先生が一番に呼ぶ名

穏やかな夜の病室

本田、と。

その人は、僕の名前を、いつも一番に呼んだ。

五十音順なら、いちばん後ろに置かれるはずの名前だった。

それなのに先生は、毎朝、僕を最初に呼んだ。

※

昭和六十年の冬は、雪の多い冬だった。

僕は看護学校を出たばかりの、二十二歳の新米看護師だった。

勤め先は、町にひとつきりの小さな病院で、夜勤はたいてい僕ひとりだった。

消灯を過ぎると、廊下の蛍光灯がじいと低く鳴って、窓の外では雪が音もなく積もっていった。

検温の記録をつけ、点滴の残りを確かめ、寝息の数を数えて回る。

そういう静かな夜の仕事が、僕には性に合っていた。

その夜、三号室に、新しい患者が入っていた。

カルテには、桑原弘という名前があった。

七十二歳。肺の病で、もう長くはないと、申し送りの欄に小さく書いてあった。

その名前を見たとき、僕の指から、ボールペンが滑り落ちた。

同じ名字は、世の中にいくらでもある。

けれど、生年と、町の名と、几帳面すぎる楷書の署名を見て、僕は確信した。

桑原先生。

僕が小学校の五年と六年で受け持ってもらった、あの桑原先生だった。

そっと病室を覗くと、暗がりのベッドの上で、痩せた人が浅く息をしていた。

頬はこけ、髪は白く、記憶の中の先生とは、まるで別の人のようだった。

けれど、への字に固く結んだ唇のかたちだけは、十年前のままだった。

「桑原さん」と、僕は喉の奥から、小さく呼んでみた。

先生はうっすらと目を開けて、天井のあたりに視線をさまよわせた。

「……看護婦さんかね」

そう言って、また静かに目を閉じた。

僕のことは、わからないようだった。

それはそうだ、と思った。

あれから十年が経っていたし、当時の僕は、教室の隅にいる、ただの透明な子どもだったのだから。

※

子どもの頃の僕は、言葉が、うまく出ない子だった。

「ほ、ほ、ほ」と、自分の名前の最初の音で、いつも喉がつかえた。

言いたい言葉は、胸の奥にちゃんとあるのに、それが口から出てくるまでに、ひどく長い時間がかかった。

朝の出席をとる時間は、僕にとって、一日でいちばん怖い時間だった。

名前を呼ばれて、はい、と返事をする。

ただそれだけのことが、どうしてもできなかった。

「ほ、ほ……」と詰まるたびに、教室のどこかで、くすくすと笑いが起きた。

誰かがふざけて真似をした。先生が注意をした。それでまた、笑いがぶり返した。

だから僕は、声を出すことを、自分からやめてしまった。

当てられても、ただ黙って手を挙げるだけ。

話しかけられても、うつむいて、首を振るだけ。

そうしているうちに、僕は本当に、いてもいなくても同じような子になっていった。

自分の席のあたりだけ、教室の空気からそっと切り取られているような、そんな毎日だった。

給食の時間も、遠足のバスの座席も、僕の隣はいつも、少しだけ空いていた。

桑原先生が僕らの担任になったのは、五年生の春だった。

よその学校から転任してきた、四十がらみの、無口な男の先生だった。

先生は、最初の朝、出席簿を開いて、いきなりこう言った。

「本田」

あいうえお順を、まるごと、すっ飛ばしていた。

僕は驚いて、思わず顔を上げた。

「ほ、ほ……」と、案の定、喉がつかえた。

笑い声が、起きかけた。

でも、先生は急かさなかった。

出席簿から目を上げて、僕の顔を、まっすぐに見ていた。

笑った子のほうをひと睨みして、それから、ただ静かに待った。

教室が、しんと静まりかえるまで、待っていた。

僕が、つかえながらでも「はい」と言い終えるまでの長い時間を、先生は顔色ひとつ変えずに待ってくれた。

「よし」

先生はそう短く言って、何ごともなかったように、次の名前へ進んだ。

それから先生は、毎朝、僕を一番に呼ぶようになった。

みんながまだ席についたばかりで、ざわめきの残っている、その前に。

教室がいちばん静かでいられる、その一番はじめに。

「本田」と、先生は呼んだ。

僕が返事をするための、いちばん静かな時間を、先生は毎朝、僕のためだけに空けてくれていたのだ。

そのことの意味に気づくのに、僕はずいぶん長い時間がかかった。

ある日、先生は僕に、鐘係という役目を言いつけた。

授業の始まりと終わりに、真鍮の手鈴を振って、廊下のみんなに知らせる役だった。

「お前は手先が器用だ。この鈴は、お前に任せる」

古い、握りのところが黒く擦り減った、小さな鈴だった。

振ってみると、見かけによらず、澄んだ高い音がした。

口で返事のできない僕に、先生は、音で返事をする役目を、そっと用意してくれたのだと思う。

鈴を鳴らすあいだだけ、僕は、教室の真ん中に立っていることができた。

廊下の端まで届けと念じて鈴を振ると、誰もが、僕の鳴らす音で動きはじめた。

声の出せない僕の鳴らす音を、学校じゅうが聞いてくれている。

そう思える、その一瞬がうれしかった。

あの二年間が、僕の子ども時代の、たったひとつの、明るい場所だった。

卒業のとき、先生は何も言わず、ただ僕の肩を一度だけ、ぽんと叩いた。

その手のひらの重さを、僕はずっと、忘れずにいた。

言葉でほめられたことは、一度もなかった。

けれど、あの肩の重みだけで、僕は十分だった。

僕が看護師になろうと決めたのは、たぶん、あの鈴のせいだ。

誰かのいる場所へ行って、自分の小さな音を鳴らし、ここにいるよ、と知らせる。

そういう仕事が、したかったのだと思う。

けれど僕は、そのことを、ついに先生に伝えそびれたまま、大人になってしまっていた。

※

桑原先生が入院して、三日目の夜だった。

先生の娘さんだという人が、面会の帰りぎわに、僕に小さな布の包みを手渡した。

「父が、これがそばにないと、どうにも落ち着かないものですから」

包みの結び目をほどいて、僕は、息が止まった。

真鍮の、手鈴だった。

握りのところが、黒く擦り減っていた。

あの鈴だった。

先生は、定年で学校を去るその日まで、ずっとあの鈴を使い続けていたのだった。

娘さんが帰ったあと、僕はその鈴を、先生の枕もとに、そっと置いた。

深夜、巡回に行くと、先生が目を覚ましていた。

熱が高く、息が荒かった。

先生は、暗い宙に向かって、しきりに片手を動かしていた。

何かの帳面を、繰っているような仕草だった。

「先生」と、僕は思わず、そう呼んでいた。

先生は僕のほうへ顔を向けた。

けれど、その目は、僕を見てはいなかった。

もっと遠い、昔の教室の、朝の光を見ているような目だった。

「……出席を、とる」

かすれた声で、先生はそう言った。

枕もとの鈴を手探りで握り、震える手で、ちりん、と鳴らした。

澄んだ音が、夜更けの病室に、まっすぐ響いた。

その音を聞いた瞬間、僕は十二歳の、あの教室の朝に立っていた。

そして先生は、十年前と、寸分たがわぬ順番で呼んだ。

あいうえお順を、すっ飛ばして。

「本田」

僕の喉が、つかえた。

二十二になっても、その名前のはじめの音は、まだ少し、つかえるのだった。

「本田……本田は、おるか」

先生は、待っていた。

十年前とまったく同じように、急かさず、僕の返事を、いつまでも待っていた。

僕は、ベッドのわきに膝をついて、ゆっくりと息を整えた。

そして、生まれて初めて、その名前を、ひと文字もつかえずに口にした。

「はい。本田、ここにおります」

先生の、宙をさまよっていた手が、ぴたりと止まった。

こけた頬が、ふっと、子どものようにゆるんだ。

「……うん。おるな」

「ちゃんと、おる」

先生はそれだけ言って、深く安心したように、目を閉じた。

鈴を握ったままの手から、少しずつ、力が抜けていった。

僕は、その手を、両手で包んだ。

痩せて、骨ばって、それでもまだ、たしかに温かい手だった。

先生が息を引き取ったのは、その夜が明けて、雪のやんだ朝のことだった。

その朝、窓の外は一面の銀世界で、まるで世界じゅうの音が、雪に吸い込まれたように静かだった。

※

先生は、僕を覚えていたのだろうか。

今でも、わからない。

あの夜の「本田」が、十年前のあの少年に向けられたものだったのか、それとも、ただ熱に浮かされたせん妄だったのか。

確かめるすべは、もうどこにもない。

でも、と僕は思う。

覚えていてくれても、いなくても、もう、どちらでもいいのだ。

先生は、命の最後の夜まで、出席をとっていた。

誰かの名前を一番に呼んで、その子が「ここにいます」と答えるのを、辛抱強く待っていた。

透明だった僕を、この世界に、ちゃんと出席させてくれた人だった。

僕は今でも、夜勤のたびに、あの澄んだ鈴の音を思い出す。

そして、受け持ちの患者の名前を、ひとりずつ、心の中で呼んでみる。

あなたは、ここにいる。

ちゃんと、ここにいる。

そう確かめながら、僕は今日も、長い夜の廊下を、ひとりで歩いている。

誰のことも、透明なままにはしない。

それが、先生から受け取った、たったひとつの宿題だから。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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