
岬の灯りは、闇に向かって、ものを言わずに光りつづける。
何を訴えるでもなく、ただ、ここに岩がある、ここまでは来るなと、光の明滅だけで沖の船に伝える。
言葉のいらない灯りだ。
昭和三十一年の秋。俺は、本土から船で半日かかるこの小さな島で、父の跡を継いで灯台を守っていた。
島には、家が三十軒ほど。あとは、海と、風と、絶え間ない波の音があるだけだった。
漁師の子に生まれながら海が不得手で、そのくせ口下手で、集落の寄合でも、俺はいつも隅で黙っているような男だった。
母は、俺が幼い頃に、もう会えないところへ行ってしまった。
だから、灯台のことも、暮らしのことも、俺はすべて父の背中から覚えた。
父は寡黙な人で、真鍮の灯器を磨く手つきだけで、多くのことを俺に教えた。
「お前は、言葉で伝えるのが下手なら、灯りで伝えろ」
灯台守だった父は、俺にそう言い残して、先に逝った。
人を励ますことも、慰めることもできない自分が、せめてこの灯りで、誰かの命を岩から遠ざけられるなら――そう思って、俺は毎夜、あの光を回しつづけていた。
油を注し、記録をつけ、硝子を磨く。
それだけの、静かな日々だった。
だからあの娘を見つけたのも、俺の言葉ではなく、俺の灯りだった。
※
その夜は、季節外れの時化だった。
風が灯台の窓を叩き、波が岬の根を削るように轟いていた。
深夜、回転する光の帯の端に、岩場でうずくまる小さな人影が、一瞬だけ照らし出された。
通い船が時化に呑まれ、乗っていた娘だけが、岩に打ち上げられたのだった。
俺は合羽もろくに着ず、灯台を駆け下りた。
波を被りながら岩を伝い、娘の腕を掴んで、力の限り引き上げた。
娘は水を吸った着物のまま、ぐったりとして、睫毛から潮の雫を滴らせていた。
それでも、胸はかすかに上下していた。
俺は娘を背負い、灯台の火の側まで運んだ。
波の音の中で、娘の浅い息だけが、確かに温かかった。
その温かさを、俺は今でも、背中の真ん中に覚えている。
※
娘は灯台守の小屋で一晩を越し、翌朝、目を覚ました。
礼を言いに枕元へ寄った俺に、娘は身を起こして、深く頭を下げた。
改めて見ると、潮に濡れて青ざめてもなお、驚くほど清らかな顔立ちの娘だった。
「体は、もう大丈夫かい」
そう尋ねたが、娘は困ったように、少しだけ首を傾げた。
島の産婆が横から、帳面と鉛筆を娘の膝の前に置いた。
娘は鉛筆を取ると、まだ湿って波打った紙に、丁寧な字を綴った。
「たすけていただいて、ありがとうございました。もう、げんきです」
それから、少し恥ずかしそうに、もう一行を書き足した。
「わたしは、みみが きこえません」
俺は、なんと返してよいか分からず、ただ、その字を長いこと見つめていた。
娘の名は、汐里といった。
本土の町で機を織る家に奉公していたが、体を悪くして、この島の遠縁の元へ養生に来たのだと、帳面の上で少しずつ教えてくれた。
耳が聞こえないことを、汐里は少しも隠さなかった。
むしろ、こちらが気を遣うのを察して、笑って書いた。
「きこえないぶん、いろんなものが よく みえるんです」
その字の脇に、小さく、波の形をした印が添えてあった。
俺は、その印を、なぜだか長いこと見つめていた。
※
それから、俺は灯台の勤めの合間に、遠縁の家へ通うようになった。
はじめは、様子うかがいのつもりだった。
けれど、汐里と帳面の上で言葉を交わす時間が、いつのまにか、俺の一日の真ん中になっていた。
汐里は、俺の不器用な字を笑わなかった。
漢字を間違えても、言葉が足りなくても、じっと待って、こちらの言いたいことを汲み取ってくれた。
俺は、生まれてはじめて、誰かと心ゆくまで話しているような気がした。
声を出さずに交わす言葉のほうが、俺には、よほど正直に綴れた。
ある日、汐里は自分の指を動かして、何かの形を作って見せた。
人差し指と中指を、そっと胸の前で合わせる仕草だった。
「それは、どういう意味だい」
帳面に書くと、汐里は目を細めて、
「ともだち、です」
と書いた。
俺はその手の形を、何度も真似た。
指がうまく動かず、汐里はとうとう吹き出して、俺の手を取って、正しい形に直してくれた。
潮風に荒れた俺の手を包んだ汐里の指は、機を織る者の手らしく、細くて、少しかたい掌だった。
それでも、その掌の中は、なぜか温かかった。
※
汐里は、養生の合間に、遠縁の家の土間で、小さな機を借りて布を織っていた。
手が動くと、経糸がひらき、緯糸を通した杼が、右から左へ、また左から右へと走る。
俺は、その音のいらない仕事を、飽きずに眺めた。
耳が聞こえないのに、どうして糸の乱れが分かるのか、俺は帳面で尋ねた。
汐里は、自分の裸足の足を、機の板の上にそっと置いてみせた。
「あしのうらで、はたの ふるえを きいているんです」
そう書いて、俺の手を取り、機の柱にそっと触れさせた。
杼が走るたび、柱の奥から、確かに細かな震えが伝わってきた。
汐里は、耳のかわりに、掌と足の裏で、世界の音を聴いていた。
見えるものと、聞こえるもの。
その境が、汐里の中では、俺の思うよりずっと近いところにあるのだと、その時、はじめて分かった。
※
※
ある晩、汐里は、遠縁の家の者に付き添われて、灯台まで登ってきた。
回る光を、一度、近くで見てみたいのだと帳面に書いていた。
俺は灯室の扉を開けて、汐里を大きな灯器の側へ招いた。
幾重にも磨かれた硝子のレンズが、灯りを受けて、ゆっくりと回っている。
汐里は、そっとレンズの縁に掌を当てた。
灯りの熱が、掌に移るのが分かったのだろう。
汐里は驚いたように目を見張り、それから、俺のほうを向いて、両手で何かを表した。
胸の前で指を開き、外へ向かってひらく――「うつくしい」という手話だった。
聞こえない汐里には、灯台の光の音も、風の唸りも届かない。
それでも汐里は、掌の熱で、俺の父が守り、俺が回しつづけるこの灯りを、確かに受け取っていた。
言葉のいらない灯りを、言葉を持たないはずの娘が、誰よりも深く感じ取っていた。
俺は、その横顔を見ながら、この人を離したくない、と思った。
生まれてはじめて、そんなにも強く、何かを願った。
手話を覚えようと決めたのは、その夜のことだ。
俺は次の連絡船で本土へ渡り、町の書店で、手話の載った本を一冊、買ってきた。
灯台の火の番をしながら、俺は一つずつ、手の形を覚えた。
「ありがとう」「おはよう」「うみ」「あかるい」。
覚えた手話を汐里の前でやってみせると、汐里は、それはもう、驚いた顔をした。
それから、くしゃくしゃに顔を歪めて、声のない笑い方で笑った。
その笑顔を見たくて、俺は次の日も、その次の日も、新しい手話を一つずつ覚えていった。
おかしなことに、俺の下手な手話は、島の者たちにも伝染していった。
浜で汐里に手を振る子が、いつのまにか「またね」の手話を覚えた。
その子の母親が覚え、網を繕う爺さままでが、汐里に会うと不格好な手つきで「今日はいい凪だ」とやるようになった。
言葉の通じないはずの娘は、いつのまにか、島じゅうから一番よく話しかけられる娘になっていた。
汐里は帳面に書いた。
「わたし、こんなに たくさんの人と はなしたのは、うまれて はじめてです」
その字が、少し滲んでいた。
※
連絡船で本土へ渡るたび、俺は汐里のために、何かを一つ持ち帰るようになった。
ある時は、町の菓子。ある時は、汐里が懐かしがっていた、染めたばかりの糸だった。
以前、汐里が帳面に、町の糸屋の色をときどき思い出す、と書いていたのを覚えていたのだ。
藍と、茜と、若草の糸を差し出すと、汐里は子どものように顔を輝かせた。
その糸で、汐里は小さな布を織った。
藍は海、茜は朝日、若草は岬の草――そう帳面で教えてくれた。
織り上がった布を、汐里は、手話を覚えた島の子どもたちに、一枚ずつ配って回った。
子どもらは、その布を首に巻いて、汐里に「ありがとう」と手で伝えた。
島には、いつのまにか、汐里の織った海の色が、あちこちで揺れていた。
※
けれど、一度だけ、俺は汐里を悲しませたことがある。
沖で漁船の綱が切れ、俺は三日三晩、灯台と浜を往き来して、汐里の家に顔を出せなかった。
やっと訪ねると、汐里は俯いて、なかなか帳面を開こうとしなかった。
ようやく綴った字は、震えていた。
「もう、こなくなるのかと おもいました」
耳の聞こえない汐里には、俺の事情を伝える術がなかった。
島の噂も、浜の慌ただしさも、汐里の耳には届かない。
ただ、俺が来ない、という事実だけが、静かな部屋に降り積もっていたのだ。
俺は帳面に、沖の船のことを、綱のことを、一晩じゅう火を絶やせなかったことを、下手な字で書き連ねた。
それから、覚えたばかりの手話で、ゆっくりと「ごめん」と伝えた。
汐里は、しばらくして、そっと頷いた。
聞こえないということは、こんなにも、待つ側を心細くさせるのだと、俺はその日、はじめて知った。
※
あのすれ違いの日から、汐里は、時化の晩になると、灯台まで登ってくるようになった。
波が高い夜、俺が無事に灯りを回しているかどうか、汐里の耳には、何も届かないからだ。
聞こえないぶん、汐里は、自分の目で確かめずにはいられなかったのだと思う。
汐里は、冷えた握り飯を布に包んで持ってきて、灯室の隅で、俺が火を守るのを静かに見ていた。
言葉はいらなかった。
回る光の下で、俺たちはただ、並んで海を見ていた。
時折、汐里が俺の袖を引き、沖を指さす。
見ると、遠くに、漁火が一つ、揺れている。
あの灯りも、誰かが誰かを待つ灯りなのだと、汐里は掌で伝えた。
聞こえない娘の隣で、俺は、世界がこんなにも多くのことを語っていたのかと、はじめて気がついた。
島の年寄りたちも、いつしか、俺と汐里のことを、あたりまえのように見るようになっていた。
「あの二人は、口より先に、手が仲良うなったな」
網元の爺さまが、そう言って笑ったと、あとで聞いた。
※
その少しあとのことだ。
汐里は俺に、掌にのるほどの白い貝殻を見せてくれた。
時化の夜、俺が汐里を引き上げた、あの岩場で拾ったのだという。
「たすけてもらった あさ、なみうちぎわに ひとつだけ おちていました」
汐里は毎晩それを砂で磨いているらしく、貝の内側は、鏡のように滑らかに光っていた。
「いつか、いいたいことが いえるように なったら、これを あなたに わたします」
何のことか、その時の俺には分からなかった。
分からないまま、その白い貝殻の光だけが、妙に心に残った。
※
けれど、冬の近づいたある日、汐里は硬い表情で俺を待っていた。
膝の前には、風呂敷に包まれた荷物があった。
「まちの おやかたから、もどってこいと しらせが きました」
養生の時が満ちれば、汐里はこの島を離れる。
分かっていたことのはずだった。
汐里は養生に来た娘で、俺は灯りを回すだけの男だ。
それでも、その字を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
汐里は例の白い貝殻を取り出し、俺の掌にのせようとして――途中で、手を止めた。
「まだ、いえません」
帳面には、そう書いてあった。
言いたいことを、汐里はまだ、言えずにいたのだ。
貝殻は、また、汐里の掌の中へ戻っていった。
※
その夜、俺は灯台の火の番をしながら、一睡もしなかった。
気の利いた言葉など、生まれてこのかた、一度も言えたためしがない。
父の言った通り、俺は、言葉の代わりに灯りを回すしかない男だ。
だが、時化の夜に汐里を引き上げたあの日から、俺の回す灯りは、確かに意味を変えていた。
あれは、もう、ただ岩を報せる光ではなかった。
あの光の届く先に、汐里がいる。そう思うだけで、俺は夜通し、光を絶やさずにいられた。
翌朝、俺は島の者たちを訪ねて回った。
遠縁の家の者、網元の爺さま、浜で手を振る子どもたち――汐里と手で言葉を交わすことを覚えた、島の皆に、一つの頼みごとをして回った。
皆、二つ返事で頷いてくれた。
「あの娘のためなら」
誰もが、そう言った。
※
汐里が島を発つ朝は、時化のあとが嘘のように、よく凪いでいた。
柔らかな朝日が、静まった海の上で、無数の光の粒になって跳ねていた。
桟橋には、島の者たちが並んでいた。
汐里が荷物を提げて連絡船へ向かうと、俺は皆に、目で合図を送った。
島じゅうの手が、いっせいに動いた。
網元の手が、産婆の手が、子どもらの小さな手が、それぞれに不格好で、ばらばらの速さで、けれど確かに、同じ一つの言葉を作った。
「ありがとう」。
汐里に、俺が一番はじめに教わった手話だった。
聞こえない娘に、島じゅうが、声のかわりに手で、礼を伝えていた。
汐里は、口を押さえて立ち尽くした。
声のない嗚咽が、その肩を震わせた。
俺は、一歩前に出た。
そして、幾晩もかけて覚えた手の形を、汐里の前で、ゆっくりと作った。
人差し指を立てて胸に当て、それから、両の掌を重ねて、汐里のほうへ、そっと差し出す。
「あなたと、いっしょに、いきたい」。
本には載っていなかった。
どう伝えればいいのか分からなくて、俺が、俺なりに考えた、俺だけの手話だった。
汐里には、通じないかもしれなかった。
それでも、俺の言葉は、もう、俺の口にはなかった。
俺の言葉は、この手の中にあった。
※
汐里は、しばらく俺の手を見つめていた。
それから、震える手で、あの白い貝殻を取り出し、今度こそ、俺の掌にそっとのせた。
それから帳面を開き、朝日の下で、ずっと言えずにいた一行を書いた。
「この かいがらの うちがわみたいに、あなたに ひろってもらった あさから、わたしの せかいは ひかっています」
たった一行だった。
けれど、その字を書く汐里の手を、俺は生涯、忘れないだろうと思った。
連絡船の汽笛が、沖で長く鳴った。
汐里は、その船には乗らなかった。
※
あれから、長い年月が過ぎた。
汐里は町の機屋を辞め、この島で俺の女房になった。
今では、岬の下の小さな家で、汐里は変わらず機を織っている。
俺は相変わらず、夜ごと灯台の光を回している。
時化の夜には、二人で炉端に寄り添う。
汐里はときどき、あの日のように、人差し指と中指を胸の前で合わせて見せる。
「ともだち」から始まった、俺たちの、一番はじめの言葉だ。
俺はいつも、それに、両の掌を重ねて返す。
言葉は、あいかわらず、俺の口からは出てこない。
それでも、汐里の隣にいると、俺の手のひらは、いくらでも饒舌になる。
棚の上には、あの白い貝殻が、今も飾ってある。
内側の光は、二十年経っても、少しも曇っていない。
きこえないぶん、いろんなものが、よく見えるのだと――あの朝の帳面の字を、俺は今も、掌の中に持っている。
娘が一人、生まれた。
その子は、物心つく前から、母親と手で話した。
声を出すより先に、小さな指で「ともだち」の形を作るような子だった。
聞こえる子と聞こえない母が、食卓で、手だけで笑い合っている。
その光景を、俺は毎日、飽きずに眺めている。
岬の灯りは、今夜も、闇に向かって、ものを言わずに光りつづけている。