
私の仕事場の、煤けた神棚の隅に、小さな鉄の鈴がひとつ、ぶら下がっている。
もう、何十年もそこにある。
振っても、ほとんど音はしない。
中の舌が、片方、欠けてしまっているからだ。
それでも私は毎朝、この鈴に指先をそっと触れてから、鞴の前に立つ。
弟子たちは、棟梁がなぜ鳴らない鈴をあれほど大事にするのか、誰も知らない。
私も、長いあいだ、誰にも話さずにきた。
けれど今日は、この鈴の話を、少しだけしてみようと思う。
私は鍛冶屋だ。
信州の、峠を背負った小さな宿場町で、来る日も来る日も、赤い鉄を打って生きてきた。
鍬、鎌、鉈、釘。
土を耕すための道具を、半世紀のあいだ、この手で打ち続けてきた。
親方に拾われたのは、私が十四になった年だった。
私には、父親の顔の記憶が、ない。
生まれてまもなく父は家を出て行ったのだと、母方の祖父からは、そう聞かされて育った。
昭和の四十年代、まだ峠を越える荷馬車の鈴の音が、朝の宿場に響いていた時分の話だ。
私を育ててくれたのは、母方の祖父の家だった。
祖父はこの町の顔役で、山の木も、峠の荷も、なにかと差配する力のある人だった。
その家で、私は不自由なく、けれど、どこか息を詰めるようにして大きくなった。
父の話を口にすることは、その家では、固く禁じられていた。
幼い私が一度だけ父のことを尋ねたとき、祖父の頬が、石のように固くなった。
「あれは、お前の父ではない。忘れてしまえ」
祖父はそう言って、それきり、口を閉ざした。
母は、私が物心つく前に、長く患って、先に逝っていた。
だから私には、父のことを聞ける相手が、誰もいなかった。
父とは、どんな人だったのか。
なぜ、私を置いて出て行ったのか。
その問いは、胸の奥の、いちばん底の冷たい場所に、ずっと沈んでいた。
鉄を打つ音だけが、その問いを、いっとき忘れさせてくれた。
朝はまだ暗いうちに火を熾し、私は鞴を踏む。
炭の熾が赤く息づき、鉄の色が、藁色から橙へ、橙から白へと、ゆっくり移ろっていく。
その色の移ろいだけを頼りに、私は槌を振り下ろす。
鉄を打つ甲高い音が、宿場の谷あいに、こだまして返ってくる。
火の粉が、暗がりにぱっと舞い上がっては、また、消えていく。
火床の炎を見つめ、槌を振り下ろしているあいだだけ、私は自分の生い立ちから、自由になれた。
汗が、煤と混じって、目に染みた。
それでも、火のそばは、あの祖父の座敷の、ぴんと張り詰めた寒さより、ずっと、ましだった。
鉄は、打てば打つほど、応えてくれる。
親も、故郷も持たぬ私にとって、その正直さだけが、よすがだった。
※
私には、ひとつだけ、ひどく古い記憶の断片がある。
あれは、私が六つか、七つの頃だったろうか。
私は重い熱を出して、宿場の外れの医院に、長く寝かされていた。
今思えば、命に関わるほどの、悪い病だったらしい。
高い熱の底で、私はうつらうつらと、暗い水の中を漂っていた。
自分が、ひどく遠い場所へ、流されていくような心地がした。
そのとき、ふと、冷たい大きな手が、私の小さな手を、そっと包んだのを覚えている。
節くれだった、鉄のように硬い、けれど、ふしぎと優しい手だった。
その手は、何も言わず、ただ、私の手を、何度も、何度も、さすってくれた。
その手のひらの中で、ちりん、と、かすかに、鈴の鳴る音がした。
澄んだ、けれど、どこか心細いような、小さな音だった。
その音は、暗い水の中へ流されていく私を、岸へ、引き戻してくれるようだった。
私はその音を聞きながら、すうっと、楽な眠りに落ちていった。
朝、目を覚ますと、熱は嘘のように引いていた。
そして、その手も、鈴の音も、もう、どこにもなかった。
枕元にいた祖父に尋ねても、「夢でも見たんだろう」と、にべもなかった。
けれど、私の右の手のひらには、たしかに、あの鈴の冷たさの名残があった。
あの手は、誰の手だったのか。
あの鈴は、どこへ消えたのか。
長いあいだ、それは、熱が見せた幻なのだと、自分に言い聞かせてきた。
祖父の家での暮らしは、何ひとつ、不自由はなかった。
白い飯も、温かい着物も、与えられた。
けれど、その家には、笑い声というものが、なかった。
祖父は、私を一人前の跡取りにしようと、厳しく躾けた。
箸の上げ下ろしから、人への口の利き方まで、すべてに、決まりがあった。
私はいつも、何か大きな間違いを、知らずに犯しているような心地で、暮らしていた。
一度だけ、私は、仏壇に飾られた一枚の古い写真を、見つけたことがある。
若い男女が、はにかんで並んだ、色の褪せた写真だった。
女のひとは、私の、母だった。
その隣の、痩せて、けれど優しい目をした男に、私はなぜか、目を奪われた。
だが、私がその写真を手に取った途端、祖父が、血相を変えて、それを取り上げた。
そして、その写真を、二度と、私の目に触れる場所には、置かなかった。
あの男は、誰だったのか。
問うことは、許されなかった。
十四で祖父の家を出て、私は峠の鍛冶屋の親方に弟子入りした。
跡取りにと望む祖父は、烈しく反対したが、私は、初めて、その家に逆らった。
火と鉄のそばにいるほうが、私には、祖父の座敷より、ずっと息がしやすかった。
親方は無口な人で、私を叱るときも、ただ黙って、自分の槌さばきを見せた。
「鉄は、嘘をつかん」
親方が私に教えてくれた言葉は、つまるところ、それひとつきりだった。
焼けた鉄は、叩いた分だけ、正直に応える。
手を抜けば、抜いた分だけ、刃がなまる。
人より不器用な私には、その正直さが、ありがたかった。
汗と煤にまみれ、私は少しずつ、人前に出せる道具を打てるようになっていった。
鍛冶屋として独り立ちした頃、私は、ふみという、隣村の娘と所帯を持つ約束をした。
ふみは、笑うと右の頬にだけ、小さなえくぼができる、気立ての優しい娘だった。
はじめて言葉を交わしたのは、ふみが、欠けた鎌を直しに、私の仕事場へ来た日だった。
「これ、父さんの形見の鎌なの。もう古いけど、どうしても、捨てられなくて」
私は、その擦り減った刃を、半日かけて、丁寧に打ち直した。
刃を受け取ったふみは、まるで宝物でも抱くように、それを胸に当てた。
「あなたの打つ鎌はね、手によく馴染んで、草がよう切れるって、うちの近所でも評判よ」
ふみは、そう言って、自分のことのように、私の仕事を誇った。
それからふみは、何かと用を作っては、私の仕事場へ顔を出すようになった。
昼どきには、麦の握り飯を、いつも一つ、余分に持って来て、黙って私の膝の横に置いた。
「身寄りのない人が、ちゃんとご飯を食べてるか、見に来ただけ」
そう言って、ふみは、いたずらっぽく笑った。
火花の散る仕事場の隅で、ふみは、私が鉄を打つのを、飽きもせずに眺めていた。
「熱い鉄が、だんだん形になっていくのを見てると、なんだか、人の一生みたいね」
そんなことを、ふみは、ふと、口にした。
ある祭りの晩、私たちは、宿場の外れの坂から、遠くの祭り提灯を、二人で眺めた。
ふみは人混みが苦手で、いつも輪の外から、賑わいを見ているのが好きだと言った。
「みんなの楽しそうな声を、こうして遠くで聞いているのが、わたしには、ちょうどいいの」
その横顔を見ながら、私は、生まれて初めて、誰かと生きていきたいと、思った。
身寄りのない私を、ふみの家の者は、それでも、温かく迎えてくれた。
「鉄を打つ手の確かな男は、心も確かだ」と、ふみの父は、私の肩を、ぽんと叩いた。
その大きな手の温もりに、私はなぜか、泣きそうになった。
祝言の日取りも、そろそろ決めようかという、ある秋のことだった。
私の暮らしは、生まれて初めて、穏やかな陽だまりの中に、あった。
ただ、ひとつ。
胸の底のあの問いだけは、相変わらず、冷たい水のように、沈んだままだった。
父は、いったい、どこで、どうしているのか。
幸せになればなるほど、私はなぜか、顔も知らぬ父のことを、ふと思った。
※
その年の、初雪の降った晩のことだ。
峠のほうで、人が一人、雪の中に倒れていると、宿場に報せが入った。
行き倒れの、年寄りだという。
身元の知れる物は、何ひとつ、持っていないらしい。
私は若い衆に交じって、戸板を担ぎ、雪を分けて、峠への道を登った。
風は冷たく、提灯の灯りは、雪の中で、今にも消え入りそうに揺れていた。
膝まで埋もれる雪をかき分け、私たちは、一歩、また一歩と、峠を登った。
提灯の灯りの先に、その老人は、半ば雪に埋もれて、横たわっていた。
痩せて、頬のこけた、ひどく貧しい身なりの男だった。
骨と皮ばかりの体に、薄い綿入れを一枚、まとっただけの姿だった。
こんな身なりで、なぜ、この雪の峠を越えようとしたのか。
その時の私には、まだ、知る由もなかった。
まだ、かすかに息はあった。
私たちは老人を戸板に乗せ、宿場の医院へ、急いで運び込んだ。
その医院は、奇しくも、幼い私が高い熱で寝かされた、あの医院だった。
医者は、もう手の施しようがない、と、静かに首を振った。
凍えと、長の患いとで、この老人の灯は、もう、消えかけているのだと。
せめて身元だけでも知れぬかと、私たちは、老人の懐を探った。
そして、その首から、色の褪せた、古い巾着がひとつ、提げられているのを見つけた。
何度も縫い直した跡のある、布の擦り切れた、小さな巾着だった。
私が、その口をそっと開けると、中から、二つの物がこぼれ落ちた。
ひとつは、変色した、一枚の古い写真。
もうひとつは、小さな、鉄の鈴だった。
私は、写真を、灯りにかざした。
そこに写っていたのは、見覚えのある、宿場外れの、あの医院の軒先。
そして、その軒先に立つ、熱の引いたばかりの、痩せた幼子。
その幼子は、まぎれもなく、幼い頃の、私だった。
私の指が、震えた。
私は、もうひとつの、鉄の鈴を、掌に転がした。
古い、けれど、丁寧に油を引かれ、大事にされてきた鈴だった。
私は、それを、そっと、振ってみた。
ちりん、と、澄んだ、けれど、どこか心細い音が、雪の夜の医院に、鳴った。
その音を聞いた瞬間、胸の底に沈んでいた冷たい水が、一気に、喉までせり上がってきた。
この音だ。
高い熱の底で、私の手を包んだ、あの手のひらの中で鳴っていた、あの音だ。
私は、神棚の隅に提げた、舌の欠けた、片割れの鈴のことを、思い出していた。
あれは、祖父の家を出るとき、私の行李の底から、なぜか一つだけ出てきた鈴だった。
形見だと聞かされたこともなく、ただ、捨てるに捨てられず、私はずっと持っていた。
二つの鈴を、私は、震える掌の上で、そっと、寄り添わせた。
寸分の狂いもなく、それは、対の鈴だった。
※
私は、戸板に横たわる老人の、痩せた顔を、まじまじと見つめた。
頬はこけ、髪は白く薄く、皺は深く刻まれていた。
けれど、その節くれだった、大きな手を見たとき、私は、すべてを悟った。
あの、高い熱の底で、私の手を包んだ、鉄のように硬い手。
この人が、私の、父だった。
後で、医院の古い帳面と、宿場の年寄りの話とで、おおよその事情は、知れた。
父は、祖父の家とは家格の違う、貧しい流れの鍛冶職人だったらしい。
母との縁を、祖父をはじめ親族一同が、烈しく反対した。
それを押し切って二人は所帯を持ったが、母は実家の者から、ひどい仕打ちを受けたという。
心を病むほどに追い詰められ、母は、私を産んだあと、長く床に就いた。
祖父は、知り合いの医者を使い、父を「まともでない」とする偽りの診断書まで書かせた。
そしてそれを盾に、父が私に近づくことを、固く、禁じてしまったのだ。
父は、宿場を追われるように、町を去るほか、なかった。
それでも、たった一度だけ、父が私のそばに来ることを、許された日があった。
私が、あの高い熱で、命の瀬戸際にあったときだ。
私の病には、めずらしい血の質の、血を分けてやる者が要った。
祖父の家の親族には、ただの一人も、その血の質の合う者が、いなかった。
苦肉の策で、遠い土地にいた父が、ひそかに、呼び戻された。
父の血は、見事に、私の血と、合った。
父は、何の見返りも、求めなかったという。
ただ、ひとつだけ。
眠っている息子の、そばに、少しのあいだ、いさせてほしいと、願い出たそうだ。
祖父は、しぶしぶ、それを許した。
眠ったままの私と、父が同じ部屋にいられたのは、わずか、二十分ほどだったという。
父はそのとき、自分の打った対の鈴の、片割れを、眠る私の手に、そっと握らせた。
そして、もう片方を、自分の巾着に、納めたのだ。
離れていても、同じ音の鈴が、二人を繋いでいるように。
私は、戸板のそばに膝をつき、父の、冷たくなりかけた手を、両手で、強く握った。
あの日、父が私を包んでくれたように、今度は、私が、その手を包んだ。
「親父」
声が、震えた。
私の知る、生まれて初めての、その言葉だった。
「迎えに来るのが、遅くなって、すまなかった」
父の閉じた瞼が、かすかに、震えた気がした。
そして、その渇いた唇が、ほんの少しだけ、開いた。
声には、ならなかった。
けれど、私の手を握る、父の指に、ほんのわずか、力がこもった気がした。
私は、一晩中、その手を、握り続けた。
その硬い手のひらの、ひとつひとつの胼胝を、私は指でなぞった。
これは、私と同じ、鉄を打つ者の手だった。
会ったこともないのに、私たちは、同じ硬さの手を、持っていたのだ。
高い熱の底で、この手は、私を岸へ引き戻してくれた。
そして今、私はようやく、その手に、握り返すことができている。
三十年。
あまりにも、長い回り道だった。
私が鉄を打つたびに鳴っていた音と、父が握りしめていた鈴の音は、ずっと、同じ音だったのだ。
鈴は、二つでひとつだった。離れていた三十年のあいだ、片割れはずっと、親父の掌の中で鳴っていたのだ。
窓の外では、雪が、音もなく、降り積もっていた。
そして、白々と夜が明ける頃。
父は、長い旅の果てに、ようやく我が家へ帰り着いた者のように、静かに、その息を、ほどいた。
握っていた手から、ぬくもりが、ゆっくりと、引いていくのを、私は掌で感じていた。
それでも、私は、その手を、放さなかった。
放してしまえば、せっかく巡り会えた三十年が、また、雪に消えてしまう気がした。
医院の障子が、白々と明るくなっていく。
その白い光の中で、父の顔は、不思議なほど、安らかだった。
長い旅の末に、ようやく重い荷を下ろした人の、穏やかな顔だった。
※
翌日、私は、父が暮らしていたという、峠の向こうの小屋を、ふみと二人で訪ねた。
それは、人ひとりが、ようやく雨露をしのげるほどの、粗末な小屋だった。
父は、たった一人で、ここで、ひっそりと暮らしていたのだ。
土間の隅には、小さな鞴と、使い込まれた金床が、置かれていた。
父もまた、この峠の向こうで、ひとり、細々と鉄を打って、糊口をしのいでいたらしい。
打ちかけの、小さな鈴が、いくつも、棚の上に転がっていた。
どれも、私の神棚に提げた鈴と、同じ形をしていた。
父は三十年のあいだ、何度も何度も、あの対の鈴を、打ち直そうとしていたのだ。
けれど、その、がらんとした土壁の小屋の中は、私には、神殿のように見えた。
壁という壁に、私の写真が、所狭しと、貼られていたからだ。
赤子の頃の私。
医院の軒先に立つ、熱の引いたばかりの私。
鍛冶の弟子として、煤だらけで槌を振る、若い頃の私。
どこで手に入れたのか、祝言の話が出ていた、近頃の私の姿まで。
一枚、また一枚と、私が知らぬ間に、誰かに撮らせ、買い集めたものらしかった。
父は、会うことを禁じられた三十年のあいだ、遠くから、ずっと、私を見守り続けていたのだ。
声をかけることも、手を握ることも、許されぬまま。
ただ、遠い峠の上から、息子の影が大きくなっていくのを、数えるように、見ていたのだ。
古い行李の中には、固く封をされたままの、手紙の束が、納められていた。
私の名で、父が、年に幾度も書いては送り、そのたびに祖父の家から送り返された、手紙だった。
正月の晴れ着。
節句の、小さな玩具。
宛名も書けぬまま、送り返された、無数の贈り物が、行李の底に、静かに眠っていた。
その中に、一冊の、古びた通帳があった。
通帳の、擦り切れた表紙には、墨で、私の名が、不器用な字で、書かれていた。
開いてみて、私は、息を、呑んだ。
貧しい暮らしぶりからは、とても考えられぬほどの、金高が、そこには、記されていた。
父は、つましい暮らしの中から、一文、また一文と、私のために、貯め続けていたのだ。
そして、いちばん最後の日付は。
父が、雪の峠で倒れた、その、前の日のものだった。
※
行李のいちばん上に、一通だけ、封の切られた、新しい手紙があった。
差出人は、母方の、あの祖父だった。
年老いて、ようやく頑なな心のほどけた祖父が、最期に、父に宛てて書いた、詫び状だった。
そこには、こうあった。
――孫が、所帯を持つ。
――今さら、虫のいい話だが、祝言の席に、父として、来てやってはくれまいか。
――あの子の隣に、立ってやってはくれまいか、と。
父は、その手紙を、受け取って、読んでいた。
そして、その招きに応えて、雪の峠を、私のいるこの宿場へ向かって、歩いて来たのだ。
あと、ほんの少しで、峠を越えられる、その場所で、父の灯は、尽きた。
三十年、ただの一度も抱くことのかなわなかった息子に、会うために。
父は、最後の力を振り絞って、雪の中を、歩いて来てくれたのだ。
あと、ほんの半里。
その半里が、どうしても、越えられなかった。
私は、父の打った通帳の、最後の一行を、指で、なぞった。
いちばん遠い土地の景色を見せてやりたいと、父は、そう思っていたのかもしれない。
あるいは、祝言の晴れ着の一枚も、こしらえてやりたかったのかもしれない。
その金は、もう、誰の手にも、渡ることはない。
けれど、その一行、一行に込められた想いだけは、確かに、私の胸に、届いていた。
私とふみは、その粗末な小屋の土間に、座り込んだまま、いつまでも、泣いた。
小屋の窓から差し込む雪明かりが、壁一面の私の写真を、白く、照らしていた。
あれから、長い、長い歳月が流れた。
私はとうとう、この峠の宿場を離れず、ただ、鉄を打ち続けてきた。
ふみと所帯を持ち、子をなし、孫の顔も見た。
祝言の日、私は、父の打った二つの鈴を、懐に忍ばせて、ふみの隣に立った。
あの偽りの診断書を書かせ、父と私を引き裂いた祖父も、その席の隅に、小さく座っていた。
ひどく年老いて、背の丸くなった祖父は、私と目が合うと、深く、深く、頭を下げた。
私は、その祖父を、もう、恨んではいなかった。
恨んで生きるには、父が遺してくれたものが、あまりにも、温かすぎた。
私は、祖父のしわだらけの手を取り、ただ、「来てくれて、ありがとうございます」と言った。
祖父の目から、ひとすじ、涙が、こぼれ落ちた。
私の隣には、血を分けた父は、立たなかった。
けれど私は、もう、独りではないと、知っていた。
懐の中で、二つの鈴は、確かに、私の鼓動に合わせて、かすかに、鳴っていた。
片割れの鈴は、いつしか、舌が欠けて、もう、ほとんど鳴らない。
それでも私は、毎朝それに指を触れ、火床に火を入れる。
鉄は、嘘をつかない。
そして、親の情もまた、嘘を、つかないのだと、今の私は、思う。
たとえ、三十年、声ひとつ届かなくても。
たとえ、ただの一度も、抱きしめてもらえなくても。
親が子を想う心は、目に見えず、音にもならず、それでも、確かに、そこにあった。
会えない歳月の長さは、想いの深さを、少しも、すり減らしはしなかったのだ。
親父の打った鈴は、私の知らないところで、ずっと、私のために、鳴り続けていた。
潮の引くように静かな夕暮れには、今でも、あの音が、聞こえる気がする。
ちりん、と。
あの、冷たい手のひらの中で鳴った、心細くて、けれど、どこまでも優しい、あの音が。
私は今日も、神棚の鈴に指を触れてから、また一日、赤い鉄を、ひとつ、ひとつ、打つ。
鉄を打つたびに、私は、いつも、あの心細くも優しい音を、胸の奥で聞いている。
長々と、お聞かせしました。