
俺は大西由紀子が怖かった。
最初にそう思ったのは、五島列島の気象観測所に赴任した二十四歳の春だった。
長崎本土からフェリーで揺られること三時間。甲板から見えてきた島の輪郭は、靄に霞んで曖昧だった。海が光っていた。
観測所は港から車で二十分、丘の上に建つ白い建物だった。
その日の夕方、俺は初めて大西さんと向き合った。
「津田さんね。よろしく」
それだけ言って、彼女は書類に視線を戻した。
短く切った白髪まじりの髪。細い金縁の眼鏡。六十近く見える顔だったが、実際は五十三歳だった。
翌日から、俺への指導が始まった。
「ここの数値、なんで昨日と違うの」
「あ、えっと……」
「えっとじゃない。理由を言って」
厳しいというより、淡々としていた。感情を見せない人だった。褒めることもなく、励ますこともなく、ただ間違いを指摘し続けた。
俺が一番最初に覚えた感覚は、この島では失敗が許されない、というものだった。
朝の気圧配置を読み間違えただけで、「もう一回」と言われた。観測データの記録が五分遅れただけで、「なぜ」と言われた。
理由があれば聞いてくれたが、納得しないと次の仕事には進ませてもらえなかった。
同期に電話で愚痴を言うこともあった。「うちの先輩、めちゃくちゃ怖い」と。向こうは笑ったが、俺には笑えなかった。
秋になると、観測所のある丘は強い風に包まれた。夜は特に、窓の隙間から音が入り込んだ。
九月の終わり、台風が五島列島に接近した夜のことを今でも覚えている。
外の気圧センサーが誤作動を起こし、俺は観測データを正確に取れないままでいた。
夜中の二時だった。
「どうしました」
後ろから声がして振り返ると、大西さんが立っていた。
制服姿で、コーヒーを片手に持っていた。
「あ、すみません。センサーが……」
「見せて」
彼女は俺の隣に座り、端末を見た。数分だけ画面を見つめ、それから静かに言った。
「右側のポートが接触不良になることがある。古い機材だから。新品のときだけ右を使って、それ以降は左」
そう言って、彼女は別のポートをタップした。
値が安定した。
「……ありがとうございます」
「次は自分で気づいて」
そのまま彼女は立ち上がり、出て行った。
礼も、激励も、何もなかった。ただ問題を解決して、消えた。
俺はその夜、台風の音の中で、何かを喉に詰まらせたような気持ちで座っていた。
冷えたコーヒーの匂いだけが残っていた。
大西さんのカップだった。飲みかけのまま、机の端に置いてあった。
翌朝、カップは洗われて棚に戻っていた。
それについても、何も言わなかった。
※
冬が来て、春が来た。
俺は少しずつ、仕事を覚えていった。
風のパターンを読む感覚。島特有の気圧の偏りを見る目。観測データの中に「おかしな点」を見つける習慣。
そのどれも、大西さんに何度も指摘されながら、気づかないうちに身についていたものだった。
着任二年目の秋、俺は五島の観測データを整理しながら、あることに気づいた。
台風の季節になると、この島では特定の方角からの風が気圧データに微妙な誤差をもたらしている。
地形の影響か、建物の配置の問題か。気になって過去のデータを掘り返し、傾向を記録し始めた。
それは仕事の範疇を超えた、ただの個人的な興味だった。
大西さんはたまに俺の端末画面を覗いたが、何も言わなかった。
「何を見てるんですか」と聞かれたこともなかった。
翌年の春、俺は全国の気象技術職員を対象にした若手研究発表会で入賞した。
「すごいな、津田」と所長に言われた。
「運がよかっただけです」と俺は答えた。
正直、自分では大したことをしたとは思っていなかった。日々の観測の中で気になっていたことをまとめただけだった。
発表の翌日、表彰状が届いた。
大きな封筒を受け取って、俺は自分の机に置いた。
大西さんは一言も言わなかった。
「よかったね」でも「頑張ったね」でも、何もなかった。
書類仕事をしながら俺をちらりと見た気がしたが、目が合うと視線を戻した。
俺は内心、少しだけ傷ついた。
褒めてほしかったわけじゃない。ただ、何か言ってほしかった。それを言葉にすることもなく、俺は封筒を引き出しの奥にしまった。
開けもしないまま。
※
大西さんが退職したのは、俺が着任して三年目の三月だった。
定年より二年早い退職だった。
理由は何も言わなかった。
最終日も淡々としていた。
荷物は一つの段ボールにまとまっていた。机の引き出しのものだけで、あとは何もない。仕事に関係のないものを、何も置いていなかった人だった。
「じゃ」
それだけ言って、彼女は観測所を出ていった。
俺たちは玄関で頭を下げた。
フェリーの時刻まで、まだ三時間あった。
大西さんは一人で丘を下りていった。
春の終わりの風が、丘の斜面の草を揺らしていた。
俺はその背中を見ながら、何か言えばよかったと思った。
三年間、俺を叱り続けた人に。何か伝えるべきことがあったはずだった。
でも何を言えばよかったのか、わからなかった。
声が出なかった。
彼女の後ろ姿は、ゆっくりと丘の下に消えていった。
※
それから五年が経った。
俺は今も五島にいる。
副主任になり、後輩ができた。観測データのミスを指摘するようになった。
「ここの数値、なんで昨日と違うの」と言っている自分に気づくことがある。
あの人と同じ言い方をしている、と思うたびに、胸の奥に小さな沈み込みがある。
あの人はいつも、こういう気持ちで言っていたのだろうか。
そんなことを考えたのは、去年の秋だった。
引き出しの整理をしていて、俺はあの封筒を見つけた。
表彰状が入ったまま、ずっとそこにあった。
五年前に一度も開けていなかった。
何となく開けた。
折り目のついた表彰状の後ろに、もう一枚の紙が挟まっていた。
それは推薦書のコピーだった。
「推薦者:大西由紀子」という名前が、下の端に小さく書いてあった。
俺は三十秒ほど、その紙を見続けた。
状況を理解するのに、それだけ時間がかかった。
※
翌日、俺は先輩の成田に聞いた。
「あの発表会、自分で申し込んだわけじゃないよな」
成田は少し驚いた顔をした。
「お前、知らなかったのか」
「……知らなかった」
「大西さんが一人で書類作って出したんだぞ。推薦書も、お前の観測データを整理した資料も、全部。本人には絶対言うなって念まで押されてた」
俺は何も言えなかった。
「入賞した日な、大西さんいつもより早く帰っただろ。あの日だけ、少しうれしそうにしてたのを覚えてる。帰り際にコーヒー飲んで、静かにうなずいてた」
声が出なかった。
「お前が封筒を引き出しにしまったのも、たぶん知ってたんじゃないかな。でも何も言わなかったよ、あの人は」
成田はそう言って、コーヒーカップを持って席に戻った。
俺はしばらく動けなかった。
あの人は、一年かけて俺の観測データを見ていた。
俺が台風の夜に間違えたこと。俺が気づいていなかったパターン。俺では言語化できていなかった傾向。
全部拾って、まとめて、推薦書を作って、黙って出した。
受賞した日も、表彰状が届いた日も、何も言わなかった。
退職の日まで、何も言わなかった。
ずっと、何も言わなかった。
※
その夜、俺は観測所の外の丘に出た。
五月の夜の空は晴れていて、低い月が島の向こうに出ていた。
海の音だけが聞こえた。
草が足元で揺れていた。
大西さんは今、長崎の実家にいると聞いた。
連絡先は知らない。
会いに行く勇気も、まだない。
ただ、俺は翌朝、引き出しから表彰状を出して、壁に貼った。
五年間、封筒の中にしまっていたままの、少し黄ばんだ賞状を。
あの夜の台風の音と一緒に、ずっとそこにあったものを。
俺はその前に立ち、頭を下げた。
言葉は出なかった。
出なくても、よかった。
そういえばあの人も、いつも言葉にしない人だった。