
「これ、なに」
三つになったばかりの甥が、作業台の隅から賽子を二つ掬い上げて、俺の鼻先に突き出した。
これ、なに、と修は言った。
俺は鉋の手を止めた。
鉋屑が一枚、ゆっくりと土間に落ちた。
「船の心じゃ」
そう答えると、修は口をへの字にした。
心が、こんなに固いはずがなかろう。
そう言いたげな顔だった。
昭和四十三年の秋である。
瀬戸内の、汐見という小さな町だった。
山がそのまま海へ落ちる、その落ち際の狭い平地に、造船場と、家と、坂だけがあった。
俺はそこで船を削っていた。
木造の漁船である。
鉄の船を組む大きな会社は、湾の向こう側にあった。
こちら側には、俺と、棟梁の伊佐治さんと、あとは年寄りが三人ばかりいるきりだった。
船大工には、ひとつだけ、人に見せぬ手順がある。
船霊様を納める、という。
帆柱の受けの下に小さな穴を穿ち、そこへ賽子を二つ、それから五穀と、銭を納めて、蓋をする。
賽の目は、天に一、地に六。
そう据えるのが、汐見の船大工の作法だった。
天と地を、一と六で挟み込む。
そうすれば船は、上と下を間違えぬ。
沈まぬ、ということだ。
理屈ではない。作法である。
理屈でないものほど、この土地では強かった。
その賽子を、修は両手で握って離さなかった。
「これ、修の」
「阿呆。それは船のじゃ」
「修の」
そう言って、修は自分の腹に賽子を押し当てた。
まるで、そこへ納めるつもりのような手つきだった。
俺は笑って、端材を一つ引き寄せた。
「ほんなら、お前のを削っちゃる」
修は、ほんまか、と念を押した。
ほんまじゃ、と俺は言った。
約束というものを、俺はその時、ずいぶん軽く握ったのだと思う。
※
修は、俺の子ではない。
兄の子である。
兄と義姉は、修が二つの年の暮れに、船ごと戻らんようになった。
時化の晩だった。
湾の口で灯りが二つ、ふっと消えるのを見た者がいる、という話だけが残った。
それきりである。
捜索の船が三日出て、四日目には出なくなった。
俺は浜で、誰にも言わずに、兄が造船場で使うていた前掛けを一枚だけ懐に入れた。
それが、俺の葬式だった。
寺のほうは、大人たちが勝手に済ませた。
修は、俺が背負うて帰った。
坂を上る間、その子はひとことも泣かなかった。
ただ、俺の首の後ろの、襟の内側に小さな手を突っ込んで、そこを握っていた。
温かかった。
その温かさが、腹立たしいほど生々しかったのを、いまでも覚えている。
それから四年、俺と修は二人で暮らした。
俺は二十七で、独り身で、飯の炊き方も知らんかった。
米が粥になり、粥が焦げになり、焦げが飯になるまでに、一年かかった。
修は文句を言わなんだ。
その代わり、俺の茶碗のほうが白いところが多いのを、じっと見ていた。
見ていて、何も言わなんだ。
そういう子だった。
造船場は、そのまま修の遊び場になった。
鉋屑を集めて、それを海に見立てる。
端材を並べて、それを船に見立てる。
「進水式じゃ」と言うては、鉋屑の海に端材を浮かべて、両手を叩いた。
伊佐治さんが、それを横目で見て、舌打ちをした。
「餅がなかろうが」
修が振り向いた。
「進水式にはな、餅を撒くんじゃ」
と、俺は言った。
「ほんまか」
「ほんまじゃ。坂の上まで飛ぶど」
修の目が、大きくなった。
それからその子は、俺が船を削るたびに、同じことを聞くようになった。
「これ、餅撒くん」
「撒く」
「ぎょうさんか」
「ぎょうさんじゃ」
伊佐治さんは口の悪い人だった。
俺の鉋の当て方が甘いと、鉋のほうを取り上げて、黙って自分の前掛けで拭いた。
叱りもせぬ。褒めもせぬ。
ただ、拭いた。
それが一番こたえた。
その伊佐治さんが、修にだけは違った。
修が作業台の下で寝てしまうと、伊佐治さんは自分の半纏を脱いで、それをそっと掛けた。
そして俺のほうを見て、決まってこう言った。
「お前の子じゃなかろうが」
「兄の子です」
「ほうか」
そう言ってから、伊佐治さんは長いこと黙って、また鉋を握った。
いま思えば、あれは、確かめておったのだと思う。
俺が、逃げんかどうかを。
昼になると、造船場の縁側に膳が並んだ。
賄いのトメさんが、坂の上から鍋ごと担いで下りて来る。
その脇に、いつも子が一人くっついて来た。
トメさんとこの、ハナである。
七つ。修より一つ上だった。
女の子のくせに、口が悪かった。
「修、また鉋屑つけとるで。頭に」
「つけとらん」
「つけとる。阿呆じゃ思われるで」
修は、頭を触って、それから慌てて払った。
払ってから、悔しそうにハナを睨んだ。
睨んだが、次の日もまた鉋屑をつけていた。
わざとである。
そのことに、ハナは気付いておらんかった。
いや、気付いておって、知らんふりをしとったのかもしれん。
女の子というのは、そういうところが早い。
二人は縁側の端に並んで座って、同じ鍋の汁を食うた。
修は魚が嫌いで、ハナはそれを黙って自分の椀に移した。
移してから、必ず一度、大きな声で言うのだった。
「うちが食うたるけんな」
恩に着せなければ気が済まぬ性分だった。
修はそれを、口をへの字にして聞いていた。
聞いていて、何も言わなんだ。
俺は、鉋を握ったまま、その二つの背中を見ていた。
見ていて、何も言わなんだ。
いまにして思えば、あの縁側が、俺の家というものだった。
※
修が熱を出したのは、六つの春だった。
初めは、ただの風邪だと思うた。
坂の下の医院で薬をもらい、二日で下がった。
一週間して、また出た。
今度は下がらなんだ。
町医者が湾の向こうの病院への紹介状を書く手を、俺は見ていた。
万年筆の音が、やけに大きかった。
その音を聞きながら、俺は明日の船の段取りを考えている自分に気付いた。
そういう男だった。
そういう男だったのだと、あとで何度も思い返した。
修は、湾の向こうの病院の、白い部屋に入った。
俺は朝いちばんの渡し船で通うた。
通うたが、毎日ではない。
船を一艘、請けていたからである。
納期が決まっていた。
漁師の船である。
漁の季節に間に合わねば、その家の一年が飛ぶ。
だから俺は、二日削って、一日渡った。
二日削って、一日渡った。
そのたびに、修は同じことを聞いた。
「賽子、まだ?」
削りかけの賽子は、作業台の上にあった。
一つは目を刻み終えて、もう一つは、まだ角も落ちていなかった。
「まだじゃ」
「ふうん」
そう言って、修は白い天井を見た。
怒りもせぬ。せがみもせぬ。
見ていて、何も言わなんだ。
そういう子だった。
俺はその「ふうん」を、四十年、忘れられずにいる。
修は、六つの夏に、静かに眠った。
湾の上を風が渡る、よく晴れた朝だった。
俺は病院の廊下で、伊佐治さんに前掛けを掴まれて、そのまま外へ引きずり出された。
自分が何を喚いていたのか、覚えていない。
伊佐治さんは何も言わなんだ。
ただ、引きずった。
※
それからの半年を、俺はうまく思い出せない。
造船場には出なんだ。
納屋にこもって、米を炊いて、食うた。
それだけの毎日だった。
自分が参っているのだとか、そういう思考すら、なかった。
ただ、鉋を研いだ。
研いで、研いで、研ぎ過ぎて、刃をだめにした。
だめにしては、また次の鉋を研いだ。
道具箱の鉋が、順に減っていった。
夜中に、意味もなく涙が出ることがあった。
出るだけで、悲しいとは思わなんだ。
膜が一枚、目の前に張ってあるようだった。
その膜の向こうで、汐見の町は、いつも通りに動いていた。
朝の汽笛。坂を上る下駄の音。誰かが誰かを呼ぶ声。
全部、聞こえた。
聞こえて、何も入って来なかった。
削りかけの賽子は、作業台の上に転がったままだった。
俺は納屋からそれを見ることができた。
見えていたのに、取りに行かなんだ。
あれは、たぶん、そういう半年だった。
※
そんなある朝、俺は夢を見た。
どんな夢だったかは、ほとんど覚えていない。
ひたすら謝っていたように思う。
ふと目が覚めて、身体を起こしかけて、俺は動けんようになった。
土間の入口に、小さな影が座っていた。
こちらを、じっと見ていた。
心臓が、喉のところで鳴った。
修が、迎えに来たのだと思うた。
その時が初めて、修がもうこの家におらんことを、俺がちゃんと解った時だったように思う。
汗が、背中を伝った。
その影が、口を開いた。
「大人じゃろ。ちゃんとせられんのんか」
俺は、声も出せなんだ。
「うちのお母ちゃんが、泣きよったで。おっちゃんが痩せたゆうて」
そこへ、土間の戸が乱暴に開いた。
「すんません! この子、勝手に上がり込んで──」
賄いのトメさんだった。
造船場の飯を炊いてくれる、坂の上の家の女房である。
その後ろから、朝の光が土間に流れ込んで来た。
光の中で、影が影でなくなった。
七つになる、トメさんとこの一人娘だった。
ハナ、という。
修が生きとった頃、造船場の縁側で、いつも並んで飯を食うていた子だった。
幽霊ではない。
生きた、人間の子だった。
その子の手には、削りかけの賽子が二つ、握られていた。
「これ、なに」
これ、なに、とハナは言った。
俺は──
そこで、目の前の膜が、ぺりぺりと剥がれる音がした。
気が付くと、俺はその子にしがみついて、みっともなく声を上げていた。
すんません、と、ありがとうございます、を、意味も分からず交互に言うていたと思う。
トメさんは、何も言わずに土間に立っていた。
立ったまま、前掛けで顔を押さえていた。
※
あとで聞いた話である。
造船場の衆と、トメさんの夫婦は、俺のことを、ずっと相談しとったらしい。
飯を持って行けばええか。
引きずり出せばええか。
放っておくのがええか。
大人ばかりで何ヶ月も揉めて、答えが出なんだ。
その相談を、ハナは襖の向こうで全部聞いていた。
それで、決めたらしい。
──うちが叱ったる、と。
七つの子が、である。
大したやつだ。
俺が起き上がってから三日目に、伊佐治さんが納屋に来た。
戸口に立って、中には入らなんだ。
「あの船は、まだ船台に載っとる」
漁師から請けていた、あの船である。
半年、船台に載せたまま、誰も触らずにあった。
「他所へ回さんかったんですか」
「回した」
「ほんなら」
「回して、断られた」
伊佐治さんは、それだけ言った。
漁師が、断ったのだ。
半年待って、断った。
俺が削る、というただそれだけの理由で。
俺は戸口の土間にしゃがみ込んで、しばらく立てなんだ。
伊佐治さんは、俺の頭の上で、こう言った。
「約束したんじゃろが」
「……何をです」
「餅を撒く、ゆうて。あの子に」
俺は顔を上げられなんだ。
伊佐治さんは、俺の懐に何かをねじ込んだ。
そして、背中を向けて、坂を下りて行った。
懐から出してみると、それは、俺が半年前にだめにした鉋の刃だった。
きれいに研ぎ直してあった。
一枚残らず、全部だ。
あの人は、あの人の言葉で、俺を叱っておったのだと思う。
※
船が仕上がったのは、修の一周忌の朝だった。
季節が、ちょうど一巡りしていた。
進水式である。
浜には、汐見の町の者がほとんど出て来た。
年寄りも、子供も、湾の向こうの会社に勤めとる連中まで、その日は休みを取って坂を下りて来た。
船台の脇に、伊佐治さんが小さな台を据えさせた。
台の上に、膳が一つ置いてあった。
誰も座らぬ膳である。
飯と、汁と、それから小さな茶碗が一つ。
トメさんが炊いた飯だった。
「これは」
俺が聞くと、伊佐治さんは海のほうを向いたまま言った。
「今日は、あの子の日じゃろが」
俺は、膳を見た。
湯気が、まっすぐ立っていた。
皿には、焼いた小魚が一尾のっていた。
「あれは、あの子は食わんですよ」
俺が言うと、トメさんは前掛けで手を拭きながら、こう言うた。
「知っとります。ハナが食うたるけん、ええんです」
そう言って、トメさんは坂のほうを向いた。
向いたきり、こちらを見なんだ。
その朝は、風のない朝だった。
進水の前に、船霊様を納める。
これは、棟梁と、船を削った者しか見てはならぬ。
伊佐治さんが、俺に穴を穿たせた。
帆柱の受けの下である。
五穀を入れ、銭を入れ、そして賽子を──
俺は懐から、削りかけだったものを出した。
半年、作業台に転がしたままだった、あの二つである。
角を落とし、目を刻み、砥いだのは、船を仕上げるまでの間の、夜だった。
小さい。修の手にちょうど収まるくらいの大きさだった。
船霊様の穴に、俺は賽子を四つ納めた。
伊佐治さんは、何も言わなんだ。
数を数えもせなんだ。
ただ、蓋を打つ音を、俺の代わりに聞いていた。
天に一、地に六。
四つとも、そう据えた。
※
船が滑り出す時、浜が一斉に声を上げた。
支綱が切られて、船台の獣脂が、ぬるりと光った。
木の船は、ゆっくりと、それから急に、海へ出た。
水が割れて、白い輪が広がった。
その輪が浜まで届いた時、餅が飛んだ。
伊佐治さんの合図で、船の上から、下から、町の衆の手から、いっせいに飛んだ。
餅は、坂の上まで飛んだ。
子供らが、坂を駆け上がって行った。
ハナが、その先頭を走っていた。
俺は、走らなんだ。
膳のところに立って、それを見ていた。
湯気が、まだ、まっすぐ立っていた。
風がないのだから、当たり前である。
当たり前だと、俺は自分に言うた。
言うたのに、涙が止まらなんだ。
その時、俺は確かに聞いた。
──ぎょうさんじゃ。
そう言うたのが、修の声だったのか、俺の中の声だったのか、いまでも分からん。
分からんが、確かに聞いた。
その日、俺は、修が向こうへ行ったことを、やっと、ちゃんと悲しむことができた。
※
それから、五十年近くが経つ。
俺は結局、独り身のままだ。
汐見の造船場は、とうにない。
木の船を欲しがる漁師も、もうおらん。
伊佐治さんは、俺が四十の年に、静かに眠った。
最期まで口が悪かった。
病院の枕元で俺の手を見て、「まだ、ましになっとらんのう」と言うて笑うた。
それが最後の言葉である。
ハナは、平成に入ってすぐの春に嫁いだ。
親戚が少ないから、という理屈にならぬ理屈で、俺は祝言に呼ばれた。
親族紹介の後、少しだけ話す時間があった。
俺とその子は、昔から口の悪い間柄である。
十五も年が離れとるのに、である。
その日も、あんまり綺麗になっとるもんで、俺は動揺して、こう言うた。
「勿体無いのう。お前みたいなガラの悪いのを貰う男がおるんじゃ」
ハナは、笑うた。
「寂しいんか、おっちゃん」
──寂しいわい。
そう言うてしもうた。
言うてから、止まらんようになった。
「俺は昔、お前に助けてもろうた。お前のお父ちゃんとお母ちゃんにも助けてもろうた。じゃけえ、お前のことが好きなんじゃ。じゃけえ、寂しいんじゃ」
七十近い爺が、花嫁の前でしゃくり上げた。
かなり恥ずかしい。
気が付くと、ハナのほうが、俺より大泣きしとった。
新郎の側は、さぞ驚いたじゃろうと思う。
親でもない爺と、花嫁が、並んで泣いとるのだから。
その帰り際、ハナが俺の手に、小さなものを押し込んだ。
賽子だった。
木の、小さな賽子である。
角が丸くて、目が不揃いで、下手くそだった。
「うち、七つの時に、おっちゃんの作業台から一つ、盗んだんじゃ」
「阿呆。あれは四つで一組じゃ」
「じゃけえ、返すんよ。五十年、借りとったんじゃけえ」
俺は、手のひらの上のそれを見た。
そして、気が付いた。
それは、俺が削ったものではなかった。
ハナが、自分で削ったものだった。
角の落とし方が、修と同じところで止まっていた。
いまでも、その賽子は俺の作業台の上にある。
天に一、地に六。
俺が据えた目は、いまだに狂うとらん。
修は、俺の一人目の子だった。
そして、あの子は、俺の二人目の子だ。
恥ずかしいけえ、本人には言わんがのう。