23年間のリセット

夫婦の手(フリー写真)

離婚届に、嫁と二人で名前を書いた。

ペンを持つ手が、どちらも震えていた。

俺の字は、いつもの半分も読めなかった。

嫁の字も、一画ごとに揺れていた。

結婚して23年。

十九歳で夫婦になった二人が、同じ机で、同じ紙に向かっていた。

それでも俺は、これが終わりだとは思っていなかった。

あの紙一枚は、23年間のリセットだった。

今になって振り返れば、そう呼ぶのがいちばん近い。

どうしてそうなったのか。

順に書いておく。

美術室のベニヤ板

嫁とは、高校の同じ委員会で知り合った。

文化祭の準備で、俺たちは校門に立てる看板を任された。

ベニヤ板に下書きをして、ペンキで文字を塗る。

放課後の美術室は、シンナーの匂いがした。

約一ヶ月、毎日同じ机で作業をした。

彼女は筆が丁寧で、はみ出した色を爪楊枝で削って直す人だった。

その横顔を見ているうちに、気づけば俺のほうが惚れていた。

文化祭が終わった日の帰り道、俺は告白した。

返事は、少し間があってから「うん」だった。

それから、昼休みも放課後も休みの日も、ほとんど一緒に過ごした。

それが自然だったし、何より幸せだった。

嫁も毎日笑って、幸せだと言っていた。

高校を卒業して、俺たちはそれぞれ就職した。

一年後、仕事に慣れた頃に、俺はプロポーズした。

嫁は泣きながら頷いてくれた。

両親への挨拶も、形だけのものだった。

付き合いは高校の頃から家族ぐるみで、俺の親は嫁に、嫁の親は俺に、本当によくしてくれていた。

だから結婚すると伝えたとき、どちらの親も笑って言った。

「ようやくか!」

こうして俺たちは、十九歳で夫婦になった。

結婚してからの数年は、本当に幸せだった。

二人で料理をして、休みの日は買い物に出た。

知らない町まで出かけて、写真もたくさん撮った。

子供はなかなか授からなかった。

それでも一年後には、長男が生まれた。

二人で姓名判断の本を広げて、夜中まで名前を考えた。

俺は、嫁と息子を一生かけて幸せにすると心に決めた。

嫁は出産を機に仕事を辞めた。

「家で、あなたの帰りを待ちたいの」

そう言って、毎朝、玄関で俺を送り出してくれた。

こんなに俺のことを考えてくれる人と結婚できた。

俺は心から、自分を幸運だと思った。

暗い家の食卓

その頃から、俺は仕事に没頭した。

自分で言うのも何だが、会社ではそれなりに仕事ができる方だった。

若いうちから企画を任され、周りも助けてくれた。

その期待に応えたくて、必死だった。

出張も残業も当たり前。

休みの日でも、呼び出しがあればすぐに家を出た。

給料は良かった。

でも、帰って寝て、朝また出ていくだけの毎日だった。

いつの間にか、嫁と話をしなくなった。

家にいる時間は短かったし、帰ってもくたくたで、食卓で眠ってしまう日もあった。

嫁は、そんな俺の上着を黙ってハンガーにかけてくれた。

それでも、話す時間はほとんどなかった。

夜中に帰ると、家はいつも暗かった。

数年が過ぎた、ある休みの日。

荷物を整理していて、結婚式の写真を久しぶりに見た。

マイクを握って「一生幸せにします!!」と叫んだ自分が、そこに写っていた。

恥ずかしくて、思い出し笑いをした。

その笑いが、ふっと消えた。

我に返って、家の中を見回した。

きれいに片付いた部屋だった。

でも、そこは家庭ではなかった。

俺が休みなのに、顔も見せずに友達と遊びに出る息子。

俺から逃げるように家事を終わらせて、何も言わずに買い物へ出る嫁。

夫婦の夜も、もうずっとなかった。

これが、俺の思い描いた家庭なのか。

これで一生幸せにしていると言えるのか。

そんな思いが込み上げてきた。

あの頃の俺は、23年間のリセットが必要になるなんて、想像もしていなかった。

次の出勤日、俺は上司に転属願を出した。

今の部署より、給料はずっと低い。

そのかわり、残業も出張も少ない部署だった。

上司には止められた。

けれど俺は押し切って、異動を決めた。

異動が決まった日、俺はいつもより早く帰った。

息子は、俺の実家に泊まりに行かせてあった。

玄関で俺を見た嫁は、目を丸くしていた。

帰りに買ったシャンパンを開けて、二人きりの食事を始めた。

けれど、会話は続かなかった。

何年もろくに話していない相手に、急にすらすら話せるわけがなかった。

箸の音だけが響いた。

その重さが、今の二人の距離そのものに思えた。

それでも、逃げてはいけないと思った。

俺は部署を異動したことを話した。

嫁は「ふーん」と言っただけで、目も合わせなかった。

そのとき俺は、ただの同居人だったのだと思う。

それでも話を続けた。

家族をないがしろにしてきたこと。

家族のためと言いながら、自己満足だったこと。

寂しい思いをさせたこと。

これからは、家にいる時間を増やすこと。

「もう一度、夫として認めてほしい」

言い終えると、嫁はぽかんとしていた。

そして、箸を持ったまま、その場で泣き出した。

ハートで囲んだK

それから俺は、できるだけ早く退社して家に直行した。

最初は、俺が早く帰ると生活のリズムが狂うようで、嫁のほうが慌てていた。

息子も戸惑っていた。

それでも、しばらくすると慣れていった。

家に笑い声が増えた。

顔を合わせなかった息子が、学校であったことを楽しそうに話した。

嫁は、テレビで聞いた話を自慢げに語った。

俺はそれが嬉しくて、笑って聞いた。

寝室で、嫁に言った。

「これからは、本当の意味で幸せにする。愛してるよ」

嫁は泣きながら、私も、と返した。

こうして俺の家族は、なんとか持ち直した。

そんなある日。

嫁が買い物に出ているあいだに、見慣れない手帳を見つけた。

嫁のスケジュール帳だった。

何気なくめくってみた。

ある日付の横に、ハートで囲まれたKの文字があった。

週に数回、同じ印が並んでいた。

それは、ちょうど俺が仕事に没頭していた時期だった。

俺は、一瞬で理解した。

嫁が、不倫をしていた。

頭に血が上った。

帰ってきたら問い詰めようと思った。

けれど、考えてみれば、寂しくさせていたのは俺だった。

あの頃、夫婦の夜もなかった。

寂しさのあまり他の男に走ったのだとしても、責められないのかもしれない。

そう思えてきた。

手帳は何冊もあった。

めくっていくと、ある日を境にKの文字が消えていた。

それは、俺が異動した月だった。

その月の頁では、途中までKが書かれ、途中でKに×印が付けられていた。

それ以降、Kは一度も出てこなかった。

俺は手帳を元の場所に戻した。

そして、見なかったことにした。

もちろん、忘れられるはずがなかった。

それからしばらく、俺は夜に体が言うことをきかなくなった。

毎晩のことだったので、嫁はひどく心配した。

「疲れてるだけだよ」

俺はそう説明した。

嫁は、俺の体を気遣った料理を作るようになった。

俺が全部知っているとは、夢にも思っていなかったと思う。

嫁の肩を見るたびに、あの文字を思い出した。

心がざわついて、吐いてしまう夜もあった。

地獄のような日々だった。

それでも、時間とともに少しずつ落ち着いていった。

俺は、このことは墓場まで持っていこうと決めた。

23年間のリセットの朝

月日が流れて、息子は高校を卒業した。

他県の公務員試験に合格して、一人暮らしを始めることになった。

引っ越しが終わり、最後に豪勢な食事をして見送った。

その夜、家は久しぶりに俺と嫁だけになった。

「なんだか、寂しくなったね」

「そうだね」

俺は、嫁に言った。

息子も一人立ちした。

これまでの人生は、君のおかげで素晴らしいものだった。

一度忘れていた家族の大切さも、君のおかげで思い出せた。

君は、俺にとってかけがえのない人だ。

「本当に、愛しているよ」

すると、嫁が泣き出した。

俺は背中をさすって、なだめようとした。

でも嫁は、その場で土下座するように座り込んだ。

「私には、あなたからそんなことを言われる資格がない」

嫌な予感がした。

止めようとしたが、嫁のほうが先に口を開いた。

「私は、過去にあなたを裏切って、不倫をしました」

聞きたくない言葉だった。

思い出したくもない言葉だった。

それでも嫁は、自分から話し続けた。

相手は、前の職場の上司だったこと。

向こうは遊びだったのに、自分は本気で惚れていたこと。

あなたと別れて、その人と添い遂げようとまで考えたこと。

けれど、あなたが異動をきっかけに変わって、忘れていた想いが溢れ、その人と別れたこと。

本当は打ち明けるつもりだったが、幸せな日々が失われるのが怖くて、言えなかったこと。

言えないまま、ずっと罪悪感を抱えていたこと。

嫁は泣きながら、長い間言えなかったことを謝った。

俺は知っていた。

だから、泣いて謝る嫁に言った。

「知ってたよ」

嫁は、驚いた顔をした。

「全部、知ってた」

俺が言えたのは、それだけだった。

嫁はさらに泣いた。

しばらく、家の中には嫁の泣き声だけが響いていた。

それから二人で、夜が明けるまで話し合った。

これからどうするのか。

どうするのが、けじめなのか。

結論は、離婚だった。

もちろん、俺の本意ではない。

ただ、ここまで打ち明けた嫁の覚悟を思えば、一度きちんと筋を通すべきだと思った。

両親には相談しなかった。

相談すれば反対される。

だから事後報告にすると決めた。

翌日の夜、用意した離婚届をテーブルに広げた。

先に、俺が名前を書くことにした。

ペンを持つと、これまでの嫁との日々が、頭の中を走り抜けた。

美術室で、照れながら告白したこと。

卒業式の日、同級生にからかわれながら撮った写真。

プロポーズで、噛んでしまったこと。

新婚旅行の翌朝、二日酔いでダウンしていたこと。

妊娠を知って、家で飛び跳ねて喜んだこと。

姓名判断の本を見ながら、二人で息子の名前を決めたこと。

生まれたばかりの息子を、初めて抱き上げた日のこと。

涙が溢れてきた。

俺も嫁も、泣きながら名前を書いた。

冒頭に書いたとおり、二人の字は震えていた。

翌日、二人で市役所に提出した。

こうして、俺と嫁の23年間は終わった。

双方の実家は揉めたが、最後には理解してくれた。

息子には電話で伝えた。

「子供じゃないんだから、二人で決めたことに口出しするつもりはないよ」

息子は、そう言った。

今、俺は一人になった家で暮らしている。

嫁は、いや、元嫁は、アパートを借りて住んでいる。

離婚したのに、連絡は取り合っている。

ときどき元嫁が家に来て、ご飯を作り、掃除をして帰っていく。

どこか、昔に戻ったような新鮮な気持ちだ。

今度、二人で出かける予定がある。

再婚するかどうかは、まだ分からない。

でも、あの23年間のリセットは、終わりではなかったのかもしれない。

もしかしたら今が、新しい一年目なのだ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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