血の繋がらない娘と楓

秋の庭園での静かなひととき

庭の楓が、今年も赤くなった。

もう五十年も前に、この手で、たった一本だけ植えた木だ。

ひとりで縁側に座って見上げていると、葉の隙間から、細い光がこぼれてくる。

その光の落ちる場所を、俺はずっと覚えている。

あの子が、まだ膝までしか背のなかった頃に、指さした場所だ。

俺は庭師だった。

城下町の外れ、古い武家屋敷の跡に残された庭を、何十年も手入れして暮らしてきた。

春は躑躅を刈り込み、夏は苔に水を打ち、秋は落ち葉を掃き、冬は雪吊りの縄を結ぶ。

そうやって、季節の輪を、何十周も回してきた。

俺には、親の顔も、名も無い。

物心ついた時には、もう親方の納屋で寝起きしていた。

源造という、無口で頑固な庭師が、行き場のなかった俺を黙って拾ってくれたのだと思う。

飯の食い方も、鋏の握り方も、すべて親方の背中から覚えた。

叱られた記憶はあっても、優しい言葉をかけられた記憶は、ほとんど無い。

それでも、握り飯をひとつ多く握ってくれる、その手の温度が、俺には親代わりだった。

親方の口癖は、「木は、嘘をつかん」だった。

手をかけた分だけ、木はまっすぐに応える。

人もそうだ、とは言わなかったが、その背中が、いつもそう語っていた。

その親方に、ひとり娘がいた。

澄という、目のまんまるな子だった。

俺が十七で住み込みを始めた時、澄はまだ生まれて間もない、布にくるまれた小さな塊だった。

昭和四十年代の、まだ庭にも町にも、土の匂いが濃く残っていた頃の話だ。

澄が育っていくのを、俺は弟子として、すぐ近くで見ていた。

よちよち歩きで庭へ出ては、刈ったばかりの枝を拾い集めて、得意げに俺へ差し出す。

その枝を「ありがとよ」と受け取るのが、俺の朝の決まりごとになっていた。

親方の女房は、澄が八つの年に、長く患った末、戻らぬ人となった。

気丈な人で、床に就いてからも、澄の髪だけは自分で結ってやると言って聞かなかった。

その人がいなくなってから、親方は、坂を転がるように痩せていった。

澄が十一になった春、親方は庭の手入れの段取りを、最後まで几帳面に俺へ言い置いて、眠るように逝ってしまった。

枕元で、俺の手を一度だけ強く握って、「澄を、頼む」と、それだけ言った。

葬式の片付けが済んで、二人きりになった納屋で、俺は二十八、澄は十一だった。

血は、一滴も繋がっていない。

親方の弟子という、ただそれだけの男と、親方の忘れ形見の娘。

血の繋がらない娘を、それでも俺は、生涯をかけて育てると、その夜に決めた。

周りは、ずいぶんと騒いだ。

「若いんだから、お前さんが背負い込むことはない」

「遠い親類なり、預け先なり、いくらでもあるだろう」

親方の遠縁だという人たちが、俺の知らない顔で次々と訪ねてきては、そう言って帰っていった。

だが、俺の頭に、その手の考えは、初めから無かった。

親方が拾ってくれた俺が、親方の娘を手放すなど、筋が通らない。

ただ、それだけのことだった。

親方の四十九日が過ぎた春の彼岸に、俺は庭の隅へ、楓の若木を一本植えた。

親方が生前、湯呑みを傾けながら、ぽつりと言ったことがあったのだ。

「澄が嫁ぐ頃に、ちょうど見頃になる木を、いつか植えてやりたいのう」

その言葉を、俺は勝手に、遺言のように受け取っていた。

穴を掘る俺の横で、澄が小さな手で、湿った土を押さえた。

「これ、いつ大きくなるの」

「お前が、うんと大人になった頃さ」

そう答えると、澄はわかったようなわからないような顔で、根元をぽんぽんと叩いた。

庭師は、植えた苗木に木札をつける。

いつ植えたか、どんな木か、忘れないように、細く削った板へ墨で書いて、枝に括りつけておくのだ。

その日、俺は木札に、楓の名と、植えた年と、そして小さく「澄」と書いた。

墨を磨る俺の手元を、澄はいつも飽きずに、息を詰めて見ていた。

盆になると、二人で、親方と女房の眠る寺へ参った。

澄は、墓前にしゃがんで、その日にあったことを、ひとつ残らず報告するのが常だった。

算数で丸をもらったこと。庄ちゃんが、また飯を焦がしたこと。

「お父さん、お母さん、うちは元気にやってます」

線香の細い煙が、まっすぐ空へ昇っていくのを、俺は澄の後ろで、黙って見ていた。

その煙の行き先に、確かに、二人がいるような気がした。

帰り道、澄は決まって、「庄ちゃんも、いつかあそこに入るん?」と訊いた。

「ずっと先のことさ」と、俺はいつも、はぐらかした。

暮らしは、楽ではなかった。

庭仕事の実入りは天気任せで、長雨が続けば、米櫃の底がすぐに見えた。

それでも、給金の入った日には、二人で決まって、町外れの小さな食堂へ行った。

澄が頼むのは、いつも親子丼と決まっていた。

湯気の向こうで、半熟の卵をすくっては、「庄ちゃん、これ半分こ」と、自分の丼を押してくる。

庄一というのが、俺の名だ。

父でも兄でもない、その「庄ちゃん」という呼び方が、当時の俺たちには、ちょうど良かった。

店の女将が、よく俺たちを見て、目を細めていた。

親子にしては似ていない、けれど他人にも見えない、妙な二人だったのだろう。

帰り道、満腹で機嫌のいい澄は、俺の指を一本だけ握って、暗い夜道を歩いた。

その小さな指の力が、その頃の俺の、たったひとつの拠り所だった。

その年の冬、澄が、ひどい熱を出した。

医者を呼ぶ金を惜しんで、俺は一晩中、濡らした手拭いを取り替え続けた。

うわごとで「おかあさん」と呼ぶ声を聞いた時、俺は柄にもなく、神も仏も総動員して祈った。

この子を、俺の不甲斐なさで、向こうへやってなるものか。

朝方、熱がすっと引いて、澄が「お腹すいた」と言った時、俺は粥を炊く手を、しばらく止められなかった。

親というのは、こういう夜を、何度もくぐって出来上がっていくのだと、その時、初めて知った。

金のない暮らしでも、澄の学用品だけは、何があっても揃えてやった。

絵の具が一色欠けていることに、参観日で気づいた夜は、翌朝いちばんで店へ走った。

庭の仕事は、頭を下げる仕事でもある。

無理を言う客先で、理不尽な小言を黙って飲み込むことも、いくらでもあった。

それでも、澄が新しい筆箱を抱えて笑う、その顔ひとつで、背中の重さは、すっと軽くなった。

澄は、庭仕事を覚えたがった。

鋏はまだ持たせられないから、まずは熊手の使い方から教えた。

落ち葉を一箇所に集めるだけのことが、子供には案外、難しい。

あっちへ散らし、こっちへ散らし、半べそをかきながら、それでも投げ出さなかった。

「庄ちゃんみたいに、上手になりたいねん」

そう言われた時、俺はそっぽを向いて、空を見上げるしかなかった。

親方が俺に遺してくれたものを、俺は知らぬ間に、この子へ手渡し始めていた。

町の目は、優しいばかりではなかった。

独り身の若い男が、年頃に近づいていく娘と、ひとつ屋根の下で暮らしている。

そういう図を、面白がって眺める者は、どこにでもいる。

ある晩、仕事先で心ない言葉を浴びせられた帰り道、俺は珍しく荒れていた。

お前さんも隅に置けないな、と、酒の入った男に、にやにや笑いで言われたのだ。

自分が情けなくて、親方に申し訳なくて、澄の寝た後、台所の隅にうずくまっていた。

灯りを消したつもりの背中に、ふいに、小さな手が触れた。

「庄ちゃん、泣かんでええよ」

起きていたのか、と振り向くと、澄が寝間着のまま、廊下に立っていた。

「うちがおるから。庄ちゃんは、ひとりやないよ」

十一の子が、二十八の大の男に、そう言ったのだ。

親に背負われる側のはずの子が、いつのまにか、俺の背中を支えていた。

その晩、俺の中で長いこと堪えていたものが、すっかり崩れてしまった。

澄が中学へ上がると、世間の目は、かえって厳しくなった。

三者面談で学校へ行くと、教師は決まって、品定めをするような顔で、俺を上から下まで眺めた。

父親の欄に、血の繋がらない男の名が書いてある。

それだけで、人は勝手な物語を作る。

近所の誰かが、ありもしない噂を、まことしやかに学校へ告げ口したこともあった。

呼び出されて、頭を下げて、誤解を一つずつ解いて回った。

腹も立った。

だがそれ以上に、澄に肩身の狭い思いをさせていることが、ただ申し訳なかった。

帰り道、澄は俺の袖を引いて、こう言った。

「うちは、なんも気にしてへんよ。庄ちゃんが、うちのお父さんやもん」

その一言で、俺はまた、何も言えなくなった。

一度だけ、澄が学校で、級友と取っ組み合いの喧嘩をして帰ってきたことがある。

訳を聞いても、唇を結んで、頑として言わない。

後になって、担任から、こっそり聞かされた。

「お前のところは、本当の親子じゃないんだろう」と囃した相手に、澄が掴みかかったのだという。

擦りむいた膝を消毒してやりながら、俺は、叱るべきか礼を言うべきか、わからなくなった。

「血が繋がってへんかったら、親子やないんか」

澄は、そう呟いて、ぷいと横を向いた。

その横顔が、あんまり親方に似ていて、俺は思わず噴き出してしまった。

その冬、庭の楓が、危なかった。

前の年の野分で根を傷めていたところへ、ひどい寒さが続いて、幹の半ばから先が、すっかり色を失ってしまった。

俺は藁を巻き、根元を温め、毎朝、白い息を吐きながら、様子を見に通った。

枯らすわけには、いかなかった。

親方が遺し、澄と植えた、たった一本の木だ。

この木を守ることが、いつのまにか、澄を守ることと、俺の中で、同じ意味になっていた。

澄も、毎朝、藁の上に、自分の手を当てて温めていた。

二人して、息を吹きかけては、芽が出ろ、芽が出ろ、と祈った。

春になって、傷んだ枝の先に、ひとつ、また小さな芽が吹いた時、俺は人目もはばからず、その場にしゃがみ込んでしまった。

澄が、俺の背中をさすりながら、声を上げて笑っていた。

楓が、また葉を広げた、初夏の夕暮れ。

縁側に並んで座って、澄が、葉の隙間から落ちる光を見上げて、ぽつりと言った。

「お母さんとお父さん、あの光のところから、こっち見とるんやろか」

俺は何も答えられず、ただ、同じ場所を見上げた。

葉の重なりの、いちばん明るいところに、確かに、人の温もりのようなものが、宿って見えた。

「見とるさ。お前が笑っとるか、毎日、確かめてる」

そう言うと、澄は、少しだけ笑って、俺の肩に頭をあずけた。

その重みを、俺は今でも、肩のあたりに覚えている。

澄が高等学校を出る、卒業の日。

保護者の席に、仕事着を脱いで、たった一着の背広で座った。

周りは、見慣れた母親たちの、華やいだ列だった。

その中で、日に焼けた庭師の俺は、ずいぶんと場違いだったろう。

だが、名を呼ばれて壇上へ上がった澄が、客席の俺を、まっすぐに見つけて、にっこりと笑った。

その一瞬で、周りの目など、どうでもよくなった。

あの小さな塊が、ここまで大きくなった。

それを見届けられただけで、俺の人生は、もう十分に釣りが来ていた。

時は、呆気ないほど早く流れた。

澄が二十五になった年の暮れ、改まった顔で、俺の前に座った。

「庄ちゃん。うち、所帯を持ちたい人が、おるの」

ちょうど、俺が親方の納屋に住み込んだ頃の親方と、同じ年回りに、澄はなっていた。

正直に言えば、胸の底が、ぐらりと揺れた。

だが、その揺れを、顔には出さなかった。

親方が、俺を送り出してくれた時も、きっと同じ顔をしていたのだろう。

翌週、相手の男に会った。

澄を見る、その目が、まっすぐで、温かかった。

こいつなら大丈夫だ、と思った。

そう思った途端、胸の底に、言葉にならない穴が、ひとつ、ぽっかりと開いた。

嬉しいのに、寂しい。

その二つが、同じ場所から湧いてくるのだと、俺はその年になって、初めて知った。

帰り際、その男が、深く頭を下げて言った。

「澄さんを、大切にします」

俺は、何か気の利いたことを言ってやろうとして、結局、何も言えなかった。

ただ、親方が俺の手を握った時のことを思い出して、その男の手を、一度だけ、強く握り返した。

言葉は、いつも後から追いついてくる。

祝言の日は、よく晴れた。

庭の楓は、いつのまにか屋根を越すほどに育って、その年いちばんの赤に、燃えていた。

親方が言った通り、澄が嫁ぐ年に、ちょうど見頃になっていた。

色直しの後、澄が、一枚の手紙を、ゆっくりと読み始めた。

「庄ちゃん。ううん、お父さん」

その最初のひと言で、俺の膝の上の手が、震え出した。

「お母さんが、お父さんが向こうへ行ってしまった時、うちは、自分がこれからどうなるんやろうと、それだけが怖かった。

血の繋がらない若い男の人が、うちみたいな子を背負って、人生を棒に振るんやないか。

そやから、自分なんか居らんほうがええんかな、と、子供心に、ずっと思うとった。

でも、庄ちゃんは、そんなこと、一度も顔に出さんかった。

あたりまえみたいな顔して、毎日ごはんを食べさせて、楓に水をやって、うちの隣に、ただ、おってくれた。

運動会も、参観日も、いっつも仕事着のまま、息切らして走って来てくれたね。

うちのお父さんは、庄ちゃん、あんた一人だけや。

血は、繋がってない。それが、うちのいちばんの自慢です」

腕を組んでバージンロードを歩いた、あの数歩で、必死に堪えていたものが、その手紙で、とうとう溢れた。

あの春、二人で土を押さえた小さな苗木が、屋根を越す木になるまでの、長い長い歳月。

間違っていなかった、と、心の底から思った。

親方の娘を、俺の娘だと思って育てた、その三十数年が、たった今、ひとつ残らず報われた気がした。

澄が嫁いだ後の家は、急に広く、空っぽになった。

片付けをしていると、台所の棚や、俺の仕事着のかかった衣紋掛けに、小さな木札がいくつも括りつけられているのに気づいた。

庭師が苗木につける、あの細い木札だ。

幼い頃の澄が、俺の真似をして、こっそり結んでいったものらしい。

「みそ」「こめ」「しょうゆ」

どれも、覚えたばかりの平仮名で、たどたどしく書かれていた。

俺が一人になっても困らないようにと、嫁ぐ前に、そっと結び直していったのだろう。

そこまで頼りない父親に見えていたか、と、俺は声に出して笑った。

笑いながら、その木札を、ひとつも外せずにいる。

夜、ひとりの食卓は、いやに静かだった。

親子丼を作ってみたが、半分こにする相手のいない丼は、やけに量が多かった。

それでも、空っぽになった家の中で、俺は不思議と、寂しさだけではなかった。

育てる、ということは、いつか手放すために、毎日少しずつ準備をすることなのだと思う。

その準備が、ようやく実を結んだのだ。

抜け殻のような心地と、やり遂げた静かな誇りが、胸の中で、ゆっくりと混ざり合っていた。

庭の楓は、今年もまた、赤くなった。

近いうちに、澄によく似た孫が、この庭を駆け回るのだろう。

その子に木札の結び方を教えてやるのが、今の俺の、ささやかな楽しみだ。

血は、繋がっていない。

それでも俺は、確かに、あの子の父だった。

木は、嘘をつかない。

手をかけた歳月の分だけ、この楓も、あの子も、まっすぐに育ってくれた。

葉の隙間から落ちる光が、今日も、あの日と同じ場所を、静かに温めている。

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