
祖父の指は、いつも少しだけ震えていた。
その震える指が、夜ごとに小さな大豆をひと粒だけつまみ、もう一つの袋へそっと移し替えるのを、私はいつも横で眺めていた。
あれは、空襲警報がまだ遠くの町の出来事だった頃の、忘れられない冬の話だ。
祖父は町の役場で、来る日も来る日も書類に判を押す仕事をしていた。
戦地へ行くには歳を取りすぎていて、そのことを祖父はどこか恥じているようでもあった。
父も叔父も海の向こうへ行ってしまい、家には祖父と母と、まだ六つになったばかりの私だけが残されていた。
配給の米は日ごとに細り、味噌汁の実は大根の葉ばかりになっていった。
夜になると電灯には黒い布がかぶせられ、家の中はいつも薄暗く、火鉢の炭がぱちりと爆ぜる音だけが響いていた。
そんな暮らしの中で、祖父は色あせた二つの巾着袋を、何よりも大切にしていた。
片方にはくすんだ大豆がぎっしりと詰まっていて、もう片方は、はじめのうちは空っぽだった。
毎晩、わずかな夕餉が済むと、祖父は満ちた袋からたったひと粒の豆をつまみ、空の袋へことりと落とすのだった。
その手つきは、まるで割れ物でも扱うように、ゆっくりとやさしかった。
「じいちゃん、それ、なあに」と、私は飽きもせず何度も尋ねた。
祖父はそのたびに目尻を深く下げて、「これはな、宝を数えとるんだ」と低い声で言った。
宝、と聞いて、私は袋の中に金平糖か、ビー玉でも隠れているのではないかと胸を躍らせた。
けれど覗き込んでみても、そこにあるのは土の色をした大豆ばかりで、私はいつもがっかりして口を尖らせた。
祖父はそんな私を見て声を立てて笑い、節くれだった大きな手で、私の頭をくしゃりとなでるのだった。
その手のひらは、墨の匂いと、かすかな煙草の匂いがした。
今でも私は、あの匂いを思い出すだけで、胸の奥がじんと熱くなる。
祖父は無口な人で、役場から帰ってくると、まず私の顔を見て一度だけうなずくのが常だった。
言葉は少なかったが、その代わりに祖父は、私と過ごす時間をいつも惜しむように、そばに置いてくれた。
ある日曜の朝、祖父は私の手を引いて、町外れの小さな丘へ連れて行ってくれたことがあった。
配給では決して手に入らない、隠し持っていた一粒の飴玉を、祖父は私の口にそっと入れてくれた。
舌の上でゆっくりと溶けていく甘さに、私は思わず声を上げて笑った。
祖父は遠くの空を見つめながら、「いい一日だなあ」と、ぽつりとつぶやいた。
その夜、祖父が移した豆は、いつもより少しだけ、丁寧に見えた。
今になって思えば、あの飴玉の一日も、祖父にとっては大切なひと粒だったのだろう。
※
ある晩、空襲警報が、初めてこの小さな町にも鋭く鳴り響いた。
私は布団の中で身を縮め、祖父の寝間着の袖を握りしめて離さなかった。
遠くの空が、夕焼けでもないのに赤く滲み、地の底から響くような音が、腹の奥にまで伝わってきた。
母は仏壇の前に座り、ひたすら手を合わせていた。
そんな夜でも、祖父は警報の合間を縫って、いつものようにひと粒の豆を、静かに移し替えた。
「お義父さん、こんなときに、いったい何を」と、母が思わず咎めるように声を上げた。
祖父は手を止めず、けれど穏やかな声で、こう答えた。
「こんなときだからこそ、だ」
「今日もこうして、この子と無事に一日を過ごせた。一日というのはな、ひと粒の宝なんだよ」
人というものは、自分にあと何日が残されているのか、誰ひとり知ることはできない、と祖父は続けた。
「だからわしは、あと何日かと、残りを数えるのはとうの昔にやめにした」
「その代わり、こうしていただいた一日を、ひと粒ずつ数えることにしたんだ」
満ちた袋から、空っぽの袋へ。
減っていくものではなく、増えていくものを、祖父は毎晩その震える指先で、たしかに確かめていた。
幼かった私には、その言葉の本当の重さなど、まだわかるはずもなかった。
ただ、祖父の声がいつもより少しだけ湿っていたことだけは、子供心にも伝わってきた。
「いいか、明日があるというのは、当たり前のようでいて、本当はとても有り難いことなんだ」
祖父はそう言って、満ちた袋を私の小さな手にそっと握らせた。
袋の中の豆は、ひんやりと冷たく、それでいて、不思議なほど確かな重みを持っていた。
「この重さがな、じいちゃんとおまえが一緒に過ごした、宝の重さだよ」
その夜から、私は祖父の隣に座り、豆を移す役目を手伝うようになった。
小さな指でひと粒をつまみ、空の袋へことりと落とすたびに、祖父は決まって「今日も、ありがとうな」と言った。
誰に言うともない、その短い言葉が、私はなぜだか好きだった。
空っぽだった袋は、ゆっくりと、けれど一日ずつ確かに、ふくらんでいった。
※
冬がいっそう深まった頃、祖父はたちの悪い風邪をこじらせて、床に就いてしまった。
医者も薬も、満足に手に入らない時代だった。
高い熱にうなされながらも、祖父は毎晩、布団の中から痩せた手を伸ばし、豆を移そうとした。
私はその手をそっと支え、祖父の代わりにひと粒を、空の袋へ落とした。
「じいちゃんの宝、まだまだ増えるね」と、私はわざと明るい声で言った。
祖父は乾いた唇でうっすらと笑い、「おまえが数えてくれるなら、わしはもう、安心だ」と、かすれた声で答えた。
枕元では、油の足りないランプの灯が、心細そうに揺れていた。
祖父の手は、握り返す力さえ、日に日に弱くなっていった。
それでも、夜ごと袋がひと粒ずつふくらんでいくことが、私にはなぜだか嬉しくてならなかった。
「明日もきっと、豆を移そうね」と私が言うと、祖父は黙ってうなずいてくれた。
その小さなうなずきだけで、私は明日が必ずやってくるものと信じて疑わなかった。
それでも私は、明日もその次の日も、ずっとこの袋に豆を足していけるものだと、疑いもせず信じていた。
だが、ある朝のことだった。
いつもなら誰より早く起きている祖父が、障子越しのやわらかな光の中で、静かに目を覚まさなかった。
その顔は、まるで長い仕事を終えた後のように、おだやかだった。
そして枕元には、まだ移し替えられていない豆がひと粒、ぽつんと残されていた。
昨夜、祖父が落とすはずだった、たった一粒の、最後の宝だった。
その豆は、障子越しの淡い光を受けて、まるで小さな灯りのように見えた。
私はしばらくのあいだ、その一粒から目を離すことができなかった。
私は震える指でその豆をつまみ、いつものように、空の袋へそっと落とした。
「じいちゃん、今日も、ありがとう」と、喉の奥から声を絞り出すのが、やっとだった。
満ちたほうの袋には、まだ数えきれないほどの豆が残っていて、私にはそれが、何よりもつらかった。
祖父が「いただくはずだった明日」が、そこには数えきれぬほど、こぼれずに眠っていた。
※
やがて長い戦争が終わり、町に灯りが戻り、そして気の遠くなるような歳月が流れた。
私は祖父とまったく同じ役場に勤め、定年を迎えるその日まで、来る日も来る日も書類に判を押し続けた。
父を見送り、母を見送り、気づけば私自身の指も、あの頃の祖父とそっくりに、小刻みに震えるようになっていた。
長い人生のあいだ、私は何度も、満ちた袋に残っていたあの数えきれない豆のことを思い返した。
若い頃は、あの豆たちが、祖父の果たせなかった明日のように思えて、ただ悲しかった。
けれど歳を重ねるにつれ、私はようやく気づいたのだ。
祖父が本当に遺したかったのは、悲しみではなく、一日を宝として数える、その心そのものだったのだと。
そして今、私の膝の上には、まだ四つになったばかりの、小さな孫がちょこんと座っている。
私は簞笥の奥から、すっかり色あせた二つの巾着袋を取り出す。
七十年あまりを経てなお、あの土の色をした大豆は、私の手のひらの中でからからと乾いた音を立てた。
私は満ちたほうの袋から、ひと粒の豆をつまむ。
「じいじ、それ、なあに」と、孫が祖父そっくりの無垢な目で、私の顔を見上げる。
あの冬の私と、寸分たがわぬ声だった。
喉の奥がふいに熱くなり、私は一度、ゆっくりと息を吸い込んだ。
私は思わず目尻を深く下げて、祖父がそうしたように、こう答える。
「これはな、宝を数えとるんだよ」
孫はきょとんとした顔で袋を覗き込み、「ただのお豆だよ」と、不満そうに口を尖らせた。
その仕草があまりにあの頃の私とそっくりで、私は声を立てて笑ってしまった。
満ちた袋から、空っぽの袋へ。
祖父の思い出を指先でひとつずつたどりながら、私は今日もまた、ひと粒の豆を、ことりと静かに移し替える。
いただいた一日というものは、決して減ることのない、たったひとつの宝なのだと――今ようやく、心の底から、そう思えるのだ。