雪の峠で握られた手

冬の夕暮れ、雪道と除雪車

雪の日は、店の甘い匂いが遠くまで届くのだと、姉は言っていた。

音が雪に吸われてしまうぶん、匂いだけが残るのだと。

昭和四十四年の冬。

私は二十八で、姉の遺した菓子屋を、姉の遺した木型で回していた。

千歳堂という、看板の墨がもう灰色に褪せた小さな店だ。

炭鉱の景気が翳りはじめた町で、それでも法事と祝儀だけは絶えなかった。

人が集まる日には、必ず甘いものが要る。

朝は暗いうちに釜へ火を入れる。

寒天を煮て、餡を炊いて、粉を篩って、落雁を抜く。

木型は三つ。桜と、菊と、梅。

梅の木型のくぼみには、姉の指の跡のように白い粉が残っていた。

何度洗っても、そこだけは白いままだった。

姉が静かに眠りについたのは、三年前の春だ。

咳が長引いているだけだと笑っていた人が、桜の散る頃には、もう遠いところへ行ってしまっていた。

姉の夫は都会の工事現場へ出たきり、暮れに一度、痩せて帰ってくるだけになった。

だから光子は、私が育てていた。

七つになる姪だ。

前髪をいつも自分で切ってしまうので、額のあたりだけが短い。

その子が、店の土間に膝をついて、木型を並べる。

「梅は、いちばんさいごなの」

「どうして」

「かあさんが、そう言ってたもん」

光子は姉のことを、今でも自然にそう呼ぶ。

私はそれを直さなかった。

直す理由が、どうしても見つからなかった。

※

その冬は、雪が早かった。

十一月の終わりには軒下まで届き、正月を過ぎる頃には、二階の窓から出入りする家が出た。

町の音が、ひとつずつ雪に埋まっていく。

炭鉱の汽笛だけが、遠くで鈍く鳴った。

光子は暮れから耳を痛がっていた。

夜中に枕を濡らして、それでも私を起こさないように、布団の中で膝を抱えている。

朝になって気づいた私は、隣町の病院まで連れて行くことにした。

峠をひとつ越える。

乗合バスで一時間と少しの道のりだ。

診てもらった医者は、鼓膜の奥に膿が溜まっていると言った。

月に一度は通いなさい、と。

その帰り道、光子は窓に額をつけて、白い山を見ていた。

「千代ちゃん、雪うさぎ作っていい?」

「帰ってからね」

「あのね、雪うさぎの目は、南天の実じゃないとだめなんだって」

「そうなの」

「赤い実なら何でもいいってものじゃないの。かあさんが言ってた」

その言い方が、姉によく似ていた。

台所で豆を煮ながら、こちらを見ずに、何かをひとつだけ言い置いていく人だった。

家に帰ると、光子は裏の南天から実を摘み、庭の雪に小さなうさぎを二つ並べた。

ひとつは自分。

ひとつは、私。

「かあさんのは?」

そう聞くと、光子はしばらく黙って、それから雪を撫でて言った。

「かあさんは、もう寒くないから、いらないんだって」

私は返事をしなかった。

代わりに、まだ温かい落雁をひとつ、その子の手のひらに置いた。

木型のことを、姉はよく話した。

嫁いでくる時に、実家の菓子屋から持たされたのは桜と菊の二つだけだったという。

梅は、姉が自分で買った。

炭鉱の景気がまだ良かった頃、隣町の道具屋の棚の隅で埃をかぶっていたのを、給金の三月分で連れて帰ってきた。

「桜と菊は、人が集まる日のもんだろ」

姉は粉だらけの手で、梅のくぼみを指でなぞりながら言った。

「梅は、ひとりで食べる日のもんだ」

意味がわからなかった。

わかったのは、姉が向こうへ行ってからだ。

法事の朝、喪服の人たちが引き上げたあとの、静まりかえった座敷。

誰も見ていない台所で、ひとつだけ残った落雁を口に入れる時、あの甘さは確かに、ひとりのためのものだった。

その冬も、注文は途切れなかった。

腰の曲がった沢田の婆さんは、月命日のたびに菊の落雁を三十。

坑内で足を悪くした金子さんは、孫の初節句に桜を五十。

私は帳面に数を書き、光子は横で、数え終わった落雁を白い紙に並べていく。

小さな指が、割らないように、そっと。

「千代ちゃん、あのね」

「なに」

「わたしがおとなになったら、梅、彫ってもらう」

「どうして」

「ふたつあれば、ひとりの日がふたりになるでしょ」

七つの子が、どこからそんな考えを持ってきたのか。

私は返事の代わりに、その子の額の短い前髪を撫でた。

※

峠のバスには、いつも同じ顔が乗っていた。

行商の女は背負子いっぱいに乾物を積み、腰の曲がった老婆は法事の日取りの話ばかりしている。

運転手は町の消防団の副団長で、雪の日には必ず同じことを言った。

「あの黄色いのが先に行ってくれんうちは、動かさんよ」

黄色いの、というのは除雪車のことだ。

峠の道路班が、朝と夕に一往復する。

雪を掻き、山側の斜面を叩いて落とし、道の縁に杭を立てる。

その黄色い車体が峠を登っていくと、町の人はほっとした顔をした。

冬のあいだ、この町の口を塞がずにいてくれるのは、あの車だけだった。

バスの中は、いつも同じ匂いがした。

石炭ストーブの煤と、濡れた長靴と、行商の女の背負子から漏れる干し椎茸の匂い。

窓は白く曇り、誰かが指で丸を描いては、また曇っていく。

沢田の婆さんは、決まって前から三番目の席に座った。

「千代ちゃんとこの子は、ええ子だなあ」

「そうでしょうか」

「泣かん子だ。泣かん子はな、あとで泣くんだ」

婆さんはそう言って、飴玉を光子の手に握らせた。

その言葉を、私はその時、聞き流していた。

一月の半ばだった。

朝から風が湿っていて、雪が重かった。

病院からの帰り、バスは峠の九十九折りをゆっくり登っていた。

窓の外はもう暗く、前を行く除雪車の回転灯が、雪の壁を橙色に染めては消えていた。

光子は私の膝で眠りかけていた。

その時、音が消えた。

風の音も、エンジンの音も、雪を踏む音も、ぜんぶが一度に消えた。

代わりに、地面が持ち上がる感じがした。

山側の雪が、そっくり滑り落ちてきたのだ。

バスは横腹を押され、路肩の柵をなぎ倒し、そのまま雪の中へ倒れ込んだ。

私は天井を見ていた。

いや、天井だと思ったものは、窓の外の雪だった。

体を起こそうとして、右足が動かないことに気づいた。

ひしゃげた座席と、内側に折れ込んだ壁の間に、膝から下が挟まっていた。

そして、膝の上が軽い。

光子がいない。

「光子!」

叫んだ声が、雪に吸い込まれて、自分の耳にも届かない。

「光子! 返事して! 光子!」

座席の下から、細い声がした。

「いたい」

たったそれだけの声だった。

私は正気を失った。

体をねじり、座席を叩き、名前を呼び続けた。

自分の足が挟まれていることも、指の爪が割れていることも、あの時の私にはどうでもよかった。

叫ぶことしかできない人間が、どれだけ無力か。

その夜に、私は初めて知った。

※

どれくらい経ったのか、いまだにわからない。

たぶん、二分か、三分だ。

割れた窓から、雪明かりとは違う光が差し込んだ。

黄色い雨合羽と、緑色の防寒帽。

道路班の男たちだった。

ひとりが窓枠のガラスを長靴の踵で払い、ひとりが縄をかけ、ひとりが車内へ滑り込んできた。

いちばん若い男だった。

二十歳を少し過ぎたくらいの、頬の赤い顔をしていた。

「奥さん、動かんでください」

「この子が、下に、この子が挟まれて」

「わかりました」

若い男は私の足の方を先に見た。

そして仲間に短く何か言うと、鉄棒を座席の脚に差し込み、体重をかけて起こしにかかった。

軋む音がして、私の足が、雪と一緒にずるりと外へ出た。

だが私は礼を言わなかった。

言えなかった。

「この子を、この子を先に」

「先に、と言われても、奥さんが出んと、俺が入れんのです」

その言い方が、あまりに落ち着いていた。

外へ引き出された私は、雪の上に転がったまま、その男が座席の下へ潜り込むのを見ていた。

肩から入り、腰を捻り、足だけが外に残った。

くぐもった声が、鉄の中から聞こえてくる。

「お嬢ちゃん、名前は」

「……みつこ」

「みつこちゃんか。手、こっちに出せるか」

「いたい」

「そうか。痛いな。じゃあ、動かさんでええ。おじさんが、そっち行くから」

「おじさんじゃないよ」

「そうか。お兄ちゃんか」

雪の中で、私は自分の歯が鳴る音を聞いていた。

やがて男たちが車体の一部を切り、若い男が光子を抱えて出てきた。

小さな体が、雨合羽の腕の中で、ぐったりと白い。

けれど、泣いていなかった。

その時になって、私は男の背中を見た。

黄色い合羽の右肩から腰にかけて、色が変わっていた。

雪明かりの下では、それは黒く見えた。

「あなた、怪我を」

「ああ」

男は自分の肩をちらりと見て、それから、なんでもないことのように笑った。

「潜るときに、ちょっと引っ掛けたみたいです」

「引っ掛けたって、そんな」

「怪我は治りますから」

そう言って、彼は光子を毛布に包み直した。

「命があるほうが、ずっといい」

※

診療所へ運ばれて、光子は両足の骨を、私は右足の骨を折っていると言われた。

添え木を当てられ、白い部屋に並んで寝かされた。

夜中、私は隣の寝台に手を伸ばした。

「光子」

「んー」

「痛くなかった?」

「痛かったよ」

「よく、泣かなかったね」

光子は少しのあいだ黙っていた。

天井の節穴を数えているような、そんな間だった。

「お兄ちゃんが、ずっと手を握っててくれたもん」

「そう」

「雪うさぎの話、したの。目は南天じゃないとだめなんだよって、教えてあげた」

私は何も聞いていなかった。

あの雪の中で、私は自分の声しか聞いていなかった。

「そしたらお兄ちゃん、ふふって笑ったの」

「笑ったの」

「うん。だから、泣かなかった」

それから光子は、こう言った。

「お兄ちゃんの手のほうが、ずっと冷たかったんだよ」

白い天井が、急に滲んだ。

私は布団に顔を押しつけて、声が漏れないように歯を食いしばった。

姉が向こうへ行った日にも、こんなふうには泣かなかった。

翌朝、看護婦が窓を開けにきて、「あら」と小さく言った。

窓の桟に、南天の実がふたつ、並べて置かれていた。

雪の朝の光に、それだけが赤かった。

誰が置いたのか、看護婦は知らないと言った。

私は、置いた人の指の冷たさを想像した。

診療所には、ひと月いた。

昼は光子の添え木の隙間に薬を塗り、夜は天井の節穴を数えた。

店は閉めたままだった。

沢田の婆さんが、月命日の菊を諦めて、代わりに大根を届けにきた。

「菓子屋が休むと、町が黙るなあ」

そう言って、婆さんは光子の頭を撫でて帰った。

暮れに帰ってこなかった義兄から、はじめて手紙が来た。

工事の切れ目に必ず戻る、それまですまない、とだけ書いてあった。

便箋の隅に、鉛筆で薄く、うさぎのような絵が描いてあった。

耳が長すぎて、犬にも見えた。

光子はそれを枕元に立てて、消灯のあとも指でなぞっていた。

添え木が取れる日、その子は自分の足を見て、しばらく黙っていた。

「痩せちゃった」

「また太るよ」

「お兄ちゃんの背中も、治ったかな」

私はその問いに答えられなかった。

礼も、名前も、何ひとつ渡せていなかった。

雪の中で、あの人が置いていったものだけが、赤い実になって窓に残っていた。

※

名前を知ったのは、退院の前の日だった。

見舞いに来たバスの運転手に、あの若い作業員のことを訊いた。

運転手は消防団の副団長だから、道路班とは顔なじみだ。

「菅野んとこの倅だ」と、彼は言った。

「峠の掻き手じゃ、いちばん腕がええ。ただ、無茶をする」

無茶を、と私は繰り返した。

「あれは自分の番でなくても、雪が動いたと聞けば飛んでいく」

二月に入って、松葉杖で歩けるようになった頃、私は峠の道路班の詰所を訪ねた。

炭鉱の資材置き場の隣にある、屋根の低い建物だった。

土間にストーブが焚かれ、乾かしかけの合羽が壁いっぱいに吊るされている。

油と、濡れた綿と、麦茶の匂いがした。

その日は年に一度の安全祈願で、外では餅がつかれ、子どもたちが除雪車の周りを走り回っていた。

近くで見る除雪車は、思っていたよりずっと大きかった。

排土板の縁は雪と石で削れ、塗料が剥げて、鉄の地肌が銀色に光っている。

峠を何百回と往復した傷だ。

班長らしい年配の男が、私の杖に気づいて丸椅子を出してくれた。

「あんた、正月の峠の」

「はい」

「菅野なら、外で餅を丸めとる」

そう言って、男は少し声を落とした。

「あいつ、あんたのこと一度も話さんかった。背中のことも黙っとった。合羽の裏が真っ赤なのを、俺が洗濯場で見つけて怒鳴ったくらいだ」

やがて、粉だらけの手を拭きながら、菅野くんが入ってきた。

私は風呂敷を抱えていた。

前の晩、店の釜に火を入れて、粉を篩い、木型を出した。

桜でも、菊でもなかった。

梅の木型で抜いた落雁を、私は菅野くんの掌に置いた。

彼は驚いた顔をして、それから両手で受け取った。

「甘いもの、久しぶりです」

「背中は」

「十八針、縫いました」

彼は事もなげに言った。

「あの時、何かが刺さったと思ったんですけど、割れた窓の縁でざっくりいってたみたいで」

「病院にも行かずに、あの子を運んで」

「順番が違いますよ。俺が先に病院行ったら、誰があの子を出すんです」

菅野くんは笑った。

頬の赤い、まだ少年のような笑い方だった。

私は言葉が続かず、ただ頭を下げた。

深く、長く。

杖が滑って、危うく転びそうになったのを、彼が支えた。

「奥さん、俺ね」

「はい」

「十二の冬に、あの峠でバスに閉じ込められたことがあるんです」

「まあ」

「一晩でした。灯りも暖房も切れて、みんな黙り込んで。俺、寒くて寒くて、自分の手が自分のじゃないみたいで」

彼はストーブの上のやかんを見ていた。

「そしたら夜明けに、黄色い光が来たんです。除雪車の回転灯。あれが雪の壁を橙色に染めるのを、俺は窓に張り付いて見てました」

「それで」

「乗ってた運転手のおじさんが、ふかし芋を割って、俺に半分くれたんですよ。まだ温かかった」

彼はそこで、ようやくこちらを見た。

「あのとき、俺の手も、うんと冷たかったんです。だから、覚えてるんですよ。誰かの手が温かいっていうのが、どういうことか」

外で、餅つきの掛け声が上がった。

菅野くんは立ち上がって、光子を抱き上げた。

添え木の取れたばかりの、まだ細い足だ。

そして除雪車の運転席へ、そっと座らせてくれた。

高い座席の上で、光子は目を丸くして、それから、この冬いちばんの顔で笑った。

雪の照り返しの中で、黄色い車体と、その子の白い息と、菅野くんの赤い頬があった。

誰かが写真を撮ってくれた。

その一枚は、今も店の帳場の柱に貼ってある。

角が丸くなって、光子の顔のあたりだけ、指の脂で少し曇っている。

何度も、何度も、その子が指で撫でたからだ。

※

菅野くんは、五年ほどして隣の県の道路公団へ移った。

年賀状は、いまも来る。

字が下手だと自分で書いてくる。

光子は隣町の高校を出て、東京へ行くと言い出し、二年で帰ってきた。

理由は聞かなかった。

聞かないでいるうちに、その子は釜の前に立つようになった。

今、千歳堂の釜に火を入れているのは光子だ。

粉を篩う音が、私の朝を起こす。

木型は相変わらず三つ。桜と、菊と、梅。

梅は、いちばんさいごに抜く。

雪の日には、峠の詰所へ落雁を届けに行く。

南天の実を、ふたつ添えて。

なぜ添えるのかと、若い作業員たちに聞かれるらしい。

光子は、笑って答えないそうだ。

私は帳場に座って、その背中を見送る。

あの子の手は、もう冷たくない。

雪の日だった。店の甘い匂いが、峠のほうまで届いていく気がした。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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