彼が明日と言った踵のゴム

夕暮れの工房と義足をめぐる師弟

私には、二十八年やり残している仕事がひとつだけある。

伝票の綴りのいちばん下に、その一枚は挟まったままだ。

品名の欄に、私の字で「足部・踵ゴム交換」とだけ書いてある。

日付は平成八年六月十四日。

金額は空欄のままだ。

代金を受け取らなかったからではない。

やっていないからだ。

工房は、信濃川に注ぐ細い川のそばにある。

鍛原という、昔は鑿や鉋を打つ音で朝が始まった町だ。

金物屋が三十軒あった頃に、父はここへ「村瀬義肢製作所」の看板を掛けた。

今は八軒になった。

打つ音のかわりに、川の水音が一日じゅう作業場に入ってくる。

私は朝いちばんに窓を開ける。

樹脂を削った粉が、光の筋の中を斜めに落ちていく。

その匂いを、私は父の匂いだと思って育った。

父はもういない。

工房には、私ひとりが残った。

義肢装具士という仕事を、私は説明するのが下手だ。

脚や手を作る仕事です、と言うと、たいてい相手は少し黙る。

けれど本当は、作っているのは脚ではない。

その人の歩き方を作っている。

同じ形の足部を渡しても、半年経てば減り方はまるで違う。

外側から減る人。

爪先だけ薄くなる人。

踵の内側が、片方だけ斜めに落ちる人。

「踵を見れば、その人がどこへ何をしに行っとったか分かる」

父はよくそう言った。

冗談のような言い方だったが、あれは本当だった。

私の指には、いつも絆創膏が巻いてある。

樹脂の縁は薄く尖っていて、やすりを掛けているとすぐに指の腹が切れる。

手袋をすればいいのに、と人には言われる。

けれど手袋をすると、面が仕上がったかどうかが分からない。

指の腹でなでて、引っかからなくなったところが、その人の脚の内側になる。

だから私は指を切る。

十七の頃から、ずっとそうしている。

槙野朔が初めて工房に来たのは、平成六年の十月だった。

私と同じ高校の一年で、同じクラスだった。

夏に、実家の農機具に右脚を巻き込まれた。

膝から下がなくなった、と職員室の前の廊下で誰かが話しているのを聞いた。

彼は二学期の途中から松葉杖で学校へ来て、教室のいちばん後ろの席にいた。

その彼が、土曜の午後、うちの引き戸を開けた。

「村瀬んちって、ここでいいがか」

油と石膏の匂いの中で、彼は制服のまま立っていた。

父が採型の支度をしている間、彼は壁に並んだ足部を見ていた。

ゴムの踵が、大きさ順にぶら下がっていた。

「これ、全部ちがうんか」

「ぜんぶ違うよ」

「なんで」

「歩き方が、ぜんぶ違うから」

彼は、へえ、と言った。

それから父の前に座って、こう聞いた。

「走れますか」

父はギプス包帯を水に浸けながら、顔も上げずに答えた。

「歩けるようにはする」

「歩くのは、もうできます」

彼は言った。

「走りたいんです」

父は少し黙って、それから「そうか」と言った。

その日、父は採型を二度やり直した。

理由は言わなかった。

その冬から、私は陽性モデルを磨く係になった。

石膏で取った型に、また石膏を流して作る、脚の形をした白い塊だ。

削るのは全部手作業で、削りすぎたら戻せない。

父は、朔のモデルだけは私にやらせた。

「同い年のもんの脚は、同い年が触ったほうがええ」

そんな理屈が本当にあるのか、いまでも分からない。

私は放課後、毎日そこにいた。

指はいつも粉で白くなり、絆創膏はすぐに黒くなった。

最初のソケットは、失敗だった。

合わせの日、朔は五分ほど歩いて「ええ感じや」と言った。

父はうなずいて、彼を帰した。

その夜、洗うために私は断端袋を預かった。

内側に、小さな血の点が三つ付いていた。

翌朝、父にそれを見せた。

父は何も言わずに、陽性モデルをもう一度作業台に載せた。

そして、私が磨いた場所を、指の腹で確かめていった。

「ここや」

脛骨の先が当たる、五百円玉くらいの範囲だった。

「なんで、言わんかったんかね」

私が言うと、父は答えた。

「言うたら、作り直しになるろ」

「作り直したら、走るのが一週間遅れる」

痛いと言わない人がいるということを、私はそのとき初めて知った。

朔は週に一度、合わせに来た。

来るたびに、私の手を見た。

「村瀬、絆創膏、増えとるな」

「削っとるからね」

「俺の脚、お前の指でできとるんか」

「値段には入っとらんよ」

彼は声を出して笑った。

作業場で誰かが笑うのを、私はそのとき初めて聞いた気がした。

父は奥で背中を向けたまま、聞こえないふりをしていた。

けれどその日から、父が作業場のラジオを切らなくなった。

板バネの話が出たとき、朔は父に頭を下げた。

「働けるようになったら、必ず払います」

父はコンプレッサーの音の中で、「利子はつけん」と答えた。

朔は真顔でうなずいた。

冗談だと気づいたのは、たぶん帰り道だったと思う。

その夏、彼は毎週土曜の朝に来て、調整のあいだ作業場の掃除を勝手にやっていった。

箒の持ち方が下手で、粉を舞い上げるばかりだった。

父は一度だけ「そこは吸うんや」と言って、集塵機のホースを渡した。

それからは、朔がホースを持つのが決まりのようになった。

義足の音と、集塵機の音と、川の音。

あの夏の作業場は、そういう音でできていた。

翌年の春、彼は走り出した。

競技用の板バネの足部を、父が中古で探して手に入れてきた。

新品は当時、小さな車が買えるほどの値段だった。

朔は堤防の道でそれを試した。

私は自転車で伴走した。

最初の一週間は、五十メートルも保たなかった。

彼はよく転んだ。

転ぶたびに、土手の草の青い匂いがした。

三週間目に、彼は堤防の端から端まで走り切った。

息を切らして草に寝転がって、空を見たまま言った。

「村瀬」

「なに」

「明日、五秒縮める」

それが彼の口癖だった。

明日、あと五秒。

明日、あの橋まで。

明日、雨がやんだら。

彼はいつも、明日の話をした。

私はその明日を、いくらでもあるものだと思っていた。

高三の冬、私は進路の紙を白いまま持ち歩いていた。

父は継げとは一度も言わなかった。

食卓でその話が出るたび、「好きにせえ」とだけ言って味噌汁を飲んでいた。

朔にそれを話したのは、堤防の帰りだった。

「村瀬は、あれ作るんやろ」

彼は当たり前のことのように言った。

「まだ決めとらん」

「決まっとるやろ」

彼は私の手を指した。

「指、そんななっとるのに」

私は両手をポケットに入れた。

その夜、白かった紙に、私は学校名を書いた。

書き終えるまでに、二時間かかった。

高三の秋、県の予選で、彼は最後の直線で並んだ。

抜けなかった。

でも、並んだ。

帰りのバスの中で、彼は窓の外を見ながら言った。

「俺、ちゃんと走れるようになったら、村瀬に言うことがあるんや」

「なに」

「走れるようになってから言う」

私は、そう、とだけ言った。

聞かなかったのは、いつでも聞けると思っていたからだ。

平成八年六月十四日。

金曜日だった。

私は高校を出て、そのまま工房に入っていた。

その週は納品が重なっていて、朝から採寸と修理と電話が切れ目なく続いていた。

夕方、引き戸が開いて、朔が入ってきた。

片手に紙袋を提げていた。

「踵のゴム、減ってきた」

彼は足部を外して、作業台の上に置いた。

外側の角が、たしかに丸くなっていた。

私は電話の子機を肩と耳で挟んだまま、それを見た。

「……明日でいい?」

自分の声を、いまでも覚えている。

面倒くさそうな声だった。

彼は少しだけ笑って、足部を袋に戻した。

「うん、明日」

引き戸の音がして、川の水音が戻ってきた。

それが、彼と私の最後の会話になった。

翌朝、彼はアルバイト先へ向かう途中の踏切で、戻らぬ人となった。

電話をくれたのは、同じ班にいた同級生だった。

受話器を持ったまま、私は作業台のやすりを見ていた。

まだ、彼の粉がついていた。

告別式の日、私は喪服の下で指に絆創膏を巻いていた。

前の晩に納品分を仕上げたので、両手の指が全部切れていた。

会場の隅で、私は誰とも話さなかった。

槙野千代さん――彼のお母さんは、参列者の列の先で頭を下げ続けていた。

最後に、私の前に来た。

彼女は何も言わなかった。

ただ、私の手を見ていた。

長いあいだ、見ていた。

それから、もう一度頭を下げて、次の人の前に移った。

一言もなかった。

私は、その沈黙をそのまま受け取った。

――最後に彼の頼みを断ったのは、私だ。

――この人は、それを知っている。

その日から二十八年、私は槙野千代さんに会わなかった。

それからの一年を、私はうまく思い出せない。

学校へは行った。

工房にも、毎日入った。

ただ、手が動かなかった。

やすりを持つと、指が切れる前に手が止まった。

削りすぎるのが怖いのではない。

削る意味が、どこかへ行ってしまっていた。

父は何も言わず、私に掃除だけをさせた。

三か月、私は粉を掃いていた。

作業場の隅に、彼の板バネを合わせたときの陽性モデルが残っていた。

捨てるはずのものだ。

父はそれを、棚の上に置いたままにしていた。

夜、電気を消したあとに、私はそれを見に行った。

石膏の脚は白く、少し埃をかぶって、まだ走る形をしていた。

専門学校の願書を出したのは、締切の日の夕方だった。

郵便局の窓口で、私はまた指を切っていた。

前の晩、久しぶりにやすりを持ったからだ。

令和六年の十月。

予約の帳面に、その名前が入っていた。

槙野千代、八十九歳、短下肢装具の新規。

私は帳面を三度読んだ。

電話を取ったのは私自身だったのに、名前を聞いたときには何も思わなかった。

槙野という姓は、この辺りに珍しくない。

当日、車椅子を押して入ってきたのは、三十くらいの男の人だった。

孫だという。

千代さんは小さくなっていた。

背中が丸まって、膝から下が内側にねじれていた。

私は名乗った。

「村瀬です」

彼女は「よろしくお願いします」と言った。

それだけだった。

覚えていないのだと、私は思った。

二十八年は、そういう長さだ。

採型は静かに進んだ。

私は床に膝をついて、彼女の脚に石膏包帯を巻いていく。

老いた脚は皮膚が薄い。

強く巻けば痣になるし、緩ければ型が出ない。

指の腹だけで圧を測りながら、私は少しずつ手を動かした。

千代さんは、その間ずっと窓の外を見ていた。

「この匂い、久しぶり」

彼女は言った。

「息子がね、脚を作ってもらっとったの。ここじゃないけど、似た匂いのするところで」

私は手を止めなかった。

止めたら、何か言わなければならなくなる。

「もう、ずいぶん昔」

彼女はそう言って、また窓のほうを向いた。

包帯を巻き終えて手を洗っていると、孫の人が横に来て、小さな声で言った。

「病院からは、駅前の大きいところを紹介されたんです」

「でも祖母が、ここがええって聞かんくて」

私はタオルで手を拭きながら、うなずいた。

その意味を、そのときの私はまだ、道の近さのことだと思っていた。

型を外したあと、孫の人が紙袋を持ち上げた。

「あの、これ、祖母がどうしても持って行くと言って」

袋から出てきたのは、古い義足だった。

ソケットの縁の樹脂が黄ばんで、ベルトの革が硬くなっていた。

板バネのほうではない。

日常用の、歩くための脚だ。

「捨てられんくてね」

千代さんが言った。

「置いといても、どうにもならんのだけど」

私は手袋を外して、それを両手で持った。

重さが、指に戻ってきた。

そして、足部を裏返した。

踵のゴムを見た。

外側の角だけが、深く斜めに落ちていた。

内側は、ほとんど残っている。

これは、坂を下るときの減り方だ。

しかも、片側だけが極端に食い込んでいる。

同じ坂を、同じ側から、何度も下りた脚の減り方だった。

工房は、川に向かって下る坂の途中にある。

彼の家からここへ来るには、その坂を下りるしかない。

合わせは、週に一度だった。

そのはずだった。

けれどこの減り方は、週に一度の脚ではない。

彼は、毎日この坂を下りていた。

用がなくても。

引き戸を開けずに。

私は足部を持ったまま、動けなくなった。

そのとき、千代さんが言った。

「……あなた、指」

顔を上げた。

彼女は私の手を見ていた。

二十八年前と、同じ角度で。

「あの日も、そうだった」

「あの日」

「告別式」

彼女はゆっくり言った。

「あなたの指、ぜんぶ絆創膏だった」

作業場の音が、全部消えた気がした。

「ありがとうって、言おうとしたのよ」

「何度も」

「口まで来とった」

どうして、と私は聞いた。

声が掠れて、二回言い直した。

彼女は少し笑った。

困ったときの、朔と同じ笑い方だった。

「言ったら、あなた、この仕事やめてしまう気がしたの」

「あの子の脚を作った手やねって、私が言うてしまったら」

「あなた、二度とやすり持てんようになる」

私は何も言えなかった。

「だから、黙っとった」

「ずるいのは、私のほう」

私は、言わなければならないことを、二十八年持っていた。

「あの日」

そう言うのに、ずいぶん時間がかかった。

「朔くんが最後にここへ来た日、私、明日でいいと言いました」

「踵のゴムを、替えませんでした」

千代さんは、少しのあいだ黙っていた。

それから、車椅子の上でゆっくり手を伸ばして、私の手の甲に触れた。

冷たくて、軽い手だった。

「あの子、次の日も来る気やったんやね」

私は、うまく息ができなかった。

「それやったら、よかった」

彼女はそう言った。

しばらくして、彼女はこう続けた。

「あの子ね、走れるようになったら、村瀬さんに言うことがあるって、私に言うとったの」

「何て言うつもりだったんか、聞かんかったのよ」

「あの子の口から、あなたに言わせたかったから」

彼女は膝の上で手を組んだ。

「聞いとけばよかった」

「ずっと、そう思っとる」

私は床に膝をついたまま、彼女の靴の先を見ていた。

窓の外で、川の水音がしていた。

二十八年前と、同じ音だった。

千代さんの装具は、三週間で仕上げた。

内側にねじれた脚を、無理に真っ直ぐにはしない。

その人が長い年月をかけて作った形を、少しだけ支える。

父がそう教えた。

踵には、いちばんやわらかいゴムを入れた。

在庫の中で、いちばん高いものだ。

伝票には書かなかった。

引き渡しの日、彼女は工房の中を一歩ずつ歩いた。

床の継ぎ目で、少しだけ足が止まる。

私はその音を聞いていた。

「歩きにくかったら」

そこまで言って、私は言葉を止めた。

明日でいいので言ってください、と言おうとしていた。

代わりに、こう言った。

「明日、また来てください」

千代さんは振り返って、目を細めた。

朔と同じ、細い目になった。

「明日ね」

その二文字を、私は二十八年ぶりに、こわがらずに聞いた。

孫の人が車椅子をたたみながら、小声で言った。

「祖母、ここへ来る前に、坂の途中でいっぺん止まったんです」

「止まって、何も言わんで、下を見とりました」

あの伝票の一枚を、私はまだ捨てていない。

品名は「足部・踵ゴム交換」。

日付は平成八年六月十四日。

その下に、私は新しく一行だけ書き足した。

令和六年十月三十日、完了。

二十八年遅れて、私はやっと、踵のゴムを替えたのだと思う。

朝、窓を開ける。

樹脂の粉が、光の筋の中を斜めに落ちていく。

指の絆創膏を巻き直して、私はやすりを持つ。

削れば、また切れる。

それでいい。

この指で、まだ誰かの歩き方を作れる。

明日も。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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