岬の灯台と手のひらの声

静かな海辺のひととき

岬の灯りは、闇に向かって、ものを言わずに光りつづける。

何を訴えるでもなく、ただ、ここに岩がある、ここまでは来るなと、光の明滅だけで沖の船に伝える。

言葉のいらない灯りだ。

昭和三十一年の秋。俺は、本土から船で半日かかるこの小さな島で、父の跡を継いで灯台を守っていた。

島には、家が三十軒ほど。あとは、海と、風と、絶え間ない波の音があるだけだった。

漁師の子に生まれながら海が不得手で、そのくせ口下手で、集落の寄合でも、俺はいつも隅で黙っているような男だった。

母は、俺が幼い頃に、もう会えないところへ行ってしまった。

だから、灯台のことも、暮らしのことも、俺はすべて父の背中から覚えた。

父は寡黙な人で、真鍮の灯器を磨く手つきだけで、多くのことを俺に教えた。

「お前は、言葉で伝えるのが下手なら、灯りで伝えろ」

灯台守だった父は、俺にそう言い残して、先に逝った。

人を励ますことも、慰めることもできない自分が、せめてこの灯りで、誰かの命を岩から遠ざけられるなら――そう思って、俺は毎夜、あの光を回しつづけていた。

油を注し、記録をつけ、硝子を磨く。

それだけの、静かな日々だった。

だからあの娘を見つけたのも、俺の言葉ではなく、俺の灯りだった。

その夜は、季節外れの時化だった。

風が灯台の窓を叩き、波が岬の根を削るように轟いていた。

深夜、回転する光の帯の端に、岩場でうずくまる小さな人影が、一瞬だけ照らし出された。

通い船が時化に呑まれ、乗っていた娘だけが、岩に打ち上げられたのだった。

俺は合羽もろくに着ず、灯台を駆け下りた。

波を被りながら岩を伝い、娘の腕を掴んで、力の限り引き上げた。

娘は水を吸った着物のまま、ぐったりとして、睫毛から潮の雫を滴らせていた。

それでも、胸はかすかに上下していた。

俺は娘を背負い、灯台の火の側まで運んだ。

波の音の中で、娘の浅い息だけが、確かに温かかった。

その温かさを、俺は今でも、背中の真ん中に覚えている。

娘は灯台守の小屋で一晩を越し、翌朝、目を覚ました。

礼を言いに枕元へ寄った俺に、娘は身を起こして、深く頭を下げた。

改めて見ると、潮に濡れて青ざめてもなお、驚くほど清らかな顔立ちの娘だった。

「体は、もう大丈夫かい」

そう尋ねたが、娘は困ったように、少しだけ首を傾げた。

島の産婆が横から、帳面と鉛筆を娘の膝の前に置いた。

娘は鉛筆を取ると、まだ湿って波打った紙に、丁寧な字を綴った。

「たすけていただいて、ありがとうございました。もう、げんきです」

それから、少し恥ずかしそうに、もう一行を書き足した。

「わたしは、みみが きこえません」

俺は、なんと返してよいか分からず、ただ、その字を長いこと見つめていた。

娘の名は、汐里といった。

本土の町で機を織る家に奉公していたが、体を悪くして、この島の遠縁の元へ養生に来たのだと、帳面の上で少しずつ教えてくれた。

耳が聞こえないことを、汐里は少しも隠さなかった。

むしろ、こちらが気を遣うのを察して、笑って書いた。

「きこえないぶん、いろんなものが よく みえるんです」

その字の脇に、小さく、波の形をした印が添えてあった。

俺は、その印を、なぜだか長いこと見つめていた。

それから、俺は灯台の勤めの合間に、遠縁の家へ通うようになった。

はじめは、様子うかがいのつもりだった。

けれど、汐里と帳面の上で言葉を交わす時間が、いつのまにか、俺の一日の真ん中になっていた。

汐里は、俺の不器用な字を笑わなかった。

漢字を間違えても、言葉が足りなくても、じっと待って、こちらの言いたいことを汲み取ってくれた。

俺は、生まれてはじめて、誰かと心ゆくまで話しているような気がした。

声を出さずに交わす言葉のほうが、俺には、よほど正直に綴れた。

ある日、汐里は自分の指を動かして、何かの形を作って見せた。

人差し指と中指を、そっと胸の前で合わせる仕草だった。

「それは、どういう意味だい」

帳面に書くと、汐里は目を細めて、

「ともだち、です」

と書いた。

俺はその手の形を、何度も真似た。

指がうまく動かず、汐里はとうとう吹き出して、俺の手を取って、正しい形に直してくれた。

潮風に荒れた俺の手を包んだ汐里の指は、機を織る者の手らしく、細くて、少しかたい掌だった。

それでも、その掌の中は、なぜか温かかった。

汐里は、養生の合間に、遠縁の家の土間で、小さな機を借りて布を織っていた。

手が動くと、経糸がひらき、緯糸を通した杼が、右から左へ、また左から右へと走る。

俺は、その音のいらない仕事を、飽きずに眺めた。

耳が聞こえないのに、どうして糸の乱れが分かるのか、俺は帳面で尋ねた。

汐里は、自分の裸足の足を、機の板の上にそっと置いてみせた。

「あしのうらで、はたの ふるえを きいているんです」

そう書いて、俺の手を取り、機の柱にそっと触れさせた。

杼が走るたび、柱の奥から、確かに細かな震えが伝わってきた。

汐里は、耳のかわりに、掌と足の裏で、世界の音を聴いていた。

見えるものと、聞こえるもの。

その境が、汐里の中では、俺の思うよりずっと近いところにあるのだと、その時、はじめて分かった。

ある晩、汐里は、遠縁の家の者に付き添われて、灯台まで登ってきた。

回る光を、一度、近くで見てみたいのだと帳面に書いていた。

俺は灯室の扉を開けて、汐里を大きな灯器の側へ招いた。

幾重にも磨かれた硝子のレンズが、灯りを受けて、ゆっくりと回っている。

汐里は、そっとレンズの縁に掌を当てた。

灯りの熱が、掌に移るのが分かったのだろう。

汐里は驚いたように目を見張り、それから、俺のほうを向いて、両手で何かを表した。

胸の前で指を開き、外へ向かってひらく――「うつくしい」という手話だった。

聞こえない汐里には、灯台の光の音も、風の唸りも届かない。

それでも汐里は、掌の熱で、俺の父が守り、俺が回しつづけるこの灯りを、確かに受け取っていた。

言葉のいらない灯りを、言葉を持たないはずの娘が、誰よりも深く感じ取っていた。

俺は、その横顔を見ながら、この人を離したくない、と思った。

生まれてはじめて、そんなにも強く、何かを願った。

手話を覚えようと決めたのは、その夜のことだ。

俺は次の連絡船で本土へ渡り、町の書店で、手話の載った本を一冊、買ってきた。

灯台の火の番をしながら、俺は一つずつ、手の形を覚えた。

「ありがとう」「おはよう」「うみ」「あかるい」。

覚えた手話を汐里の前でやってみせると、汐里は、それはもう、驚いた顔をした。

それから、くしゃくしゃに顔を歪めて、声のない笑い方で笑った。

その笑顔を見たくて、俺は次の日も、その次の日も、新しい手話を一つずつ覚えていった。

おかしなことに、俺の下手な手話は、島の者たちにも伝染していった。

浜で汐里に手を振る子が、いつのまにか「またね」の手話を覚えた。

その子の母親が覚え、網を繕う爺さままでが、汐里に会うと不格好な手つきで「今日はいい凪だ」とやるようになった。

言葉の通じないはずの娘は、いつのまにか、島じゅうから一番よく話しかけられる娘になっていた。

汐里は帳面に書いた。

「わたし、こんなに たくさんの人と はなしたのは、うまれて はじめてです」

その字が、少し滲んでいた。

連絡船で本土へ渡るたび、俺は汐里のために、何かを一つ持ち帰るようになった。

ある時は、町の菓子。ある時は、汐里が懐かしがっていた、染めたばかりの糸だった。

以前、汐里が帳面に、町の糸屋の色をときどき思い出す、と書いていたのを覚えていたのだ。

藍と、茜と、若草の糸を差し出すと、汐里は子どものように顔を輝かせた。

その糸で、汐里は小さな布を織った。

藍は海、茜は朝日、若草は岬の草――そう帳面で教えてくれた。

織り上がった布を、汐里は、手話を覚えた島の子どもたちに、一枚ずつ配って回った。

子どもらは、その布を首に巻いて、汐里に「ありがとう」と手で伝えた。

島には、いつのまにか、汐里の織った海の色が、あちこちで揺れていた。

けれど、一度だけ、俺は汐里を悲しませたことがある。

沖で漁船の綱が切れ、俺は三日三晩、灯台と浜を往き来して、汐里の家に顔を出せなかった。

やっと訪ねると、汐里は俯いて、なかなか帳面を開こうとしなかった。

ようやく綴った字は、震えていた。

「もう、こなくなるのかと おもいました」

耳の聞こえない汐里には、俺の事情を伝える術がなかった。

島の噂も、浜の慌ただしさも、汐里の耳には届かない。

ただ、俺が来ない、という事実だけが、静かな部屋に降り積もっていたのだ。

俺は帳面に、沖の船のことを、綱のことを、一晩じゅう火を絶やせなかったことを、下手な字で書き連ねた。

それから、覚えたばかりの手話で、ゆっくりと「ごめん」と伝えた。

汐里は、しばらくして、そっと頷いた。

聞こえないということは、こんなにも、待つ側を心細くさせるのだと、俺はその日、はじめて知った。

あのすれ違いの日から、汐里は、時化の晩になると、灯台まで登ってくるようになった。

波が高い夜、俺が無事に灯りを回しているかどうか、汐里の耳には、何も届かないからだ。

聞こえないぶん、汐里は、自分の目で確かめずにはいられなかったのだと思う。

汐里は、冷えた握り飯を布に包んで持ってきて、灯室の隅で、俺が火を守るのを静かに見ていた。

言葉はいらなかった。

回る光の下で、俺たちはただ、並んで海を見ていた。

時折、汐里が俺の袖を引き、沖を指さす。

見ると、遠くに、漁火が一つ、揺れている。

あの灯りも、誰かが誰かを待つ灯りなのだと、汐里は掌で伝えた。

聞こえない娘の隣で、俺は、世界がこんなにも多くのことを語っていたのかと、はじめて気がついた。

島の年寄りたちも、いつしか、俺と汐里のことを、あたりまえのように見るようになっていた。

「あの二人は、口より先に、手が仲良うなったな」

網元の爺さまが、そう言って笑ったと、あとで聞いた。

その少しあとのことだ。

汐里は俺に、掌にのるほどの白い貝殻を見せてくれた。

時化の夜、俺が汐里を引き上げた、あの岩場で拾ったのだという。

「たすけてもらった あさ、なみうちぎわに ひとつだけ おちていました」

汐里は毎晩それを砂で磨いているらしく、貝の内側は、鏡のように滑らかに光っていた。

「いつか、いいたいことが いえるように なったら、これを あなたに わたします」

何のことか、その時の俺には分からなかった。

分からないまま、その白い貝殻の光だけが、妙に心に残った。

けれど、冬の近づいたある日、汐里は硬い表情で俺を待っていた。

膝の前には、風呂敷に包まれた荷物があった。

「まちの おやかたから、もどってこいと しらせが きました」

養生の時が満ちれば、汐里はこの島を離れる。

分かっていたことのはずだった。

汐里は養生に来た娘で、俺は灯りを回すだけの男だ。

それでも、その字を見た瞬間、俺の胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。

汐里は例の白い貝殻を取り出し、俺の掌にのせようとして――途中で、手を止めた。

「まだ、いえません」

帳面には、そう書いてあった。

言いたいことを、汐里はまだ、言えずにいたのだ。

貝殻は、また、汐里の掌の中へ戻っていった。

その夜、俺は灯台の火の番をしながら、一睡もしなかった。

気の利いた言葉など、生まれてこのかた、一度も言えたためしがない。

父の言った通り、俺は、言葉の代わりに灯りを回すしかない男だ。

だが、時化の夜に汐里を引き上げたあの日から、俺の回す灯りは、確かに意味を変えていた。

あれは、もう、ただ岩を報せる光ではなかった。

あの光の届く先に、汐里がいる。そう思うだけで、俺は夜通し、光を絶やさずにいられた。

翌朝、俺は島の者たちを訪ねて回った。

遠縁の家の者、網元の爺さま、浜で手を振る子どもたち――汐里と手で言葉を交わすことを覚えた、島の皆に、一つの頼みごとをして回った。

皆、二つ返事で頷いてくれた。

「あの娘のためなら」

誰もが、そう言った。

汐里が島を発つ朝は、時化のあとが嘘のように、よく凪いでいた。

柔らかな朝日が、静まった海の上で、無数の光の粒になって跳ねていた。

桟橋には、島の者たちが並んでいた。

汐里が荷物を提げて連絡船へ向かうと、俺は皆に、目で合図を送った。

島じゅうの手が、いっせいに動いた。

網元の手が、産婆の手が、子どもらの小さな手が、それぞれに不格好で、ばらばらの速さで、けれど確かに、同じ一つの言葉を作った。

「ありがとう」。

汐里に、俺が一番はじめに教わった手話だった。

聞こえない娘に、島じゅうが、声のかわりに手で、礼を伝えていた。

汐里は、口を押さえて立ち尽くした。

声のない嗚咽が、その肩を震わせた。

俺は、一歩前に出た。

そして、幾晩もかけて覚えた手の形を、汐里の前で、ゆっくりと作った。

人差し指を立てて胸に当て、それから、両の掌を重ねて、汐里のほうへ、そっと差し出す。

「あなたと、いっしょに、いきたい」。

本には載っていなかった。

どう伝えればいいのか分からなくて、俺が、俺なりに考えた、俺だけの手話だった。

汐里には、通じないかもしれなかった。

それでも、俺の言葉は、もう、俺の口にはなかった。

俺の言葉は、この手の中にあった。

汐里は、しばらく俺の手を見つめていた。

それから、震える手で、あの白い貝殻を取り出し、今度こそ、俺の掌にそっとのせた。

それから帳面を開き、朝日の下で、ずっと言えずにいた一行を書いた。

「この かいがらの うちがわみたいに、あなたに ひろってもらった あさから、わたしの せかいは ひかっています」

たった一行だった。

けれど、その字を書く汐里の手を、俺は生涯、忘れないだろうと思った。

連絡船の汽笛が、沖で長く鳴った。

汐里は、その船には乗らなかった。

あれから、長い年月が過ぎた。

汐里は町の機屋を辞め、この島で俺の女房になった。

今では、岬の下の小さな家で、汐里は変わらず機を織っている。

俺は相変わらず、夜ごと灯台の光を回している。

時化の夜には、二人で炉端に寄り添う。

汐里はときどき、あの日のように、人差し指と中指を胸の前で合わせて見せる。

「ともだち」から始まった、俺たちの、一番はじめの言葉だ。

俺はいつも、それに、両の掌を重ねて返す。

言葉は、あいかわらず、俺の口からは出てこない。

それでも、汐里の隣にいると、俺の手のひらは、いくらでも饒舌になる。

棚の上には、あの白い貝殻が、今も飾ってある。

内側の光は、二十年経っても、少しも曇っていない。

きこえないぶん、いろんなものが、よく見えるのだと――あの朝の帳面の字を、俺は今も、掌の中に持っている。

娘が一人、生まれた。

その子は、物心つく前から、母親と手で話した。

声を出すより先に、小さな指で「ともだち」の形を作るような子だった。

聞こえる子と聞こえない母が、食卓で、手だけで笑い合っている。

その光景を、俺は毎日、飽きずに眺めている。

岬の灯りは、今夜も、闇に向かって、ものを言わずに光りつづけている。

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