船頭がくれた欠けた飯茶碗

静かな港の朝焼け

棚の一番上に、欠けた飯茶碗がひとつ、伏せてある。

俺の店で、その茶碗だけは、誰にも出さない。

湊町のはずれで小さな一膳飯屋をやって、もう三十年になる。

朝は網を上げてきた漁師に、昼は造船所の工員に、夜は行き場のない者に、飯を出す。

安い。うまいかどうかは知らん。ただ、腹だけは満たして帰す。それが俺のやり方だ。

今日も、色の褪せた暖簾をくぐって、痩せた若い男がひとり入って来た。

十七か、十八か。冬だというのに薄い上着を一枚羽織っただけで、指の先が赤くひび割れていた。

目を見て、すぐにわかった。銭がない。行き場もない。そういう目だ。

俺にも、覚えのある目だった。

五十年前の、俺自身の目だ。

「兄ちゃん、腹減っとるやろ。座り」

そう声をかけると、若い男は身構えるように俺を見た。銭がないんです、と唇だけが動いた。

「ええから座り。銭のことは、あとや」

飯を炊く匂いが立ちのぼる湯気の向こうで、俺はふいに、あの冬の港のことを思い出していた。

※

十七の冬、俺は家を捨てた。

生まれ育ったのは、内陸の山あいにある小さな果樹園だった。

父は、それは厳しい人だった。

曲がったことが何より嫌いで、朝は誰より早く起き、夜は誰より遅くまで畑にいた。

背中で語る、というのを絵に描いたような男で、俺は父の笑った顔をほとんど覚えていない。

果樹園は、二つ上の兄が継ぐことに決まっていた。

それが当たり前だと、家じゅうが思っていた。俺自身も、そう思っていた。

だが、十六を過ぎたころから、俺はその「当たり前」に息が詰まるようになった。

父の敷いたまっすぐな畝の上を、決められた歩幅で歩かされている。そんな気がしてならなかった。

些細なことで、父とぶつかるようになった。

剪定の仕方がなっていない。挨拶の声が小さい。箸の持ち方が悪い。

何を言われても、俺は口答えを返した。返さずにはいられなかった。

やがて父は、俺に何も言わなくなった。

ただ、悲しそうな目で、こちらを見るようになった。

あの目が、俺には何より重かった。

一度だけ、こんなことがあった。

高い熱を出して寝込んだ夜、俺は喉の渇きにふと目を覚ました。

枕元に、水を張った桶と、固く絞った手拭いが置いてあった。

襖の隙間から、廊下に座り込んだ父の背中が見えた。

眠りもせず、ただじっと、俺の部屋のほうを見ているようだった。

翌朝、そのことに触れると、父は「知らん」とだけ言って、畑へ出て行った。

父の優しさは、いつも、俺の見ていないところにしかなかった。

母が、間に立っておろおろするたび、俺は自分が家じゅうを暗くしているのを感じた。

※

十七の冬のある朝、俺はとうとう啖呵を切って家を出た。

こんな家、二度と帰るか。そう吐き捨てて。

俺がいなくなれば、家はまた元の、静かな家に戻る。それがせめてもの親孝行だと、そう自分に言い聞かせていた。

当てなど、なかった。

ただ、以前ラジオで聞いた北の港町のことが、頭の隅に残っていた。

北洋へ出る漁船が、いくらでも人を欲しがっている。若くて体さえ丈夫なら、飯にありつける。

そう聞いていた。

汽車を乗り継ぎ、着いたのは、雪のちらつく灰色の港だった。

内陸で育った俺は、海というものを、そのとき初めて間近に見た。

黒い水が、桟橋の下でごぷりごぷりと重たげに動いていた。

どこかで、櫓の軋む音がしていた。ぎい、ぎい、と。

それが何の音かも、俺にはわからなかった。

※

甘かった、と思い知るのに、三日とかからなかった。

夜明け前の岸壁には、俺よりずっと屈強な男たちが、すでに列をなしていた。

仕事を差配する親方らしき男に、片っ端から声をかけた。

「乗せてください。何でもやります」

「もう頭数は足りとる」

返ってくる答えは、面白いほど同じだった。

そして俺を置き去りに、男たちを積んだ艀が、次々と沖の本船へ向けて出て行った。

半分泣きそうになりながら食い下がる俺に、ひとりの親方が、呆れたように言った。

「兄ちゃん、手帳は持っとるんか」

「手帳……? 何ですか、それは」

「船に乗るにゃ、船員手帳がいる。役所に届けてある、証みたいなもんや。それがなけりゃ、どこも乗せやせん」

「今日、もらえますか」

「あほ。早うて半年はかかる」

半年、という言葉が、体の芯を冷やした。

不安が、そこではっきりと、絶望に変わった。

※

岸壁の隅に、俺はへたり込んだ。

着の身着のままで飛び出してきた分、銭はとうに底をついていた。

腹が減っているのか、寒いのか、それすらもうよくわからなかった。

目の前を、湯気の立つおでんの屋台が通り過ぎた。

母親らしき女が、幼い子に熱いはんぺんを吹いて冷まし、口へ運んでやっていた。

子は、足をぶらぶらさせながら、当たり前のようにそれを頬張っていた。

その当たり前が、俺にはもう、どこにもなかった。

喉が、ごくりと鳴った。それが恥ずかしくて、俺は膝に顔を埋めた。

このまま、消えてしまってもいいと思った。

生まれて初めて、生きようとする気力が、指の先から抜けていくのを感じた。

そうすると、不思議なもので、家のことが次々と浮かんできた。

父の、あの悲しそうな目。おろおろする母。俺を呼ぶ兄の声。

雪がちらつく灰色の空を見上げたまま、涙だけが、止め処なく頬を伝った。

俺は、俺に関わってくれた人みんなの幸せを、ただ祈った。

それだけが、そのときの俺にできる、たったひとつのことだった。

※

どれだけそうしていたのか。

起きているのか眠っているのか、わからなくなったころ。

「おい」

と、しわがれた声が、頭の上から降ってきた。

「兄ちゃん、こんなとこで何しとる。飯、食うとらんやろ」

見上げると、日に焼けた小柄な老人が、こちらを覗き込んでいた。

腰には、藍色の手ぬぐいをさげていた。

「その青い顔。今にも倒れそうやないか。飯くらい奢っちゃる。来い」

半ば引きずられるように、俺は近くの一膳飯屋に連れて行かれた。

老人は、俺の前に、湯気の立つサンマの定食を置いた。

箸を持つ手が震えて、うまく持てなかった。

ひと口食べたとたん、また涙がこぼれた。温かい飯が、こんなに沁みるものだとは、知らなかった。

老人は何も言わず、俺が家を出るまでのいきさつを、黙って聞いていた。

聞き終えると、ぼそりと言った。

「阿呆なことしよって」

それから、長い長い沈黙のあと、

「坊主。ちょっと付き合え」

と、勘定を置いて、さっさと店を出て行った。

※

老人は、艀の船頭だった。

沖に停まる本船と岸壁のあいだを、荷や人を積んで行き来する、小さな平たい舟。あれを操るのが仕事だった。

あの朝、俺が聞いた櫓の軋む音は、この人の艀の音だったのだ。

港のはずれ、防波堤の陰に、船頭の暮らす小屋があった。

畳が二枚ほどの、傾いた板張りの小屋だ。

「しばらく、ここで寝起きしてええ」

「そんな、悪いですよ」

「一文無しのくせに、いっちょ前の口をきくな」

そう怒鳴られて、俺は返す言葉をなくした。

その晩、船頭が七輪で飯を炊いてくれた。

棚から茶碗を下ろすのを、俺は何気なく見ていた。

船頭の家には、飯茶碗が二つあった。ひとりで暮らしているはずなのに。

ひとつは新しく、ひとつは縁の欠けた古い茶碗だった。

船頭は、俺に欠けたほうの茶碗をよこした。

「そっちを使え」

深い意味など、そのときは考えもしなかった。

※

それから二週間、俺は船頭の小屋で世話になった。

船頭は、口数の少ない人だった。

すぐ怒鳴るくせに、根はどこまでも真っ直ぐで、ひどく照れ屋だった。

朝は誰より早く起きて、味噌汁と煮物をこしらえ、俺の昼の分まで握り飯にして置いていく。

「ええ子にして待っとれ」

まるで、幼い子に言い聞かせるようだった。

何度も、仕事を手伝わせてくれと頼んだ。だが船頭は、決して艀に俺を乗せようとしなかった。

「お前の乗る舟は、これやない」

そう言うだけだった。

その代わり、舫い綱の結び方だけは、繰り返し教えてくれた。

「これは、もやい結びや。どれだけ引いても、締まって解けん。ほんで、ほどこう思うたら、一発でほどける」

節くれだった太い指が、灰色の綱を、ゆっくりと輪にしていく。

俺の手はかじかんで、何度やってもうまく結べなかった。

船頭は舌打ちひとつせず、俺の手にそっと自分の手を重ねて、幾度でも、やり直させた。

「人と人も、これと同じや。締めすぎたら切れる。ゆるすぎたら流される。ちょうどええ塩梅っちゅうのが、あるんや」

あのときは、綱の話だと思って聞いていた。

夜、俺が眠ったふりをしていると、船頭が枕元で、俺の破れた上着を繕っているのに気づいた。

裸電球の下、老眼の目を細め、太い指に不釣り合いな細い針を、不器用に動かしていた。

糸を通すのに、何度も失敗しては、小さく舌打ちをしていた。

俺は、目を閉じたまま、声を殺して泣いた。

少しずつ、船頭は自分のことを話すようになった。

若いころは南の島で船大工をしていたこと。妻と、ひとりの息子がいたこと。

その息子が、ちょうど今の俺くらいの歳で、漁に出たまま、海から戻らぬ人となったこと。

「時化の日でな。あれの舟だけ、帰って来んかった」

そう言って、船頭は黙って海を見ていた。

やがて妻とも離れ、流れ流れて、この北の港に行き着いたのだと。

「息子には、何もしてやれんかった。何ひとつ、な」

※

嘘のように、日々は過ぎていった。

朝は二人で味噌汁をすすり、船頭は艀へ、俺は小屋で留守番をする。

夕方になると船頭が握り飯やら魚やらを提げて帰ってきて、二人で膝を突き合わせて飯を食った。

欠けた茶碗で飯を食う俺を、船頭はときどき、目を細めて見ていた。

あるとき、飯屋のおかみに「息子さんかい」と聞かれ、船頭が、それは嬉しそうに首を横に振っていたのを、俺は今でも覚えている。

生まれてこのかた、人からこんなに親切にされたことは、なかった。

世の中、捨てたもんじゃない。心からそう思えた。

だが同時に、俺の存在が、この貧しい船頭の暮らしを削っている。その現実が、たまらなく苦しかった。

この暮らしが、いつまでも続くものでないことは、誰より俺自身がわかっていた。

いつ、それを切り出そうか。俺は毎晩、迷っていた。

※

ある晩、先に口を開いたのは、船頭のほうだった。

「この二週間、お前と過ごせて、楽しかった」

「……」

「けどな、いつまでもこうしとられん。お前、これからどうする」

「港を出て、働きながら銭を貯めて、遠い町の知り合いを訪ねようと思うてます」

「そうか。それがええ」

船頭はうなずき、それからしばらく、七輪の火を見つめていた。

「ええか、坊主。ひとつだけ、約束してくれ」

「なんですか」

「二度と、こういう場所に流れて来るな。ここは、行き場を失うた者の、吹きだまりや」

「……」

「お前には、若さがある。可能性っちゅうもんがある。わしにはもう、ないものや。それを、こんなとこで腐らせるな」

火の粉が、ぱちりと爆ぜた。

「そんでな。暮らしが落ち着いたら、家に、連絡したれ」

俺は、うつむいた。

「元気でやっとる。その一言でええ。どんな不出来な子でも、親からしたら、子は宝や。夢や、希望なんや」

「子の幸せを願わん親なんぞ、この世にひとりもおらん。だから、連絡したれ。約束できるか」

「……はい」

それだけ言うのが、精一杯だった。

※

別れの朝が来た。

駅までの道を、二人とも、ひとことも喋らずに歩いた。

雪の匂いのする、冷たい朝だった。

改札の前で、船頭は腰の藍色の手ぬぐいをするりと外した。

別れ際、船頭はその手ぬぐいを外し、俺の首にきつく巻いてくれた。

「風邪ひくなよ」

それから、少し照れたように、そっぽを向いた。

「わしの甲斐性がないばっかりに、たいしたことも、してやれんかったな」

「そんなこと……。ほんまに、ほんまに、ありがとうございました」

礼を言っても言っても、言い尽くせなかった。

「もしお前が、どうしても行き詰まったときは、また来い。あの岸壁で、待っとる」

汽笛が鳴った。

俺は、車窓に張りついて、小さくなっていく船頭の姿を、見えなくなるまで見ていた。

手を振る、その手には、あの藍色の手ぬぐいは、もうなかった。

※

汽車が走り出してしばらくして、俺は首の手ぬぐいの結び目に、妙な固さがあるのに気づいた。

ほどくと、中から、あの欠けた飯茶碗が出てきた。

小屋の棚にあった、あの古い茶碗だった。

そして、茶碗の底に、藍色の手ぬぐいに包まれた札が、そっと畳んで置いてあった。

なけなしの銭だと、すぐにわかった。

茶碗には、油性の筆で、震えるような字が一行、書きつけてあった。

「その欠けた方は、あいつの茶碗や。もう、誰も使わん。持って行け」

あいつ、というのが誰のことか、俺にはもう、わかっていた。

戻らぬ人となった、船頭の息子の茶碗だ。

船頭は二週間、息子の茶碗で、俺に飯を食わせていたのだ。

俺は声を殺して、汽車の中で泣いた。

人との別れが、こんなに悲しいものだとは、それまで知らなかった。

※

あれから、俺は約束を守った。

半年後、暮らしがどうにか落ち着いたころ、俺は家に一枚の葉書を出した。

「元気でやっています」。それだけの、短い葉書だった。

折り返し、母から分厚い返事が来た。父が、俺の帰りを毎日待っている、と震える字で書いてあった。

翌年の春、俺は家に帰った。

父は、何も言わなかった。ただ、痩せた俺の肩に、ごつごつした手を一度だけ置いて、すぐに畑へ出て行った。

その背中が、震えていた。

その晩、俺の布団の枕元に、水を張った桶が置いてあった。

あの熱の夜と、寸分違わぬ形で。

父の優しさは、やっぱり、俺の見ていないところにしかなかった。

俺はその桶を抱えて、声を殺して泣いた。船頭の小屋で泣いたのと、同じ泣き方だった。

俺は結局、果樹園を継がなかった。この港町に戻り、小さな飯屋を開いた。

あの日、温かい飯に救われた恩を、俺なりに返したかったのだと思う。

何度も、あの岸壁へ船頭を訪ねた。だが、船頭の姿を、二度と見つけることはできなかった。

どこへ流れていったのか、それとも――。訊ける相手も、もういなかった。

※

「兄ちゃん、おかわりは」

湯気の向こうで、痩せた若い男が、ぺこりと頭を下げた。

さっきまで身構えていた目に、少しだけ、灯がともっていた。

俺は、棚の一番上から欠けた飯茶碗を下ろして、俺はその子に飯を盛った。

五十年、客に出したことのない、あの茶碗にだ。

「食え。腹が満ちれば、たいていのことは、なんとかなる」

若い男は、ひと口食べて、うつむいた。肩が、小さく揺れていた。

その泣き方に、俺は五十年前の自分を、そっくりそのまま見た。

「ゆっくり食え。誰も、取りゃせん」

「銭が貯まったら、家に、連絡したれ」

俺は、あの晩の船頭とそっくり同じことを、言っていた。

「どんな不出来な子でも、親からしたら、子は宝なんや」

欠けた茶碗の底で、白い飯が、ほのかに湯気を立てていた。

あの人が、俺に遺してくれた縁が、今、また誰かの手のなかへ、静かに渡ろうとしていた。

窓の外では、あの日と同じ色をした冬の海が、遠くまで、静かに光っていた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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