
もう十年以上前の話だ。
俺が高校生だったころ、毎日同じ電車に乗っていた女の子がいた。同じ学校の、一個下の後輩。名前は、みなみちゃんといった。
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出会いは偶然だった。高校一年の冬、いつもより一本早い電車に乗ったら、ドア際の席に見知らぬ女の子が座っていた。膝の上に文庫本を開いて、熱心に読んでいる。周りがスマホをいじってるなか、一人だけ本を読んでいるのが、なんか妙に印象に残った。
その日はそれだけだった。ただそれだけなのに、次の日も、その次の日も、気づいたら俺は同じ時間の電車に乗るようになっていた。今思えば完全に意識してたんだけど、当時の自分にはそれを認める勇気がなかった。
ある朝、電車が遅延して立ち客でぎゅうぎゅうになったとき、彼女が顔を上げてこっちを見た。「先輩ですよね。いつも同じ電車ですね」と言って、小さく笑った。それが最初の会話だった。
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それからは自然に一緒に乗るようになった。二人並んで座って、他愛もない話をした。昨日見たテレビのこと、最近読んだ本のこと、学校の先生のうわさ話。みなみちゃんはよくしゃべる子で、声が少し低くて、でも笑うと目が細くなって、俺はそれがなんか好きだった。
彼女はいつも本を持ち歩いていて、俺が「どんな話なん?」と聞くと、嬉しそうにあらすじを教えてくれた。表情がころころ変わって、好きなシーンの話になると少し早口になる。俺はそんなに本を読む方じゃなかったけど、彼女が話すと不思議と面白そうに思えた。「貸そうか?」と言われて、何冊か借りた。読み終わったら電車の中で感想を言い合った。俺が「主人公がなんか答え出すの遅くない?」とか的外れなことを言うと、「それが大事なんですよ!」と少し怒る。そのやりとりが、なんか良かった。
好きだな、と思い始めたのがいつからかは、よく覚えていない。気づいたときにはもう、毎朝電車に乗ることが一日のいちばんの楽しみになっていた。
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一度だけ、二人で放課後に本屋に寄ったことがある。
試験の前日で、俺は参考書を買いに行くつもりだった。駅前の本屋で偶然みなみちゃんと会って、「一緒に見ていいですか」と言われた。参考書のコーナーは一瞬で終わって、その後は文庫のコーナーで三十分くらいうろうろした。彼女は棚から本を取り出しては「これ面白いんですよ」と教えてくれる。俺は内容より彼女のことを見ていた。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、「先輩って、どんな話が好きですか?」と聞かれた。うまく答えられなくて「わかんない、あんまり読まないし」と言ったら、「じゃあ今度選んであげます」と笑った。
そのとき告白しようと思った。思ったけど、電車が来た。タイミングをなくした。帰ってから、ずっとそのことを考えていた。
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告白しようと思ったことは、その後も何度もあった。
文化祭の日、二人で学校を出て駅まで歩いたとき。年が明けて、電車の中で「今年もよろしくお願いします」と言い合ったとき。春先のある朝、みなみちゃんがいつもと違う私服を着てきて、「あ、今日制服じゃないんだ」と言ったら「バレましたか」と笑ったとき。
二年生になって同じクラスになった友達が、「お前あの子のこと好きなんやろ?」と聞いてきた。「違う」と答えたら「嘘つけ」と笑われた。俺の顔を見ればバレバレだったらしい。「だったら言えばいいじゃん」と言われて、「タイミングがない」と言い訳した。「毎日会っとるやん」とツッコまれた。その通りだった。
でも、できなかった。
友達に「あいつ後輩に片思いらしいぞ」とからかわれて、なんとなく照れくさくなってしまったとか、タイミングが掴めなかったとか、理由はいくつも思いつく。でも正直に言えば、ただ怖かっただけだ。もし断られたら、この電車の時間がなくなってしまう。毎朝の楽しみが消えてしまう。そう思うと、踏み出せなかった。
結局、高校三年間、俺はずっと黙ったままだった。
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高校三年の二月、卒業の少し前に、みなみちゃんが「私、転校することになりました」と言った。
お父さんの仕事の都合で、四月から北海道に引っ越すらしかった。「先輩に会えなくなるの、寂しいです」と彼女は言いながら、窓の外を見ていた。俺は「そっか、残念だな」とだけ答えた。好きです、とはやっぱり言えなかった。ありがとうも、ちゃんと言えたか怪しい。
最後の日、電車を降りるとき、みなみちゃんは「ずっと借りっぱなしにしてた」と言って、文庫本を一冊返してくれた。「これ、私のいちばん好きな本なので、先輩にあげます」と言って、ホームに降りていった。電車のドアが閉まって、彼女の姿が遠ざかっていくのを、俺はただ窓から見ていた。手を振れば良かったと気づいたのは、電車が動き出してからだった。
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それから十年以上が経った。
俺は地元で就職して、今も同じ路線の電車に乗って通勤している。混んでいる車内で吊革につかまりながら、たまにあの頃のことを思い出す。隣に誰かが座るたびに、少しだけ。
あの文庫本は本棚に刺さったまま、ずっと読まずにいた。なんとなく読めなかった。彼女がくれた本を読んでしまったら、何かが終わってしまう気がして。そのままにしていたら、いつの間にか背表紙が日焼けして色が抜けていた。
先月、引っ越しの荷物整理をしていて、久しぶりにその本を手に取った。せっかくだから読もうと思ってパラパラとページをめくったら、途中に栞が挟んであった。みなみちゃんが使っていた、小さな紙の栞だった。たぶん、返すときそのままになってたんだろう。
栞の裏側に、小さな字で何か書いてあった。
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インクが薄くなっていて、最初は読めなかった。窓際に持っていって、日の光にかざして、やっと読めた。
「先輩のこと、好きでした。言えなかったけど。」
それだけだった。日付も名前もなかった。でもみなみちゃんの字だとすぐわかった。几帳面な、少し右上がりの字。
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しばらく、その場に立ったまま動けなかった。
十年越しに知った話だった。彼女も、ずっと黙ってたんだ。俺と同じように、言えなくて、最後まで言えなくて、でもこっそり本の中に置いていったんだ。栞に書いて、本の中に。気づいてほしかったのか、気づかれなくていいと思ってたのか、もうわからない。
嬉しいとか悲しいとか、そういう感情がうまく出てこなかった。ただ、なんかもったいないことをしたな、という気持ちが胸の中にじわじわ広がった。あのとき一言言えていたら、何か変わっていたかもしれない。変わらなかったかもしれない。でも少なくとも、二人で笑って話せる何かが、あったんじゃないかと思う。「実は俺も」「え、そうだったんですか」みたいな、そういう時間が。
なんで言えなかったんだろうな。なんで言わなかったんだろう。そんなこと今さら考えても仕方ない。わかってるけど、考えてしまう。
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その文庫本を、今は毎朝の電車で読んでいる。
みなみちゃんが好きだって言ってた本。読んでみたら、確かに良かった。主人公がずっと言えなかった気持ちを、最後の最後に伝える話だった。読み終わったとき、少し泣いた。電車の中で、こっそり。
栞は本の最初のページに挟み直した。捨てられるわけがない。
電車が地元の駅を出るたびに、あの頃のホームを思い出す。ドアが閉まっていく瞬間のみなみちゃんの顔を。遠ざかっていく背中を。あのとき、窓を叩けばよかった。言えばよかった。
それだけだ。それだけのことが、十年経っても、まだどこかに刺さったままいる。