彼は片耳のイヤホンを外さない

柿の実る丘から望む夕映えの湾

画面の中の彼は、いつも左の耳にだけイヤホンを挿していた。

白くて小さな、豆のようなイヤホンだ。

右の耳には何もつけず、短い髪の外にそのまま出していた。

夜の10時になると、私のスマートフォンが鳴る。

佐渡の柿畑の奥にある作業小屋から、航がかけてくるのだ。

片耳のイヤホンのまま、彼はたいてい何かをむくか、磨くかしていた。

「今日、なんかあった?」

それが航の、いつもの第一声だった。

私は江東区の古いアパートの1Kで、ローテーブルにスマートフォンを立てる。

コンビニの焼き鮭の弁当を、温め直さずに食べながら話す。

航は、画面の端に映る容器で、私の夕飯をだいたい当てた。

食べ終わった容器の数で、何日分の洗い物がたまっているかも当てた。

「また鮭か」

「また鮭」

私は豊洲のビルで、カード会社の問い合わせ窓口に座っている。

一日に60件ほど、顔の見えない人の声を聞く仕事だ。

ヘッドセットを外すと、耳の上に細い跡が残る。

「三浦さんの声は、怒ってる人の熱を下げる声だね」

入社した年に、先輩の宇野さんにそう言われた。

声だけは、昔から人に褒められた。

顔を知らない人に、声だけで謝り、声だけで安心してもらう。

その声で話しているのに、航はときどき返事をしなかった。

「今日ね、お昼にも焼き鮭を食べたの」

「焼き芋? もう出とるんか」

「焼き、鮭」

「ああ」

画面の中で、彼は少しだけ首をかしげて笑う。

「ねえ、また聞いてなかったでしょ」

「聞いてた、聞いてた」

東京で暮らしていたころから、それは私たちの決まりごとだった。

私が話し、航が聞き逃し、私が怒ったふりをする。

彼が首をかしげて、それで終わる。

おととしの春に彼が島へ帰ってからも、その決まりごとだけは残った。

残ったのはそれだけだったのかもしれない。

そう思う夜が、少しずつ増えていた。

高速バスの乗り場

航と知り合ったのは、5年前の冬だった。

私は通勤に使う地下鉄の駅で、定期券を落とした。

窓口にいたのが、紺の制服を着た航だった。

「落とし物、届いてますよ。お名前を伺えますか」

名前を言うと、彼は少しだけ首をかしげた。

私は、もう一度大きな声で言った。

「すみません、ホームの音がうるさくて」

彼はそう言って、定期券を差し出した。

同じ駅を使う者同士として、私たちは少しずつ話すようになった。

はじめて二人で出かけたのは、翌年の3月だった。

清澄白河の川沿いを、行くあてもなく歩いた。

川の水音に、高速道路の低い音が混じっていた。

最初の夜、車道の側を歩かせまいと彼が私の手を引いた。

私はそのまま、彼の右側に移された。

その位置が、そのまま二人の決まりになった。

航は川面を見ながら、柿畑ばかりの集落で育った話をした。

夏は海に潜り、冬は柿を干す祖父の手伝いをしたという。

橋の上で立ち止まったとき、航は私に何か言った。

風に飛ばされて、半分しか聞こえなかった。

「え?」と訊き返すと、彼は笑って首を振った。

付き合いはじめてからも、航はよく私の話を聞き逃した。

映画館のひそひそ声も、雑踏の中の呼びかけも、届かないことが多かった。

私が話しかけると、彼は歩きながら首を少しかしげる。

「なんで、首かしげるの」

「考えとる顔」

彼はそう言って、また首をかしげた。

その癖が、私は好きだった。

耳を貸すという言葉を、そのまま形にしたような仕草だと思っていた。

その仕草の本当の意味を、私はずっと知らなかった。

おととしの2月、航は2週間ほど仕事を休んだ。

「風邪をこじらせた」とだけ、彼は言った。

うどんを煮て部屋を訪ねると、咳もしていなかったし、熱もなさそうだった。

枕元の目覚まし時計が、いつもと反対の左側に置かれていた。

それから1か月もしないうちに、彼は駅の仕事を辞めた。

「じいちゃんの柿畑を継ぐことにした」

理由を訊くと、航は窓の外を見て言った。

「東京の音が、うるさくなった」

それ以上は、何を訊いても笑うだけだった。

4月の夜、新宿の高速バスの乗り場まで、私は見送りに行った。

航の荷物は、大きなリュックがひとつだけだった。

新潟行きの最終便が、低い音でエンジンを震わせていた。

排気の匂いが、春の夜気に混じっていた。

私はいつものように、彼の右に立った。

そして、2か月考えつづけた言葉を、ようやく口にした。

「私も、一緒に行っていい?」

航はこちらを見て、少し首をかしげた。

それから、いつもと同じ顔で笑った。

「着いたら、電話する」

バスのドアが閉まり、私はひとりで乗り場に残った。

答えは、それで十分だと思った。

優しい人は、断るときも優しいのだ。

片耳のイヤホンの理由

島へ帰った航は、約束どおり電話をくれた。

それから2年、夜10時の電話はほとんど途切れなかった。

熱を出した夜も、彼は布団の中からかけてきた。

画面の背景は、いつも同じだった。

裸電球と、壁に吊るした剪定ばさみと、積み上げた木の箱。

彼の左の耳には、いつも白いイヤホンが1つだけ入っていた。

「もう片っぽは?」

一度だけ、訊いたことがある。

「片っぽで、充分だっちゃ」

島の言葉が、少しずつ彼の口に戻ってきていた。

「失くしたの?」

「まあ、そんなとこさ」

片耳のイヤホンで話すのは、半分だけ聞いているという意味なのだろう。

私は、そう受け取った。

もう半分の耳で、彼は島の音を聞いているのだと思った。

風の音か、おじいさんの声か、私の知らない誰かの声か。

「もう一回、言って」

航は、たまにそう言った。

窓口では何度でも同じことを言えるのに、恋人には一度で聞いてほしかった。

2年のあいだに、航が東京へ来たのは2回だけだった。

「用事で出るから、ついでに」

どちらのときも、待ち合わせは御茶ノ水の駅の前だった。

彼は、病院の多い坂のほうから歩いてきた。

店は、いつも彼が選んだ静かな喫茶店だった。

航は私を壁ぎわの席に座らせ、自分はその右の椅子に斜めに腰かけた。

「島はどう?」

「じいちゃんの膝が、また悪くなった」

「私、手伝いに行こうか」

言ってから、自分の声が少し上ずったのがわかった。

航はコーヒーの湯気を見ながら、首を横に振った。

「親戚がみんな、かわいそうって顔で来るんさ。あれが、いちばん困る」

それは、おじいさんの話だった。

それでも私には、自分に向けられた言葉に聞こえた。

別れぎわ、航は私の頭に一度だけ手を置いた。

それが2年で、いちばん恋人らしいことだった。

去年の11月、私の誕生日に、段ボールいっぱいの柿が届いた。

伝票の字は、震えたおじいさんの字だった。

その夜の電話で、私は柿をひとつ手に持って言った。

「ありがとう。……会いたいな」

航は、画面の中で皮をむく手を止めなかった。

「あと2週間で、干し柿が飴色になるっちゃ」

「そうじゃなくて」

「ん?」

彼は、首をかしげた。

イヤホンは、左の耳にちゃんと入っていたのに。

2年のあいだ、航は一度も「会いたい」と言わなかった。

嫌われてはいない。

けれど、必要とされてもいない。

そのどちらでもない場所に、私は2年間立っていた。

付き合っているはずなのに、私はいつのまにか片思いに戻っていた。

夜10時の電話を待つ私と、片耳で聞いている航。

その差が、2年分たまっていた。

柿の皮をむく手

10月の半ばのその日、昼に83歳の男性から電話を受けた。

施設に入った奥さんのカードを、解約したいという用件だった。

「耳が遠いもんで、ゆっくり頼みます」

私は、いつもより低く、いつもより区切って話した。

手続きが終わると、男性はぽつりと言った。

「あんた、ええ声だな。女房の若いころに似とる」

受話器を置くと、隣の席の宇野さんが笑った。

「三浦さん、また80代にもてたね」

「今月3人目です」

「高齢のお客様の担当、もう三浦さんでいいんじゃない」

私たちは、声をひそめて笑った。

その夜も、航は作業小屋から電話をくれた。

干し柿にする渋柿の皮を、彼は包丁でくるくるとむいていた。

むけた皮が、橙色のリボンのように新聞紙の上へ落ちていく。

甘いような青いような匂いが、画面ごしに届く気がした。

柿の皮は、干すと飴色になるのだという。

彼の指先は、毎晩その色に染まっていた。

スマートフォンは、彼の右手の棚に立てかけてあった。

「今年は色がいいっちゃ。雨が少なかったすけ」

「そうなんだ」

「そっちは?」

私は、昼の男性の話をした。

女房の若いころに似とる、のところで、航は声を立てて笑った。

そのとき、柿の汁で濡れた指が耳に触れた。

左の耳から、イヤホンが新聞紙の上に落ちた。

「あ」と彼が言った。

彼はうつむいて、皮の山を指でかきまわしはじめた。

「航、そこ。右の手の下」

私は言った。

彼は顔を上げなかった。

「航」

もう一度、少し大きな声で呼んだ。

彼は、皮の山を崩しつづけていた。

私の声は、彼のすぐ右から出ているはずだった。

画面の中の横顔は、私などはじめからいない部屋の人のようだった。

「……もう、やめようか」

小さく言った。

しばらくして、航はイヤホンを見つけて、左の耳に押しこんだ。

顔を上げて、いつもの顔で笑った。

「ごめん、落とした。なんか言った?」

「ううん、なんでもない」

その夜は、私のほうから先に電話を切った。

部屋の隅には、航が置いていった紺の傘が立てかけてあった。

返すものを数えようとして、傘ひとつしか思いつかなかった。

5年分にしては、ずいぶん少なかった。

翌朝、宇野さんに、週末に佐渡へ行くと話した。

「別れ話なら、顔を見て言いなさい」

宇野さんは、コーヒーの紙コップを両手で包んで言った。

「電話で言うとね、相手の頭の中で、声が勝手に変わるから」

「変わるんですか」

「変わるの。一日60件も聞いてると、わかるでしょ」

わかる気がした。

私たちの仕事は、声だけで相手に何かを渡す仕事だった。

だから終わりの言葉だけは、顔を見て言おうと決めた。

その夜、行くと告げると、航は画面の中で包丁を止めた。

「来るん?」

「うん。土曜に」

しばらく黙ってから、彼は言った。

「両津まで、迎えに行く」

両津港の軽トラック

土曜の朝、新潟港からカーフェリーに乗った。

甲板に出ると、海猫が手の届きそうなところを滑っていった。

隣の席では、小さな男の子が父親の膝の上で、窓の外の島影を数えていた。

2時間半のあいだ、灰色の海の上で、言う言葉を口の中でならした。

終わりにしよう。

それだけの言葉が、何度ならしても角が取れなかった。

売店で買ったお茶は、半分も減らなかった。

両津の港に着くと、航は白い軽トラックの横に立っていた。

作業用の手袋を、片方だけはめていた。

「遠かったろ」

「うん」

私は助手席に乗った。

軽トラックの助手席は、運転席の左にある。

窓を少し開けると、潮の匂いと、どこかで焚く籾殻の煙が入ってきた。

走りだしてすぐ、私は妙なことに気づいた。

航が、一度も「ん?」と言わないのだ。

海沿いの道を1時間走るあいだ、彼はよくしゃべった。

渋柿の渋の抜き方や、通っていた小学校が今年で閉じることを話した。

私の短い返事にも、ひとつ残らず答えた。

東京で並んで歩いた5年のあいだ、こんなに話が続いたことはなかった。

軽トラックの中は、風の音もエンジンの音も低くて、航の声がよく通った。

柿畑は、南の海が見える斜面にあった。

斜面いっぱいに、橙色の実がなっていた。

枝の下を歩くと、熟れた実の匂いが、少しだけ酒に似ていた。

小屋の軒下には、皮をむいた柿が何十も縄に吊るされていた。

画面の中で毎晩見ていた裸電球が、昼の光の中で小さく揺れていた。

縁側で、おじいさんが膝に毛布をかけて座っていた。

「あんたが沙耶さんか」

「はじめまして」

「はじめてでねえっちゃ。声は毎晩、壁ごしに聞いとる」

私が赤くなると、おじいさんは歯の少ない口で笑った。

「航は、あんたと話すときだけ、小屋のラジオを消すんさ」

壁の向こうから、毎晩、孫の声だけが聞こえてくるのだろう。

窓口の仕事の話をすると、おじいさんは「声の商売か」と感心したように言った。

昼は縁側で、三人でおにぎりを食べた。

航は、自分の座布団をわざわざ私の右へ運んで座った。

食べ終わると、航は柿の皮むき器の使い方を教えてくれた。

「刃は動かさんで、実のほうを回すんさ」

私がむいた柿は、ところどころに皮が残って、まだらになった。

「初めてにしては、上等っちゃ」

おじいさんが渡してくれた柿は、冷たくて、驚くほど甘かった。

「うちの柿は、一晩夜露に当てるんさ」

おじいさんは膝の上の毛布を直しながら、畑の坂道を見上げた。

「航も、同じっちゃ。なんでも一晩置いてから返す」

左側を歩く坂道

夕方、航は畑のいちばん上まで私を連れていった。

細い坂道を、私はいつものように彼の右側について歩いた。

坂のてっぺんで、海が橙色に光っていた。

言うなら、ここだと思った。

「航。今日は、終わりにしようって言いに来たの」

航は海を見たまま、少し首をかしげた。

「ん?」

2年分の「ん?」が、喉の奥からせり上がってきた。

「だから、終わりに――」

声が大きくなった。

航がふいに歩きだした。

私の背中を回って、反対の側に立った。

それから私の肩に手を置いて、そっと自分の左へ引き寄せた。

「ごめん。こっちで、もういっぺん言って」

私は、言葉が出なかった。

「右は、子どものころから遠かったんさ」

航は、自分の右の耳を指で軽くたたいた。

「おととしの2月の朝、目覚ましの音が、左からしか来んかった」

「それきり、右はなんも聞こえんようになった」

「駅員が、ホームの放送を半分しか聞けんのでは、置いとけんすけ」

「東京の音が、うるさくなったって」

「うるさいんじゃなくて、半分しか来んようになったんさ」

「御茶ノ水の病院にも、半年ごとに通っとった」

片耳のイヤホンが、画面の中でいつも左にあった理由を、私はそのとき知った。

首をかしげていたのは、左の耳を私に向けるためだった。

「なんで、言ってくれなかったの」

「かわいそうって顔で来られるのが、いちばん困るすけ」

航は、少し笑った。

「それに、電話やと、お前の声は全部聞こえるんさ」

「小屋の戸を閉めて、ラジオを消して、左に入れたら、全部」

「それで、毎晩かけよった」

「じゃあ、なんで私をいつも右に歩かせたの」

「車道の側を、歩かせるわけにいかんすけ」

航は、何でもないことのように言った。

この畑の坂には、車など一台も来ないのに。

私は、自分の右の耳にそっと手のひらを当ててみた。

風の音が、急に片側だけになった。

虫の声が遠くなり、波の音だけが左から押し寄せた。

私は、2年前の4月の夜を思い出していた。

新潟行きのバスが、低い音でエンジンを震わせていた夜だ。

あの夜、高速バスの乗り場で、私は彼の右側に立っていた。

「沙耶?」

航が、左の耳をこちらへ向けて待っていた。

私は、2年前と同じ言葉を言った。

「私も、一緒に行っていい?」

航は長いこと黙っていた。

それから、橙色の海のほうへ顔をそむけた。

「……それ、あのバスの前で言うた?」

私は、うなずいた。

「聞こえとったら、降りとったっちゃ」

航の声は、ひどく小さかった。

それでも、ひとつ残らず私に届いた。

東京に戻って、3月いっぱいで窓口を辞めると宇野さんに伝えた。

画面の中の彼は、今夜も片耳のイヤホンを左の耳に挿している。

私はその耳に向けて、春の話をする。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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