不格好な湯呑みと最後の壁
湖の対岸の料亭で最後の壁を塗り終えた日、女将から「奥さんが三年前にいらした」と聞かされました。座敷の北の角だけ、土の色が濃い。その夜、三十年毎朝使ってきた不格好…
湖の対岸の料亭で最後の壁を塗り終えた日、女将から「奥さんが三年前にいらした」と聞かされました。座敷の北の角だけ、土の色が濃い。その夜、三十年毎朝使ってきた不格好…
夜勤タクシー運転手として三十年。退職の日、妻が描いた古い地図を見つけた。赤い丸は二人で行った場所、青い丸はいつか行きたい場所。青い丸は一つも叶っていなかった。…
大分・長湯温泉の朝、四十年前の琺瑯の弁当箱を開けると、底に色褪せた付箋が一枚だけ残っていました。包みの結び目がいつも左に寄っていた理由、妻が四十年切らさなかった…
調律師の保坂慎二は、妻の美和が残した未完のマフラーの紙袋を、三年ぶりに押し入れから下ろした。三年のあいだ開けられなかった袋の底の小さなノートには、編み図と最後の…
料理のできない二十六歳の父と、五歳の息子。嫁が旅立って一ヶ月、冷凍庫を開けると、丸い字の札が貼られたタッパーがぎっしり並んでいた。最後に残った引き出しの蓋に書か…
二十五歳まで生きられないと打ち明けた妻は、生まれたばかりの娘のために二十本のビデオテープを残しました。背表紙の一本だけ裏返しに貼られたラベルには、泣き虫の夫への…
雨の降りだした駐車場で、二台の車から同時に送り合った二通のメール。余命の告白と妊娠の報告は、なぜか一行目だけが同じでした。和歌山・新宮の製材所で三代にわたって引…
妻がいなくなって二日目の夜、私は台所の付箋を数えた。十一枚あり、どれも右下の角が小さく折ってあった。剥がす人のことを考えて貼る人だったのだ。三日目の朝、出汁パッ…
日雇いの休憩室で出会った、白髪の五十代の男性。ありがとうが言えずに家族と離れた彼が、胸ポケットの手帳で毎晩練習を重ね、四月の電話で大学生の僕に果たした、おじさん…
朝、私は妻がよそった味噌汁を腕で払い、底の焦げた鍋を床に落とした。弁当も持たずに家を出た。夜、二階の窓に明かりがあり、玉ねぎとバターの匂いがした。妻がその鍋で四…
高校の文化祭で出会い、十九歳で夫婦になった俺と嫁。仕事に没頭して会話が消えた数年、手帳に残るハートで囲んだK、そして離婚届に震える二人の字。23年間のリセットの…
片胸のない彼女と決めた暗証番号は、二人の誕生日を足した〇五一二。余命を告げられても笑って過ごした日々のあと、彼女が旅立って半年で届いた診断書の時刻の欄に、その暗…
いしばし商店の棚には、丸い字の値札と、角ばった値札の二種類が並んでいました。奥さんが入院した週、ご主人はラジオの会社対抗クイズで九十八点と答えます。残りの二点が…
秋田・大館の曲げわっぱ工房で、妻は樺縫いの最後のひと針だけを、毎晩かならず翌朝へ残していました。妻を失った冬、四つになる娘の一言と、老いた職人の静かな証言が、そ…
三度目の流産に泣く妻の隣へ、産科の待合室で見知らぬ五分刈りの男の子が二つの指輪を差し出しました。水色だけが白く曇っていた理由を知ったのは、六年後の祭りの夜のこと…