と私は知っていた。

一度だけ、母が誰にともなく言ったのを聞いたことがある。

「欠けたら、その子がここにおった証になる」

だから戸棚の下の段には、少しずつ欠けた茶碗が並んでいた。

裸電球の下でそれを見ると、欠けた形が全部ちがうのがよく分かった。

三日月みたいなの。

爪の先みたいなの。

ぎざぎざに二か所欠けたのは、いちばん乱暴だったヨシ坊のだ。

母は、朝それを配るとき、一度も間違えなかった。

「これがヨシ坊の、これが澄夫の、これがミヨちゃんの」

子どもたちは、自分の欠けを自慢した。

「おれのがいちばん大きか」

「ちがう、うちのが大きか」

炊事場は、朝からうるさかった。

そのうるささを、私は嫌いではなかったと思う。

嫌いではなかったから、なおさら苦しかった。

※

子どもたちは、私を「ふゆ姉(ねえ)」と呼んだ。

朝は六時に起こして、順番に顔を洗わせて、髪の寝癖に水をつけて、七人ぶんの靴を玄関に並べる。

学校までは、坂を下って十五分。

いちばん後ろを歩くのが私の役目だった。

ヨシ坊はよく道端の石を蹴って、それが側溝に落ちるたびに立ち止まった。

「ふゆ姉、石が落ちた」

「拾わんでよか」

「でも落ちた」

拾ってやると、その石をランドセルの中に入れた。

そういうことが、毎朝あった。

ある日、ヨシ坊の茶碗の欠けが、前の日より大きくなっていた。

母がすぐに気づいた。

「ヨシ坊、あんた、これ、どげんしたと」

ヨシ坊は下を向いていた。

井戸の縁に、わざと当てたのだった。

「澄夫のが、おれのより大きかったけん」

母は、笑わなかった。

けれど怒りもしなかった。

しばらくしてから、静かに言った。

「欠けは、増やすもんやなかよ」

「割れたら、もう戻らんとやけん」

ヨシ坊は、その日から茶碗を両手で持つようになった。

※

私の茶碗だけが、どこも欠けていなかった。

戸棚の下の段ではなく、上の段に、白い布巾に包んで置いてあった。

毎晩、母は私の茶碗だけを別に洗った。

洗って、拭いて、包んで、背伸びをして上へ上げる。

私はそれを、台所の入り口から何度も見ていた。

そして、こう読んだ。

——私だけ、よそのお客さんなのだ。

十七のとき、一度だけ言った。

「お母さん、私の茶碗も、下でよかよ」

母は布巾を持ったまま、少しのあいだ黙っていた。

それから、上の段に上げた。

「よかと」

それだけだった。

※

その晩、私は自分の茶碗を、わざと流しの角に当てた。

かつん、と音がしただけで、縁はきれいなままだった。

もう一度、少し強く当てた。

やはり欠けなかった。

三度目でやめた。

割れたら困る、と思ったのではない。

割れたら、母が悲しむと思ったのでもない。

——欠けがひとつも作れない自分が、あの家のどこにも書き込まれていないような気がしたのだ。

私は茶碗を布巾で拭いて、自分で上の段に上げた。

背伸びをする自分の影が、壁で大きく揺れた。

※

高校は、二年でやめた。

十二人分の米と、十二人分の靴と、十二人分の教科書を、母ひとりが炊事場のパートで背負っていた。

ミヨちゃんが中耳炎で入院した月は、家の砂糖壺が空のままだった。

私は、自分の月謝袋の中身をいつも知っていた。

紙の袋の折り目が、月末になるほど深くなるのを知っていた。

やめると言ったとき、母は台所の椅子に座って、じっと私の顔を見た。

長かった。

それから、言った。

「そうか」

止めてほしかった。

一度でいいから、行きなさい、と言ってほしかった。

母は言わなかった。

二日後、担任の先生が家まで来た。

土間に立ったまま、母に、成績のことと、奨学金のことを話した。

母は、ずっと下を向いていた。

「山根さん、お母さんが一言、行きなさいと言えばいいんです」

先生は、そう言った。

母は、湯呑みを二つ出したきり、最後まで何も言わなかった。

先生が帰ったあと、母は流しの前に立って、蛇口を出しっぱなしにしていた。

洗うものは、もう何もなかった。

私はそれを、意地だと思った。

私は紡績の工場に入って、寮に移った。

十九で町を出て、それきり戻らなかった。

※

年賀状だけは、毎年出した。

住所と、名前と、「元気にしています」の一行だけ。

母からの返事は、いつも同じだった。

「元気ならよか」

それだけ。

結婚して、離れて、また働いて、いつのまにか五十を過ぎていた。

小学校の用務員の口が空いていると聞いたのは、五十四の春だ。

面接で「どうしてこの仕事を」と聞かれて、私は少し困った。

「学校のにおいが、好きなんです」

そう答えた。

嘘ではなかったのだと思う。

給食の匂いのする廊下を歩いていると、なぜか息がしやすかった。

※

母が預かった子は、全部で二十二人になったと、澄夫さんが電話で教えてくれた。

いちばん最後の子は、母が七十二のときに預かった女の子だという。

「おふくろさんな、その子ば高校まで出したとよ」

私はうなずいて、それから受話器を握り直した。

うなずいたのは、自分が高校をやめた話をしなくてすむようにするためだった。

※

実家の戸は、澄夫さんが先に開けて待っていてくれた。

五十を過ぎた澄夫さんは、あの朝の三つの男の子と同じ目をしていた。

「ふゆちゃん、腰は大丈夫ね」

そう言って、私より先に土間へ下りた。

戸は、思ったより軽く開いた。

畳は上げられていて、部屋には日焼けの跡だけが残っていた。

台所に立つと、天井の梁の煤の色が昔のままだった。

私は戸棚を開けた。

下の段に、欠けた茶碗が九つ、伏せて並べてあった。

三日月みたいなの。

爪の先みたいなの。

ぎざぎざに二か所欠けたヨシ坊のも、そこにあった。

五十年、母はそれを捨てなかったのだ。

私は上の段に手を伸ばした。

白い布巾は、そこにあった。

畳んだままの、四角い形で。

中身だけが、なかった。

「それな」

うしろで澄夫さんが言った。

「おふくろさんが、持って行ったとよ」

「服も何も要らんて言うて、それだけ鞄に入れとった」

私は布巾を手に取った。

真ん中に、丸いくぼみの跡がついていた。

五十年、同じ形に包み続けた跡だった。

※

施設は、川沿いの平屋だった。

面会室に通されて、しばらくして、職員に押された車椅子で母が来た。

小さくなっていた。

肩の幅が、私の記憶の半分もなかった。

母は私を見て、丁寧に頭を下げた。

「どなたな」

その一言で、私はうまく息ができなくなった。

職員の人が、母の耳元で私の名前を言ってくれた。

母はもう一度、私の顔をゆっくり見た。

そして、また頭を下げた。

「わざわざ、すみません」

職員の人が、場をつなぐように笑った。

「山根さん、ここでも台所に入りたがるとですよ」

「昨日も、大根の面取りばせないかんて言うて、聞かんかったです」

母は、その話には答えず、窓の外を見ていた。

川の向こうで、白い鷺が一羽、動かずに立っていた。

「ここは、水がよかね」

母はそう言った。

飯を炊く人の言い方だった。

※

昼の時間になって、母は食堂へ移った。

不思議なもので、母はそこでも配膳を手伝いたがるのだという。

職員が椀を三つ、母の膝の上のトレイに載せた。

「タヅさん、お願いね」

母の手は、驚くほど確かだった。

いちばん奥のおばあさんから。

その隣へ。

手前へ、手前へ。

——ああ、同じだ、と思った。

奥から動く。

五十年前と同じ順番で、母の手は動いた。

私はその向かいに座っていた。

順番でいえば、最後だ。

私はそれを、当たり前のこととして待っていた。

四十年、そうしてきたのだから。

※

ところが母は、そこで手を止めた。

顔を上げて、私を見た。

そして、まだ誰にも渡していない椀を、まっすぐ私のほうへ差し出した。

母は、いちばん先に、私の前へ置いた。

「あんた、よその子やろ」

私は、答えられなかった。

「よその子は、先に食べり」

母の声には、疑いがひとつもなかった。

「うちの子は、あとでよかとよ」

※

私は、椀の縁を持ったまま動けなかった。

湯気が、私の顎のあたりでいったん止まって、それから横へ流れた。

四十年、刺さったまま抜けなかったあの言葉が、そのとき、裏返って見えた。

母にとって「うちの子」というのは、後回しにしていい相手のことではなかった。

後回しにしても、逃げていかない相手のことだった。

いつでも呼べる相手。

明日も、あさっても、そこにいる相手。

母は、二十二人の子を、いつか返さなければならない子として預かっていた。

だから先に食べさせた。

だから欠けた茶碗をそのままにして、この子はここにいたのだと、形に残した。

私の茶碗が欠けなかったのは、私が客だったからではない。

母が、私のだけを毎晩別に洗って、布巾に包んで、いちばん高いところへ上げていたからだ。

欠けるひまが、なかったのだ。

あの家で、いちばん手をかけられていた器は、私のものだった。

いちばん高いところに、いちばん遠くに見えるところに、置かれていた。

私はそれを、遠ざけられていると読んだ。

母は、落とされないようにと置いていた。

同じ場所を、五十年、逆から見ていたことになる。

※

母の膝の上に、白いものがあった。

トレイの端に、布巾に包んだ小さなものが置いてある。

職員の人が、小声で教えてくれた。

「あれね、山根さん、絶対に離さんとですよ。ご飯のときだけ出して、また包みんしゃる」

母は器用に片手で布巾をほどいた。

中から出てきたのは、白い飯茶碗だった。

縁は、どこも欠けていなかった。

母はそれを、自分の前ではなく、卓の真ん中に置いた。

そして、誰にともなく言った。

「これは、うちの子の」

「ふゆ、ていうと」

私は、口を押さえた。

母は茶碗の縁を、親指でゆっくりなぞった。

「あの子にはね」

「まだ、何もしてやっとらんとよ」

※

名乗ることは、しなかった。

名乗れなかったのではない。

しなかったのだ。

名乗れば、母は驚いて、詫びて、そして私を「うちの子」に戻す。

そうしたら、母はまた私を最後にする。

それは、もういい。

私は立ち上がって、鍋の前へ行き、柄杓を借りた。

そして、いちばん奥の席から、汁をよそっていった。

手前へ、手前へ。

最後に、母の椀に注いだ。

母は「ありがとうございます」と、私に頭を下げた。

その頭の下げ方が、炊事場で役場の人に頭を下げていたときと、まったく同じだった。

帰り際、母は車椅子の上から手を挙げた。

「気ぃつけて帰りんしゃいね」

「よその子は、暗うなる前に帰らんと」

私は、はい、と言った。

四十年ぶりに、素直にそう言えた。

※

帰り道は、川沿いの土手を歩いた。

茶碗は、持って帰らなかった。

あれは、母のところにあるほうがいい。

電車の窓から、ボタ山だった山が見えた。

もう緑に覆われていて、遠くから見ると、ただの丘だった。

あの黒い山が緑になるまでに、母は二十二人を通した。

一人ずつ、返した。

返せなかったのは、たぶん、私だけだ。

※

月曜から、また学校に戻った。

十二時十五分に、廊下じゅうに味噌の匂いが満ちる。

私はワゴンを三階まで上げて、配膳室の丸椅子に座る。

子どもたちの「いただきます」を聞いて、それから空になった食缶を下ろす。

全員が食べ終わってから、自分の分を食べる。

私の茶碗は、縁がひとつ欠けている。

去年、流しに落として欠けたものだ。

捨てなかった。

湯気は、天井にぶつかって、いったん止まる。

それから横へ流れて、蛍光灯のまわりを回る。

私の柄杓は、今もいちばん奥から動く。

母がそうしたように、私はいちばん後ろに座っている。

いちばん近い場所は、たぶん、そこだ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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