兄が遺した鉛の活字

温かな工房の冬の夕暮れ

下宿の窓に西日が差すころ、私は兄から届いた封筒を、開けもせずに机の隅へ押しやった。

中身が仕送りの金と、いつもの短い便りだということは、封を切らなくてもわかっていた。

几帳面な、少し角ばった字で、便箋には「飯はちゃんと食うとるか」とだけ書いてあるのだ。

毎月、判で押したように、最初の一行は決まって同じ一文だった。

その下に、近頃は「無理をするな」と書き足されるようになっていた。

その意味を、私はずっと、ただの口癖だと思っていた。

昭和の終わりが近づいた東京で、私は二十一の大学生だった。

六畳一間の下宿には、こたつと、本を積んだりんご箱と、消えかけの蛍光灯しかなかった。

故郷の小さな印刷所で、来る日も来る日も活字を拾っている兄のことを、私はどこかで恥じていた。

同じ下宿の連中の親は、商社に勤めていたり、医者だったりした。

酒の席で親や家業の話になるたび、私はそっと話の輪から外れた。

活版の植字工、という兄の仕事の名を、私はとうとう誰にも口にできなかった。

兄の指は、いつも鉛とインキの匂いがした。

子どものころは気にもしなかったその匂いが、上京してからは妙に疎ましく感じられた。

自分の着るものにまでその匂いが染みついている気がして、私は手紙の返事さえ書かなくなっていた。

仕送りの礼を、最後にきちんと言ったのがいつだったか、もう思い出せなかった。

封筒の隅で、几帳面な兄の字が、じっとこちらを見ている気がした。

私は蛍光灯の紐を引いて灯りを消し、見ないふりをして布団にもぐった。

天井の暗がりに、なぜか印刷所のあの低い天井が浮かんだ。

鉛の棚がびっしりと壁を埋め、裸電球がひとつ、その真ん中で揺れていた部屋のことが。

目を閉じると、機械油と紙とインキの混じったあの匂いまで、よみがえってくるようだった。

私はその匂いから逃げるように、ただ東京の暮らしに自分を浸していた。

春の終わり、下宿の連中と居酒屋で親の話になったとき、誰かが私に訊いた。

「お前んとこ、親父さん何しとるん」と。

私は一瞬詰まって、「印刷関係や」とだけ答えてごまかした。

活字を一字ずつ手で拾う兄の姿を、私はその言葉の奥に、そっと隠した。

私が小学生のころ、印刷所はまだ祖父の代の続きで、それなりに活気があった。

学校が終わると、私は決まって兄のいる作業場へ転がり込んだ。

ランドセルを土間の隅に放り出すと、機械の音と職人たちの声が、いつも私を迎えた。

兄は七つ年上で、その頃すでに、一人前の植字工として棚の前に立っていた。

文選箱を左手に提げ、壁一面の活字の棚の前を、まるで踊るように歩いた。

原稿を一目見ては、目当ての一文字を、迷いなく指先で拾い上げていく。

拾った活字を箱に並べる、かちり、かちりという小さな音が、私は好きだった。

「兄ちゃん、なんでそんなに早う見つかるん」と私が訊くと、兄は手を止めずに笑った。

「字には、住んどる場所があるんや。一字ずつ、ちゃんと家があるんやで」

「『山』はこのへん、『川』はその下。みんな、決まった部屋に住んどる」

私には棚の活字はどれも同じ鉛の塊にしか見えなかった。

けれど兄の指は、薄暗い棚の奥でさえ、それぞれの字の居場所をちゃんと覚えているようだった。

ときどき兄は、私の名前の一字を拾って、手のひらにのせてくれた。

鉛は思ったより重く、冷たく、けれど兄の手の熱がうつって、すぐにぬるくなった。

「これがお前や。ええ字やろ」と、兄は少し得意そうに言った。

刷り上がったばかりの紙を、兄はよく私の手のひらに広げてくれた。

インキの乗った紙はほのかに温かく、活字の沈んだあとが、指の腹に小さな凹みとして触れた。

「ええか、活版いうのはな、字が紙に触った証拠が残るんや」

「写真みたいに上っ面を写すんやない。字が、こう、紙に手を入れていくんや」

兄はそう言って、自分の節くれだった指で、刷り上がった文字をそっとなぞった。

その横顔を、私は今でもはっきりと思い出すことができる。

裸電球の下で、兄の頬にだけ、薄い金色の光が差していた。

夕方になると、職人たちが帰り、作業場には兄と私だけが残った。

兄は活字を棚へ戻しながら、その日の仕事のことをぽつぽつと話してくれた。

町の本屋に置く小さな冊子や、神社の祭りの番付や、誰かの店の名刺。

「この町の字は、たいてい一度はうちの棚を通っとるんやで」と、兄は誇らしげだった。

やがて祖父が世を去り、父も体を壊して、印刷所は兄ひとりの肩にかかっていった。

それでも兄は、私の学費のためにと、夜遅くまで機械の前に座り続けた。

受験のとき、合格電報を握って真っ先に作業場へ走ると、兄はインキだらけの手で私の頭を撫でた。

「東京の大学か。たいしたもんや」と、その声は少し掠れていた。

その背中を、私は当たり前のもののように見て、春には東京へ出ていった。

母はよく、兄のことを「不器用な子や」と言って笑った。

欲しいものも言わず、遊びにも行かず、ただ黙って機械の前に座る人だと。

新しい服を買うでもなく、兄の給金の多くは、私の学費と仕送りに消えていった。

居間の柱には、古ぼけた木の額がひとつ、ずっと掛かっていた。

そこに何が入っていたのか、私は一度も、きちんと見たことがなかった。

大学に入って二度目の夏、私は久しぶりに故郷へ帰った。

印刷所は、私が覚えているよりずっと小さく、暗く感じられた。

オフセット印刷というものが町にも入り、活版の注文はめっきり減っていた。

棚の活字には、うっすらと埃が積もっている列もあった。

それでも兄は、あの文選箱を提げて、変わらず棚の前に立っていた。

ただ、字を拾う手が、昔より少しだけ遅くなったような気がした。

「こんな商売、もうやめてしもたらええのに」と、私はつい言ってしまった。

夕飯の卓で、麦茶のグラスに浮いた氷が、かたんと小さな音を立てた。

台所で洗い物をしていた母の手が、一瞬だけ止まったのがわかった。

兄は箸を止め、しばらく黙ってから、低い声で言った。

「お前の名前もな、ここの活字で組んだんやで。生まれたとき、親父と二人で」

「役所に出す紙に、活字で名前を刷って、それを額に入れて飾ったんや。覚えとらんやろ」

私は覚えていなかった。

それどころか、その話を、田舎くさい昔語りのように聞き流していた。

「今どき、活字で名前なんか刷らんよ。ボールペンで十分やろ」

「機械で何ぼでも刷れる時代に、一字ずつ拾うて、何の意味があるん」

兄は何も言い返さなかった。

ただ、湯呑みを包んだ手の、鉛色に汚れた爪を、私はぼんやりと見ていた。

「お前にはお前の道がある。それでええ」と、兄は最後にぽつりと言った。

その夜、私は二階で、兄が遅くまで作業場の灯りを消さずにいるのを知っていた。

階下から、かちり、かちりという、あの活字を拾う音が、途切れ途切れに聞こえてきた。

いつもより、ずっとゆっくりとした音だった。

けれど、降りていって声をかけることは、しなかった。

翌朝、出かけにふと作業場をのぞくと、兄は刷り上がった紙を窓辺にかざしていた。

目を細め、紙にぐっと顔を近づけて、一字ずつ確かめるような、奇妙な仕草だった。

そのときは、年のせいで老眼でも出たのだろうと、私は気にも留めなかった。

帰りの夜行列車に乗る私を、兄は駅の改札まで送ってきた。

夏だというのに、兄の手は、握手をするとひんやりとしていた。

「東京で、しっかりやれ」とだけ言って、兄は背を向けた。

作業着の背中が、ホームの灯りの中で、思っていたよりもずっと小さく見えた。

そのとき、もう一度声をかけ直せばよかったと、私は長いあいだ悔やむことになる。

その冬、下宿の廊下にある赤電話が鳴ったのは、夜半過ぎだった。

受話器の向こうで、母の声が、いつもと違う震え方をしていた。

兄が、ここしばらく目を悪くしていたこと。

ほとんど字が見えなくなりかけていたのに、誰にも言わずに棚の前に立ち続けていたこと。

そして、その体に、もっと深い病が隠れていたこと。

検査を勧められても、印刷所を空けられないと言って、兄は行こうとしなかったらしい。

母の言葉は、途中から私の耳の中で溶けて、意味をなさなくなった。

私は受話器を握ったまま、冷たい廊下の床に、ずるずると座り込んでいた。

目が見えなくなっていた、という一言だけが、胸の奥で何度も鳴った。

あの、踊るように棚の前を歩いていた指は、いつから暗闇の中で字を探していたのだろう。

私が「やめてしまえ」と言ったあの夏、兄はもう、よく見えていなかったのかもしれない。

あの夜の、ゆっくりとした活字の音を思い出して、私は息ができなくなった。

それでも兄は、私に何ひとつ、言わなかった。

仕送りの便箋の字が、月を追うごとに少しずつ大きくなっていった意味を、私はようやく思った。

見えにくい目で、それでも私のために、兄は字を書き続けていたのだ。

窓の外で、東京には珍しい雪が、音もなく舞い始めていた。

私は、あの夏に握った兄の手の冷たさを、ようやく思い出していた。

あれは、夏の暑さの中で、もう兄の体が冷えていた証だったのかもしれない。

故郷も、きっと雪だろうと思った。

受話器の向こうの、機械の止まった印刷所の静けさが、なぜか手に取るようにわかった。

故郷へ着いたとき、町は薄く雪をかぶっていた。

家には、線香の匂いと、人の出入りの気配だけが満ちていた。

気丈にふるまっていた母が、私の顔を見たとたん、子どものように泣き崩れた。

「あの子は、最後まであんたのことばっかり気にしとった」と、母は言った。

「東京は寒うないか、飯は食うとるか、てな」

母は、奥の間から古い木の額を持ってきて、私の手に押しつけた。

居間の柱に、ずっと掛かっていたあの額だった。

ガラスの奥には、生まれたばかりの私の名前が、活字で刷られて収まっていた。

少し黄ばんだ紙の上で、その三文字は、二十年経っても凜と立っていた。

「あんたが生まれた日に、兄ちゃんと親父が、夜通しかかって組んだんよ」と、母は言った。

私は、その額を抱えたまま、しばらく動けなかった。

『活字で名前なんか刷らんよ』と言った夏の自分の声が、耳の底でよみがえった。

葬儀のあと、私は一人で印刷所の作業場に立った。

裸電球は切れたままで、棚の活字だけが、窓からの薄明かりの中で鈍く光っていた。

機械はもう動かず、部屋には冷えたインキの匂いだけが、うっすらと残っていた。

兄の文選箱が、いつもの場所に、きちんと置かれていた。

その中に、組み上げられた一行の活字が、まだ崩されずに残っていた。

私は震える指で、それを刷り台に運び、有り合わせの紙にそっと刷ってみた。

ローラーを転がす手が、なぜか兄の手つきを覚えていた。

紙をめくると、インキの匂いとともに、まだ温かいような気がする文字が並んでいた。

そこには、私の名前が、一字ずつ、まっすぐに組まれていた。

誰に頼まれた仕事でもない、ただ私の名前だけを組んだ、一行だった。

ほんの少しだけ傾いた一字があって、それが、見えない目で探し当てた跡のように思えた。

名前の下に、もう一行、組まれていた。

「おかえり」とだけ、刷られていた。

作業台の引き出しに、兄の便箋が一枚、残されていた。

最後の便りになったその紙には、いつもより大きく、紙からはみ出しそうな字で、こう書いてあった。

「目が見えんようになっても、お前の名前だけは指が覚えとった」

私は、その場にしゃがみ込んだ。

見えない目で、兄は棚の前に立ち、私の名前の一字ずつを、指の記憶だけで探していたのだ。

お前が帰ってきたら、これを刷って渡そう。

そう思いながら、暗闇の中で、たった一行を組むのに、どれほどの時間がかかっただろう。

一字拾うては指で確かめ、また一字拾うては確かめ、何度も何度もなぞったのだろう。

「こんな商売、やめてしまえ」と言った私の言葉を、兄はきっと、ずっと胸に抱えていた。

それでも兄は、最後まで、私の名前の家を、その指の中に覚えていてくれた。

刷り上がった紙の上で、「おかえり」の三文字が、わずかに凹んで、紙に触れた証を残していた。

写真みたいに上っ面を写すんやない、字が紙に手を入れていくんや、という兄の声が、耳の奥で確かによみがえった。

私は、まだインキの匂いの残るその紙を胸に押し当てて、子どものように声を上げた。

引き出しの奥には、私が東京から送った数えるほどの手紙が、丁寧に揃えて仕舞われていた。

事務的な、たった数行の便りばかりだった。

それでも兄は、その一通一通を、見えにくい目で、何度も読み返していたのだろう。

角の折れた便箋を、私はそっと撫でた。

束のいちばん上には、私が一度も出さなかった葉書まで混じっている気がした。

それは、書こうとして書けなかった、私の心の中の言葉だったのかもしれない。

兄は、まだ届かない私の言葉さえ、待っていてくれたのだ。

誰もいない作業場で、私は、ありがとうも、ごめんも、何ひとつ言えなかったことを悔やんだ。

私は今も、あの一行の活字を、文選箱ごと手元に置いている。

名前を組んだ鉛の文字は、もう何も刷ることはない。

それでも、指の腹でそっと撫でると、かすかに鉛とインキの匂いが立つ。

子どものころ、あれほど疎ましかったその匂いを、今は一日の終わりに、そっと探している。

活字には、住んでいる場所がある。

一字ずつ、ちゃんと家があるのだと、兄は言った。

私の名前の家は、あの暗い棚の前に立ち続けた、兄の指の中にあった。

鉛の一行に刻まれていたのは、言葉にできなかった、私たち兄弟の絆だった。

窓の外が、ゆっくりと暮れていく。

私はもう一度、鉛の一文字に、そっと触れてみる。

おかえり、と、今度は私のほうから、声に出してみる。

返事はない。

けれど、指の下の鉛は、ほんのりと、私の手の熱でぬるくなっていく。

あの日、私の手のひらで温まった、一文字の活字のように。

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