母が欠けさせなかった茶碗

湯気立つ古い台所のひととき

湯気は、天井の梁にぶつかって、いったん止まる。

それからゆっくり横へ流れて、煤けた電球のまわりを回った。

大釜の縁に柄杓を当てると、かん、と鈍い音がする。

母の柄杓は、いつも奥から動いた。

いちばん奥に座った子から汁をよそって、手前へ、手前へと戻ってくる。

私の椀は、いつも最後だった。

五十年近く経った今も、その順番が体に残っている。

私は今、山をひとつ越えた町の小学校で用務員をしている。

朝は花壇に水をやり、昼は給食のワゴンを二階と三階へ上げて、午後は割れた窓の型ガラスを測りに行く。

十二時十五分になると、廊下じゅうに味噌の匂いが満ちる。

子どもたちが「いただきます」を言い終えるまで、私は配膳室の丸椅子に座って待つ。

全員が食べ終わって、食缶が空になって、それから自分の分を食べる。

同僚の若い先生に、一度そのことを笑われたことがある。

「山根さん、冷めますよ」

冷めていい、と答えた。

理由は言わなかった。

言えば長くなるし、それに私は、その理由を三十年ものあいだ、憎んでいた。

母の名は、山根タヅという。

今年で九十四になる。

三十年、会っていない。

先月、澄夫さんから電話があった。

「ふゆちゃん、おふくろさんな、来月から別のとこに移るげな」

澄夫さんは私より十一下で、母がいちばん最初に預かった子だ。

「家ば引き払うことになった。荷物ば、あんたが見らんね」

見らん、とは言えなかった。

私は一日だけ有給を取って、電車を三本乗り継いだ。

昭和三十七年。

私が生まれ育った黒木原は、山の斜面に炭住が段々に貼りついた町だった。

朝は坑口の汽笛で起き、夜はボタ山の向こうが赤くなるのを見ながら寝た。

雨の日は、道の水たまりまで黒かった。

父は、私が四つのときに坑の底から戻らなかった。

だから父の顔は、写真でしか知らない。

母はそれから、鉱員社宅の共同炊事場で飯を炊く仕事についた。

朝の四時に起きて、大釜に米を張る。

一日に三度、四十人分の飯と汁を作って、洗って、また張る。

母の手は、冬でも湯気で赤かった。

指の節だけが、いつも白かった。

昭和四十年の秋に、坑口が閉じた。

町から人が抜けるのは、思っていたよりずっと早かった。

はじめは荷馬車で、途中からは夜のうちに。

朝、隣の家の雨戸が開かなくなっていて、それでああ行ったのだ、と知る。

そういうことが、毎週のようにあった。

炊事場の人数はどんどん減って、母の仕事は三度から二度になり、やがて一度になった。

澄夫さんが来たのは、その冬だ。

朝、母と私が炊事場の戸を開けると、三つになる男の子が、階段の下の石にちょこんと座っていた。

膝を抱えて、片方だけ靴を履いていた。

母は何も言わずに、その子を中に入れた。

椀に飯をよそって、湯を注いで、塩を少しふって、渡した。

その子は両手で椀を持って、震えながら啜った。

「お母さんな」

母が聞くと、その子は首を横に振った。

「どっちも?」

もう一度、首を横に振った。

母はそれきり、何も聞かなかった。

その日から、その子は私たちの家にいた。

二年で、七人になった。

四年で、十二人になった。

母は誰にも「もらった」とは言わなかった。

「預かっとるだけ」

役場の人が来ても、近所が何か言っても、母はそれしか言わなかった。

預かっているのだから、いつか返さないといけない。

だから母は、その子たちの名前を一度も変えなかったし、家の中で「うちの子」と呼ぶこともしなかった。

——ただし、私を除いて。

私だけは「うちの子」だった。

そして、うちの子であることは、あの家の中で、いちばん割の悪いことだった。

風呂は、四人ずつ入った。

薪が高かったから、湯は毎日は替えない。

奥から順に、小さい子から。

私は最後だった。

十六の冬、湯船に足を入れたら、湯というより灰色の水だった。

底に、髪の毛が細く渦を巻いていた。

私は台所に戻って、母の背中に言った。

「なんで、私がいっつも最後なん」

母は洗い物の手を止めなかった。

「あんたは、うちの子やけん」

その一言だった。

いつも、その一言だけだった。

うちの子やけん、我慢しなさい。

うちの子やけん、後でよか。

うちの子やけん、そこにおって。

私は、うちの子でなければよかったのに、と本気で思った。

茶碗のことも、ずっと引っかかっていた。

母は、子どもの茶碗が欠けても捨てなかった。

縁がひとつ欠けた茶碗を、そのまま元の場所に戻す。

「もったいなかろうもん」

そうではない、と私は知っていた。

一度だけ、母が誰にともなく言ったのを聞いたことがある。

「欠けたら、その子がここにおった証になる」

だから戸棚の下の段には、少しずつ欠けた茶碗が並んでいた。

裸電球の下でそれを見ると、欠けた形が全部ちがうのがよく分かった。

三日月みたいなの。

爪の先みたいなの。

ぎざぎざに二か所欠けたのは、いちばん乱暴だったヨシ坊のだ。

母は、朝それを配るとき、一度も間違えなかった。

「これがヨシ坊の、これが澄夫の、これがミヨちゃんの」

子どもたちは、自分の欠けを自慢した。

「おれのがいちばん大きか」

「ちがう、うちのが大きか」

炊事場は、朝からうるさかった。

そのうるささを、私は嫌いではなかったと思う。

嫌いではなかったから、なおさら苦しかった。

子どもたちは、私を「ふゆ姉(ねえ)」と呼んだ。

朝は六時に起こして、順番に顔を洗わせて、髪の寝癖に水をつけて、七人ぶんの靴を玄関に並べる。

学校までは、坂を下って十五分。

いちばん後ろを歩くのが私の役目だった。

ヨシ坊はよく道端の石を蹴って、それが側溝に落ちるたびに立ち止まった。

「ふゆ姉、石が落ちた」

「拾わんでよか」

「でも落ちた」

拾ってやると、その石をランドセルの中に入れた。

そういうことが、毎朝あった。

ある日、ヨシ坊の茶碗の欠けが、前の日より大きくなっていた。

母がすぐに気づいた。

「ヨシ坊、あんた、これ、どげんしたと」

ヨシ坊は下を向いていた。

井戸の縁に、わざと当てたのだった。

「澄夫のが、おれのより大きかったけん」

母は、笑わなかった。

けれど怒りもしなかった。

しばらくしてから、静かに言った。

「欠けは、増やすもんやなかよ」

「割れたら、もう戻らんとやけん」

ヨシ坊は、その日から茶碗を両手で持つようになった。

私の茶碗だけが、どこも欠けていなかった。

戸棚の下の段ではなく、上の段に、白い布巾に包んで置いてあった。

毎晩、母は私の茶碗だけを別に洗った。

洗って、拭いて、包んで、背伸びをして上へ上げる。

私はそれを、台所の入り口から何度も見ていた。

そして、こう読んだ。

——私だけ、よそのお客さんなのだ。

十七のとき、一度だけ言った。

「お母さん、私の茶碗も、下でよかよ」

母は布巾を持ったまま、少しのあいだ黙っていた。

それから、上の段に上げた。

「よかと」

それだけだった。

その晩、私は自分の茶碗を、わざと流しの角に当てた。

かつん、と音がしただけで、縁はきれいなままだった。

もう一度、少し強く当てた。

やはり欠けなかった。

三度目でやめた。

割れたら困る、と思ったのではない。

割れたら、母が悲しむと思ったのでもない。

——欠けがひとつも作れない自分が、あの家のどこにも書き込まれていないような気がしたのだ。

私は茶碗を布巾で拭いて、自分で上の段に上げた。

背伸びをする自分の影が、壁で大きく揺れた。

高校は、二年でやめた。

十二人分の米と、十二人分の靴と、十二人分の教科書を、母ひとりが炊事場のパートで背負っていた。

ミヨちゃんが中耳炎で入院した月は、家の砂糖壺が空のままだった。

私は、自分の月謝袋の中身をいつも知っていた。

紙の袋の折り目が、月末になるほど深くなるのを知っていた。

やめると言ったとき、母は台所の椅子に座って、じっと私の顔を見た。

長かった。

それから、言った。

「そうか」

止めてほしかった。

一度でいいから、行きなさい、と言ってほしかった。

母は言わなかった。

二日後、担任の先生が家まで来た。

土間に立ったまま、母に、成績のことと、奨学金のことを話した。

母は、ずっと下を向いていた。

「山根さん、お母さんが一言、行きなさいと言えばいいんです」

先生は、そう言った。

母は、湯呑みを二つ出したきり、最後まで何も言わなかった。

先生が帰ったあと、母は流しの前に立って、蛇口を出しっぱなしにしていた。

洗うものは、もう何もなかった。

私はそれを、意地だと思った。

私は紡績の工場に入って、寮に移った。

十九で町を出て、それきり戻らなかった。

年賀状だけは、毎年出した。

住所と、名前と、「元気にしています」の一行だけ。

母からの返事は、いつも同じだった。

「元気ならよか」

それだけ。

結婚して、離れて、また働いて、いつのまにか五十を過ぎていた。

小学校の用務員の口が空いていると聞いたのは、五十四の春だ。

面接で「どうしてこの仕事を」と聞かれて、私は少し困った。

「学校のにおいが、好きなんです」

そう答えた。

嘘ではなかったのだと思う。

給食の匂いのする廊下を歩いていると、なぜか息がしやすかった。

母が預かった子は、全部で二十二人になったと、澄夫さんが電話で教えてくれた。

いちばん最後の子は、母が七十二のときに預かった女の子だという。

「おふくろさんな、その子ば高校まで出したとよ」

私はうなずいて、それから受話器を握り直した。

うなずいたのは、自分が高校をやめた話をしなくてすむようにするためだった。

実家の戸は、澄夫さんが先に開けて待っていてくれた。

五十を過ぎた澄夫さんは、あの朝の三つの男の子と同じ目をしていた。

「ふゆちゃん、腰は大丈夫ね」

そう言って、私より先に土間へ下りた。

戸は、思ったより軽く開いた。

畳は上げられていて、部屋には日焼けの跡だけが残っていた。

台所に立つと、天井の梁の煤の色が昔のままだった。

私は戸棚を開けた。

下の段に、欠けた茶碗が九つ、伏せて並べてあった。

三日月みたいなの。

爪の先みたいなの。

ぎざぎざに二か所欠けたヨシ坊のも、そこにあった。

五十年、母はそれを捨てなかったのだ。

私は上の段に手を伸ばした。

白い布巾は、そこにあった。

畳んだままの、四角い形で。

中身だけが、なかった。

「それな」

うしろで澄夫さんが言った。

「おふくろさんが、持って行ったとよ」

「服も何も要らんて言うて、それだけ鞄に入れとった」

私は布巾を手に取った。

真ん中に、丸いくぼみの跡がついていた。

五十年、同じ形に包み続けた跡だった。

施設は、川沿いの平屋だった。

面会室に通されて、しばらくして、職員に押された車椅子で母が来た。

小さくなっていた。

肩の幅が、私の記憶の半分もなかった。

母は私を見て、丁寧に頭を下げた。

「どなたな」

その一言で、私はうまく息ができなくなった。

職員の人が、母の耳元で私の名前を言ってくれた。

母はもう一度、私の顔をゆっくり見た。

そして、また頭を下げた。

「わざわざ、すみません」

職員の人が、場をつなぐように笑った。

「山根さん、ここでも台所に入りたがるとですよ」

「昨日も、大根の面取りばせないかんて言うて、聞かんかったです」

母は、その話には答えず、窓の外を見ていた。

川の向こうで、白い鷺が一羽、動かずに立っていた。

「ここは、水がよかね」

母はそう言った。

飯を炊く人の言い方だった。

昼の時間になって、母は食堂へ移った。

不思議なもので、母はそこでも配膳を手伝いたがるのだという。

職員が椀を三つ、母の膝の上のトレイに載せた。

「タヅさん、お願いね」

母の手は、驚くほど確かだった。

いちばん奥のおばあさんから。

その隣へ。

手前へ、手前へ。

——ああ、同じだ、と思った。

奥から動く。

五十年前と同じ順番で、母の手は動いた。

私はその向かいに座っていた。

順番でいえば、最後だ。

私はそれを、当たり前のこととして待っていた。

四十年、そうしてきたのだから。

ところが母は、そこで手を止めた。

顔を上げて、私を見た。

そして、まだ誰にも渡していない椀を、まっすぐ私のほうへ差し出した。

母は、いちばん先に、私の前へ置いた。

「あんた、よその子やろ」

私は、答えられなかった。

「よその子は、先に食べり」

母の声には、疑いがひとつもなかった。

「うちの子は、あとでよかとよ」

私は、椀の縁を持ったまま動けなかった。

湯気が、私の顎のあたりでいったん止まって、それから横へ流れた。

四十年、刺さったまま抜けなかったあの言葉が、そのとき、裏返って見えた。

母にとって「うちの子」というのは、後回しにしていい相手のことではなかった。

後回しにしても、逃げていかない相手のことだった。

いつでも呼べる相手。

明日も、あさっても、そこにいる相手。

母は、二十二人の子を、いつか返さなければならない子として預かっていた。

だから先に食べさせた。

だから欠けた茶碗をそのままにして、この子はここにいたのだと、形に残した。

私の茶碗が欠けなかったのは、私が客だったからではない。

母が、私のだけを毎晩別に洗って、布巾に包んで、いちばん高いところへ上げていたからだ。

欠けるひまが、なかったのだ。

あの家で、いちばん手をかけられていた器は、私のものだった。

いちばん高いところに、いちばん遠くに見えるところに、置かれていた。

私はそれを、遠ざけられていると読んだ。

母は、落とされないようにと置いていた。

同じ場所を、五十年、逆から見ていたことになる。

母の膝の上に、白いものがあった。

トレイの端に、布巾に包んだ小さなものが置いてある。

職員の人が、小声で教えてくれた。

「あれね、山根さん、絶対に離さんとですよ。ご飯のときだけ出して、また包みんしゃる」

母は器用に片手で布巾をほどいた。

中から出てきたのは、白い飯茶碗だった。

縁は、どこも欠けていなかった。

母はそれを、自分の前ではなく、卓の真ん中に置いた。

そして、誰にともなく言った。

「これは、うちの子の」

「ふゆ、ていうと」

私は、口を押さえた。

母は茶碗の縁を、親指でゆっくりなぞった。

「あの子にはね」

「まだ、何もしてやっとらんとよ」

名乗ることは、しなかった。

名乗れなかったのではない。

しなかったのだ。

名乗れば、母は驚いて、詫びて、そして私を「うちの子」に戻す。

そうしたら、母はまた私を最後にする。

それは、もういい。

私は立ち上がって、鍋の前へ行き、柄杓を借りた。

そして、いちばん奥の席から、汁をよそっていった。

手前へ、手前へ。

最後に、母の椀に注いだ。

母は「ありがとうございます」と、私に頭を下げた。

その頭の下げ方が、炊事場で役場の人に頭を下げていたときと、まったく同じだった。

帰り際、母は車椅子の上から手を挙げた。

「気ぃつけて帰りんしゃいね」

「よその子は、暗うなる前に帰らんと」

私は、はい、と言った。

四十年ぶりに、素直にそう言えた。

帰り道は、川沿いの土手を歩いた。

茶碗は、持って帰らなかった。

あれは、母のところにあるほうがいい。

電車の窓から、ボタ山だった山が見えた。

もう緑に覆われていて、遠くから見ると、ただの丘だった。

あの黒い山が緑になるまでに、母は二十二人を通した。

一人ずつ、返した。

返せなかったのは、たぶん、私だけだ。

月曜から、また学校に戻った。

十二時十五分に、廊下じゅうに味噌の匂いが満ちる。

私はワゴンを三階まで上げて、配膳室の丸椅子に座る。

子どもたちの「いただきます」を聞いて、それから空になった食缶を下ろす。

全員が食べ終わってから、自分の分を食べる。

私の茶碗は、縁がひとつ欠けている。

去年、流しに落として欠けたものだ。

捨てなかった。

湯気は、天井にぶつかって、いったん止まる。

それから横へ流れて、蛍光灯のまわりを回る。

私の柄杓は、今もいちばん奥から動く。

母がそうしたように、私はいちばん後ろに座っている。

いちばん近い場所は、たぶん、そこだ。

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