
硝子戸に、雪がひとひら貼りついて、すぐに溶けた。
その向こうに、女の人が立っていた。
昭和四十四年、正月のあけたばかりの湯の町だった。屋根という屋根が綿のような雪をかぶり、路地のあちこちから湯けむりだけが、白い空へまっすぐに立ちのぼっていた。
雪の朝は、湯の町がいちばん静かになる。宿の下駄の音も、鳥の声も、みんな雪に吸い込まれて、湯けむりだけが、生きもののように動いていた。僕はそんな朝の景色ばかり、飽きもせずに撮っていた。
僕は宮下写真館の跡取りで、まだ見習いだった。二十歳になったばかりで、器械の扱いは覚えても、人を写すということが、どうしてもわからなかった。
父が撮ると、湯治客はやわらかく笑う。おなじ器械を、おなじ場所で構えても、僕が撮ると、みんな借りてきた猫のように固くなる。
だから僕は、いつのころからか、人を撮るのが苦手になっていた。景色ばかり撮っていた。景色は、僕の前で固くならないから。
店の奥では、父がいつも暗室にこもっていた。赤い灯の下で、湯の町の人たちの一生を、一枚ずつ紙に定着させていた。婚礼、七五三、還暦。父の写真には、写っている人の来し方まで写っているようだった。
僕には、それができなかった。器械の向こうで人が固くなるたび、自分の未熟さが、冷たい手で胸を押さえてくるようだった。
その日、硝子戸を開けて入ってきた人は、外套の肩に雪を積もらせたまま、両手で小さな筒を包むように握っていた。
「あの……写真を、お願いしたいんです」
声が、湯上がりの湯気みたいに、少しふるえていた。頬だけが、寒さのせいか、ほんのりと赤かった。
名を、佐紀さんといった。年は僕より二つ三つ上に見えた。都会から、療養のためにこの町へ来たのだと、ずっとあとになって知った。
握っていた筒は、万華鏡だった。差し出されるままにのぞくと、色硝子の欠片がかちりと落ちて、見たこともない花のかたちをつくった。赤と、橙と、藍。
「きれいでしょう」
「……ええ」
「これね、割れた硝子のほうが、きれいな模様になるんですって」
佐紀さんは、そう言って笑った。僕は、その笑いかたを、うまく写せる気がしなかった。あんまり、静かな笑いかただったから。
※
「この町を、撮っていただきたいんです。毎日、一枚ずつ」
翌朝、佐紀さんは雪を踏んで写真館へ来て、そう言った。
毎日ここへ通うから、その日いちばんきれいだと思ったものを、一枚だけ撮ってほしい。撮れたら、裏を見ないで、そのまま自分にわたしてほしい。それが、約束のすべてだった。
「裏には、なにも書かないでくださいね」
念を押すように、佐紀さんはそう言った。妙なことを言う人だと思いながら、僕はうなずいた。
その日から、僕らの、少し風変わりな撮影がはじまった。
雪をかぶった湯小屋の屋根。氷柱の奥で燃えている宿の軒灯。湯だまりに落ちて、まだ溶けきらない一輪の椿。僕がその日の一枚を選んでいるあいだ、佐紀さんは白い息を吐きながら、まるで急がない足どりで、ずっと待っていた。
「宮下さんは、人より、景色のほうがお好きなのね」
見抜かれて、僕は首の後ろをかいた。
「景色は……こっちが下手でも、逃げませんから」
「ふふ。わたしも、逃げませんよ」
佐紀さんは、雪の坂道の途中でそう言って、また万華鏡をのぞいた。のぞくときだけ、子供みたいな目になる人だった。
「宮下さんは、どの写真が、いちばん好きですか」
ある日、佐紀さんが、そう訊いた。
僕はしばらく考えて、まだ撮れていません、と答えた。
「いちばん好きなものは、こわくて、まだ、うまく撮れないんです」
佐紀さんは、少し目をみはって、それから、やわらかく笑った。
「そう。じゃあ、待ってます。宮下さんが、それを撮れる日まで」
佐紀さんは、都会の家のことを、ぽつりぽつりと話した。
「わたしの部屋、窓が一つだけあってね。そこから、桜の木が一本だけ、見えたんです」
毎年、その木が咲くのを、窓ごしに、指で数えていたのだという。
「今年は……ほんものの春を、外で、見られるかしら」
僕は、見られますよ、と言った。言ってしまってから、その言葉の軽さが、こわくなった。
三度目の雪が降った日、佐紀さんは、赤い毛糸の手袋をしてきた。
「これ、母が編んでくれたんです」
指先のところだけ、糸が少しほつれていた。
「ずっと部屋の中にいたから、外で使うのは、はじめてなんです」
僕は、その手袋を撮ってもいいですかと訊いた。
「わたしじゃなくて?」
「手袋の、いちばんいいところを、撮ります」
佐紀さんは、雪の上に両手を、そっと広げてみせて、笑った。その日の一枚は、白い雪を背にした、赤い手袋だった。約束どおり、裏を見ずに、わたした。
※
ある午後、町の呉服屋のご隠居が、米寿の祝いの写真を撮りにきた。
器械を向けると、案の定、顔がこわばって、石みたいになってしまった。僕は、また、と、心のなかで肩を落とした。
すると、椅子で待っていた佐紀さんが、そっと立って、ご隠居のそばへ寄った。
「ご隠居さん。これ、ちょっと、のぞいてみてください」
万華鏡を手わたすと、ご隠居は不思議そうにのぞきこんで、それから、子供みたいに、ふっと笑った。
「割れた硝子のほうが、きれいな模様になるんですよ」
その、ほどけた笑顔の瞬間を、僕はすかさず撮った。指が、ためらわなかった。
できあがった一枚を見て、ご隠居は目をうるませた。こんないい顔で撮ってもろたのは、生まれて初めてじゃ、と、何度も頭を下げて帰っていった。
佐紀さんは、まるで自分のことのように、うれしそうだった。
「宮下さん。人は、こわいものじゃありませんよ。みんな、ちゃんと、いい顔を、持っているんです」
日が傾くと、湯けむりが金色に染まる。撮影の帰り、佐紀さんは、よく、その金色の中で、ふと立ちどまった。
「わたし、この時間が、いちばん好き」
「どうしてですか」
「昼と夜の、境目だから。どっちでもない時間って、なんだか、ずるくて、やさしいでしょう」
僕は、その言葉の意味を、そのときは、うまくわからなかった。いまなら、少しだけ、わかる気がする。
※
現像は、店の奥の暗室でやる。赤い灯だけの、狭い部屋だ。薬品の匂いと、水の音しかしない。
ある雪の日、佐紀さんは「見せてください」と言って、暗室までついてきた。
液の中で、白い紙に、ゆっくりと町が浮かんでくる。氷柱が、湯けむりが、雪をかぶった地蔵が、闇の底から静かに顔を出す。
「……生まれてくるみたい」
佐紀さんは、赤い灯の下で、そうつぶやいた。息をひそめるように、紙の上の町を見ていた。
「宮下さんは、この町から出たいと思ったこと、ありますか」
現像液を、ゆっくりゆらしながら、佐紀さんが訊いた。
「ありますよ。都会で、ちゃんとした写真の勉強を、と」
「じゃあ、どうして、ここに」
「……父の手が、もう、あまり動かないんです」
佐紀さんは、しばらく黙って、それから、静かに言った。
「宮下さんの写真は、この町でしか撮れないと思います。逃げない景色が、ここには、たくさんあるから」
その言葉を、僕はいまでも、覚えている。
焼きあがった一枚を、僕は言われたとおり、裏を見せずにわたした。佐紀さんはそれを胸に伏せて抱え、しばらく動かなかった。まるで、生まれたての小さなものを、あたためているように。
「宮下さんの写真、あったかいですね」
「父のは、もっとあったかいです」
「そうかしら。わたしは、これがいい。宮下さんのが、いいんです」
暗室を出るとき、佐紀さんは、小さく咳をした。手のひらで口を覆い、僕に気づかれないように、すぐに笑ってみせた。僕は、そのことを、深く考えないようにした。考えるのが、こわかったのだと思う。
※
佐紀さんが泊まっているのは、白樺屋という古い宿だった。
ある晩、焼き増しを届けにいくと、女将さんが囲炉裏のそばへ僕を呼んだ。鉄瓶が、しずかに湯気を上げていた。
「宮下さんとこの坊ちゃん。あの娘さんに、あんまり無理をさせんでやってな」
火箸で炭をつつきながら、女将さんは声を落とした。
「あの娘さんはな、体がずうっと弱うてな……。町の医者も、都会の先生も、もう長うはもたんじゃろうと言うとる。せめて桜が咲くまで、この町においてやってくれと、ご両親が頭を下げに来なさったんよ」
炭がはぜて、火の粉が短く舞い、すぐに消えた。
僕は、湯呑みを持ったまま、なにも言えなかった。指先だけが、妙に冷たかった。
「あの娘さんはな、生まれてからずうっと、白い部屋の中で暮らしてきたんじゃと。雪も、椿も、湯けむりも、あの娘さんには、ふつうの景色じゃなかったんよ」
帰り道、僕は何度も立ちどまった。雪あかりの道に、自分の影だけが、長くのびていた。
佐紀さんの「日常」が、都会の白い部屋であったことを、そのとき、はじめて知った。窓の外の景色も、雪の冷たさも、椿の赤も、あの人にとっては、ずっと手の届かない、非日常だったのだ。
だからあの人は、この町のなんでもない一日を、一枚ずつ、集めていた。ふつうの人が見過ごしてしまう、ただの一日を。あの、一本の桜の木を、窓ごしに数えたように。
割れる寸前の硝子が、いちばん光る――万華鏡をのぞいて言ったあの言葉が、まるで別の重さで、胸の底に落ちてきた。
その晩から、僕は、うまく眠れなくなった。
天井を見つめながら、明日はどんな一枚を撮ろうかと、そればかり考えた。なんでもない一日を、なんでもないままに、あの人にわたすこと。それだけが、僕にできる、たったひとつの、やさしい嘘のつき方だった。
次の日も、佐紀さんは、いつもの椅子で、僕の帰りを待っていた。頬の赤みは、この前より、少し薄くなっていた。
それでも、僕が撮ってきた一枚を見ると、子供のように顔を輝かせた。
「今日のも、あたたかい」
僕は、笑ってみせるのが、精一杯だった。
※
それからも、僕は毎日一枚を撮り、裏を見せずにわたしつづけた。
佐紀さんは、日に日に痩せていった。雪の坂を登れなくなり、写真館の硝子戸のそばの椅子に座って、僕が撮ってきた景色を待つようになった。膝の上には、いつも万華鏡があった。
三月に入ると、軒のしずくの落ちる音が、町じゅうで聞こえるようになった。
春が近い。それは、うれしいはずの音だった。けれど僕には、その音が、何かを一滴ずつ数えているように、聞こえてならなかった。
しずくの音のやまない、ある朝のことだった。
佐紀さんは、いつもより厚い外套を着て、写真館に来た。頬の赤みは、もう、ほとんど残っていなかった。
「今日で、最後にします。都会へ、帰らないといけないの」
僕は、シャッターに置いた指が、うまく動かなかった。
「最後の一枚は……わたしを、撮ってくれませんか」
人を撮るのが苦手な僕に、佐紀さんは、そう言って、少しいたずらっぽく笑った。
硝子戸から差す薄い光の中で、佐紀さんは椅子に座り、膝に万華鏡を乗せて、まっすぐにこちらを見た。固くなりもせず、作りもしない、ただの、その人のままの笑いかただった。
僕は、息を止めて、シャッターを押した。生まれて初めて、逃げださずに、人を撮れた気がした。いちばん好きなものを、やっと、撮れた気がした。
焼きあがった一枚を、僕はいつものように、裏を見せずにわたした。
「ありがとう。裏は……汽車の中で、見ますね」
佐紀さんは、それを胸に伏せて抱え、雪解けの道を、宿のほうへ歩いていった。一度も、振り向かなかった。小さな背中が、湯けむりの向こうに溶けて、見えなくなった。
※
それから半月ほどして、白樺屋から、僕あての小さな包みが届いた。
開けると、僕が撮ってわたしたはずの写真が、一枚残らず入っていた。氷柱も、湯けむりも、椿も、地蔵も、暗室で「生まれてくるみたい」とつぶやいた、あの一枚も。
「裏には、なにも書かないで」と言った、その裏に。
びっしりと、細い字が、並んでいた。
一枚目の裏。「今日、生まれてくる町を、暗室で見ました。わたしも、もう一度生まれた気が、しました」
椿の一枚の裏。「湯にうかぶ椿。落ちても、まだ咲いていました。わたしも、そうありたいです」
雪の坂の一枚の裏。「逃げないと言いました。ほんとうは、少しだけ、怖かったんです」
赤い手袋の一枚の裏。「はじめて、外の雪にさわりました。つめたくて、うれしくて、少しだけ、泣きました」
軒灯の一枚の裏。「氷柱の奥の灯り。ひとりの夜も、こんなあたたかい光があると、信じられました」
湯けむりの一枚の裏。「朝の湯けむり。生きものみたいに、まっすぐ、空へ昇っていきました。わたしも、ああやって、昇っていけるでしょうか」
一枚めくるごとに、あの人の声が、赤い灯の暗室から聞こえてくるようだった。都会の白い部屋で、たった一人、これを書いていたのだろう。書き漏らすのを恐れるように、細く、細く。この町の一日を、指先で、抱きしめるように。
読みながら、僕は、暗室のなかで、ひとり、長いあいだ泣いた。赤い灯だけが、僕の肩を、じっと照らしていた。
そして、いちばん下に、最後の一枚があった。硝子戸のそばで、膝に万華鏡を乗せて笑っている、あの人自身の写真だった。
その裏に、たった一行だけ、書いてあった。
「あなたが撮ってくれた空の下で、わたしは、ちゃんと生きていました」
僕は、その一枚を、いまも、誰にも焼き増しをさせない。
包みを抱えたまま、僕は雪解けの道を、白樺屋まで走った。けれど、佐紀さんの姿は、もうそこにはなかった。
女将さんが、囲炉裏のそばで、一枚の紙きれを、僕にわたした。あの、細い字で、こう書いてあった。
「宮下さんへ。あなたの写真のおかげで、わたしの一日は、ちゃんと、宝物になりました」
佐紀さんが、桜を待たずに、静かに旅立ったことを知ったのは、それから、しばらく経ってからだった。町に、遅い雪が舞った日のことだった。
※
あれから、いくつも冬が過ぎた。
僕は父の跡を継ぎ、宮下写真館の、くたびれた館主になった。人を撮るのは、もう、こわくない。
器械の向こうで、体を固くする人がいると、僕はきまって、万華鏡の話をする。割れた硝子のほうが、きれいな模様になるんですよ、と。すると、たいていの人が、ふっと、ほんとうの顔になる。
人を撮るのがこわかった僕に、こわがらずに撮れる一枚を、あの人が、のこしていってくれた。たった一枚。けれど、その一枚が、僕の一生を、写真師にした。
あの人が窓ごしに数えていた桜は、その年も、ちゃんと咲いた。僕は毎年、その桜を、一枚だけ撮る。裏には、なにも書かない。書かなくても、わかっているから。
棚のいちばん奥には、色のあせた万華鏡が、ひとつ、しまってある。のぞくと、いまでも、赤と橙と藍の欠片が、かちりと落ちて、あの人の笑いかたに、少しだけ似た花をつくる。
あの金色の、昼と夜の境目の時間に、僕はいまでも、シャッターを切れずに、ただ立ちどまることがある。
硝子戸に、また雪がひとひら、貼りついた。
今度は、溶けるまで、ずっと、見ていた。