
先日、小学五年生の娘が、机に向かって何かを書いていた。
便箋の一番上には、「ママへ」と鉛筆で書いてあった。
その後ろの棚には、背表紙に細い字のラベルが貼られた、二十本のビデオテープが並んでいる。
妻が遺していった、娘のための二十本のビデオテープだ。
鉛筆の音を聞きながら、私は思った。
そろそろ、あの頃の話を娘にしてもいい頃かもしれない。
少しくらい昔話をしても、妻は笑って許してくれるだろう。
イヤホン越しの夏
妻と出会ったのは、真夏の午後だった。
人づきあいが得意ではなかった私は、外出のたびに音楽プレイヤーを持ち歩いていた。
駅の人混みの中では、イヤホンから流れる音だけが心を守ってくれた。
その日も、きっと耳に音楽を詰めたまま歩いていたのだと思う。
妹の誕生日プレゼントを買いに、駅ビルへ向かう途中だった。
空を見上げながら歩いていて、人とぶつかった。
相手は、同い年くらいの女の子だった。
手に持っていた地図が、床に落ちた。
彼女は驚いた顔のまま、立ち尽くしていた。
「大丈夫ですか」
私はイヤホンを外して、手を差し出した。
それが、妻との出会いだった。
彼女は道に迷っていた。
目的の画材屋が、どこにあるのか分からないのだと言った。
気づけば私は、すっかり一目惚れしていた。
画材屋まで一緒に歩いて、帰り際に、勇気を出して連絡先を聞いた。
手のひらに汗をかいていたのを、今でも覚えている。
それから、メールを交わし、何度か会った。
会えない日にも、何通も言葉を送り合った。
出会って二か月が過ぎた頃、彼女の方から言われた。
「私、あなたのこと、好きになっちゃったみたい」
言葉にならないほど嬉しかった。
週末が来るのが、待ち遠しくてたまらなくなった。
高校生活が終わる頃、私たちは同じ大学へ進む約束をした。
正直に言えば、私の学力では難しいと担任に言われていた。
それでも、彼女の願いを叶えたくて、ひたむきに机に向かった。
合格通知が届いた日、私たちは抱き合って泣いた。
あの時の笑顔を、私は今も忘れられない。
二十五歳という期限
二十歳の誕生日を迎えた、少し寒い日のことだった。
彼女から突然、電話が入った。
「別れよう」
意味が分からなかった。
混乱したまま、私は電車を乗り継いで、彼女の家へ向かった。
リビングには、彼女とご両親が並んで座っていた。
テーブルの上には、冷めた麦茶が三つ置かれていた。
彼女は、静かに話し始めた。
「私、持病があるの。二十五歳まで生きられるかどうか、分からないの」
「そんな私と一緒にいたら、あなたに迷惑をかけてしまう」
だから身を引こうと思った、と彼女は言った。
視界が、じわりと滲んだ。
けれど、ここで泣いたらすべてが終わってしまいそうで、歯を食いしばった。
私は無理に笑顔を作って、ご両親に頭を下げた。
「僕は、彼女にたくさんの笑顔をもらいました」
「どうか、最後まで一緒にいさせてください」
当然、反対された。
「若いんだから、後悔する前に諦めなさい」
お父さんは、低い声でそう言った。
けれど、諦められるはずがなかった。
長い沈黙のあと、彼女がふっと笑った。
「私、そういうところに惚れたのかも」
彼女はご両親に向き直って、背筋を伸ばした。
「私も、この人と最後までいたい」
お父さんとお母さんは、深いため息をついた。
そして、「好きにしなさい」と言ってくれた。
二十一歳の春、私たちは結婚した。
六畳一間のアパートは狭かったが、不思議とどこにいても妻の気配があった。
仕事へ出かける私を、妻はいつも玄関まで送ってくれた。
帰ってくると、炊飯器の湯気の向こうで、「おかえり」と笑った。
その声を聞くために働いているのだと、本気で思っていた。
まもなく、新しい命を授かった。
産婦人科で小さな心音を聞いたとき、私たちは手を握ったまま泣いた。
二十三歳の春、娘が生まれた。
かけがえのない、宝物だった。
二十本のビデオテープ
娘が生まれた頃から、妻は時々、不思議なことを口にするようになった。
娘の頬を指で撫でながら、微笑んで言うのだ。
「この子は、私が生きていた証」
「ねえ、この子のこと、お願いね」
「何言ってるんだよ」
私は笑ってごまかしたが、胸の奥がざわついた。
二十四歳の秋、妻は大きな紙袋を抱えて帰ってきた。
中には、ビデオテープが二十本入っていた。
「娘に残すテープよ」
そう言って、妻は静かに笑った。
私は、何も言えなかった。
それでも、その言葉の意味を、少しずつ理解し始めていた。
妻は、体調のいい日を選んでは、カメラの前に座った。
私が仕事に出ている間に、一本ずつ、ゆっくり撮っていたらしい。
撮り終えたテープは、棚に一本ずつ並べられた。
背表紙には、妻の細い字で、見てほしい日の見出しが書いてあった。
「十歳の誕生日に」
「初めて恋をした日に」
「お母さんになる日に」
そんなふうに、娘の人生の節目が、一本ずつ決められていた。
ただ、二十本目だけは、ラベルが裏返しに貼られていた。
「これは、最後に見るものよ」
妻は笑って、そう言うだけだった。
やがて、その日が来た。
妻は突然倒れ、病院に運ばれた。
医師は、私を廊下に呼んで言った。
「残された時間は、そう長くありません」
「できるだけ、お話をしてあげてください」
私は一時も離れず、ずっと妻の手を握っていた。
何日目かの夜、妻がゆっくりと目を開けた。
穏やかな顔で、微笑んでいた。
「どうした? こんなときに、そんなに幸せそうな顔して」
私が尋ねると、妻は小さく息をついて言った。
「だって、あなたは泣き虫だから」
「私が笑ってお別れしないと、ずっと泣いちゃうでしょ」
私は声を出さずに、ただ涙を流した。
妻は、くすっと笑った。
限られた時間を知りながら人を愛することについては、余命半年の彼女という話も思い出される。
「やっぱり、泣き虫だね」
彼女の手から、少しずつ力が抜けていった。
「私、幸せだった。あの時、結婚してくれて、ありがとう」
それが、妻の最期の言葉だった。
葬儀が終わって、部屋を片づけていたとき、枕の下から封筒が出てきた。
中には、私宛ての手紙が入っていた。
『元気にしてる?
これを見ている頃、私はもう天国にいると思います。
あなたは、私にたくさん優しくしてくれたね。
娘が生まれて、あなたが泣いて喜んでくれたとき、私は心から「産んでよかった」と思いました。
私がいなくても、ちゃんと育ててね。
あの子は、私が生きていた証です。
本当は、まだまだ書きたいことがあるけれど、ここで終わりにします。
あなたは泣き虫だけど、あの子の前では、男らしくしてね。
もう泣かないって、約束だよ。
私は、あなたのことを、ずっと愛しています。
妻より』
手紙には、涙の跡がいくつも残っていた。
あれほど笑っていた妻も、本当は泣いていたのだ。
お前も、泣き虫じゃないか。
そう思いながら、私は手紙を抱きしめた。
二十本目のラベル
それから七年が経った。
娘は、妻に似て、優しい子に育った。
毎年、誕生日の夜になると、私たちは二十本のビデオテープを一本ずつ再生してきた。
小さな画面の中で、妻はいつも同じ席に座り、同じ黄色いカーディガンを着て笑っている。
「十歳の誕生日に」を見た夜は、娘が画面に向かって「ママ、十歳になったよ」と話しかけた。
その背中を見ながら、私は台所で洗い物をするふりをして、泣いた。
約束は、まだ一度も守れていない。
天国の妻に宛てた手紙について、天からの手紙を読み返した夜もあった。
今夜は、娘が、妻への手紙を書いている。
その姿を見て、私も久しぶりに、便箋を広げた。
『最愛の妻へ。
今日、娘があなたに手紙を書いていました。
あなたが遺してくれた愛は、今も俺たちを包んでいます。
娘は、あなたにそっくりな顔で、元気に笑っています。
仕事は忙しいけれど、あの子と過ごす時間が、俺の支えです。』
そこまで書いて、ペン先が止まった。
視界が、またにじんでいた。
そのとき、娘が椅子を引く音がした。
「パパ、泣いてるの?」
娘は、棚の前に立っていた。
その手には、二十本目のテープが握られていた。
いつの間にか、ラベルの端が少し剥がれていた。
裏返しのラベルを、娘はそっと爪でめくった。
そこには、妻の細い字で、こう書かれていた。
「パパが泣いている日に」
私は声を失った。
娘は黙って、デッキにテープを差し込んだ。
画面が明るくなり、黄色いカーディガンの妻が現れた。
「こんにちは、泣き虫さん」
妻は、いたずらっぽく笑っていた。
「約束、守れなかったでしょう。いいよ、今日は泣いても」
「その代わり、横にいる子の頭を、ちゃんと撫でてあげてね」
私は娘の頭を撫でた。
娘は、小さな声で言った。
「ママにも、パパが泣き虫だって、バレてたんだね」
画面の中の妻と、膝の上の娘が、同じ顔で笑っていた。
もう一度、便箋に向き合う。
『最愛の妻へ。
俺はもう、泣き虫じゃなくなったよ。
いや、まだ少し、泣き虫だよ。
あなたが遺してくれたすべてに、ありがとう。』