先生が一番に呼ぶ名

穏やかな夜の病室

本田、と。

その人は、僕の名前を、いつも一番に呼んだ。

五十音順なら、いちばん後ろに置かれるはずの名前だった。

それなのに先生は、毎朝、僕を最初に呼んだ。

昭和六十年の冬は、雪の多い冬だった。

僕は看護学校を出たばかりの、二十二歳の新米看護師だった。

勤め先は、町にひとつきりの小さな病院で、夜勤はたいてい僕ひとりだった。

消灯を過ぎると、廊下の蛍光灯がじいと低く鳴って、窓の外では雪が音もなく積もっていった。

検温の記録をつけ、点滴の残りを確かめ、寝息の数を数えて回る。

そういう静かな夜の仕事が、僕には性に合っていた。

その夜、三号室に、新しい患者が入っていた。

カルテには、桑原弘という名前があった。

七十二歳。肺の病で、もう長くはないと、申し送りの欄に小さく書いてあった。

その名前を見たとき、僕の指から、ボールペンが滑り落ちた。

同じ名字は、世の中にいくらでもある。

けれど、生年と、町の名と、几帳面すぎる楷書の署名を見て、僕は確信した。

桑原先生。

僕が小学校の五年と六年で受け持ってもらった、あの桑原先生だった。

そっと病室を覗くと、暗がりのベッドの上で、痩せた人が浅く息をしていた。

頬はこけ、髪は白く、記憶の中の先生とは、まるで別の人のようだった。

けれど、への字に固く結んだ唇のかたちだけは、十年前のままだった。

「桑原さん」と、僕は喉の奥から、小さく呼んでみた。

先生はうっすらと目を開けて、天井のあたりに視線をさまよわせた。

「……看護婦さんかね」

そう言って、また静かに目を閉じた。

僕のことは、わからないようだった。

それはそうだ、と思った。

あれから十年が経っていたし、当時の僕は、教室の隅にいる、ただの透明な子どもだったのだから。

子どもの頃の僕は、言葉が、うまく出ない子だった。

「ほ、ほ、ほ」と、自分の名前の最初の音で、いつも喉がつかえた。

言いたい言葉は、胸の奥にちゃんとあるのに、それが口から出てくるまでに、ひどく長い時間がかかった。

朝の出席をとる時間は、僕にとって、一日でいちばん怖い時間だった。

名前を呼ばれて、はい、と返事をする。

ただそれだけのことが、どうしてもできなかった。

「ほ、ほ……」と詰まるたびに、教室のどこかで、くすくすと笑いが起きた。

誰かがふざけて真似をした。先生が注意をした。それでまた、笑いがぶり返した。

だから僕は、声を出すことを、自分からやめてしまった。

当てられても、ただ黙って手を挙げるだけ。

話しかけられても、うつむいて、首を振るだけ。

そうしているうちに、僕は本当に、いてもいなくても同じような子になっていった。

自分の席のあたりだけ、教室の空気からそっと切り取られているような、そんな毎日だった。

給食の時間も、遠足のバスの座席も、僕の隣はいつも、少しだけ空いていた。

桑原先生が僕らの担任になったのは、五年生の春だった。

よその学校から転任してきた、四十がらみの、無口な男の先生だった。

先生は、最初の朝、出席簿を開いて、いきなりこう言った。

「本田」

あいうえお順を、まるごと、すっ飛ばしていた。

僕は驚いて、思わず顔を上げた。

「ほ、ほ……」と、案の定、喉がつかえた。

笑い声が、起きかけた。

でも、先生は急かさなかった。

出席簿から目を上げて、僕の顔を、まっすぐに見ていた。

笑った子のほうをひと睨みして、それから、ただ静かに待った。

教室が、しんと静まりかえるまで、待っていた。

僕が、つかえながらでも「はい」と言い終えるまでの長い時間を、先生は顔色ひとつ変えずに待ってくれた。

「よし」

先生はそう短く言って、何ごともなかったように、次の名前へ進んだ。

それから先生は、毎朝、僕を一番に呼ぶようになった。

みんながまだ席についたばかりで、ざわめきの残っている、その前に。

教室がいちばん静かでいられる、その一番はじめに。

「本田」と、先生は呼んだ。

僕が返事をするための、いちばん静かな時間を、先生は毎朝、僕のためだけに空けてくれていたのだ。

そのことの意味に気づくのに、僕はずいぶん長い時間がかかった。

ある日、先生は僕に、鐘係という役目を言いつけた。

授業の始まりと終わりに、真鍮の手鈴を振って、廊下のみんなに知らせる役だった。

「お前は手先が器用だ。この鈴は、お前に任せる」

古い、握りのところが黒く擦り減った、小さな鈴だった。

振ってみると、見かけによらず、澄んだ高い音がした。

口で返事のできない僕に、先生は、音で返事をする役目を、そっと用意してくれたのだと思う。

鈴を鳴らすあいだだけ、僕は、教室の真ん中に立っていることができた。

廊下の端まで届けと念じて鈴を振ると、誰もが、僕の鳴らす音で動きはじめた。

声の出せない僕の鳴らす音を、学校じゅうが聞いてくれている。

そう思える、その一瞬がうれしかった。

あの二年間が、僕の子ども時代の、たったひとつの、明るい場所だった。

卒業のとき、先生は何も言わず、ただ僕の肩を一度だけ、ぽんと叩いた。

その手のひらの重さを、僕はずっと、忘れずにいた。

言葉でほめられたことは、一度もなかった。

けれど、あの肩の重みだけで、僕は十分だった。

僕が看護師になろうと決めたのは、たぶん、あの鈴のせいだ。

誰かのいる場所へ行って、自分の小さな音を鳴らし、ここにいるよ、と知らせる。

そういう仕事が、したかったのだと思う。

けれど僕は、そのことを、ついに先生に伝えそびれたまま、大人になってしまっていた。

桑原先生が入院して、三日目の夜だった。

先生の娘さんだという人が、面会の帰りぎわに、僕に小さな布の包みを手渡した。

「父が、これがそばにないと、どうにも落ち着かないものですから」

包みの結び目をほどいて、僕は、息が止まった。

真鍮の、手鈴だった。

握りのところが、黒く擦り減っていた。

あの鈴だった。

先生は、定年で学校を去るその日まで、ずっとあの鈴を使い続けていたのだった。

娘さんが帰ったあと、僕はその鈴を、先生の枕もとに、そっと置いた。

深夜、巡回に行くと、先生が目を覚ましていた。

熱が高く、息が荒かった。

先生は、暗い宙に向かって、しきりに片手を動かしていた。

何かの帳面を、繰っているような仕草だった。

「先生」と、僕は思わず、そう呼んでいた。

先生は僕のほうへ顔を向けた。

けれど、その目は、僕を見てはいなかった。

もっと遠い、昔の教室の、朝の光を見ているような目だった。

「……出席を、とる」

かすれた声で、先生はそう言った。

枕もとの鈴を手探りで握り、震える手で、ちりん、と鳴らした。

澄んだ音が、夜更けの病室に、まっすぐ響いた。

その音を聞いた瞬間、僕は十二歳の、あの教室の朝に立っていた。

そして先生は、十年前と、寸分たがわぬ順番で呼んだ。

あいうえお順を、すっ飛ばして。

「本田」

僕の喉が、つかえた。

二十二になっても、その名前のはじめの音は、まだ少し、つかえるのだった。

「本田……本田は、おるか」

先生は、待っていた。

十年前とまったく同じように、急かさず、僕の返事を、いつまでも待っていた。

僕は、ベッドのわきに膝をついて、ゆっくりと息を整えた。

そして、生まれて初めて、その名前を、ひと文字もつかえずに口にした。

「はい。本田、ここにおります」

先生の、宙をさまよっていた手が、ぴたりと止まった。

こけた頬が、ふっと、子どものようにゆるんだ。

「……うん。おるな」

「ちゃんと、おる」

先生はそれだけ言って、深く安心したように、目を閉じた。

鈴を握ったままの手から、少しずつ、力が抜けていった。

僕は、その手を、両手で包んだ。

痩せて、骨ばって、それでもまだ、たしかに温かい手だった。

先生が息を引き取ったのは、その夜が明けて、雪のやんだ朝のことだった。

その朝、窓の外は一面の銀世界で、まるで世界じゅうの音が、雪に吸い込まれたように静かだった。

先生は、僕を覚えていたのだろうか。

今でも、わからない。

あの夜の「本田」が、十年前のあの少年に向けられたものだったのか、それとも、ただ熱に浮かされたせん妄だったのか。

確かめるすべは、もうどこにもない。

でも、と僕は思う。

覚えていてくれても、いなくても、もう、どちらでもいいのだ。

先生は、命の最後の夜まで、出席をとっていた。

誰かの名前を一番に呼んで、その子が「ここにいます」と答えるのを、辛抱強く待っていた。

透明だった僕を、この世界に、ちゃんと出席させてくれた人だった。

僕は今でも、夜勤のたびに、あの澄んだ鈴の音を思い出す。

そして、受け持ちの患者の名前を、ひとりずつ、心の中で呼んでみる。

あなたは、ここにいる。

ちゃんと、ここにいる。

そう確かめながら、僕は今日も、長い夜の廊下を、ひとりで歩いている。

誰のことも、透明なままにはしない。

それが、先生から受け取った、たったひとつの宿題だから。

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