
取り壊しの報せが届いた封筒を、私は三日のあいだ、開けられなかった。
四日目の朝、ようやく封を切って、私は何年ぶりかで、生まれ育った路地へ向かった。
昭和の終わりまで祖母が髪結いをしていた家は、もう柱が傾いて、雨戸が一枚、外れかけていた。
格子戸の前に立つと、軒下に下がった色あせた暖簾の文字が、かろうじて読めた。
——髪、結います。
祖母の書いた、丸い字だった。
鍵はかかっていなかった。
板の間にあがると、足の裏に、砂の混じった畳の、ざらりとした感触が伝わってきた。
家じゅうに、長く人のいなかった部屋の、乾いた埃のにおいが満ちていた。
奥の四畳半に、あの鏡台が、まだ残っていた。
三面の鏡はすっかりくもって、私の顔を、白い影のようにしか映さなかった。
真ん中の引き出しだけが、半分だけ開いていた。
その底に、小さな硝子の小瓶が、ころりと転がっていた。
祖母が逝ってからずっと、誰も触れずにいた小瓶だった。
掌にのせると、ひやりと冷たい。
蓋をひねると、三十年前と寸分たがわぬにおいが、ふっと立ちのぼった。
椿油の、青くて、少しだけ甘い、あのにおい。
とたんに、私の指先が、こまかく震えた。
五十をいくつか過ぎた今になっても、私はこのにおいから、逃げきれていなかったらしい。
私はこの三十年、髪をずっと、肩にもかからない短さに保ってきた。
伸ばせなかった、と言ったほうが、たぶん正しい。
美容院で椿油を勧められるたび、私は理由も言わずに、首を横に振ってきた。
祖母の椿油のにおいを、もう一度かいでしまうことが、ただ、こわかったのだ。
私はあの人に、ひどい言葉を投げつけたまま、別れてしまった。
謝る機会なら、二十年のあいだに、いくらでもあったはずなのに。
その機会を、私は自分の手で、一つずつ握りつぶしていった。
小瓶を握ったまま、私はくもった鏡の前に、ぺたりと座り込んだ。
鏡の奥から、髪の長かった頃の自分が、こちらをのぞいている気がした。
畳の目に沿って、朝の光が一筋、細く伸びていた。
※
私には、母の記憶が、ほとんどない。
私が三つのとき、母は私を祖母にあずけたきり、家を出て、帰ってこなかった。
だから、私の髪を一度でも梳いてくれた手は、この世にただ一つ、祖母の手だけだった。
「お前の髪は、わたしが育てたようなもんだ」
祖母は、よくそう言って、目尻に皺をよせて笑った。
その笑いの奥に、どんな思いが沈んでいたのか、子どもの私には、分からなかった。
祖母の朝は、夜がまだ明けきらないうちから始まっていた。
路地のどぶ板を鳴らして、近所のおかみさんたちが、髪を結ってもらいにやってくる。
祖母は誰の頭にも、まず椿油を一匙、掌にのばしてから、櫛を入れた。
「油はね、髪を飾るためじゃないんだよ」と、祖母はよく言っていた。
「もつれをほどいて、その人がちゃんと前を向けるように、整えてやるんだ」
幼い私には、その言葉の意味が、まるで分からなかった。
分からないまま、私は毎朝、鏡台の前に座らされた。
祖母の指が、私の髪を根もとから、ゆっくりと梳いていく。
頭の皮膚が、じんわりと温かくなって、私はいつも、つい眠くなった。
つげの櫛が首すじを通るとき、木の歯の、かすかに乾いた匂いがした。
「おばあちゃん、痛い」と私が言うと、祖母は決まって手をゆるめた。
「ごめんよ。ここに、寝癖の親玉がいてね」
そう言って、祖母は私のつむじのあたりを、指の腹でそっと押さえた。
その手は、いつも椿油でしっとりと湿っていて、節くれだって、温かかった。
結い上がると、祖母は私の頭を、ぽんと軽く叩いた。
「はい、これでどこへ行っても、ちゃんと帰っておいで」
それが、私を学校へ送り出すときの、祖母の口ぐせだった。
その手で握ったおにぎりまで、ほんのり椿のにおいがして、私はそれが、ひそかに好きだった。
雨の朝は、祖母はいつもより長く、私の髪を梳いた。
「湿った日は、髪がもつれやすいからね」
窓を打つ雨の音と、櫛のさらさらという音が、重なって聞こえた。
その時間が、私はほんとうは、嫌いではなかったのだ。
ただ、好きだと言うのが、なぜだか、照れくさかっただけで。
祖母自身も、若いころに親を亡くして、髪結いの修業に出されたのだという。
「手に職があればね、女ひとりでも、誰かの役に立てる」
祖母は、自分の節くれだった手のひらを、いとおしそうに見つめた。
その手で、祖母は、母に去られた私を、ひとりで育ててくれたのだ。
日が高くなると、家のなかは、おかみさんたちの話し声で、にぎやかになった。
私は店の隅で膝を抱えて、祖母の手元を、飽きもせず眺めていた。
ある日、嫁ぐ娘さんの髪を結いに、向かいの魚屋のおかみさんがやってきた。
「おばあちゃん、この子の島田、あんたじゃなきゃ駄目なんだよ」
祖母は、いつもより念入りに、油を掌にのばした。
娘さんの長い黒髪が、櫛の通るたびに、行灯の灯を集めて、しっとりと光った。
鏡のなかで、娘さんの目が、少しずつ潤んでいくのが見えた。
「これでね、あんたはどこへお嫁にいっても、迷子にならないよ」
祖母がそう言うと、娘さんは、こらえきれずに、肩を震わせた。
そのとき私は、まだ、ただの綺麗な髪型だと思って、見ていた。
祖母が髪に込めていたものの正体を、知るのは、ずっと後になってからだ。
夏祭りの晩、祖母は私の髪を、いつもより高く結い上げてくれた。
うなじに白粉をはたかれると、ひやりとして、くすぐったかった。
「ほら、町じゅうの、どの子より別嬪さんだ」
祖母は私の手を引いて、提灯の灯のなかを、ゆっくりと歩いた。
屋台の綿あめの、甘ったるい匂い。
下駄が石畳を鳴らす、からころという音。
人混みではぐれそうになると、祖母は私の結い髪に、そっと手を添えた。
「この髪を目印に、ばあちゃんは、お前を見つけるからね」
あのとき祖母が言ったことの意味を、私は長いあいだ、忘れたままにしていた。
正月の朝には、祖母は私に晴れ着を着せて、髪に紅い手絡をかけてくれた。
「一年の始まりは、髪から整えるもんだよ」
鏡のなかのふたりは、よく似た福耳をして、並んで笑っていた。
夜、店じまいをすると、祖母は使った櫛を一本ずつ、湯で洗って、布で拭いた。
「櫛はね、人さまの一日を、いちばん近くで見てる道具なんだよ」
祖母は櫛を灯にかざして、欠けた歯がないか、目を細めて確かめた。
その横顔を、私は今でも、はっきりと思い出すことができる。
麻疹で寝込んだ冬の夜のことも、忘れられない。
高い熱で、私は何度も、寝間着を汗で濡らした。
祖母は夜通し枕もとに座って、額に貼りついた私の髪を、櫛でそっと梳いてくれた。
「髪が乱れてると、悪い夢ばかり見るんだよ」
熱に浮かされた耳に、櫛の歯の通る音だけが、やさしく届いた。
目を覚ますたびに、椿のにおいがそばにあって、私はまた、安心して眠った。
朝には、熱は嘘のように、下がっていた。
祖母の目の下には、濃い隈が、できていた。
祖母は、自分の薄くなった白髪も、毎晩きちんと梳いてから、床についた。
「身じまいだけは、最後まで崩しちゃいけないよ」
鏡のなかの祖母は、そう言って、背筋をすっと、伸ばした。
※
けれど、年ごろになるにつれて、私はそのにおいが、たまらなく嫌になった。
中学の教室で、隣の席の男子が、鼻をくんくんさせて言ったのだ。
「お前、なんか、年寄りくさいにおいするな」
どっと笑いが起きて、私は耳まで、熱くなった。
その一言が、十四の私の胸に、錆びた釘のように刺さって、抜けなかった。
翌朝から、私は鏡台の前に座るのを、渋るようになった。
「もう自分でやれるから、いい」
そう言って、祖母の差し出す櫛を、私は手で払いのけた。
祖母は一瞬だけ、手を宙に浮かせて、それから静かに、櫛を置いた。
「そうかい。じゃあ、油だけは、つけときな」
差し出された小瓶を、私は受け取らなかった。
祖母の顔に、どんな表情が浮かんだのか、私は見なかった。
見るのが、なんだか、こわかったのだと思う。
高校にあがった春、私は美容院で、髪をばっさりと切った。
肩まであった髪が、耳が出るほど短くなって、私は、せいせいした。
家に帰ると、祖母は土間で、洗った櫛を、布で拭いていた。
私の頭を見て、祖母の手が、ふと止まった。
「ずいぶん、思いきったね」
祖母の声は、いつもより少しだけ、低かった。
「もう結ってもらわなくていいから。油くさいの、嫌なの」
言ってしまってから、私は自分の声の、とげの多さに、自分でも驚いた。
けれど、振り上げた言葉は、もう下ろせなかった。
「おばあちゃんの時代とは、違うんだよ。みんなに、笑われるんだから」
祖母は、何も言い返さなかった。
ただ、拭きかけの櫛を、もとの場所に、そっと戻しただけだった。
その夜、鏡台の引き出しが、かたりと閉まる音を、私は布団のなかで聞いた。
翌朝から、私の髪に椿油のにおいがすることは、二度となくなった。
せいせいしたはずなのに、なぜか枕が、少しだけ重く感じられた。
私はやがて東京の学校へ出て、そのまま、戻らなくなった。
皮肉なことに、私は東京で、人の髪に触れる美容師になった。
けれど、客に椿油だけは、どうしても、使えなかった。
あのにおいが指先によみがえるのが、こわくて、私はずっと避けていた。
盆も正月も、仕事や友達を口実にして、私はあの路地を、避け続けた。
祖母の手紙には、いつも同じ一行が、添えられていた。
「髪は、伸ばしてるかい」
私はその一行にだけ、どうしても、返事を書けなかった。
短く切った髪のことを、どう書けばいいのか、分からなかったのだ。
電話がかかってきても、忙しさを盾にして、私は早々に切ってしまった。
「声が聞けただけで、ばあちゃんは、もう十分だよ」
最後にそう言われたのが、いつだったのか、私はもう、思い出せない。
一度だけ、帰ろうとしたことがあった。
切符まで買って、けれど私は、駅の改札の前で、足がすくんで動けなくなった。
会えば、あの油のにおいに、また包まれてしまう。
そうしたら私は、これまで守ってきた頑なさを、保てなくなる気がした。
そんな子どもじみた理由で、私は買った切符を、握りつぶした。
※
祖母が倒れたという報せが届いたのは、私が三十をこえた、冬のことだった。
私は何年ぶりかで、傾きかけた家の、あの四畳半へ通された。
床についた祖母は、驚くほど小さくなって、目が、ほとんど見えなくなっていた。
枕もとには、あの椿油の小瓶が、きちんと蓋をして、置かれていた。
そのそばに、つげの櫛が、一本。
看病をしていた叔母が、廊下で、声をひそめて教えてくれた。
「おばあちゃんね、目が見えなくなってからも、毎朝あの油を、掌にのばすんだよ」
「そうして、見えない手で、宙に櫛を動かして、誰かの髪を梳く真似を、するんだ」
「誰の髪なの、って訊いたらね」
叔母は、そこで言葉を、詰まらせた。
「あの子の、って。あんたの名前を、言うんだよ」
叔母は、こうも言った。
祖母は最後の数か月、私の幼い頃の写真を、枕の下に入れていたのだという。
髪を二つに結った、七つかそこらの、私の写真だった。
私は、その場に、立っていられなくなった。
襖を開けると、祖母の枯れた手が、布団の上を、私の気配のほうへ、そろそろと這ってきた。
私はその手を、両手で握った。
掌は、昔と同じに、椿油でしっとりと、湿っていた。
「……帰って、きたのかい」
うわ言のように、祖母が言った。
「おばあちゃん、ごめんなさい。私、髪、切っちゃったまんまで」
祖母の唇が、かすかに笑ったように、ほどけた。
そして、見えない目で、私の短い髪を、指先でそっと、探りあてた。
「いいんだよ。長さなんて、どうだって、いいんだよ」
「ばあちゃんはね、毎朝、お前の髪を梳いてたんだよ。ここで、ずっと」
祖母の指が、ありもしない長い髪を、空に梳く仕草を、ゆっくりとくり返した。
「この子が帰る道に、迷わんように。そう念じながら、ね」
私の頭のなかで、三十年前の朝が、いっぺんに、よみがえった。
どこへ行っても、ちゃんと帰っておいで——あの口ぐせの意味が、ようやく胸に落ちた。
夏祭りの晩の、結い髪に添えられた手の温度まで、いっしょに、戻ってきた。
祖母は、私を飾っていたのではなかった。
毎朝、私が帰る道のもつれを、その節くれだった手で、ほどいてくれていたのだ。
あの油のにおいは、私を笑われ者にするためではなく、私を、迷わせないためにあった。
私は祖母の湿った掌に額を押しあてて、声を殺して、泣いた。
祖母の手が、私の短い髪を、何度も、何度も、梳くように撫でた。
「ほら、もつれが、ほどけた」
祖母は、満足そうに、そう、つぶやいた。
その声は、もう、ほとんど息だけになっていた。
それでも、確かに、笑っていた。
※
祖母が眠るように旅立ったのは、それから七日後の、明け方だった。
棺のなかの祖母の髪は、近所のおかみさんたちが、きれいに梳いてくれていた。
最後に祖母を整えたのが、祖母に髪を習った人たちだったことを、私はあとで知った。
私はとうとう、一度も、祖母の髪に櫛を入れてあげられなかった。
あれから二十年あまり、私はやはり、髪を伸ばせないままでいる。
くもった鏡の前で、私は小瓶の蓋を、もう一度、ひねった。
底に、ほんのひと匙ぶんだけ、油が残っていた。
私はそれを掌にのばし、白いものの混じりはじめた短い髪に、ゆっくりと梳きつけた。
青くて、少し甘い、あのにおいが、四畳半いっぱいに、静かに広がった。
くもった鏡のなかの私の後ろに、もうひとつの手が、見えた気がした。
——ちゃんと、帰っておいで。
はい、と私は、鏡に向かって、小さく答えた。
鏡の奥のくもりが、私の涙で、いっそう白く、にじんだ。
それでも、後ろに立つ手の温かさだけは、はっきりと、感じられた。
取り壊されるのは、家だけだ。
この手のなかでほどかれたものは、もう、どこへも、行かない。