
机のいちばん下の抽斗に、ちびた赤い色鉛筆が一本、仕舞ってある。
長さは、私の小指の半分ほどしかない。
芯はもう、爪の先で押さえなければ握れないほど短い。
それでも、削り口からは、いまも、かすかに杉の匂いがする。
その匂いを嗅ぐたびに、私は、四十五年前の、ひとつの教室へ、連れ戻される。
教師を辞めて、十二年になる。
四十年、子どもの前に立った。
黒板に白墨で字を書き、消し、また書いた。
その手つきが抜けないのか、いまでも私は、何もない台所の壁を、ぼんやりと拭いていることがある。
はっと我に返って、自分の指先の白さに、苦笑する。
夫は、五年前の冬に逝った。
子は、なかった。
だから、この家には、私の他に、誰もいない。
朝、目が覚めると、まず、柱時計の音を確かめる。
その音だけが、私が今日も生きていることを、教えてくれる。
庭の山茶花が咲いて、散って、また蕾をつける。
そういう、繰り返しの中に、私の一日は、静かに沈んでいく。
ときどき、思うのだ。
私は、四十年のあいだに、いったい誰かの、何かに、なれたのだろうか、と。
若いころは、子どもを導くのが、教師の仕事だと、思っていた。
けれど、年を重ねるほどに、わからなくなった。
私は、ただ、黒板の前に、立っていただけ、なのではないか。
卒業生の顔は、年を追うごとに、霞んでいく。
名簿をめくっても、もう、声までは思い出せない子のほうが、多い。
四十年が、まるで、白墨の粉のように、指の隙間からこぼれて、消えてしまった気がする。
答えのかわりに、私はいつも、この赤い色鉛筆を、抽斗から取り出す。
掌にのせると、それは、驚くほど軽い。
けれど、握ると、あの子の机の、固い木の感触まで、指の奥に蘇ってくるのである。
※
由紀ちゃん、というのが、その子の名だった。
昭和の終わりの、山あいの小さな小学校だった。
冬になると、廊下の窓に霜の花が咲き、だるまストーブの上で、薬缶の湯気が、ゆらゆらと立ちのぼった。
私の受け持ちの、三年三組に、その子はいた。
声の、小さな子だった。
出席をとると、返事が聞こえないことがあって、私はよく、もう一度、名を呼んだ。
「由紀ちゃん」
すると、消え入るような声で、「はい」と、返ってくる。
由紀ちゃんの家は、貧しかった。
父親が長く床に就いていて、母親が、町の縫製工場へ、朝早くから通っていた。
上履きはいつも、つま先が破れていた。
給食の時間、おかわりには、決して、手を挙げなかった。
筆箱の中には、短くなった鉛筆が二、三本と、あの、ちびた赤い色鉛筆が、一本きり。
クレヨンも、絵の具も、買えなかったのだと思う。
けれど、由紀ちゃんは、絵が、上手だった。
図工の時間、画用紙が一枚しか配られなくても、その子は、赤い色鉛筆だけで、信じられないほどの世界を描いた。
濃く塗れば、それは夕焼けになり、薄く重ねれば、朝の光になった。
一本の赤が、その子の手の中で、何十色にも、変わるのだった。
あるとき、計算ドリルの裏に、一匹の赤とんぼが描いてあった。
私が見つけて、声をかけた。
「由紀ちゃん、これ、あなたが描いたの」
その子は、ばつが悪そうに、画用紙の角を、指で折った。
「……いけませんでした、か」
「いけなくなんか、ないわ」
私は、その赤とんぼを、しばらく見ていた。
羽の先が、夕日に透けているように、薄く塗られていた。
赤い色鉛筆、一本きりで、その子は、夕暮れまで描いていたのだ。
「先生はね、この羽のところが、いちばん好きよ」
由紀ちゃんは、はじめて、私の目を、まっすぐに見た。
そうして、ほんの少しだけ、口の端を、上げたのだった。
けれど、その小さな誇りも、子どもの世界では、たやすく傷つけられた。
あるとき、男の子の一人が、由紀ちゃんの筆箱を覗いて、笑った。
「なんだよ、赤しかねえじゃん」
由紀ちゃんは、何も言わずに、筆箱の蓋を、ぱたんと閉じた。
うつむいた、そのつむじを、私は、いまでも、覚えている。
叱るべきだったのに、私は、その子の気位を傷つけまいとして、何も、言えなかった。
ただ、その背中に、どうしてやればいいのかが、わからなかったのだ。
放課後、私が職員室へ戻ろうとすると、まだ教室に、由紀ちゃんが、残っていた。
西日の中で、その子は、また、紙の隅に、赤とんぼを描いていた。
「もう、暗くなるわよ」
声をかけると、由紀ちゃんは、ぽつりと、言った。
「家に帰っても、誰も、いないから」
私は、かける言葉を、また、見つけられなかった。
窓の外を、本物の赤とんぼが、すうっと、横切っていった。
その羽も、夕日に、薄く、透けていた。
その年の家庭訪問で、私は、由紀ちゃんの家を、たずねた。
町はずれの、傾きかけた、小さな借家だった。
上がり框に、母親が、工場の前掛けのまま、深く、頭を下げた。
「うちの子が、ご迷惑を、おかけして」
「とんでもない。由紀ちゃんは、絵が、本当に上手なんですよ」
私がそう言うと、母親は、少しのあいだ、黙った。
「絵の道具なんて、買ってやれません。あの子には、あきらめさせるしか、ないんです」
奥の部屋から、低い、咳の音が、聞こえた。
由紀ちゃんは、台所の隅で、膝を抱えて、じっと、私たちのほうを、見ていた。
その膝のそばに、あの、赤い色鉛筆が、一本、置いてあった。
帰り道、夕暮れの畦道を、私は、何度も、振り返った。
あの子の絵を、あきらめさせては、いけない。
そう思ったことだけは、いまも、はっきりと、覚えている。
※
冬のはじめの、ある放課後のことだった。
私は、掃除当番の見回りで、誰もいない教室に戻った。
窓から差す西日が、机の列を、長い影にしていた。
由紀ちゃんの机に、あの赤い色鉛筆が、転がっていた。
短くなった、芯のまわりの木が、その子の指の力で、つやつやと光っていた。
私は、それを、そっと、もとの筆箱に戻した。
そのとき、ふと、思い立ったのだ。
次の日、私は、町に一軒だけの文具店で、十二色の色鉛筆を、ひと箱、買った。
赤や青や、黄や緑が、きれいに並んだ、新しい箱だった。
レジで、私は、少しだけ、迷った。
これは、出すぎた真似ではないか、と。
けれど、あの赤とんぼの羽を、青や黄で描いたら、どんなに美しいだろう、と思うと、抑えられなかった。
それを、由紀ちゃんの手に、直に渡すことは、できなかった。
あの子は、人前で何かを恵まれることを、いちばん、嫌う子だったからだ。
渡せば、あの気位を、私の手で、折ってしまう気がした。
だから私は、朝のまだ誰もいない教室で、その箱を、由紀ちゃんの机の中に、そっと、入れておいた。
名も、書かなかった。
誰からとも知れぬ贈り物なら、その子も、受け取りやすかろうと思ったのだ。
その日、図工の時間に、由紀ちゃんが、机の中の箱に気づくのを、私は、黒板のほうを向いたまま、息をつめて、待っていた。
小さな、紙のこすれる音がした。
つづいて、ひそやかに、息を呑むような気配が、伝わってきた。
振り返らなかった。
振り返れば、その子が、誰の仕業かを、悟ってしまう気がしたのだ。
その日の由紀ちゃんが、どんな顔をしていたか、私は、とうとう、見ていない。
いま思えば、それが、悔いの始まりだった。
※
由紀ちゃんが、学校に来なくなったのは、それから、ひと月ほど、あとのことだった。
暮れの、ひどく冷える朝だった。
父親の借金で、一家は、夜のうちに、町を出ていったのだという。
行き先は、誰も、知らなかった。
挨拶も、別れの言葉も、何ひとつ、なかった。
私は、空になった、その子の机の中を、調べた。
あの、十二色の箱は、なかった。
持っていってくれたのだ、と思うと、胸の奥が、少し、あたたかくなった。
けれど、机のいちばん奥に、あの、ちびた赤い色鉛筆が、一本だけ、転がっていた。
その子は、新しい十二色を持って、古いこの一本を、置いていったのだ。
私は、それを、掌にのせた。
急に、その軽さが、たまらなく、悲しかった。
私は、あの子の何を、知っていたのだろう。
上履きの破れも、筆箱の中身も、見ていたつもりで、私は、その子の暮らしの、本当の重さを、何ひとつ、背負ってやれなかった。
十二色の箱は、ただの、私の自己満足だったのではないか。
あの子は、あれを、哀れみだと、感じはしなかったか。
机の中に箱を見つけたとき、傷ついて、うつむいたのではなかったか。
確かめる術は、もう、どこにもなかった。
そんな問いだけが、長いあいだ、私の中に、棘のように、残った。
赤い色鉛筆は、いつのまにか、私の机の抽斗の、いちばん下に、住みついた。
その子の消息を、私は、四十五年、知らずに生きた。
※
その手紙が届いたのは、桜の散ったばかりの、四月の終わりだった。
見覚えのない、ていねいな字で、私の旧姓が、宛名に書かれていた。
封を切ると、一枚の、絵はがきが、入っていた。
赤とんぼの、絵だった。
羽の先が、夕日に透けて、薄く、薄く、塗られていた。
私は、その場に、立ったまま、動けなくなった。
四十五年の月日が、一枚の羽の透け方の中に、たたまれていた。
添えられた便りには、こう、あった。
——先生。わたしは、絵を描く仕事を、しています。三年三組の、由紀です。
その週のうちに、由紀ちゃんは、私の家を、訪ねてきた。
五十を、いくつか過ぎた、品のいい女の人が、玄関に立っていた。
髪には、白いものが、混じっていた。
けれど、私を見て、ほんの少し口の端を上げたその顔は、まぎれもなく、あの日の、あの子だった。
「先生。お変わり、ありません、でしたか」
声は、もう、小さくなかった。
私は、何か言おうとして、言葉が、出てこなかった。
座敷に通し、茶をいれる手が、われながら、震えた。
由紀ちゃんは、絵本を、何冊も出している作家になっていた。
鞄から、一冊の絵本を取り出して、卓の上に、置いた。
表紙には、赤とんぼが、夕焼けの空を、群れて飛んでいた。
羽の先が、あの日のドリルの裏と、同じように、薄く、透けていた。
奥付の手前の頁に、小さく、献辞が、刷られていた。
——わたしを見ていてくれた、名も告げぬ先生へ。
私は、その一行を、何度も、読んだ。
名を、書かなかったはずだった。
それなのに、この人は、ちゃんと、わかっていたのだ。
胸の奥が、熱くなって、私は、しばらく、頁から、目を上げられなかった。
ひとしきり、四十五年の話をしたあと、由紀ちゃんは、膝の上の鞄から、古い、小さな箱を、取り出した。
あの、十二色の、色鉛筆の箱だった。
角が擦り切れ、紙の色が、すっかり褪せていた。
「ずっと、お返ししたかった、わけでは、ないんです」
その人は、箱の蓋を、そっと、開けた。
中で、十二本の色鉛筆が、きれいに、並んでいた。
赤も、青も、黄も、緑も。
どれも、削った跡が、なかった。
五十年近く前の、買ったときの、長いままの姿で、十二色が、眠っていた。
「先生がくれた十二色は、一本も、削っていません」
私の、息が、止まった。
「もったいなくて、ですか」
私が、ようやく、それだけを言うと、由紀ちゃんは、首を、横に振った。
「削って、短くなって、なくなってしまったら」
その人は、箱を、両手で、包んだ。
「わたしのことを、見ていてくれた人が、いた。その証が、消えてしまう気が、したんです」
窓の外で、葉桜が、風に、鳴った。
由紀ちゃんは、あの夜、町を出る荷の中に、この箱だけは、肌身離さず、入れたのだという。
机の中に箱を見つけた朝、誰がくれたのか、その子には、すぐに、わかったのだそうだ。
黒板を向いたまま、振り返らない、私の背中で。
そして、削れて短くなる赤い色鉛筆のかわりに、いつも、新しい紙の隅に、赤とんぼを、一匹、描き続けた。
見ていてくれた人がいる。
その、一本きりの記憶を、燃やさぬように、この人は、五十年を、生きてきたのだ。
私が、自己満足だと思って、置いた箱が。
哀れみだと、誤解されはしないかと、四十五年、悔いていた、あの箱が。
この人の、人生の、芯の、いちばん奥で、ずっと、灯っていた。
「引っ越した先でも、いじめられても、絵を描くときだけは、ひとりじゃ、ありませんでした」
「先生に、見ていてもらえたから、わたしは、絵を、やめませんでした」
由紀ちゃんは、いまも、山あいの町の子どもたちに、絵を教えているのだという。
「赤しか持っていない子にも、世界は、ちゃんと描けるんだと、教えているんです」
私は、こらえきれずに、立ち上がった。
抽斗から、あの、ちびた赤い色鉛筆を、取り出した。
「これね、ずっと、預かっていたの」
由紀ちゃんの目が、見ひらかれ、そして、ゆっくりと、潤んでいった。
短くなった赤と、削られなかった十二色が、卓の上で、隣り合った。
二人とも、もう、何も、言わなかった。
言葉のいらない時間が、夕日の中を、ゆっくりと、流れていった。
※
由紀ちゃんが帰ったあと、私は、その二つを、しばらく、並べて、眺めていた。
片方は、芯がなくなるまで、描き尽くされ。
片方は、一度も、削られることなく。
形はまるで違うのに、どちらも、同じひとつの、約束のかたちを、していた。
見ているよ、という、声に出さなかった、約束を。
あの日、振り返らなかった私の背中を、あの子は、ずっと、見ていた。
見ていたのは、私だけでは、なかったのだ。
私は、四十年で、誰かの何かに、なれたのだろうか。
その問いに、もう、答えはいらないのだと、いまは思う。
なれたかどうかは、私が決めることでは、なかったのだ。
四十年の白墨の粉は、消えてなどいなかった。どこかの誰かの、紙の隅に、たしかに、降り積もっていたのだ。
夕日のさす卓の上で、赤とんぼの絵はがきの、羽の先が、あの日のように、薄く、透けていた。
私は、ちびた赤い色鉛筆を、もう一度、掌にのせた。
軽かった。
けれど、その軽さの中に、たしかに、ひとりの人の、五十年が、宿っていた。