大好きなあなた

大好きなあなたへ。

今朝、郵便受けの縁に、うっすらと霜が降りていました。

山の上の観測所にも、そろそろ初雪の便りが届く頃でしょうか。

あなたがいなくなって、これが四度目の冬になります。

私は今日も、あなたに悪態をつくために、この手紙を書いています。

読みたくなければ、読まなくて構いません。

どうせあなたは、最後まで読むのでしょうけれど。

あなたと初めて会ったのは、霧の深い高原の町の、小さな食堂でした。

両親を早くに見送った私は、遠縁の夫婦がやっているその店で、住み込みの手伝いをしていました。

朝は仕込みの湯気で窓が曇り、昼は登山客の泥だらけの靴が土間に並ぶ、そんな店です。

私の持ち場は、厨房の隅の卵焼きでした。

砂糖を多めに入れる、田舎の甘い卵焼きです。

あなたは毎週土曜の昼にだけ山を降りてくる、よく日に灼けた観測員さんでした。

決まって窓際の席に座り、決まって焼き魚の定食と、卵焼きをひと皿。

あんまり毎週なので、一度だけ念を押したことがありましたね。

「うちの卵焼き、甘いですよ」

あなたは箸を止めて、真顔で言いました。

「知っとります。甘いから、毎週来とるんです」

それだけ言って、耳まで赤くなって、あとは黙って食べている。

変な人だと思いました。

でも、あなたの箸の持ち方があんまり綺麗で、私はつい、厨房から見てしまうのでした。

霧の濃い日は、あなたの上着から、雨の匂いがしました。

山の雨は、町の雨より、すこし冷たい匂いがするのだと、私はあなたで覚えたのです。

あなたは山の観測所で、雨の量と、風の速さと、雲の高さを測る人でした。

「山の機嫌を、数字に写しとる仕事です」と、あなたは言いましたね。

数字にできないものは、からきし苦手なくせに。

プロポーズの言葉を、私は一生忘れません。

三年目の春、店じまいのあとの縁台で、あなたは湯呑みを両手で包んだまま言いました。

「明日は晴れです。明後日も、たぶん晴れ」

「はあ」

「その先は、わかりません。わからんですけど……あんたと一緒なら、どっちでも、ええんです」

天気予報だか何だかわからないまま、私は頷いていました。

あなたの膝の上に、小さな布の包みがあったからです。

開くと、桜の木を削った櫛が出てきました。

歯の一本一本が、驚くほどなめらかで、木の温みがまだ残っているようでした。

夜勤の合間に、ひと月かけて彫ったのだと、あとで所長さんが教えてくれました。

「あいつ、指の皮をむいて、絆創膏だらけの手で風速計を読んどったぞ」

そう言って、所長さんは自分のことのように笑うのでした。

所長さんの話をしなければなりません。

観測所の主のような人で、あなたの師匠で、親のいない私たち二人の、親代わりのような人でした。

結婚式のとき、父の席に座ってくれたのは、所長さんでしたね。

「わしでええんか」と何度も聞くので、私は何度も、お願いしますと頭を下げました。

式の朝、所長さんは慣れない礼服の襟を直しながら、小さな声で言いました。

「あんたの父さんの代わりは、わしにも無理じゃ。じゃが、席くらいは、温めておける」

あの人は、そういう人でした。

官舎の煙突が詰まれば直しに来て、漬物を漬けすぎては置いていき、あなたの夜勤の晩には、必ず一度、電話をくれました。

「戸締まりはしたか。しとるなら、ええ」

それだけの電話を、律儀に、毎回。

私たちは、血のつながりというものを知らずに育って、それでも家族になれるのだと、あの山で教わったのです。

観測所の官舎での暮らしは、静かで、よく笑う毎日でした。

明け方、風速計の椀がまわる音で目を覚まし、薪の爆ぜる音で味噌汁の火加減を計る。

あなたは夜勤明けでも、私の味噌汁だけは残さない人でした。

「うまい」と言うのが照れくさい日は、椀の底を、こつんと軽く鳴らす。

あれは、あなたなりの拍手だったのでしょう。

あなたは愚痴というものを、どこかの沢にでも置いてきた人でした。

凍えるような観測の夜も、報われない報告書の日々も、家では一言も言わない。

そのくせ、「ありがとう」と「好きじゃ」だけは、出し惜しみをしない。

「今日も卵焼きが甘い。ありがとう」

「それ、褒めてます?」

「褒めとる。世界でいちばん」

ばかみたいなやり取りを、私は何百回でも、やり直したいのです。

櫛は、鏡台のいちばん上の引き出しに置いて、毎晩使いました。

髪を梳くたび、かすかに桜の匂いがするような気がして、それはきっと気のせいで、でも私は、その気のせいごと大事にしていました。

冬の観測は、見ているだけで指がかじかむ仕事でした。

氷点下の未明、あなたは百葉箱の霜を手袋ごしに払い、素手に戻って、鉛筆の先を舐めて数字を書きつける。

戻ってくると、耳と鼻の頭だけ真っ赤にして、「ただいま」の代わりに白い息を吐くのです。

私は湯たんぽを抱かせて、かじかんだ指を、私の両手で挟んで温めました。

「なんで、そこまでして測るの」

一度だけ、聞いたことがあります。

あなたは少し考えて、こう言いましたね。

「誰かがずっと測っとるけん、明日の天気は当たるんじゃ。名前は残らんでもええ。……誰かのままで、ええ仕事なんじゃ」

名前の残らない仕事を、あなたは背筋を伸ばして愛していました。

私はその横顔に、何度目かわからない惚れ直しをして、黙って番茶を注ぎました。

雪の晩は、二人で窓の結露に指で絵を描きました。

あなたの描く山はいつも本物そっくりで、私の描く山はいつも卵焼きみたいで、あなたはそれを「うまそうな山じゃ」と褒めるのでした。

あなたには、口癖がありました。

秋の初め、二人で沢沿いの道を歩いたとき、あなたは急に立ち止まって、耳をすませたことがありましたね。

「どうしたの」

「……いや、なんでもない。あのな、ひとつだけ、覚えといてほしいことがある」

あなたは、いつになく真剣な目をしていました。

「山ではな、水の音が変わったら、すぐ逃げること。上へ、上へ逃げること」

「音が、変わる?」

「濁る、いうんかな。石の転がる音が混じって、低うなる。岩の匂いがしたら、もう遅い。音のうちに逃げるんじゃ」

「わかった。……でも、あなたが一緒のときは、あなたが教えてね」

「わしがおらん日のために、言うとるんじゃ」

あのとき、あなたの横顔を、もっとよく見ておけばよかった。

あなたは山の全部を疑って、山の全部を愛している人でした。

あの日のことを書きます。

四度目の秋にして、ようやく、手が震えなくなりました。

十月の連休、長雨がやっと上がって、観測所のみんなで沢歩きに出た日のことです。

所長さんの発案でした。

「たまには、測る道具を置いて、山に遊んでもらえ」

空は憎らしいほど晴れて、沢の水は光の粒を撒いたようでした。

私は張り切って、卵焼きを三段のお重に詰めましたね。

あなたは何度も蓋を開けようとして、所長さんに手の甲をはたかれていました。

昼餉の岩場で、みんなでそれを食べました。

誰かが「奥さん、店を出せる」と言い、あなたが「わしの店じゃ」と真顔で返して、沢中に笑い声が響きました。

幸せというものに形があるなら、あの日の、湯気の消えたあとの甘い匂いだったと思います。

帰り道、渡し石のところで、私は足を滑らせました。

転びはしなかったけれど、髪に挿していた櫛が、はずみで浅瀬に落ちたのです。

拾おうと屈んだ私を、あなたが止めましたね。

「ええ、濡れる。あとでわしが拾うけん、先に渡っとれ」

列の後ろにいた所長さんが、「わしのほうが近い」と笑って、浅瀬のほうへ降りていきました。

そのときでした。

あなたが、ふいに黙ったのは。

あなたは上流の空を見て、それから沢の面を見て、顔色を変えました。

「……音が、変わった」

私にはまだ、何も聞こえませんでした。

鳥の声と、水の音と、みんなの笑い声しか。

「上がれ! 全員、上へ! 走れ!」

あなたの声が、山を叩きました。

みんなが弾かれたように斜面に取りつき、あなたは最後尾で、遅れた私の背中を力いっぱい押し上げました。

「振り向くな! 上じゃ!」

私の指が木の根を掴んだのと、世界が濁った音に呑まれたのは、ほとんど同時でした。

山が、川の形をして降りてきたのだと、後から思いました。

石と水と折れた木の匂いが、いちどきに膨れ上がって。

振り向いたとき、あなたの姿は、もうありませんでした。

櫛のほうへ降りていた所長さんの姿も。

あなたを捜す三日間のことは、切れ切れにしか覚えていません。

消防団の長靴が土間に並び、食堂の夫婦が握り飯を山ほど炊いて、若い観測員さんが無線の前で夜を明かしました。

私は沢に降りることを許されず、東屋の柱につかまって、濁った水面をずっと見ていました。

あの水のどこかに、あなたの体温があるということが、どうしても信じられませんでした。

夜、官舎に戻ると、玄関にあなたの山靴がありました。

泥を落として、新聞紙を詰めて、出かける前のあなたが揃えたままの形で。

私はその靴を抱いて、上がり框で朝まで座っていました。

靴はまだ、あなたの足の形をしていました。

あなたが見つかったのは、三日後の朝です。

ずっと下流の、若い柳の根元で、眠るような顔をしていたと聞きました。

私は霊安室で、あなたの冷たい手を握って、初めて大きな声を出して泣きました。

「なんで」も「どうして」も、言葉になりませんでした。

所長さんは、一週間後に見つかりました。

一週間後に見つかった所長さんの右手には、泥を吸った桜の櫛が、割れもせずに握られていたそうです。

駆けつけた奥さんが、その手をさすって、「この人らしいわ」と言って笑い、それから声を上げて泣きました。

その櫛を、奥さんは形見にせず、私に返してくれました。

「あの人が最後まで放さんかったんはね、これが、あんたの髪に戻りたがっとったからよ」

そう言って、私の手に握らせ、上から両手で包んでくれました。

奥さんの手は、所長さんとおそろいの、大きくて乾いた手でした。

拾わんでよかったのに。

あんな櫛、なんべんでも、あなたに彫らせればよかったのに。

あなたもあなたです。

人を押し上げておいて、自分は残るなんて。

雨の量も風の速さも測れたあなたが、自分の命の重さだけ、測り間違えましたね。

私はしばらく、水の音が聞けませんでした。

蛇口の水も、湯呑みに注ぐ音も、だめでした。

一度は、ちゃんと壊れたのだと思います。

食堂の夫婦が、毎日、粥を炊いてくれました。

観測所の若い人たちが、交代で官舎の雪を下ろしてくれました。

壊れた私は、そういう手のひらの上で、すこしずつ、継ぎ直されていきました。

白状すると、あの櫛を、私はしばらく見ることができませんでした。

鏡台の引き出しの奥にしまい込み、鏡には風呂敷をかけて、髪は指で梳かして暮らしました。

櫛を見れば、浅瀬に屈む所長さんの背中を思い出し、私が落としさえしなければと、同じところをぐるぐる回ってしまうからです。

それを解いてくれたのは、お腹の中の二人でした。

初めて胎動があった夜、内側から、とん、と戸を叩くような音がして。

私はなぜだか引き出しを開けて、櫛を出して、四ヶ月ぶりに髪を梳いたのです。

梳きながら、声を上げて泣きました。

泣き終わったら、お腹が空きました。

人はそうやって、生きるほうへ連れ戻されるものなのですね。

あなたに、報告があります。

四十九日が過ぎた頃、体調を崩して病院へ行ったら、先生が笑って言ったのです。

「おめでたですよ。それも、お二人」

いたんですよ。

あなたと私の子が。

それも、双子です。

あなたが山にいるあいだに、私のところへ、二人も来ていたんですよ。

なんで抱いてやらないんですか。

本当に、最後まで、バカな人ですね。

春に生まれた女の子には、あなたの好きだった山の名から一字をもらいました。

男の子には、「風」の字をつけました。

あなたが毎日測っていたものの名前です。

これで文句はないでしょう。

二人が生まれたのは、雪解けの始まる明け方でした。

産院の窓から、あなたの観測所のある稜線が、白く光って見えました。

産声がひとつ聞こえて、少し間をおいて、もうひとつ。

二つ目の産声を聞いたとき、私は自分でも驚くほど静かな気持ちで、山のほうを見ていました。

見ていてくれましたか。

あなたに似て、二人とも、泣き方まで律儀でしたよ。

この夏、双子を連れて、沢沿いの遊歩道を歩きました。

四年ぶりの沢でした。

子どもたちは水切りの石を探して、私は木陰で、麦茶の支度をしていました。

そのときです。

ふいに、水の音が、低く濁ったのは。

考えるより先に、体が動いていました。

二人の手を掴んで、坂の上の東屋まで、一息に駆け上がりました。

水の音が変わったら、すぐ逃げること──あなたの声が、私の足を動かしていました。

数分後、上流の夕立で膨れた濁り水が、さっきまで子どもたちがいた石場を、静かに舐めていきました。

東屋の柱につかまって、私は膝が笑うのをこらえながら、笑ってしまいました。

まだ守る気ですか。

あなたは本当に、律儀な人ですね。

一周忌の日、私は若い観測員さんに付き添われて、初めて観測所に上がりました。

あなたが三百六十五日、空を見上げていた場所です。

机の上に、あなたの野帳が残っていました。

雨量、風速、雲量。定規で引いたような数字の列。

「これ、奥さんに見せたくて」と、若い人が最後の頁のほうを開いてくれました。

数字の脇の余白に、時々、豆粒みたいな字があるのです。

「晴。卵焼き、甘し」

「霧深し。妻、よう笑う」

「初雪。早う帰る」

私は野帳を抱えて、しばらく顔を上げられませんでした。

あなたは毎日、空と一緒に、私まで記録していてくれたんですね。

命の重さは測り間違えたくせに、測れないはずのものばかり、あなたは几帳面に測っていた。

だからもう、悪態の半分は、取り消してあげます。

半分だけですよ。

櫛は、いま、私の鏡台に戻っています。

歯が一本だけ欠けたけれど、直さずにおくことにしました。

それはあなたと所長さんが、最後に触れたものの形だからです。

毎晩、娘の髪をあの櫛で梳いています。

「さくらの匂いがする」と、娘は言います。

気のせいだよ、と私は言いません。

息子は最近、箸の持ち方があなたに似てきました。

誰も教えていないのに、椀の底を、こつんと鳴らす癖まで同じです。

あなたが二人に会えないのではなくて、二人の中で、あなたに会えるのだと、ようやく思えるようになりました。

それでも私は、あなたに悪態をつくのをやめません。

今日の分を、先に言っておきます。

靴下を裏返しのまま洗濯かごに入れていたこと、まだ許していません。

双子の寝かしつけが夜中の何時までかかるか、あなたは知らないままです。ずるい人。

それから、私にこんなに長い手紙を書かせて、便箋をいつも一枚、足りなくさせること。

悪態の種が尽きないのは、思い出が尽きないせいです。困った人ですね。

毎日、毎日、つきますから。

つかれたくなかったら、夢でいいから、もう一度だけ言いに来てください。

あの、出し惜しみしなかった二つの言葉を。

大好きなあなた。

あなたは今も、笑っていますか。

笑っているなら、それでいい。

私はもうすこしだけ、こちらで悪態をつきながら、あなたの分まで、年を取ります。

今夜も、山の上は晴れですか。

おやすみなさい。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。