大好きなあなたへ。
今朝、郵便受けの縁に、うっすらと霜が降りていました。
山の上の観測所にも、そろそろ初雪の便りが届く頃でしょうか。
あなたがいなくなって、これが四度目の冬になります。
私は今日も、あなたに悪態をつくために、この手紙を書いています。
読みたくなければ、読まなくて構いません。
どうせあなたは、最後まで読むのでしょうけれど。
※
あなたと初めて会ったのは、霧の深い高原の町の、小さな食堂でした。
両親を早くに見送った私は、遠縁の夫婦がやっているその店で、住み込みの手伝いをしていました。
朝は仕込みの湯気で窓が曇り、昼は登山客の泥だらけの靴が土間に並ぶ、そんな店です。
私の持ち場は、厨房の隅の卵焼きでした。
砂糖を多めに入れる、田舎の甘い卵焼きです。
あなたは毎週土曜の昼にだけ山を降りてくる、よく日に灼けた観測員さんでした。
決まって窓際の席に座り、決まって焼き魚の定食と、卵焼きをひと皿。
あんまり毎週なので、一度だけ念を押したことがありましたね。
「うちの卵焼き、甘いですよ」
あなたは箸を止めて、真顔で言いました。
「知っとります。甘いから、毎週来とるんです」
それだけ言って、耳まで赤くなって、あとは黙って食べている。
変な人だと思いました。
でも、あなたの箸の持ち方があんまり綺麗で、私はつい、厨房から見てしまうのでした。
霧の濃い日は、あなたの上着から、雨の匂いがしました。
山の雨は、町の雨より、すこし冷たい匂いがするのだと、私はあなたで覚えたのです。
※
あなたは山の観測所で、雨の量と、風の速さと、雲の高さを測る人でした。
「山の機嫌を、数字に写しとる仕事です」と、あなたは言いましたね。
数字にできないものは、からきし苦手なくせに。
プロポーズの言葉を、私は一生忘れません。
三年目の春、店じまいのあとの縁台で、あなたは湯呑みを両手で包んだまま言いました。
「明日は晴れです。明後日も、たぶん晴れ」
「はあ」
「その先は、わかりません。わからんですけど……あんたと一緒なら、どっちでも、ええんです」
天気予報だか何だかわからないまま、私は頷いていました。
あなたの膝の上に、小さな布の包みがあったからです。
開くと、桜の木を削った櫛が出てきました。
歯の一本一本が、驚くほどなめらかで、木の温みがまだ残っているようでした。
夜勤の合間に、ひと月かけて彫ったのだと、あとで所長さんが教えてくれました。
「あいつ、指の皮をむいて、絆創膏だらけの手で風速計を読んどったぞ」
そう言って、所長さんは自分のことのように笑うのでした。
※
所長さんの話をしなければなりません。
観測所の主のような人で、あなたの師匠で、親のいない私たち二人の、親代わりのような人でした。
結婚式のとき、父の席に座ってくれたのは、所長さんでしたね。
「わしでええんか」と何度も聞くので、私は何度も、お願いしますと頭を下げました。
式の朝、所長さんは慣れない礼服の襟を直しながら、小さな声で言いました。
「あんたの父さんの代わりは、わしにも無理じゃ。じゃが、席くらいは、温めておける」
あの人は、そういう人でした。
官舎の煙突が詰まれば直しに来て、漬物を漬けすぎては置いていき、あなたの夜勤の晩には、必ず一度、電話をくれました。
「戸締まりはしたか。しとるなら、ええ」
それだけの電話を、律儀に、毎回。
私たちは、血のつながりというものを知らずに育って、それでも家族になれるのだと、あの山で教わったのです。
※
観測所の官舎での暮らしは、静かで、よく笑う毎日でした。
明け方、風速計の椀がまわる音で目を覚まし、薪の爆ぜる音で味噌汁の火加減を計る。
あなたは夜勤明けでも、私の味噌汁だけは残さない人でした。
「うまい」と言うのが照れくさい日は、椀の底を、こつんと軽く鳴らす。
あれは、あなたなりの拍手だったのでしょう。
あなたは愚痴というものを、どこかの沢にでも置いてきた人でした。
凍えるような観測の夜も、報われない報告書の日々も、家では一言も言わない。
そのくせ、「ありがとう」と「好きじゃ」だけは、出し惜しみをしない。
「今日も卵焼きが甘い。ありがとう」
「それ、褒めてます?」
「褒めとる。世界でいちばん」
ばかみたいなやり取りを、私は何百回でも、やり直したいのです。
櫛は、鏡台のいちばん上の引き出しに置いて、毎晩使いました。
髪を梳くたび、かすかに桜の匂いがするような気がして、それはきっと気のせいで、でも私は、その気のせいごと大事にしていました。
冬の観測は、見ているだけで指がかじかむ仕事でした。
氷点下の未明、あなたは百葉箱の霜を手袋ごしに払い、素手に戻って、鉛筆の先を舐めて数字を書きつける。
戻ってくると、耳と鼻の頭だけ真っ赤にして、「ただいま」の代わりに白い息を吐くのです。
私は湯たんぽを抱かせて、かじかんだ指を、私の両手で挟んで温めました。
「なんで、そこまでして測るの」
一度だけ、聞いたことがあります。
あなたは少し考えて、こう言いましたね。
「誰かがずっと測っとるけん、明日の天気は当たるんじゃ。名前は残らんでもええ。……誰かのままで、ええ仕事なんじゃ」
名前の残らない仕事を、あなたは背筋を伸ばして愛していました。
私はその横顔に、何度目かわからない惚れ直しをして、黙って番茶を注ぎました。
雪の晩は、二人で窓の結露に指で絵を描きました。
あなたの描く山はいつも本物そっくりで、私の描く山はいつも卵焼きみたいで、あなたはそれを「うまそうな山じゃ」と褒めるのでした。
※
あなたには、口癖がありました。
秋の初め、二人で沢沿いの道を歩いたとき、あなたは急に立ち止まって、耳をすませたことがありましたね。
「どうしたの」
「……いや、なんでもない。あのな、ひとつだけ、覚えといてほしいことがある」
あなたは、いつになく真剣な目をしていました。
「山ではな、水の音が変わったら、すぐ逃げること。上へ、上へ逃げること」
「音が、変わる?」
「濁る、いうんかな。石の転がる音が混じって、低うなる。岩の匂いがしたら、もう遅い。音のうちに逃げるんじゃ」
「わかった。……でも、あなたが一緒のときは、あなたが教えてね」
「わしがおらん日のために、言うとるんじゃ」
あのとき、あなたの横顔を、もっとよく見ておけばよかった。
あなたは山の全部を疑って、山の全部を愛している人でした。
※
あの日のことを書きます。
四度目の秋にして、ようやく、手が震えなくなりました。
十月の連休、長雨がやっと上がって、観測所のみんなで沢歩きに出た日のことです。
所長さんの発案でした。
「たまには、測る道具を置いて、山に遊んでもらえ」
空は憎らしいほど晴れて、沢の水は光の粒を撒いたようでした。
私は張り切って、卵焼きを三段のお重に詰めましたね。
あなたは何度も蓋を開けようとして、所長さんに手の甲をはたかれていました。
昼餉の岩場で、みんなでそれを食べました。
誰かが「奥さん、店を出せる」と言い、あなたが「わしの店じゃ」と真顔で返して、沢中に笑い声が響きました。
幸せというものに形があるなら、あの日の、湯気の消えたあとの甘い匂いだったと思います。
※
帰り道、渡し石のところで、私は足を滑らせました。
転びはしなかったけれど、髪に挿していた櫛が、はずみで浅瀬に落ちたのです。
拾おうと屈んだ私を、あなたが止めましたね。
「ええ、濡れる。あとでわしが拾うけん、先に渡っとれ」
列の後ろにいた所長さんが、「わしのほうが近い」と笑って、浅瀬のほうへ降りていきました。
そのときでした。
あなたが、ふいに黙ったのは。
あなたは上流の空を見て、それから沢の面を見て、顔色を変えました。
「……音が、変わった」
私にはまだ、何も聞こえませんでした。
鳥の声と、水の音と、みんなの笑い声しか。
「上がれ! 全員、上へ! 走れ!」
あなたの声が、山を叩きました。
みんなが弾かれたように斜面に取りつき、あなたは最後尾で、遅れた私の背中を力いっぱい押し上げました。
「振り向くな! 上じゃ!」
私の指が木の根を掴んだのと、世界が濁った音に呑まれたのは、ほとんど同時でした。
山が、川の形をして降りてきたのだと、後から思いました。
石と水と折れた木の匂いが、いちどきに膨れ上がって。
振り向いたとき、あなたの姿は、もうありませんでした。
櫛のほうへ降りていた所長さんの姿も。
※
あなたを捜す三日間のことは、切れ切れにしか覚えていません。
消防団の長靴が土間に並び、食堂の夫婦が握り飯を山ほど炊いて、若い観測員さんが無線の前で夜を明かしました。
私は沢に降りることを許されず、東屋の柱につかまって、濁った水面をずっと見ていました。
あの水のどこかに、あなたの体温があるということが、どうしても信じられませんでした。
夜、官舎に戻ると、玄関にあなたの山靴がありました。
泥を落として、新聞紙を詰めて、出かける前のあなたが揃えたままの形で。
私はその靴を抱いて、上がり框で朝まで座っていました。
靴はまだ、あなたの足の形をしていました。
※
あなたが見つかったのは、三日後の朝です。
ずっと下流の、若い柳の根元で、眠るような顔をしていたと聞きました。
私は霊安室で、あなたの冷たい手を握って、初めて大きな声を出して泣きました。
「なんで」も「どうして」も、言葉になりませんでした。
所長さんは、一週間後に見つかりました。
一週間後に見つかった所長さんの右手には、泥を吸った桜の櫛が、割れもせずに握られていたそうです。
駆けつけた奥さんが、その手をさすって、「この人らしいわ」と言って笑い、それから声を上げて泣きました。
その櫛を、奥さんは形見にせず、私に返してくれました。
「あの人が最後まで放さんかったんはね、これが、あんたの髪に戻りたがっとったからよ」
そう言って、私の手に握らせ、上から両手で包んでくれました。
奥さんの手は、所長さんとおそろいの、大きくて乾いた手でした。
拾わんでよかったのに。
あんな櫛、なんべんでも、あなたに彫らせればよかったのに。
あなたもあなたです。
人を押し上げておいて、自分は残るなんて。
雨の量も風の速さも測れたあなたが、自分の命の重さだけ、測り間違えましたね。
私はしばらく、水の音が聞けませんでした。
蛇口の水も、湯呑みに注ぐ音も、だめでした。
一度は、ちゃんと壊れたのだと思います。
食堂の夫婦が、毎日、粥を炊いてくれました。
観測所の若い人たちが、交代で官舎の雪を下ろしてくれました。
壊れた私は、そういう手のひらの上で、すこしずつ、継ぎ直されていきました。
※
白状すると、あの櫛を、私はしばらく見ることができませんでした。
鏡台の引き出しの奥にしまい込み、鏡には風呂敷をかけて、髪は指で梳かして暮らしました。
櫛を見れば、浅瀬に屈む所長さんの背中を思い出し、私が落としさえしなければと、同じところをぐるぐる回ってしまうからです。
それを解いてくれたのは、お腹の中の二人でした。
初めて胎動があった夜、内側から、とん、と戸を叩くような音がして。
私はなぜだか引き出しを開けて、櫛を出して、四ヶ月ぶりに髪を梳いたのです。
梳きながら、声を上げて泣きました。
泣き終わったら、お腹が空きました。
人はそうやって、生きるほうへ連れ戻されるものなのですね。
※
あなたに、報告があります。
四十九日が過ぎた頃、体調を崩して病院へ行ったら、先生が笑って言ったのです。
「おめでたですよ。それも、お二人」
いたんですよ。
あなたと私の子が。
それも、双子です。
あなたが山にいるあいだに、私のところへ、二人も来ていたんですよ。
なんで抱いてやらないんですか。
本当に、最後まで、バカな人ですね。
春に生まれた女の子には、あなたの好きだった山の名から一字をもらいました。
男の子には、「風」の字をつけました。
あなたが毎日測っていたものの名前です。
これで文句はないでしょう。
※
二人が生まれたのは、雪解けの始まる明け方でした。
産院の窓から、あなたの観測所のある稜線が、白く光って見えました。
産声がひとつ聞こえて、少し間をおいて、もうひとつ。
二つ目の産声を聞いたとき、私は自分でも驚くほど静かな気持ちで、山のほうを見ていました。
見ていてくれましたか。
あなたに似て、二人とも、泣き方まで律儀でしたよ。
※
この夏、双子を連れて、沢沿いの遊歩道を歩きました。
四年ぶりの沢でした。
子どもたちは水切りの石を探して、私は木陰で、麦茶の支度をしていました。
そのときです。
ふいに、水の音が、低く濁ったのは。
考えるより先に、体が動いていました。
二人の手を掴んで、坂の上の東屋まで、一息に駆け上がりました。
水の音が変わったら、すぐ逃げること──あなたの声が、私の足を動かしていました。
数分後、上流の夕立で膨れた濁り水が、さっきまで子どもたちがいた石場を、静かに舐めていきました。
東屋の柱につかまって、私は膝が笑うのをこらえながら、笑ってしまいました。
まだ守る気ですか。
あなたは本当に、律儀な人ですね。
※
一周忌の日、私は若い観測員さんに付き添われて、初めて観測所に上がりました。
あなたが三百六十五日、空を見上げていた場所です。
机の上に、あなたの野帳が残っていました。
雨量、風速、雲量。定規で引いたような数字の列。
「これ、奥さんに見せたくて」と、若い人が最後の頁のほうを開いてくれました。
数字の脇の余白に、時々、豆粒みたいな字があるのです。
「晴。卵焼き、甘し」
「霧深し。妻、よう笑う」
「初雪。早う帰る」
私は野帳を抱えて、しばらく顔を上げられませんでした。
あなたは毎日、空と一緒に、私まで記録していてくれたんですね。
命の重さは測り間違えたくせに、測れないはずのものばかり、あなたは几帳面に測っていた。
だからもう、悪態の半分は、取り消してあげます。
半分だけですよ。
※
櫛は、いま、私の鏡台に戻っています。
歯が一本だけ欠けたけれど、直さずにおくことにしました。
それはあなたと所長さんが、最後に触れたものの形だからです。
毎晩、娘の髪をあの櫛で梳いています。
「さくらの匂いがする」と、娘は言います。
気のせいだよ、と私は言いません。
息子は最近、箸の持ち方があなたに似てきました。
誰も教えていないのに、椀の底を、こつんと鳴らす癖まで同じです。
あなたが二人に会えないのではなくて、二人の中で、あなたに会えるのだと、ようやく思えるようになりました。
それでも私は、あなたに悪態をつくのをやめません。
今日の分を、先に言っておきます。
靴下を裏返しのまま洗濯かごに入れていたこと、まだ許していません。
双子の寝かしつけが夜中の何時までかかるか、あなたは知らないままです。ずるい人。
それから、私にこんなに長い手紙を書かせて、便箋をいつも一枚、足りなくさせること。
悪態の種が尽きないのは、思い出が尽きないせいです。困った人ですね。
毎日、毎日、つきますから。
つかれたくなかったら、夢でいいから、もう一度だけ言いに来てください。
あの、出し惜しみしなかった二つの言葉を。
大好きなあなた。
あなたは今も、笑っていますか。
笑っているなら、それでいい。
私はもうすこしだけ、こちらで悪態をつきながら、あなたの分まで、年を取ります。
今夜も、山の上は晴れですか。
おやすみなさい。