毎月二日の千円は返さなくていい

港を眺める夜の cozyな部屋

二日の午前零時になると、スマホが一度だけ短く震える。

三年間、一度も外れたことがない。

画面に出るのは送金アプリの通知で、差出人は悠。金額は千円。

メモはいつも同じ五文字、『あの日の分』だった。

毎月二日の千円は、三年で三万六千円になった。

毎月二日の千円は、領収書のない借金の返済みたいに、規則正しく届いた。

私が悠に貸したのは、高三の卒業式の前日、駅で渡した電車賃の千円だけのはずだった。

それは卒業式の朝、ホームで握らせるように返してもらっている。

だから毎月、私は同じ返信を打つ。

『もう返してもらったよ。気を遣わないで』

悠の返事も、毎月同じだった。

『まだだよ』

二十九歳の秋、私は派遣の契約が切れて三か月目の部屋で、その四文字を眺めていた。

契約が切れたのは、七月の末だった。

最後の出社日、ロッカーに貼ったテープをはがす音が、やけに大きく響いた。

それから三か月で、履歴書を十一枚書いた。

返事が来たのは二社だけで、どちらも面接のあとに『慎重に検討いたしました結果』と書いてあった。

朝は遅く起きて、昼は駅前のスーパーの見切り品を見に行く。

夜は、天井の染みの形を数える。

そんな毎日の中で、二日の零時だけが、定規で引いた線のようにまっすぐだった。

毎月二日の千円が届く夜

窓の外で、駅前のバスが折り返す音がした。

冷蔵庫には、卵が二つと、半分に切った豆腐だけが残っている。

失業給付の入金は十日。それまで、財布には二千円と小銭しかない。

そんな月でも、二日の零時になると、私は必ずスマホを手に取った。

通知を開いて、『受け取る』を押す。

それが私の、毎月の決まりごとになっていた。

毎月二日の千円を受け取るたび、私は少しだけ背筋を伸ばした。

千円は小さい。けれど、誰かが私の名前を呼んで、渡してくれる千円だった。

最初の千円が届いたのは、三年前の十一月だった。

当時の私は、職場の人間関係に疲れていて、高校の吹奏楽部の同窓グループに、誰かの顔を探していたのだと思う。

『元気?』と私は書き込んだ。

何人かが返事をくれたのに、悠だけは、何も言わなかった。

悠は卒業してすぐ看護学校に入り、今は遠い島の病院で働いている。

夜勤のほうが多い、と年賀状の隅に小さく書いてあった。

返事の代わりのように、二日の零時、千円が届いた。

『あの日の分』

意味が分からないまま、私は『受け取る』を押した。

それから毎月、同じ夜が来た。

返信の文面は、季節ごとに少しずつ変えた。

桜の頃は『花粉つらい』。夏は『暑いね、島はどう』。

悠からは、いつも『まだだよ』しか来なかった。

それでも私は、返信を打つ時間が好きだった。

文面を考えている間は、無職の自分から、少しだけ離れられた。

受け取ると、悠の画面には『受け取りました』と出るらしい。

私が知っている悠の暮らしは、そのくらいだった。

先月の二日、私は『受け取る』を押せなかった。

最終面接に落ちた夜だった。

通知を、伏せたスマホの下に隠した。

三日目の朝、不在着信が三件並んでいた。

全部、悠だった。

折り返す勇気がなくて、夕方になってから、やっと『受け取る』だけを押した。

その夜、短いメモが届いた。

『よかった』

画面の字がにじんで、親指で拭った。

母に電話をすると、いつも『ちゃんと食べてるの』とだけ聞かれる。

『食べてる』と私は答える。嘘ではなかった。豆腐と卵を、ちゃんと食べている。

それでも、頭の隅に残っていた。

この千円は、いつ終わるのだろう。

部費帳の鉛筆の字

十月の半ば、母から段ボールが届いた。

実家の押し入れを片づけたら出てきた、と走り書きのメモが添えてある。

底のほうに、角の丸くなった大学ノートが入っていた。

表紙には、私の字で『部費帳』。

高校の二年と三年、私は吹奏楽部の会計係だった。

ノートを開くと、金管の磨き粉と、古い楽譜の埃の匂いが立ちのぼった。

部員三十二人の名前が並び、月ごとに鉛筆の丸がつく。

月額は、千円。

ただ一人、悠の欄だけが、ずっと空白だった。

空白の下の余白に、薄い鉛筆の走り書きがある。

『ユウ 1000』

同じ行が、十二回。

十二回目の下に、小さく『これで最後』とあった。

思い出すまで、少しかかった。

悠とは、一年の春、部室の掃除当番で組んだのが最初だった。

口数が少なく、返事の代わりに楽器を鳴らす子だった。

低い音が廊下の端まで届く、チューバを吹いていた。

コンクールの前の夜、二人で部室に残って、譜面台を拭いた。

購買の百円のあんぱんを、半分に割って分けた。

悠は、大きいほうを私に渡した。

それが、悠のお礼の言い方だった。

夏のコンクールの本番では、悠のチューバに短いソロがあった。

舞台袖で、悠の指先は氷みたいに冷たかった。

私は黙って、その手を両手で包んだ。

『だいじょうぶ』と言う代わりに、手のひらをこすった。

ソロの音は、ホールの床を這うように低く広がった。

終わったあと、悠は袖で壁にもたれて、しばらく動かなかった。

『足の裏が、音で震えてた』と悠は言った。

その言葉だけを、私は十二年、覚えていた。

高二の春、その悠の父親の仕事がなくなった。

放課後の部室で、悠はチューバのケースに腰かけて、床を見たまま言った。

『部活、やめる。お金、払えないから』

私は、なぜか腹を立てていた。

『やめなくていい。会計は私だから、なんとかする』

なんとかする方法なんて、ひとつしかなかった。

その月から、私は自分の小遣いから千円を足した。

悠の分だけ、ノートの余白に鉛筆で書いた。

いつでも消せるように、鉛筆で。

悠には、言わなかった。言えば、あの子はやめてしまう。

卒業式の三日前、私は部室でノートを開いたまま、先生に呼ばれて席を立った。

戻ると、悠が窓際でチューバを磨いていた。

『なに』と私は聞いた。

『なんにも』と悠は答えた。

磨く手の動きが、やけにゆっくりだった。

卒業式の前日には、改札の前で、悠が財布を探していた。

帰りの電車賃が、千円、足りなかった。

私は黙って、千円札を悠の手に押しつけた。

悠は『ありがとう』を言わず、『明日ね』とだけ言った。

式のあと、ホームで、千円札が私のポケットに突っ込まれた。

私にとって貸し借りは、その一度きりだった。

十二行の鉛筆を、私はノートごと胸に抱えた。

画面の『あの日の分』が、急に重たくなった。

あの日は、電車賃の日ではなかった。

毎月、黙って千円を足した、十二回の日々だった。

夜勤の休憩室から

その夜、二時を過ぎてから電話をかけた。

夜勤の休憩は二時から、と前に聞いたことがあった。

窓の外はまだ暗く、隣の部屋の洗濯機が脱水に入る音がしていた。

コール音が三回で切れた。

『……澪?』

久しぶりの声は、少し低くなっていた。

『夜勤の休憩だから、食べながらでもいい?』

『いいよ』

ふたを開ける、ぺりっという音が聞こえた。

『こんな夜中に澪の声を聞くの、何年ぶりだろ』

『三年と、あと少し』

『あ、数えてるんだ』

『悠もでしょ』

二人で、少し笑った。

『部費帳、見つけたの』と私は言った。

『ああ』

悠は、驚かなかった。

『十二回しか、書いてなかった』

『うん』

『だから、とっくに終わってる。三年も前に』

受話器の向こうで、自動ドアの開く音と、誰かのスリッパの音がした。

『知ってる』と悠は言った。

『卒業の三日前に、見たから。部室で』

『あのとき、ノート、開いてた』

『開いてたね。鉛筆、薄くなってた』

あのとき悠は、磨く手を止めずに、十二行を全部読んでいたのだ。

『どうして、黙ってたの』

『言ったら澪、いらないって言うでしょ』

『言うよ』

『だから、言わなかった。ちゃんと返すって決めて、月を数えてた』

『十二回、数えてたんだ』

『数えてたよ』

悠は、そこで少し黙った。

休憩室の冷蔵庫が、低く唸る音だけが聞こえた。

『終わりにしていいのは、貸した人だけだよ』

『澪は一回も、もういいって言ってない』

『毎月言ってるじゃん。気を遣わないでって』

『あれは、気を遣う言い方でしょ』

電話を切りたくない、と私は思った。

切れば、この夜の悠が、また三十日ぶん遠くなる気がした。

受話器を耳に押しつけると、貝殻の中の海みたいな音がした。

返す言葉が、見つからなかった。

たしかに私は、『いらない』と一度も書かなかった。

受け取りましたの通知

『ねえ、澪』と悠が言った。

『先月、二日に押されなかった三日間さ』

『……ごめん』

『休憩室で、スマホ、置けなかった』

『患者さんのところに戻っても、ポケットが気になって』

『三日目の朝に、やっと思った。ああ、これだ、って』

『これって?』

『零時に送るとさ、すぐ付くでしょ。受け取りましたって』

『あれが出ると、ああ今月も澪はいるなって思って、それで仕事に戻れる』

悠は、日付が変わるのを待っていたのではなかった。

私の指が『受け取る』を押す、その一瞬を待っていたのだ。

島の病院は、夜になると波の音のほうが大きいのだと、悠は言った。

その音の中で、スマホの小さな光だけが、私につながっている。

『千円は、口実』と悠は言った。

『十二回で終わったら、澪に連絡する理由が、なくなる気がして』

『返してる間は、堂々と送れるでしょ。メモも、あの日の分、で済むし』

電話のこちら側で、私は壁に背中をつけたまま、ずるずると床に座った。

フローリングが冷たかった。

『悠は、そっちはどう?』と私は聞いた。

『こっち?』

『島の夜。さびしくないの』

悠は少し考えてから、『さびしいよ』と、あっさり言った。

『知り合いがいなくてさ。休憩室のカレンダーに、勝手に丸つけてる』

『二日に?』

『二日に。零時に送って、受け取りましたが出たら、赤い丸』

『丸、いくつある?』

『三十六と、先月の分』

私はスマホを持ったまま、天井の染みを見た。

数えていたのは、私だけではなかった。

『ねえ、仕事、どう?』と悠が聞いた。

私は、一瞬、嘘をつきかけた。

『落ちた。面接。先月も、その前も』

『そっか』

悠は励まさなかった。励ます代わりに、麺をすする音が聞こえた。

『ちゃんと食べてる?』

『豆腐と卵』

『悠は?』

『パンと、カップ麺と、たまにおにぎり』

『似たようなもんだ』

電話の向こうと、こちら側の台所の匂いが、同じ気がした。

『たんぱく質は足りてる』

私は、声を出して笑ってしまった。

千円の通知を開く前の私は、笑うことを忘れていた。

『私もだよ』と、やっと言えた。

『押さなかった三日間、悠の電話に出なかったのは、情けなくて』

『知ってる。でも、折り返してくれた。押すだけで』

悠が笑った。島の夜の底で、鼻にかかった小さな笑い方だった。

高校の部室で聞いた、あの笑い方と同じだった。

私は思った。

受け取るたびに、私は、返事をしていたのだ。

いらないと言いながら、毎月、指で『まだここにいる』と答えていたのだ。

十二回で終わるはずの千円は、私が受け取るたびに、一回ぶん延びていた。

十一月一日の夜、私は眠らずに待った。

台所で、お湯を沸かした。

カップに注いだ紅茶の湯気が、窓ガラスをうっすら曇らせた。

二日の午前零時、スマホが一度だけ短く震えた。

私は通知が消える前に、『受け取る』を押した。

メモは、四文字になっていた。

『今月の分』

返信欄に、いつもの『もう返してもらったよ』は打たなかった。

『受け取りました。夜勤、気をつけて』

それだけ送ると、すぐに既読が付いた。

遠い島の休憩室で、悠が画面を見ている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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