
引き出しの奥に、もう鳴らない鈴がひとつ仕舞ってある。
掌にのせて振っても、芯はとうに錆びついて、かすかに乾いた音がこぼれるだけだ。
それでも、窓の外を雪が斜めに落ちてくる朝には、私は決まってこの鈴を取り出してしまう。
八十を過ぎた今でも、あの三頭の足音が、雪の下のずっと深いところから聞こえてくる気がするのだ。
※
私が牧場で働きはじめたのは、十九になった春のことだった。
北の開拓村に、雪解け水が音を立てて流れはじめる季節だった。
父の畑は石ばかりで痩せていて、口減らしのつもりで、私は隣の村の馬牧場へ住み込みに出された。
旦那さんは無口な人で、初めての日に私へ言ったのは、たったひと言だけだった。
「馬は、人の心を読むからな」
その言葉の意味が分かるまでに、そう長くはかからなかった。
牧場には、三頭の輓馬がいた。
畑を起こし、丸太を曳き、冬には橇を引いて、村じゅうの荷を運ぶ大きな働き者たちだった。
一番の年寄りの牝馬を、みんなはハナと呼んでいた。
鹿毛の背に、雪のような白い斑がひとつだけあって、それが花びらのように見えたからだ。
あとの二頭は、図体ばかり大きくて気の優しいタケと、まだ脚の細い若いユキだった。
住み込みのはじめの幾晩か、私は藁の匂いになじめずに、厩の隅で膝を抱えていた。
そんな夜、闇の中から、ふうっと温かい息が首筋にかかった。
ハナだった。
大きな顔を私の肩のあたりまで下ろして、ただ静かに、鼻先を寄せてきた。
叱るでも慰めるでもなく、ただそこに重さがあった。
私はその夜から、藁の匂いを怖いと思わなくなった。
その年の冬は、雪が深かった。
村の医者が峠の向こうの集落へ呼ばれて、戻れなくなった夜があった。
高い熱を出した赤ん坊を、町の病院まで運ばねばならないと、戸を叩く声がした。
車はとうに雪に埋もれて、うんともすんとも動かなかった。
旦那さんは黙って厩へ行き、ハナとタケに橇をつないだ。
私はランタンを提げて、橇の先に立った。
吹雪のなか、二頭は首を低くして、胸で雪を割りながら、ひと足ずつ進んだ。
道がどこにあるのかも分からない白い闇を、ハナは一度も迷わずに歩いた。
夜明け前、ぼんやりと町の灯りが見えたとき、橇の上の赤ん坊は、まだ小さな声で泣いていた。
泣き声がする、ということが、あんなにありがたいと思った夜は、後にも先にもなかった。
村へ帰る道で、私はハナのたてがみに頬を寄せて、ありがとう、と何度も言った。
ハナは、ただいつものように、ふうっと白い息を吐いただけだった。
※
私の朝は、口笛から始まった。
母が幼い私に歌ってくれた子守唄を、私は毎朝、厩の前で口笛にして吹いた。
最初の数小節を吹くと、薄暗がりの奥から、三つの大きな影がのっそりと起き上がってくる。
ハナが先頭で、タケが続き、ユキが眠そうに一番うしろを歩いた。
その順番が、何年経っても狂うことはなかった。
飼い葉を食べ終えると、ハナは決まって私の肩に額を押しつけてきた。
硬くて、温かくて、少しざらりとした、あの額の感触。
私はそのたびに、両手でハナの頬をはさんで、おはよう、と声をかけた。
言葉の通じない相手に、それでも毎朝、おはようと言える暮らしが、私にはありがたかった。
タケは、見かけによらず臆病な馬だった。
雷の鳴る晩は、大きな体を縮めて、ユキの隣にぴたりと身を寄せた。
年下のユキのほうが、よほど肝が据わっていた。
それでも朝になれば、タケは何ごともなかったような顔をして、一番大きな荷を平気で曳いた。
ユキは、私の前掛けのポケットを、いつも鼻先でつついた。
そこに時々、畑の人参のかけらを忍ばせているのを、知っていたからだ。
見つかると、ユキは叱られた子どものように、そっと首をすくめた。
三頭には、三頭それぞれの、言葉のいらない物語があった。
ハナの首には、小さな鈴がひとつ結わえてあった。
霧の濃い朝、馬を山の畑へ追うとき、その音だけが頼りになるからだ。
りん、りん、と雪を踏むたびに鳴るその音を、私はいつしか自分の鼓動のように覚えていた。
夏は、三頭で開墾地の切り株を引き抜いた。
秋は、刈り取った燕麦を山と積んだ荷車を曳いた。
冬は、首をぐっと低くして、橇の轅に全身でもたれかかるようにして雪を割った。
汗が湯気になって背中から立ちのぼる様を、私は世界で一番美しいものだと思っていた。
田植えの季節になると、三頭は朝から晩まで、代掻きの仕事に追われた。
泥だらけになって帰ってくる三頭を、私は井戸の水で、丁寧に洗ってやった。
濡れた毛から湯気が立って、夕日にきらきらと光った。
洗い終えると、ハナは決まって、ぶるるっと大きく身震いをして、私を水しぶきだらけにした。
私が悲鳴をあげると、タケとユキまで、面白がるように身震いをした。
そんな夕方が、いつまでも続くものだと、私は疑いもせずに信じていた。
村の子どもたちは、ハナの広い背に乗せてもらうのが何よりの楽しみだった。
ハナは決して急がず、子どもがしがみつく腕の力をはかるように、ゆっくりと歩いた。
「この馬は、人の心を読む」
旦那さんの言葉を、私は何度も思い出した。
なかでも、鍛冶屋の健坊という男の子は、ハナに夢中だった。
学校が終わると、毎日のように牧場へ来て、柵の外からハナの名を呼んだ。
自分の弁当のおにぎりを半分、こっそりハナの口元へ差し出すこともあった。
「大きくなったら、おれ、馬方になる」
健坊はそう言って、小さな胸を張った。
ハナは、その小さな頭を、大きな鼻先で、そっと押してやった。
がんばれ、とでも言うように。
秋祭りの日には、三頭は晴れ姿になった。
額に赤い房をつけ、たてがみに色とりどりの紙を編みこんでもらう。
村の男衆が、神輿を載せた荷車をハナたちに曳かせて、村じゅうを練り歩くのだ。
沿道の人々が手を打ち、子どもたちが歓声をあげた。
ハナは、その喝采のなかを、いつもより少しだけ、誇らしげに歩いた。
私は列の一番うしろを、手綱を持って歩きながら、胸がいっぱいになった。
この三頭は、村の宝なのだと、その日、心の底から思った。
※
その変化は、ある年の秋、一台のトラクターと共にやってきた。
隣の大きな農場が、油で動く赤い鉄の機械を入れたのだ。
一日かかっていた畑起こしが、半日もかからずに済むのだと、村の男たちは噂した。
鉄の機械は疲れを知らず、飼い葉も要らず、霧の朝に口笛で呼ぶ必要もなかった。
次の春には、村に二台、三台と赤い機械が増えていった。
荷を運ぶ仕事も、馬から、荷台のついた車へと移っていった。
気づけば、牧場に運ばれてくる仕事は、目に見えて細っていた。
飼い葉代も、蹄鉄を打つ鍛冶屋への払いも、馬を養うには重すぎる時代になっていた。
鍛冶屋も、蹄鉄を打つより、機械の部品を直すことのほうが増えていった。
健坊が『馬方になる』と言わなくなったのは、いつ頃からだったろう。
村のあちこちで、馬小屋がひとつ、またひとつと、静かに空になっていった。
時代が変わる音は、雷のようには鳴らない。
気づいたときには、もう、すっかり変わってしまっているのだ。
旦那さんが私を母屋に呼んだのは、雪の便りが届く少し前の夕方だった。
囲炉裏の火を見つめたまま、旦那さんは長いこと黙っていた。
「ハナたちを、手放すことにした」
火の爆ぜる音だけが、しばらく部屋に残った。
遠くの町から、馬を引き取ってまわる人が来るのだという。
そこから先、三頭がどこへ行くのか、私には教えてもらえなかった。
いや、旦那さん自身にも、本当のところは分からなかったのだと思う。
「わしも、つらいんだ」
そう言った旦那さんの声が、初めて、私と同じ高さまで降りてきた気がした。
旦那さんも、本当は、誰より馬を好いている人だった。
若い頃、遠い土地から流れてきて、何もない原野に最初に入れたのが、馬だったと聞いた。
その馬たちと一緒に、石を起こし、木を倒して、この牧場を切り拓いたのだという。
だから旦那さんにとって、馬を手放すというのは、自分の半生を手放すのと同じことだった。
囲炉裏の火を見つめるその背中が、あの晩は、ひとまわり小さく見えた。
私はその晩、厩で泣いた。
声を立てないように、ハナのたてがみに顔をうずめて泣いた。
ハナは身じろぎもせず、ただ尾でゆっくりと、私の背中のあたりを払っていた。
虫を払うのと同じ仕草だった。
それでも私には、それが、泣くなと言われているように思えてならなかった。
※
引き取りの日は、ひと月先に決まった。
私はその一日一日を、どうか長く、どうか長くと祈るようにして過ごした。
そのあいだに、誰かが気を変えてくれるかもしれない。
優しい買い手が現れて、三頭をまた畑のある土地で働かせてくれるかもしれない。
あるいは、世の中がまた馬を必要とする季節が、巡ってくるかもしれない。
叶わない願いだと、心のどこかでは分かっていた。
それでも私は、毎朝の口笛をやめなかった。
ハナの鈴を磨き、タケの蹄を見てやり、ユキのもつれたたてがみを梳いた。
残された日々の手触りを、指の一本一本に覚えこませるように、私は世話を続けた。
私は、町へ出るたびに、馬を使う仕事はないかと、あてもなく訊いてまわった。
運送屋でも、製材所でも、返ってくる言葉は同じだった。
「これからは、油で動く時代だよ」
その言葉を、私は何度も、帰りの雪道の途中で噛みしめた。
最後のひと月、私は三頭の体を、隅々まで覚えようとした。
ハナの白い斑の形、タケの前脚の古い傷あと、ユキの少しだけ垂れた右の耳。
目を閉じても描けるように、私は何度も、指でなぞった。
夜は、厩のわらの上で、三頭の寝息を子守唄のように聞きながら眠った。
温かい息の音が三つ、暗闇のなかで、ゆっくりと重なっていた。
引き取りの前の日、健坊が牧場へやってきた。
もう馬方にはなれないと、その子も気づいていたのだろう、何も言わなかった。
ただ柵にもたれて、ハナの鼻先を、いつまでも撫でていた。
帰りぎわ、健坊は私に、小さな声で言った。
「ハナ、向こうでも、子ども乗せてやるかな」
乗せてやるよ、と私は答えた。
きっと、向こうでも、いっぱい乗せてやるよ。
最後の数日、私はハナの首の鈴を、夜のあいだだけ外して手元に置くようになった。
いつか三頭の姿が見えなくなったとき、この小さな音だけは、私のそばに残しておきたかった。
卑怯な考えだと、自分でも思った。
けれど、何ひとつ守れない私に、できることはそれくらいしかなかった。
引き取りの前の晩、私はハナの鈴を、結わえ直さなかった。
細い革紐をほどいて、手のひらに包んで、そっと前掛けのなかにしまった。
ハナは大きな目で、ただ私を見ていた。
責めるでも、許すでもない、底の知れない静かな目だった。
※
その朝は、今でも、一秒ずつ思い出すことができる。
雪が、音もなく、まっすぐに落ちてくる朝だった。
荷台に幌をかけた一台の車が、轍を刻みながら牧場の前で止まった。
私は、いつものように厩の前に立って、口笛を吹いた。
母の子守唄の、最初の数小節。
指がかじかんで、音は途中で何度もかすれた。
それでも、薄暗がりの奥から、三つの大きな影が、いつもの順番で起き上がってきた。
ハナが先頭で、タケが続き、ユキが一番うしろを歩いた。
その順番だけは、最後の朝も、ちゃんと守られていた。
三頭は、柵のところまで来て、私の前にきれいに並んだ。
飼い葉桶は、もう空のままだった。
それでも私は、いつものように手を伸ばして、一頭ずつ、頬をはさんでやった。
おはよう、と、私は言った。
おはよう。
おはよう。
最後にハナの番が来たとき、ハナは大きな顔をゆっくりと下ろした。
ハナは、最後にもう一度だけ、私の肩に額を押しあてた。
硬くて、温かくて、少しざらりとした、あの額が。
私は両手でその頬を抱いて、声にならない声で、何度も何度も、ありがとうと繰り返した。
男たちが、馬を幌の車へと導いていった。
ハナが先頭で、タケが続き、ユキが一番うしろを歩いた。
いつもの順番のまま、三頭は荷台へ上がっていった。
ハナの首には、もう鈴がなかった。
だから、雪を踏むその足音は、ただ、しんと静かなだけだった。
その静けさが、私の胸を、何より深くえぐった。
幌が下ろされ、車はゆっくりと動きだした。
私は柵を乗り越えて、轍のあとを追って走った。
雪に足を取られ、何度も転びながら、それでも走った。
幌のすき間から、ハナの大きな目が、こちらをじっと見ていた。
その目は、最後まで、私から離れなかった。
車が雪の向こうに溶けて見えなくなっても、私はまだ、その場に立っていた。
前掛けのなかで、外したはずの鈴が、私の震えに合わせて、りん、と一度だけ鳴った。
それが、三頭からもらった、最後の音だった。
家に帰っても、厩はがらんとして、藁の匂いだけが残っていた。
飼い葉桶は三つ、空のまま並んでいた。
私は毎朝、つい口笛を吹きそうになっては、唇のところで、それを止めた。
返事の足音が、もうどこからも聞こえないと、分かっていたからだ。
※
三頭がどこへ行ったのか、私はとうとう知らないままだった。
知らないからこそ、私はずっと、いいように信じることができた。
きっとどこかの、まだ馬を必要とする土地で、ハナは広い背に子どもを乗せている。
タケは荷車を曳き、ユキは、もうすっかり立派な脚になって、雪を割っている。
そう信じることだけが、何も守れなかった私に、残された唯一のつとめだった。
あれから、六十年が過ぎた。
牧場のあった場所には、今は大きな倉庫が建っていると聞く。
村から馬の姿が消えて、もうずいぶんになる。
けれど、私の暮らしのなかから、あの三頭が消えたことは、一度もなかった。
歳をとってから一度だけ、私はあの牧場のあった場所を訪ねたことがある。
倉庫の裏に、昔の柵の杭が一本だけ、朽ちかけて残っていた。
私はその杭にそっと手を置いて、いつもの子守唄を、口のなかで歌った。
風が、近くの白樺の枝を、さらさらと鳴らした。
その音が、私には、りん、と聞こえた。
霧の濃い朝や、雪のまっすぐ落ちてくる朝には、今でも、りん、という音が聞こえる気がする。
そんなとき、私は引き出しの奥から、もう鳴らないあの鈴を取り出す。
そして、しわだらけになった唇で、そっと、あの子守唄を口笛にする。
音は、もう、ほとんど出ない。
何も守れなかった、と私は長いあいだ思ってきた。
けれど、近頃は、少しだけ違うふうにも思えるのだ。
あの三頭が私に教えてくれた、おはようと言うこと、ありがとうと言うこと。
それを、私はその後の長い人生で、一度も手放さずに生きてきた。
守れなかったのではなく、本当は、守ってもらっていたのは、私のほうだったのかもしれない。
それでもいい、と私は思う。
あの三頭は、人の心を読む馬たちだったのだから。
だから、たとえ声にならなくても、額のぬくもりだけは、きっとまだ、どこかに届いている。
おはよう、と、私は今朝も、誰もいない台所で、雪に向かって言ってみる。
返事の代わりに、雪のひとひらが、窓ガラスにそっと触れて、静かに消えていった。