折られた十二本
四歳の娘が、桐の小箱を胸に抱えて浜へ下りてきたのは、雪の消えたばかりの三月の午後でした。
能登の先、珠洲の揚げ浜です。
海から桶で汲んだ水を砂に撒き、日と風で濃くして、釜屋で炊く。
私の家は、その塩田を四代続けています。
その日は風が北から回っていて、砂の乾きが速い、いい日でした。
私は柄振りを持ったまま、娘のほうを見ました。
箱の中身は、祖父が削った描き炭です。
釜屋の焚き口から出る松の消し炭を、小刀で細く整えたもの。
十二本ありました。
保育所の進級の祝いにと、前の晩に祖父が娘へ渡したものです。
その十二本が、全部、真ん中から折れていました。
箱の底に、二十四本の短い炭が転がっていました。
炭は軽いので、娘が歩くたびに、乾いた音で鳴っていました。
蓋を開けたまま運んできたので、風で黒い粉が舞い、娘の前掛けに筋がついていました。
妻が声を上げたのは、それを見た瞬間です。
「咲、あんた、なんちゅうことしたが」
娘は箱を抱えたまま、口をへの字にして黙っていました。
「爺ちゃんが、何日かけて削ったと思うとるが」
妻の手が娘の背に一度落ちて、そこからは泣き声だけになりました。
私は何も言えませんでした。
祖父が一本削るのに、どれだけ時間をかけるか知っていたからです。
炭は削っている途中で欠けます。
十二本を揃えるのに、たぶん三十本は消えている。
娘は泣きながら、それでも箱だけは離しませんでした。
砂の上に、小さな足跡が二列に残っていました。
片方が少し内を向いているのは、走ってきたからです。
見せに来たのだと、そのとき気づけばよかったのだと思います。
※
釜屋の火と、祖父の小刀
揚げ浜の仕事は、朝が早い。
まだ暗いうちに桶を担いで海へ下り、汲んだ水を塩田へ運びます。
肩に担ぐ天秤棒は、父の代からのものです。
撒いた砂を柄振りで返し、日に当て、また撒く。
それを一日に何十回と繰り返して、濃くなった砂を集めます。
集めた砂を垂船に入れて海水を通すと、下から鹹水が落ちる。
その水を釜屋で炊いて、ようやく塩になります。
一日立っていても、上がるのは笊にひとつです。
釜屋の火は、松でなければいけません。
松でないと、あの温度が続かない。
焚き口の脇には、燃え切らなかった炭がいつも溜まります。
祖父は仕事が終わると、その消し炭を火箸で拾って、囲炉裏端に並べていました。
湯呑みの茶を一口飲んで、小刀を出す。
角を落として、指で持てる太さにして、先を尖らせる。
松の炭は、紙に引くと少し赤みのある黒になります。
普通の墨より、海の色に近い。
私も子どもの頃、それで浜の絵を描かされました。
うまく描けたことは一度もありません。
祖父は、炭を削るとき、いつも一本だけ、途中で手を止めました。
その一本を膝の上に置いて、しばらく海のほうを見ている。
囲炉裏の火が、祖父の頬の皺を下から照らしていました。
それから、また削り始める。
癖だと思っていました。
七十八になっても、祖父は毎朝、浜に立ちます。
腰は曲がっていますが、柄振りの角度だけは誰よりも正確です。
砂を返したあとの筋が、定規で引いたようにまっすぐになる。
私がやると、必ずどこかで波打ちます。
「爺ちゃん、もう無理せんでもいいがに」
そう言うと、決まって同じ返事が返ってきました。
「浜は、休むと忘れるさかい」
忘れるのは浜か、自分か。
どちらの意味なのか、私は訊いたことがありません。
※
はんぶんこ
娘が泣きやんだのは、日が傾いてからでした。
私は縁側に腰を下ろして、隣に座らせました。
三月の風はまだ冷たくて、娘の鼻の頭が赤くなっていました。
沖のほうで、白いものが立ち始めていました。
「咲。なんで折ったが」
娘はしゃくり上げながら、切れ切れに言いました。
「ほのちゃんと ヒック はんぶんこ する ヒック やくそく したんだもん」
次女の穂乃は、まだ二歳です。
箱をもらったとき、穂乃が横で手を伸ばして泣いたのを、私も見ていました。
咲は「あげん」とは言いませんでした。
そのかわり、その晩のうちに、十二本を全部折ったのです。
十二本のままでは、姉と妹で六本ずつになる。
折れば、二十四本になって、十二本ずつになる。
四歳の頭で、そこまで数えたのだと思います。
いや、数えたというより、六より十二のほうが多い、と思っただけかもしれません。
どちらでも同じことです。
妹に少ないほうを渡したくなかった。
それだけの話でした。
私は娘を抱き寄せました。
濡れた頬が、私の首に当たりました。
小さい体は、思っていたより熱かった。
髪から、保育所の給食の匂いがしました。
「そうか」
それだけしか言えませんでした。
台所のほうで、水を止める音がしました。
妻が、蛇口の前で動かずに立っていました。
背中が、少し丸くなっていました。
その晩、妻は咲の茶碗に、いつもより多く飯を盛りました。
謝るかわりだったのだと思います。
咲は何も言わずに、全部食べました。
※
浜婆のタツさん
翌日、隣のタツさんが、大根の煮たのを持って上がってきました。
八十を過ぎても背筋のまっすぐな人で、若い頃は塩を担いで山を越えた口です。
咲が折った炭の話は、もう浜じゅうに広まっていました。
狭い土地ですから、隠しても仕方がありません。
タツさんは炭の入った箱を覗き込んで、大きな声で笑いました。
「そりゃあ、あんたんとこの婆ちゃんとおんなじや」
私は意味が分からず、聞き返しました。
「あんたの婆ちゃん、羊羹もろたら、包丁の前に手で割る人やった」
「切ったら、どっちか大きいの、分かってしまうさかい」
手で割れば、どちらが大きいか誰にも分からない。
だから割ってから、目をつぶって選ばせた。
そういう人だったのだそうです。
私は祖母を五つで亡くしているので、覚えていません。
覚えていないことを、こういう形で聞かされる日があります。
タツさんは湯呑みを両手で持って、縁側から浜を見ていました。
「あんたの爺さんは、あの婆ちゃんに、ようやられとったよ」
それだけ言って、帰っていきました。
大根は、少し甘すぎました。
※
保育所で聞いたこと
その週の終わりに、保育所へ迎えに行きました。
担任の先生が、下駄箱のところで私を呼び止めました。
二十代の、まだ声の高い先生でした。
「咲ちゃん、あの箱の話、みんなにしとりましたよ」
私は身構えました。
叱られた話をしたのだと思ったのです。
先生は首を振りました。
咲は皆の前で、こう言ったのだそうです。
「ひいじいちゃんの、まっくろのえんぴつ、もらった」
「いもうとと、はんぶんこ、するの」
もらったその日に、そう言っていた。
つまり咲は、折る前から、分けるつもりでいたのです。
箱を開けて、中を数えて、それから決めた。
衝動ではありませんでした。
先生は、少し言いにくそうに続けました。
「あのとき咲ちゃん、六本ずつやと足りん、って言うたんです」
何が足りないのか、先生にも分からなかったそうです。
私にも、しばらく分かりませんでした。
家に帰って、穂乃の手を見て分かりました。
二歳の手は、まだ短い炭しか握れません。
長いままの一本は、妹の指からはみ出して落ちる。
咲は妹に、持てる長さのものを渡したかったのです。
数の話ではありませんでした。
帰り道、私は娘の手を強く握りすぎて、嫌がられました。
※
刻みの意味
その晩、折れた炭を桐の箱に戻していて、手が止まりました。
十二本のうち一本だけ、真ん中に、浅い刻みが入っていました。
小刀の先で、ぐるりと一周、細く彫った跡です。
そこで折れていました。
他の十一本は、折り口がぎざぎざに割れています。
炭は繊維の向きが乱れているので、素手で折ると必ず崩れる。
けれど刻みのあった一本だけ、断面がまっすぐでした。
紙やすりをかけたように、平らでした。
私はその二片を、指の腹で合わせてみました。
ぴたりと合いました。
翌朝、私は釜屋で祖父に訊きました。
祖父は火のそばに座って、灰をならしていました。
釜の湯が、まだ小さく鳴っていました。
「爺ちゃん。あの炭、なんで一本だけ、刻んであったが」
祖父は火箸を置いて、しばらく黙っていました。
灰の上に、細い線を一本だけ引きました。
それから、こう言いました。
「子どもが二人おる家に、十二本渡すもんやない」
私は意味が分からず、黙っていました。
祖父は続けました。
「けど、はじめから六本ずつ渡したら、あの子は分けたことにならん」
「分けたい思うたときに、ちゃんと折れるようにしとかんと、あの子が痛い思いをする」
だから一本だけ、折り方の見本を入れておいた。
残りの十一本は、咲が自分で折るだろうから、そのままでいい。
最初の一本さえきれいに折れれば、あとは指が覚える。
祖父は、折られる日のために、あの一本を削っていたのです。
私は火の前で、しばらく声が出ませんでした。
咲が炭を折ったのは、しつけの失敗ではありませんでした。
祖父が四日かけて用意した、いちばん静かな贈り物でした。
そして妻も私も、それを叱ってしまった。
「爺ちゃん。なんで、先に言うてくれんかったが」
祖父は灰を平らにならしながら、短く答えました。
「言うたら、あの子が自分で決めたことにならん」
※
兄が出て行った春
祖父は灰をならしながら、もうひとつだけ話しました。
私には、七つ上の兄がいます。
いまは金沢で、電気工事の仕事をしています。
盆と正月に電話が来ますが、浜には二十年帰っていません。
兄が高校を出る年の春、祖父は柄振りを一本しか新調しませんでした。
塩田の道具は高い。
柄の部分は樫で、板は年輪の詰まった杉でないと、砂に負けます。
その年は雨が続いて塩が上がらず、二本は無理だったのだそうです。
祖父は、新しいほうを兄に渡しました。
私には、古いほうが回ってきました。
それが公平だと、祖父は思っていた。
上の子に新しいものを渡すのは、この土地では当たり前のことです。
けれど兄は、その日から浜に下りてこなくなりました。
夏には求人票を持って帰ってきて、秋には金沢に部屋を決めていました。
「新しいのをもろた者が、継がなあかんて意味やと思うたんやろ」
祖父はそう言いました。
兄は継ぎたくなかったのではなく、選ばれたと思い込んで、逃げたのです。
誰も、そうは言っていませんでした。
誰も、そうではないとも言いませんでした。
兄が出た年の暮れ、祖父は新しい柄振りを納屋の梁に上げました。
使わないまま、二十年そこにあります。
「わしは、あんとき、二本を半分にする方法を考えんかった」
祖父の指は、灰の上で止まっていました。
「炭は、折れる。柄振りは、折れんかったさかいな」
私は、祖父が炭を削る途中で手を止めていた理由を、そこで理解しました。
あの一本を膝に置いて海を見ていた時間は、兄のことを考えていた時間でした。
※
浜に残るもの
咲が穂乃に炭を渡したのは、私が祖父の話を聞いた日の夕方でした。
縁側に新聞紙を敷いて、二十四本を横一列に並べる。
長さの違うものを、背の順のように揃えていました。
それから、端から一本ずつ交互に取っていきました。
自分、妹、自分、妹。
最後の一本が余ると思ったのか、途中で並べ直していました。
穂乃は、渡された炭をすぐ口に入れようとしました。
咲が慌てて取り上げて、「これはたべもんじゃない」と怒りました。
怒られた穂乃が泣いて、咲がまた困った顔をしていました。
そのやりとりを、妻が台所の戸口から見ていました。
何も言いませんでした。
その晩、妻は咲の枕元に、包み紙にくるんだ飴を置いていました。
謝ることが下手な人です。
私も同じなので、何も言いませんでした。
その春から、咲は毎日、短い炭で絵を描きました。
穂乃も、握るというより舐めるようにして、紙を汚していました。
二人ぶんの黒い指を、妻が夕方に洗います。
石鹸では落ちません。
結局、浜の砂で擦るのが一番よく落ちました。
砂で擦ると、姉妹そろって「痛い」と騒ぎます。
その声が釜屋まで届くと、祖父が笑うのが分かりました。
咲が最初に描いたのは、柄振りを持った祖父の絵でした。
腕が四本ありました。
理由を訊くと、「はやいから」だそうです。
その絵は、いまも釜屋の柱に貼ってあります。
角が焦げて、少し縮んでいます。
祖父は八十三で浜を下りました。
最後の年、私に一本だけ、描き炭を削ってくれました。
真ん中に、刻みが入っていました。
何のためかは、訊きませんでした。
私はそれを折らずに、道具箱に入れてあります。
いつか折る日が来るのだと思います。
兄に電話をかけたのは、去年の暮れです。
用件は特にありませんでした。
納屋の梁の柄振りのことも、言いませんでした。
「浜、まだやっとるんか」
「やっとる」
それだけで、十分でした。
電話を切ったあと、受話器がしばらく温かかったのを覚えています。
咲は今年、高校を出ます。
進路の紙に、まだ何も書いていません。
私は何も言わないつもりです。
継げとも、出て行けとも、言いません。
渡すなら、折れるものを渡そうと決めています。
※
十四年目の桐箱
去年の暮れ、納屋を片づけていて、桐の小箱が出てきました。
蓋の合わせが緩んで、開けるのに力は要りませんでした。
中に、短い炭が十二本入っていました。
二十四本のうちの、咲のぶんです。
穂乃のぶんは、たぶん幼稚園のあいだに使い切ったのでしょう。
咲のほうは、一本も減っていませんでした。
先が丸いままです。
一度も紙に当てていない。
毎日絵を描いていたのは覚えているのに、と思って、しばらく考えました。
あのとき咲が使っていたのは、穂乃に渡したほうの箱でした。
妹の炭を借りて描いて、自分のぶんはしまっていた。
四歳の子が、どうしてそんなことをしたのか。
訊いても、たぶん覚えていないと思います。
箱の底に、黒い粉が薄く溜まっていました。
指ですくうと、いまでも少しだけ赤みがありました。
松の炭の色です。
私はその粉を、釜屋の焚き口へ戻しました。
松は、燃えたあとにもう一度、誰かの手に渡ることがあります。
塩も同じです。
海の水がそのまま塩になるわけではありません。
何十回も撒かれて、返されて、漉されて、炊かれて、ようやく笊にひとつ残る。
残ったものだけが人の口に入って、なくなります。
祖父が四日かけて削った十二本も、そういうものだったのだと思います。
形はもう残っていません。
残ったのは、咲が妹に手を伸ばしたときの、あの短い迷いだけです。
それでいいのだと、いまは思えます。
納屋の梁の柄振りは、そのままにしてあります。
下ろして使えば、二十年ぶんの埃は落ちるでしょう。
けれど、あれは兄のものです。
兄が要らないと言うまで、私が決めることではありません。
盆に電話があったら、今年は納屋の話をしてみようと思っています。
折れなかったものにも、渡し直す方法はあるはずです。
※
書き終えて
道具に残った手つきから、人の本心が遅れて届く。
そういう話を、私はいくつも聞いてきました。
黙って続けられた手入れの意味に、あとから気づく話として義父が黙って巻いた時計を、兄弟のあいだで交わされなかった言葉の話として兄はひびの入った桶を選んだを、あわせて置いておきます。
どちらも、折れるように作られていた何かの話です。