手放した三頭の馬と古い鈴

冬の牧場と馬たち

引き出しの奥に、もう鳴らない鈴がひとつ仕舞ってある。

掌にのせて振っても、芯はとうに錆びついて、かすかに乾いた音がこぼれるだけだ。

それでも、窓の外を雪が斜めに落ちてくる朝には、私は決まってこの鈴を取り出してしまう。

八十を過ぎた今でも、あの三頭の足音が、雪の下のずっと深いところから聞こえてくる気がするのだ。

私が牧場で働きはじめたのは、十九になった春のことだった。

北の開拓村に、雪解け水が音を立てて流れはじめる季節だった。

父の畑は石ばかりで痩せていて、口減らしのつもりで、私は隣の村の馬牧場へ住み込みに出された。

旦那さんは無口な人で、初めての日に私へ言ったのは、たったひと言だけだった。

「馬は、人の心を読むからな」

その言葉の意味が分かるまでに、そう長くはかからなかった。

牧場には、三頭の輓馬がいた。

畑を起こし、丸太を曳き、冬には橇を引いて、村じゅうの荷を運ぶ大きな働き者たちだった。

一番の年寄りの牝馬を、みんなはハナと呼んでいた。

鹿毛の背に、雪のような白い斑がひとつだけあって、それが花びらのように見えたからだ。

あとの二頭は、図体ばかり大きくて気の優しいタケと、まだ脚の細い若いユキだった。

住み込みのはじめの幾晩か、私は藁の匂いになじめずに、厩の隅で膝を抱えていた。

そんな夜、闇の中から、ふうっと温かい息が首筋にかかった。

ハナだった。

大きな顔を私の肩のあたりまで下ろして、ただ静かに、鼻先を寄せてきた。

叱るでも慰めるでもなく、ただそこに重さがあった。

私はその夜から、藁の匂いを怖いと思わなくなった。

その年の冬は、雪が深かった。

村の医者が峠の向こうの集落へ呼ばれて、戻れなくなった夜があった。

高い熱を出した赤ん坊を、町の病院まで運ばねばならないと、戸を叩く声がした。

車はとうに雪に埋もれて、うんともすんとも動かなかった。

旦那さんは黙って厩へ行き、ハナとタケに橇をつないだ。

私はランタンを提げて、橇の先に立った。

吹雪のなか、二頭は首を低くして、胸で雪を割りながら、ひと足ずつ進んだ。

道がどこにあるのかも分からない白い闇を、ハナは一度も迷わずに歩いた。

夜明け前、ぼんやりと町の灯りが見えたとき、橇の上の赤ん坊は、まだ小さな声で泣いていた。

泣き声がする、ということが、あんなにありがたいと思った夜は、後にも先にもなかった。

村へ帰る道で、私はハナのたてがみに頬を寄せて、ありがとう、と何度も言った。

ハナは、ただいつものように、ふうっと白い息を吐いただけだった。

私の朝は、口笛から始まった。

母が幼い私に歌ってくれた子守唄を、私は毎朝、厩の前で口笛にして吹いた。

最初の数小節を吹くと、薄暗がりの奥から、三つの大きな影がのっそりと起き上がってくる。

ハナが先頭で、タケが続き、ユキが眠そうに一番うしろを歩いた。

その順番が、何年経っても狂うことはなかった。

飼い葉を食べ終えると、ハナは決まって私の肩に額を押しつけてきた。

硬くて、温かくて、少しざらりとした、あの額の感触。

私はそのたびに、両手でハナの頬をはさんで、おはよう、と声をかけた。

言葉の通じない相手に、それでも毎朝、おはようと言える暮らしが、私にはありがたかった。

タケは、見かけによらず臆病な馬だった。

雷の鳴る晩は、大きな体を縮めて、ユキの隣にぴたりと身を寄せた。

年下のユキのほうが、よほど肝が据わっていた。

それでも朝になれば、タケは何ごともなかったような顔をして、一番大きな荷を平気で曳いた。

ユキは、私の前掛けのポケットを、いつも鼻先でつついた。

そこに時々、畑の人参のかけらを忍ばせているのを、知っていたからだ。

見つかると、ユキは叱られた子どものように、そっと首をすくめた。

三頭には、三頭それぞれの、言葉のいらない物語があった。

ハナの首には、小さな鈴がひとつ結わえてあった。

霧の濃い朝、馬を山の畑へ追うとき、その音だけが頼りになるからだ。

りん、りん、と雪を踏むたびに鳴るその音を、私はいつしか自分の鼓動のように覚えていた。

夏は、三頭で開墾地の切り株を引き抜いた。

秋は、刈り取った燕麦を山と積んだ荷車を曳いた。

冬は、首をぐっと低くして、橇の轅に全身でもたれかかるようにして雪を割った。

汗が湯気になって背中から立ちのぼる様を、私は世界で一番美しいものだと思っていた。

田植えの季節になると、三頭は朝から晩まで、代掻きの仕事に追われた。

泥だらけになって帰ってくる三頭を、私は井戸の水で、丁寧に洗ってやった。

濡れた毛から湯気が立って、夕日にきらきらと光った。

洗い終えると、ハナは決まって、ぶるるっと大きく身震いをして、私を水しぶきだらけにした。

私が悲鳴をあげると、タケとユキまで、面白がるように身震いをした。

そんな夕方が、いつまでも続くものだと、私は疑いもせずに信じていた。

村の子どもたちは、ハナの広い背に乗せてもらうのが何よりの楽しみだった。

ハナは決して急がず、子どもがしがみつく腕の力をはかるように、ゆっくりと歩いた。

「この馬は、人の心を読む」

旦那さんの言葉を、私は何度も思い出した。

なかでも、鍛冶屋の健坊という男の子は、ハナに夢中だった。

学校が終わると、毎日のように牧場へ来て、柵の外からハナの名を呼んだ。

自分の弁当のおにぎりを半分、こっそりハナの口元へ差し出すこともあった。

「大きくなったら、おれ、馬方になる」

健坊はそう言って、小さな胸を張った。

ハナは、その小さな頭を、大きな鼻先で、そっと押してやった。

がんばれ、とでも言うように。

秋祭りの日には、三頭は晴れ姿になった。

額に赤い房をつけ、たてがみに色とりどりの紙を編みこんでもらう。

村の男衆が、神輿を載せた荷車をハナたちに曳かせて、村じゅうを練り歩くのだ。

沿道の人々が手を打ち、子どもたちが歓声をあげた。

ハナは、その喝采のなかを、いつもより少しだけ、誇らしげに歩いた。

私は列の一番うしろを、手綱を持って歩きながら、胸がいっぱいになった。

この三頭は、村の宝なのだと、その日、心の底から思った。

その変化は、ある年の秋、一台のトラクターと共にやってきた。

隣の大きな農場が、油で動く赤い鉄の機械を入れたのだ。

一日かかっていた畑起こしが、半日もかからずに済むのだと、村の男たちは噂した。

鉄の機械は疲れを知らず、飼い葉も要らず、霧の朝に口笛で呼ぶ必要もなかった。

次の春には、村に二台、三台と赤い機械が増えていった。

荷を運ぶ仕事も、馬から、荷台のついた車へと移っていった。

気づけば、牧場に運ばれてくる仕事は、目に見えて細っていた。

飼い葉代も、蹄鉄を打つ鍛冶屋への払いも、馬を養うには重すぎる時代になっていた。

鍛冶屋も、蹄鉄を打つより、機械の部品を直すことのほうが増えていった。

健坊が『馬方になる』と言わなくなったのは、いつ頃からだったろう。

村のあちこちで、馬小屋がひとつ、またひとつと、静かに空になっていった。

時代が変わる音は、雷のようには鳴らない。

気づいたときには、もう、すっかり変わってしまっているのだ。

旦那さんが私を母屋に呼んだのは、雪の便りが届く少し前の夕方だった。

囲炉裏の火を見つめたまま、旦那さんは長いこと黙っていた。

「ハナたちを、手放すことにした」

火の爆ぜる音だけが、しばらく部屋に残った。

遠くの町から、馬を引き取ってまわる人が来るのだという。

そこから先、三頭がどこへ行くのか、私には教えてもらえなかった。

いや、旦那さん自身にも、本当のところは分からなかったのだと思う。

「わしも、つらいんだ」

そう言った旦那さんの声が、初めて、私と同じ高さまで降りてきた気がした。

旦那さんも、本当は、誰より馬を好いている人だった。

若い頃、遠い土地から流れてきて、何もない原野に最初に入れたのが、馬だったと聞いた。

その馬たちと一緒に、石を起こし、木を倒して、この牧場を切り拓いたのだという。

だから旦那さんにとって、馬を手放すというのは、自分の半生を手放すのと同じことだった。

囲炉裏の火を見つめるその背中が、あの晩は、ひとまわり小さく見えた。

私はその晩、厩で泣いた。

声を立てないように、ハナのたてがみに顔をうずめて泣いた。

ハナは身じろぎもせず、ただ尾でゆっくりと、私の背中のあたりを払っていた。

虫を払うのと同じ仕草だった。

それでも私には、それが、泣くなと言われているように思えてならなかった。

引き取りの日は、ひと月先に決まった。

私はその一日一日を、どうか長く、どうか長くと祈るようにして過ごした。

そのあいだに、誰かが気を変えてくれるかもしれない。

優しい買い手が現れて、三頭をまた畑のある土地で働かせてくれるかもしれない。

あるいは、世の中がまた馬を必要とする季節が、巡ってくるかもしれない。

叶わない願いだと、心のどこかでは分かっていた。

それでも私は、毎朝の口笛をやめなかった。

ハナの鈴を磨き、タケの蹄を見てやり、ユキのもつれたたてがみを梳いた。

残された日々の手触りを、指の一本一本に覚えこませるように、私は世話を続けた。

私は、町へ出るたびに、馬を使う仕事はないかと、あてもなく訊いてまわった。

運送屋でも、製材所でも、返ってくる言葉は同じだった。

「これからは、油で動く時代だよ」

その言葉を、私は何度も、帰りの雪道の途中で噛みしめた。

最後のひと月、私は三頭の体を、隅々まで覚えようとした。

ハナの白い斑の形、タケの前脚の古い傷あと、ユキの少しだけ垂れた右の耳。

目を閉じても描けるように、私は何度も、指でなぞった。

夜は、厩のわらの上で、三頭の寝息を子守唄のように聞きながら眠った。

温かい息の音が三つ、暗闇のなかで、ゆっくりと重なっていた。

引き取りの前の日、健坊が牧場へやってきた。

もう馬方にはなれないと、その子も気づいていたのだろう、何も言わなかった。

ただ柵にもたれて、ハナの鼻先を、いつまでも撫でていた。

帰りぎわ、健坊は私に、小さな声で言った。

「ハナ、向こうでも、子ども乗せてやるかな」

乗せてやるよ、と私は答えた。

きっと、向こうでも、いっぱい乗せてやるよ。

最後の数日、私はハナの首の鈴を、夜のあいだだけ外して手元に置くようになった。

いつか三頭の姿が見えなくなったとき、この小さな音だけは、私のそばに残しておきたかった。

卑怯な考えだと、自分でも思った。

けれど、何ひとつ守れない私に、できることはそれくらいしかなかった。

引き取りの前の晩、私はハナの鈴を、結わえ直さなかった。

細い革紐をほどいて、手のひらに包んで、そっと前掛けのなかにしまった。

ハナは大きな目で、ただ私を見ていた。

責めるでも、許すでもない、底の知れない静かな目だった。

その朝は、今でも、一秒ずつ思い出すことができる。

雪が、音もなく、まっすぐに落ちてくる朝だった。

荷台に幌をかけた一台の車が、轍を刻みながら牧場の前で止まった。

私は、いつものように厩の前に立って、口笛を吹いた。

母の子守唄の、最初の数小節。

指がかじかんで、音は途中で何度もかすれた。

それでも、薄暗がりの奥から、三つの大きな影が、いつもの順番で起き上がってきた。

ハナが先頭で、タケが続き、ユキが一番うしろを歩いた。

その順番だけは、最後の朝も、ちゃんと守られていた。

三頭は、柵のところまで来て、私の前にきれいに並んだ。

飼い葉桶は、もう空のままだった。

それでも私は、いつものように手を伸ばして、一頭ずつ、頬をはさんでやった。

おはよう、と、私は言った。

おはよう。

おはよう。

最後にハナの番が来たとき、ハナは大きな顔をゆっくりと下ろした。

ハナは、最後にもう一度だけ、私の肩に額を押しあてた。

硬くて、温かくて、少しざらりとした、あの額が。

私は両手でその頬を抱いて、声にならない声で、何度も何度も、ありがとうと繰り返した。

男たちが、馬を幌の車へと導いていった。

ハナが先頭で、タケが続き、ユキが一番うしろを歩いた。

いつもの順番のまま、三頭は荷台へ上がっていった。

ハナの首には、もう鈴がなかった。

だから、雪を踏むその足音は、ただ、しんと静かなだけだった。

その静けさが、私の胸を、何より深くえぐった。

幌が下ろされ、車はゆっくりと動きだした。

私は柵を乗り越えて、轍のあとを追って走った。

雪に足を取られ、何度も転びながら、それでも走った。

幌のすき間から、ハナの大きな目が、こちらをじっと見ていた。

その目は、最後まで、私から離れなかった。

車が雪の向こうに溶けて見えなくなっても、私はまだ、その場に立っていた。

前掛けのなかで、外したはずの鈴が、私の震えに合わせて、りん、と一度だけ鳴った。

それが、三頭からもらった、最後の音だった。

家に帰っても、厩はがらんとして、藁の匂いだけが残っていた。

飼い葉桶は三つ、空のまま並んでいた。

私は毎朝、つい口笛を吹きそうになっては、唇のところで、それを止めた。

返事の足音が、もうどこからも聞こえないと、分かっていたからだ。

三頭がどこへ行ったのか、私はとうとう知らないままだった。

知らないからこそ、私はずっと、いいように信じることができた。

きっとどこかの、まだ馬を必要とする土地で、ハナは広い背に子どもを乗せている。

タケは荷車を曳き、ユキは、もうすっかり立派な脚になって、雪を割っている。

そう信じることだけが、何も守れなかった私に、残された唯一のつとめだった。

あれから、六十年が過ぎた。

牧場のあった場所には、今は大きな倉庫が建っていると聞く。

村から馬の姿が消えて、もうずいぶんになる。

けれど、私の暮らしのなかから、あの三頭が消えたことは、一度もなかった。

歳をとってから一度だけ、私はあの牧場のあった場所を訪ねたことがある。

倉庫の裏に、昔の柵の杭が一本だけ、朽ちかけて残っていた。

私はその杭にそっと手を置いて、いつもの子守唄を、口のなかで歌った。

風が、近くの白樺の枝を、さらさらと鳴らした。

その音が、私には、りん、と聞こえた。

霧の濃い朝や、雪のまっすぐ落ちてくる朝には、今でも、りん、という音が聞こえる気がする。

そんなとき、私は引き出しの奥から、もう鳴らないあの鈴を取り出す。

そして、しわだらけになった唇で、そっと、あの子守唄を口笛にする。

音は、もう、ほとんど出ない。

何も守れなかった、と私は長いあいだ思ってきた。

けれど、近頃は、少しだけ違うふうにも思えるのだ。

あの三頭が私に教えてくれた、おはようと言うこと、ありがとうと言うこと。

それを、私はその後の長い人生で、一度も手放さずに生きてきた。

守れなかったのではなく、本当は、守ってもらっていたのは、私のほうだったのかもしれない。

それでもいい、と私は思う。

あの三頭は、人の心を読む馬たちだったのだから。

だから、たとえ声にならなくても、額のぬくもりだけは、きっとまだ、どこかに届いている。

おはよう、と、私は今朝も、誰もいない台所で、雪に向かって言ってみる。

返事の代わりに、雪のひとひらが、窓ガラスにそっと触れて、静かに消えていった。

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