古書店の猫は絵本の上で眠る

秋の光に包まれた古書店

土曜の午後になると、栞は戸口の前で丸くなる。

店でいちばん古株の猫だ。

茶と白のまだら模様で、右の耳の先だけが少し折れている。

父は、いつから店にいるのか、はっきりとは言わなかった。

「いつの間にか、おった」

それだけだ。

私が会社を辞め、父の古書店を継いだ春にも、栞はもう帳場の脇の座布団を自分の席にしていた。

港町の裏通りにある、潮見堂書店。

間口は狭く、奥へ長い。

天井まで届く棚に、背表紙の色が褪せた文庫と全集が詰まっている。

壁の端に、低い棚がひとつだけある。

絵本と児童書の棚だ。

その下段が、栞の昼寝の場所だった。

古書店の猫は、本の上で眠る。

それが、栞の流儀だった。

棚のいちばん下に絵本を平らに寝かせ、その上で丸くなる。

背中に頁のかたちがつくほど、長く眠る。

「商品に毛がつきませんか」

常連のひとりに、笑いながら言われたことがある。

「毛もついて古書です」

私はそう返した。

店の猫というのは、そういうものだと思っていた。

客商売の者が猫を飼うと、猫のほうが客を選ぶようになる、と父は言った。

栞もそうだった。

気に入らない客の足もとは、ふんと鼻を鳴らして通り過ぎる。

子どもの手には、おとなしく撫でられる。

けれど、栞は、私の膝には、一度も乗らなかった。

餌をやるのも、トイレを掃除するのも、私だ。

それでも栞は、私が帳場に座ると、少し離れた座布団から、静かにこちらを見るだけだった。

嫌われているのかもしれない。

そう思いながら、私は店の日々を重ねていた。

父は、いまは姉の家で、のんびり暮らしている。

店の鍵と帳簿と、栞の世話だけを、私に残していった。

朝は九時に雨戸を開ける。

掃除をして、棚の乱れを直し、買い取りの本に値をつける。

昼は、近所の定食屋の出前で済ませる。

客は多くない。

けれど、潮風に誘われるように、毎日、誰かが入ってくる。

本を買わずに帰る客も、いる。

それでいい、と私は思っていた。

古書店は、本を売る場所であると同時に、静かな時間を貸す場所でもある。

その栞が、毎週ひとりの客の膝にだけは、迷わず乗る。

絵本の棚の前の老人

戸田さんは、土曜の午後に来る。

三時を少し過ぎたころ、戸口の鈴が一度だけ鳴る。

鈴が二度鳴る客は、たいてい勢いよく入ってくる。

戸田さんの鈴は、いつも一度きりだった。

背が高く、少し猫背で、灰色の帽子を目深にかぶっている。

七十代の半ばだろうか。

挨拶は、帽子のつばに指を当てるだけだ。

そのまま、まっすぐ奥の低い棚へ向かう。

膝をかばうように、ゆっくりと腰を落とす。

そして絵本を一冊、棚から抜く。

栞が、顔を上げる。

どんな客の足もとも素通りするあの猫が、のそりと起き上がる。

老人の膝に、すっと乗る。

迷いはない。

前脚を二度、ふみふみと動かして、丸くなる。

戸田さんは、猫を見ない。

絵本の頁を、ゆっくりとめくる。

声には出さない。

唇が、わずかに動くだけだ。

何を読んでいるのだろう、と私は思った。

ある日、棚を整えるふりをして、背後でそっと耳を澄ませた。

かすかな声が、聞こえた。

声というより、息に近い。

「……ほうか。……そうか。……そりゃあ、ええのう」

絵本の登場人物に、相槌を打っているようでもあった。

あるいは、膝の猫に、話しかけているようでもあった。

私には、どちらとも、聞き分けられなかった。

そうして、四十分ほどが過ぎる。

閉店の少し前になると、本を棚へ戻す。

栞を床へ下ろす。

帽子のつばに指を当てて、帰っていく。

買ったことは、一度もない。

絵本は、どれも三百円ほどの値がついている。

私は、そのことを、気にしていた。

――きっと、三百円が出せないのだ。

袖口のすり減ったジャケット。

いつも同じ帽子。

いつも同じ靴。

勝手な想像だった。

けれど、一度そう思ってしまうと、あの人の猫背まで、貧しさの印に見えてきた。

立ち読みで構わない。

そう思って、私は黙っていた。

「あのおじいさん、店の人ですか」

ある土曜、学校帰りの女の子に、小声で訊かれた。

「いえ、お客さんです」

「だって、猫、あんなに慣れてる」

「うちの猫は、誰にでも慣れるわけじゃないんです」

「じゃあ、特別なんだ」

女の子は、感心したように頷いて、文庫の棚へ消えていった。

特別。

その言葉が、帳場の私に、小さな棘のように残った。

私の膝には、乗らないのに。

そんな、子どもじみた気持ちがあったのだと思う。

雨の土曜があった。

その日も、戸田さんは、傘を畳んで入ってきた。

肩が濡れていた。

けれど、棚の前に腰を落とすと、滴を気にするそぶりも見せず、絵本を開いた。

膝に乗った栞が、湿った肩を、ぺろりと舐めた。

老人は、猫の頭に、そっと掌を置いた。

撫でるのではない。

ただ、置くだけだ。

ほんの数秒。

それは、私が一度も見たことのない、静かな手つきだった。

――この人は、本を読みに来ているのではないのかもしれない。

そんな考えが、ふっと浮かんだ。

けれど、すぐに打ち消した。

猫に会いに来る客が、ひとりくらい、いてもおかしくない。

それだけのことだ、と。

古書店の猫の席

古書店の猫には、猫の席がある。

栞の席は、三つあった。

帳場の脇の座布団。

児童書の棚の下段。

そして、戸口のすぐ内側の、冷たいたたきの上。

季節によって、場所は変わる。

夏は、たたきだ。

冬は、ストーブの近くの座布団だ。

ただ、土曜の午後だけは、季節に関係なく、戸口にいた。

それに私が気づいたのは、冬のはじめだった。

昼を過ぎると、栞が座布団から降りる。

たたきまで歩いていき、戸口に向かって、体を丸める。

目は閉じている。

けれど、耳は、立っている。

折れた右の耳も、少し震えている。

――土曜だから、人通りが多いのか。

私はそう考えた。

商店街の人出は、確かに土曜がいちばん多い。

古書店の猫は、にぎやかな日を好むのかもしれない。

そう納得して、帳場の帳簿に目を戻した。

やがて、戸口の鈴が鳴る。

一度だけ。

栞が、むくりと起きる。

灰色の帽子の老人が入ってくる。

あの人は、いつも、栞のほうを見ずに、奥の棚へ向かう。

栞が、その後ろを、静かについていく。

尻尾を、ぴんと立てて。

私には、見せたことのない尻尾だった。

あの人は、一度もこの猫の名前を訊かなかった。

私はそれを、ふしぎだとも思わなかった。

店の猫の名を知りたがる客は、案外、少ない。

猫は猫で、すむ話だ。

ただ、ひとつだけ、気になることがあった。

戸田さんが帰ったあと、栞は、必ず、その日にあの人が開いた絵本の上に乗る。

老人の体温が、まだ残っているのだろう。

その上で、長く眠る。

私が絵本を棚に戻そうとしても、動かない。

抱き上げると、爪を軽く立てて、抗議する。

「そこは、私の席だって言うんだな」

私は、猫に話しかけた。

栞は、答えない。

ただ、絵本の上で、小さく喉を鳴らしていた。

父が店にいたころ、栞は、土曜に何をしていたのだろう。

私は、帳場の壁の古い日めくりを、ぼんやりと眺めた。

そこには、父の字で、毎週土曜の欄に、小さな丸がついていた。

ただの丸だった。

何の印か、訊いたこともなかった。

ある晩、私は、煮干しをひとつかみ持って、座布団に座った。

膝を、ぽんぽんと叩く。

「ほら、おいで」

栞は、座布団の端から、じっと私を見た。

煮干しの匂いに、鼻が動く。

けれど、立ち上がらない。

煮干しを床へ置くと、ようやく、のそのそと歩いてきて、食べた。

食べ終わると、顔を洗い、また、座布団の端へ戻った。

私の膝の上は、誰かの席のように、空いたままだった。

「誰の席なんだ」

独り言が、店の暗がりに溶けた。

その音を、私の膝の上で聞いたことは、やはり、なかった。

施しは受けん

ある土曜、私は、思いきって声をかけた。

閉店の少し前だった。

戸田さんが、絵本を棚に戻して、帽子のつばに指を当てたときだ。

「あの、よければ、その本、持って帰ってください」

老人の足が、止まった。

「お代はいりません。もう古い本ですし」

嘘ではなかった。

その絵本は、背表紙が割れていて、売り物としては、値のつかない一冊だった。

戸田さんは、ゆっくりと、私のほうを向いた。

帽子の影の下で、目が、静かに細くなった。

「いらん」

低い声だった。

「遠慮なさらずに」

「遠慮と違う」

一拍、間があった。

「施しは、受けん」

店の中が、しんとした。

奥の棚で、誰かが本を抜く音だけがした。

私は、顔が熱くなるのを感じた。

善意のつもりだった。

けれど、あの人には、善意の顔をした哀れみに見えたのだろう。

「失礼しました」

「いや」

戸田さんは、それだけ言った。

そして、いつものように、帽子のつばに指を当て、出ていった。

鈴が、一度、鳴った。

栞が、絵本の上から、私をじっと見ていた。

責めるような目に見えた。

その夜、私は、帳場でひとり、考えた。

貧しい人だと決めつけたのは、私だった。

あの人は、一度も、困った顔をしていない。

むしろ、背筋の奥に、固い芯のようなものがある。

――施しは、受けん。

自分の足で立っている人の言い方だった。

ならば、なぜ、買わないのか。

三百円の絵本を、毎週、四十分も読んでおきながら。

答えは、出なかった。

翌週も、翌々週も、戸田さんは同じ時刻に来た。

私は、何も言わなかった。

言えなかった。

あの人も、あの出来事については、一言も触れなかった。

ただ、帽子のつばに指を当てる角度が、ほんの少し、深くなった気がした。

常連の佐伯さんにも、その話をした。

退職した高校の国語教師で、週に三日、古書を探しに来る人だ。

「そりゃあ、あんた、失礼じゃったな」

佐伯さんは、眼鏡を持ち上げて、笑った。

「戸田さんの世代はな、人に物をもらうのを、恥と思うんじゃ」

「恥、ですか」

「そう。恥ではないものを恥と思うのが、あの世代の誇りじゃ」

佐伯さんは、選んだ文庫を、とんと帳場に置いた。

「あんたの親切は、悪くない。ただ、受け取る側の棚が、違うんじゃよ」

棚が違う、という言い方が、いかにも古書店の客らしかった。

私は、苦笑して、文庫の代金を受け取った。

栞だけが、いつもと変わらず、老人の膝で丸くなっていた。

古書店の猫の背中が、私には、少しうらやましかった。

頁に挟まれた紙

年が明けて、店の棚卸しをした。

閉店後の店で、ひとり、背表紙を数えていく。

腰は痛いが、嫌いな作業ではない。

古い本の匂いと、ストーブの熱が、ゆっくり混じっていく夜だった。

児童書の棚に来て、私は、手を止めた。

栞が、下段の絵本の上で、眠っていた。

戸田さんが、土曜に開いた一冊だ。

そっと、猫を抱き上げる。

栞は、薄く目を開けて、すぐに閉じた。

絵本を手に取った。

頁が、少し膨らんでいる。

栞が眠っていた絵本は、頁が少し膨らんでいた。

最初は、猫の体重のせいだと思った。

けれど、膨らみ方が、おかしい。

真ん中より少し手前の頁だけが、ふくらんでいる。

頁を開いた。

中から、四つ折りの紙が、ひらりと落ちた。

拾い上げて、開く。

千円札だった。

私は、しばらく、その札を見つめていた。

財布から落ちたのか。

いや、違う。

きれいに畳まれて、頁と頁のあいだに、すっと差し込まれていた。

わざと、ここに置いたのだ。

私は、隣の絵本を抜いた。

その隣も。

戸田さんが、これまでに開いたはずの本を、一冊ずつ、確かめていった。

どの絵本にも、同じ位置に、四つ折りの千円札が挟まっていた。

頁が膨らんでいたのは、四つ折りの紙が挟まっていたからだ。

数えると、十七枚あった。

十七の土曜。

十七冊の絵本。

値段は、どれも三百円ほどだ。

なのに、いつも、千円札だった。

おつりは、受け取らない。

そもそも、受け取る者がいない。

声に出して言えば、あの人は、きっと、また、あの低い声で言うだろう。

――施しは、受けん。

そうだったのだ。

あの人は、買えなかったのではない。

買わなかったのでもない。

毎週、払っていた。

黙って、頁のあいだに、払っていたのだ。

次の本を抜いた。

さらに次の本。

どの頁も、同じだった。

千円札は、いつも、絵本の真ん中より少し手前の頁に挟まれていた。

あの人が、いつも手を止めていた、あの頁だ。

絵本を読むふりをして、あの人は、その頁で、毎回、何かを置いていたのだ。

手のひらほどの、小さな紙を。

帳場の引き出しを開けた。

つり銭の千円札と、見比べる。

折り目の深さが、まるで違う。

あの人の札は、どれも、角がきれいに揃っていた。

几帳面な手が、ひと折りひと折り、丁寧に畳んだ折り目だ。

私は、棚の前に、座り込んだ。

手の中の千円札が、じわりと温かく感じられた。

そう感じたのは、絵本の上で眠る猫の体温が、移っていたせいかもしれない。

栞が、私の足もとに寄ってきた。

膝には、乗らない。

けれど、靴の先に、こつんと頭をぶつけて、そのまま、じっとしていた。

何かを、言いたそうに。

戸口で待つ猫

その週の土曜は、朝から、よく晴れていた。

昼を過ぎると、栞が座布団から降りた。

たたきまで歩いていき、戸口に向かって、体を丸めた。

土曜の午後になると、栞は戸口の前で丸くなる。

私は、帳場から、その背中を見ていた。

耳が、立っている。

時計の針が、ゆっくりと進む。

店の外を、自転車が通り過ぎる。

魚屋の台車の音が、遠くで鳴る。

そのたびに、栞の耳が、ぴくりと動く。

けれど、立ち上がらない。

違う、とでも言うように、また体を丸める。

――音を、聞き分けているのだ。

自転車の音も、台車の音も、他人の足音も。

あの一度きりの鈴だけを、栞は選んで待っている。

考えてみれば、私は、この猫と暮らして長い。

けれど、栞が何を待っているのか、一度も、考えたことがなかった。

折れた右の耳が、小刻みに揺れている。

商店街の人出を、待っているのではない。

たったひとつの音を、待っているのだ。

――鈴が、一度だけ鳴る音を。

気づけば、私は、栞が戸口に座る時刻を、確かめていた。

針は、三時を少し回ったところだった。

戸が、開いた。

鈴が、一度、鳴った。

灰色の帽子の老人が、入ってきた。

栞は、もう立ち上がっていた。

尻尾を、ぴんと立てて、迷わず老人の足もとへ向かう。

戸田さんは、いつものように猫を見ない。

ただ、ほんの一瞬だけ、帽子の影の下で、口もとがゆるんだ。

私は、帳場から出て、声をかけた。

「戸田さん」

老人が、足を止めた。

「その子の名前、栞といいます」

言ったあとで、自分の言葉の間抜けさに気づいた。

老人は、帽子のつばに、指を当てなかった。

かわりに、ゆっくりと、私のほうを向いた。

「知っとる」

低い声だった。

「つけたのは、家内じゃ」

店の中の、時間が止まった。

「本の間に、よう寝る猫じゃったけん、栞じゃ、言うてな」

老人は、足もとの猫を見下ろした。

栞が、前脚で、老人のズボンの裾を、そっとふんでいる。

名前を訊かなかったのではない。

訊く必要がなかったのだ。

「家内が旅立ったあと、市営住宅に移ってな。猫は、飼えんのじゃ」

老人は、淡々と話した。

「先代に頼んだ。どうしても、と。先代は、ええよ、と言うた」

父は、一言も、私に話していなかった。

店を継ぐ日にも、栞のことは、「いつの間にか、おった」としか言わなかった。

「金は、いらんと言われた」

戸田さんは、少し笑った。

「それでも、払わんと、わしの気が済まん」

千円札の、四つ折りが、頭に浮かんだ。

十七枚の、土曜。

「それが、施しは受けん、の意味じゃ」

老人は、栞の背を、ゆっくりと撫でた。

「ここの千円は、餌代じゃ。それと、席代じゃ」

「席代」

「わしが座る、この子の膝の席じゃ」

言い間違いに、老人も気づいたのだろう。

口の端が、わずかに上がった。

「この子が座る、わしの膝の席、じゃな」

私は、返す言葉を、持たなかった。

栞の本当の飼い主は、毎週土曜に来る戸田さんだった。

そう思った瞬間、足もとの猫が、私を見上げた。

薄い緑の目が、じっと、こちらを見ていた。

あなたに、悪気はなかった、と言っているようだった。

「膝に乗らんのは、あんたのせいじゃない」

戸田さんが、ぽつりと言った。

「この子は、待つ猫じゃ」

その日、私は、絵本を一冊、帳場の脇に置いた。

値札は、つけなかった。

かわりに、紙を一枚、挟んだ。

「土曜は、栞の出勤日です」

戸田さんは、紙を読んで、帽子のつばに指を当てた。

その指が、少しだけ、震えていた。

古書店の猫は、待つのが仕事だ。

土曜の午後になると、栞は戸口の前で丸くなる。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。