
二杯目はいらない、と十五歳の私が言うと、父は決まって氷をかき混ぜた。
返事はしない。
ストローの先で、からからと、氷を回すだけだ。
そのくせ、二杯目のメロンソーダは、いつも私の前に置かれた。
緑色の泡が、グラスの縁ぎりぎりまで立っていた。
私はそれを、半分も飲まなかった。
残った分は、父が飲んだ。
その姿が、当時の私には、たまらなく恥ずかしかった。
いまの私は、保育園の厨房で、百二十人分の献立を組んでいる。
量と時間を、毎日数える仕事だ。
それなのに、父の二杯目だけは、十四年のあいだ、数え間違えていた。
両親は、私が十二歳の春に別れた。
理由は、いまも詳しく知らない。
訊いてはいけないことだと、子どもなりに思っていた。
二人が決めたのは、ひとつだけだった。
第二土曜の午後一時から五時まで。
その四時間だけ、私は父に会えた。
父は運送会社で、配車係をしていた。
トラックが一台遅れると、その日の荷が、すべてずれる。
だから父は、何をするにも、二十分前に着く人だった。
場所は、国道八号沿いのファミレスだった。
駐車場の端には、大型トラックが一台、いつもエンジンをかけたまま停まっていた。
入口のチャイムは、音がひとつ外れていた。
窓際の席からは、国道を走る車が、横一列に見えた。
父はいつも、その席を取った。
私はその席が、好きでも嫌いでもなかった。
ただ、座れば四時間が始まることだけは、はっきりしていた。
初めての日も、そうだった。
母の車を降りると、入口の前に、父がもう立っていた。
紺色の作業ジャンパーの袖から、古い銀色の腕時計がのぞいていた。
母は窓を開けなかった。
父は車に向かって、小さく頭を下げた。
車はそのまま、国道へ出ていった。
第二土曜の午後一時
席に着くなり、父はドリンクバーの使い方を、私に教えようとした。
「ここにコップを置いて、ボタンを押すんや」
「知ってる」
「そうか。知っとるか」
父は笑って、頭をかいた。
十二歳の私は、友だちと何度も来たことがあった。
父はたぶん、それを知らなかったのだと思う。
私はメロンソーダを選んだ。
両手でグラスを持って戻ると、父はウーロン茶をひと口飲んで言った。
「学校は、どうや」
「ふつう」
「ふつうか。ええな」
会話は、それで終わった。
父は、話をふくらませる人ではなかった。
私も、ふくらませる気がなかった。
ハンバーグが来て、食べて、皿が下げられた。
あとには、時間だけが残った。
壁の時計は、二時十分を指していた。
父の左手首の時計は、一時五十五分だった。
「お父さん、時計、ずれてる」
「ああ」
父は手首を返して、文字盤を見た。
「この時計は遅れとるんや。昔からな」
「直せばいいのに」
「そのうちな」
父は、そのうち、と言った。
けれど、直した様子は、その後一度もなかった。
時間に厳しい人が、遅れた時計を、そのまま巻いている。
不思議だとは思った。
でも、深くは考えなかった。
十二歳の私には、もっと気になることがあった。
父のジャンパーの肩に、白い糸くずがついていたのだ。
「それ、取ったら」
「ん?」
父は肩を見て、指でつまみ、テーブルの下へ落とした。
「ありがとな」
それだけのことで、父は嬉しそうな顔をした。
私は、その顔を、まだうまく見られなかった。
窓の外では、トラックの荷台の幌が、風でふくらんだり、へこんだりしていた。
父は、私の話を、最後まで遮らずに聞いた。
聞いたあとで、必ず、そうか、と言った。
四時間は、思っていたより、ずっと長かった。
五時ちょうどに、母の車は着いた。
母は運転席から、ほんの少しだけ、父に会釈をした。
父も会釈を返した。
二人は、そのあいだ、一度も目を合わせなかった。
私は後部座席に乗り込み、窓から父を見た。
父は駐車場に立ったまま、車が見えなくなるまで、動かなかった。
それが、最初の面会のおわりだった。
二杯目のメロンソーダ
二杯目が出てきたのは、三回目の面会だった。
十三歳の六月だった。
窓には梅雨の雨が流れ、国道の赤い光がにじんでいた。
その日の私は、四時半を過ぎたころから、急に口数が減った。
父の話に、うん、とも、ううん、とも言わなくなった。
理由は、自分でもわからない。
ただ、五時になれば母の車が来て、また一か月、会えなくなる。
それが、胸のあたりで重たくなっていた。
父は、手首を見た。
それから、立ち上がった。
「二杯目、取ってくるわ」
私は、頼んでいなかった。
やがて父は、背の高いグラスを両手に持って戻ってきた。
メロンソーダだった。
氷は、縁まで入っていた。
「いらないって、言ってないよ」
「いらんのか」
「……いらなくない」
「ほなええやないか」
父はグラスを私の前に置いて、自分の席に戻った。
たったそれだけの出来事だった。
けれど、その日から、毎月、二杯目が来た。
五時が近づくと、二杯目のメロンソーダが、テーブルに置かれた。
私は必ず、ひと口かふた口しか飲まなかった。
氷が多いぶん、炭酸はすぐ抜ける。
薄まったメロンソーダは、ただ甘いだけの水になる。
それでも私は、グラスの縁の水滴を、指でなぞっていた。
なぞっているあいだは、時計の針のことを、考えずにすんだ。
それでも父は、二杯目を持ってくるのをやめなかった。
私が席を立って、コートを取りに行き、戻ってくると、グラスはいつも空になっていた。
ある日、私は戻る途中で、振り返ってしまった。
父は、テーブルの端に立ったまま、グラスを傾けていた。
口の中で氷がぶつかる音が、店の隅まで届いた。
がり、がり、と、父は残りの氷を噛んでいた。
配車係の背中が、ずいぶん小さく見えた。
十四歳の夏は、暑かった。
店の冷房は効きすぎていて、私は半袖の腕に鳥肌を立てていた。
その日、父は初めて、仕事の話をした。
「夜中の二時にな、大阪行きの便が出るんや」
「そんな時間に?」
「荷は、朝に着かなあかんからな」
「お父さんは、乗らないの」
「俺は、乗る人を決める係や」
父は指で、テーブルの上に見えない地図を描いた。
「誰を、どの道に出すか。それを間違えたら、みんなが遅れる」
「責任重大だね」
「そうでもない。時間が来たら、帰らせるだけや」
その言い方が、少しだけ、さびしそうに聞こえた。
私は何も言わず、ストローを噛んだ。
五時十分前、父はまた手首を見て、二杯目のメロンソーダを取りに立った。
母の車は、そのころ入口の前に着いていたはずだ。
けれど、クラクションが鳴ったことは、一度もなかった。
十五歳の秋、私はとうとう言った。
「二杯目、いらない」
「そうか」
「毎回、いらないって言ってる」
「聞いとる」
「じゃあ、なんで持ってくるの」
「あんたが、飲むかもしれんやろ」
「飲まないよ」
「飲まんな」
父は笑った。
「飲まんでもええんや」
意味が、わからなかった。
わからないまま、私はまた黙って、窓の外のトラックを見ていた。
そして五時が来て、二杯目は、また空になった。
氷を噛む父の背中
高校二年の秋に、小さな事件が起きた。
友人のミカが、彼氏と、二つ向こうの席にいたのだ。
二杯目のメロンソーダが運ばれてくるところまで、ミカは見ていたらしい。
私は、帰りぎわまで、それに気づかなかった。
翌週の月曜、ミカは教室で、私の机に頬杖をついた。
「土曜、ガーデンハウスにいたでしょ」
「……いたけど」
「あれ、お父さん? 優しそうだったよ」
私は少しだけ、ほっとした。
「でもさ」
ミカは、笑いをこらえる顔になった。
「氷、食べてたよね。娘の残りのジュース全部飲んで、氷までがりがりって」
「やめて」
「悪い意味じゃないよ。ただ、ケチくさって思っちゃって。ごめん」
ごめん、と言われたのが、いちばんこたえた。
私は、言い返せなかった。
言い返せなかったことが、父のぶんまで、悔しかった。
家に帰って、湯船につかり、私は同じ場面を何度も思い返した。
氷を噛む父の背中が、ミカの笑い顔の向こうに、重なって見えた。
恥ずかしい、と思った。
同じくらい、恥ずかしいと思った自分が、嫌だった。
次の第二土曜、私は席に着くなり言った。
「二杯目、もう持ってこないで」
父は、ウーロン茶のグラスを持ったまま、止まった。
「友達に見られたの。恥ずかしいから」
「……そうか」
「私の残りを飲むのも、やめて。お願い」
「わかった」
父は、それ以上、何も聞かなかった。
氷をひとつ、ストローで沈めて、浮かべて、また沈めた。
「悪かったな」
謝られると、胸のあたりがひりついた。
私は、メロンソーダを一杯だけ飲んで、黙っていた。
五時になる前に、父は顔を上げて、壁の時計を見た。
「五時やな。出よか」
父の手首の時計は、見なかった。
あの日から、父は手首ではなく、壁の時計を見るようになった。
店を出ると、駐車場の端で、大型トラックがアイドリングを続けていた。
母の車は、まだ着いていなかった。
父は、ジャンパーのポケットに手を入れて、私の隣に立った。
二人とも、何も言わなかった。
チャイムの外れた音が、背中で一度だけ鳴った。
四時で帰る父
その次の月から、父は、四時に席を立つようになった。
「今日は四時で帰ろか。あんたも宿題あるやろ」
そう言ったとき、父は私の目を見なかった。
私は、ほっとした。
いまならわかる。あのとき、ほっとした自分が、いちばん情けない。
その頃の私は、部活と、受験と、友達の目と、母の機嫌で、手いっぱいだった。
十七歳の冬、父は帰りぎわ、レジの前で千円札を数えながら言った。
「来月は、どうする」
「模試があるかも」
「そうか。ほな、また連絡してや」
その「また」は、来なかった。
私が、連絡しなかったからだ。
十八歳の春、大学に受かった日に、私は父へ短いメッセージを送った。
『合格しました』
返事は、一分で来た。
『おめでとう。よう頑張ったな』
『ありがとう』
それで、終わった。
面会という約束は、どちらからも言い出さないまま、いつの間にか消えていた。
私は、父が諦めたのだと思っていた。
二杯目を断った娘に、もう用はないのだと思っていた。
そう思うほうが、楽だった。
名古屋の大学に通い、栄養士の資格を取り、いまの保育園に就職した。
就職して三年目の夏、私は同僚と、駅前のファミレスに入った。
ドリンクバーの前で、小さな男の子が、メロンソーダを二杯続けて注いだ。
「一杯だけよ」と、母親が言った。
男の子は、泣きそうな顔で、グラスをひとつ戻した。
私は、その背中から目をそらした。
二杯目のメロンソーダという言葉が、ずっと喉の奥に引っかかっていた。
それからは、ファミレスでは、ウーロン茶ばかり頼んだ。
毎年の年賀状には、父の字で、一行だけ書いてあった。
『元気か。飯は食うとるか』
私は毎年、『元気です』と返した。
母とは、ときどき会った。
母は、父の話をしなかった。
私も、しなかった。
二十八歳の秋、同じ園の調理室で働く拓也さんと、結婚の話が出た。
魚をおろすのが上手な人だった。
母に報告すると、母は箸を置いて、短く言った。
「お父さんには、あなたから言いなさい」
それだけだった。
私はその夜、十四年ぶりに、父へ電話をかけた。
三月の第二土曜、私は父を、ガーデンハウスに呼んだ。
場所を告げると、父は三秒ほど黙った。
「あの店か。まだあるんか」
「あるよ。窓際の席も」
「ほうか」
声が、少しだけ揺れていた。
当日の午後一時、入口のチャイムは、相変わらず音がひとつ外れていた。
窓際の席には、もう父が座っていた。
約束の三十分前に着いていたと、あとで聞いた。
父は六十二歳になっていた。
髪はほとんど白く、作業ジャンパーではなく、薄い灰色のコートを着ていた。
革だけ新しい腕時計
左の手首には、あの銀色の腕時計があった。
革のバンドだけが、新しくなっていた。
私はメロンソーダを取ってきて、父の向かいに座った。
父は、ウーロン茶だった。
注文を取りに来た店員に、父は丁寧に頭を下げた。
父はハンバーグを頼んだ。
私も、同じものにした。
運ばれてきた皿の前で、父は手を合わせた。
昔と変わらない仕草だった。
「来年の三月で、退職や」
父は、ナイフを動かしながら言った。
「配車係を、四十年した」
「四十年」
「後輩がな、最近は画面で全部決めよる。俺は紙に書かんと、落ち着かん」
「お父さんらしい」
「時代遅れや」
父は、そう言って笑った。
手首の時計が、袖の中で、ことりと動いた。
私は拓也さんの写真を、携帯で見せた。
父は眼鏡を上げて、画面に顔を近づけた。
「魚をおろす人は、手が綺麗やな」
「見るところ、そこ?」
「大事なことや」
父は、写真から目を離さず、小さく何度もうなずいた。
「結婚するの」
そう切り出すと、父はストローから口を離して、天井を見た。
「相手は、どんな人や」
「同じ園の、調理の人。拓也さん」
「ほう」
「六月に式をする。お母さんには、先に話した」
「そうか。ええ人か」
「ええ人だと思う」
「思う、か」
「うん。思う」
父は小さく笑った。
「あんたが思うなら、ええ人や」
それから父は、六月の天気の話を始めた。
梅雨の入りが早いとか、トラックの運転手が雨の日に気をつけることとか。
結婚の話から、わざと遠くへ逃げているように見えた。
私は、言いたいことが、喉の奥で固まっていた。
式で、隣を歩いてほしい。
たったそれだけの言葉が、出てこない。
窓の外が、橙色になった。
国道のトラックが、ヘッドライトを点けはじめた。
私の携帯の画面は、四時五十分を示していた。
私は黙った。
五時が近づくと黙る癖は、二十九歳になっても、治っていなかった。
父は、左の手首を見た。
「まだ四時三十五分や」
それから、立ち上がった。
「二杯目、取ってくるわ」
「待って」
私は、父を呼び止めた。
「お父さん、その時計、いま何時」
「四時三十五分や」
私は携帯の画面を、父に向けた。
「四時五十分」
父は、何も言わなかった。
「十五分、遅れてる」
「遅れとる言うたやろ。昔からな」
「昔からって、いつから」
父は、座り直した。
ストローの袋を、細く折りたたんだ。
「初めてあんたに会う日の、前の晩や」
私は、息を止めた。
「五時になったら、あんた、黙るやろ」
父は、袋を折りたたみ続けた。
「あの顔を見とったらな。立たれへんのや」
母の車が、毎月、入口の前で十五分待っていたことを、そのとき初めて思い出した。
クラクションは、一度も鳴らなかった。
壁の時計は、四時五十一分を指していた。
一分の遅れも許さない配車係が、十四年間、自分の手首にだけ、十五分の余白を持っていた。
父の腕時計は、二杯目のぶんだけ、遅らせてあった。
二杯目をやめた日から、父の手首の時計は、ただの遅れた時計になった。
それでも父は、それを直さなかった。
父は立ち上がって、ドリンクバーへ行った。
戻ってきた父は、背の高いグラスを、二つ持っていた。
どちらも、メロンソーダだった。
氷は、縁まで入っていた。
「今日は、俺も飲む」
「ウーロンじゃなくて?」
「甘いのは苦手やけどな」
氷を縁まで詰めたグラスは、飲み急がなくていい、という合図だった。
十四年かかって、私はようやく、それを受け取った。
「お父さん」
「ん」
「六月、隣を歩いてほしい」
父は、ストローの先で、氷をかき混ぜた。
からから、と、音がした。
返事は、なかった。
けれど、グラスの中の泡が、細かく、揺れつづけていた。
二杯目はいらない、と言いかけて、私はやめた。
父はまだ、氷をかき混ぜていた。