頂に届けたふたつの櫛

山道を歩む静かな午後

麓の社の絵馬掛けには、女の名の絵馬ばかりが、なぜか一列、山とは逆を向いて掛かっていた。

子どもの頃から、あれが不思議でならなかった。

男の名の絵馬は、みな山のほうを向いている。

けれど女の名のものだけは、板の裏をこちらに見せて、頂に背を向けたまま雨に打たれていた。

誰が掛けたのか、いつからそうなのか、村の年寄りに聞いても、はぐらかされるばかりだった。

「あれは、触るもんじゃねえ」

祖父は、ただそう言って煙管を叩いた。

俺の家は、代々この山の強力だった。

強力というのは、講の衆の荷を担いで、頂の奥宮まで案内する役目だ。

米も味噌も、油も蝋燭も、みな俺たちの背が運ぶ。

父もそうだった。祖父もそうだった。

物心ついた頃には、俺は父の脚絆の結び方を覚えていた。

背負子の縄が肩に食い込む、あの感触が、俺には家の匂いだった。

俺が初めて頂に立ったのは、十五の年だった。

父の後について、震える足で岩場を登った。

頂に出た瞬間、目の下に、燃えるような雲海が広がっていた。

言葉が、出なかった。

父は何も言わず、ただ俺の肩に、大きな手を置いた。

「これを担いで守るのが、俺たちの役目だ」

父の声は、風にさらわれて、半分しか聞こえなかった。

だが、肩に置かれたその手の重みだけは、今も残っている。

この山は、古くから女人禁制だった。

麓に立つ結界石から先へ、女が足を踏み入れることは許されなかった。

石には、苔むした古い字で、ここから先は入るなと彫ってあった。

理屈で言われても、俺にはよくわからなかった。

ただ、そういうものだと、村じゅうが黙って守ってきた。

スズは、麓の宿坊の娘だった。

俺とは同じ年で、乳を分けた仲だと、双方の母がよく笑って言った。

物心つく前から、俺たちは許婚のようなものだった。

痩せて、日に焼けて、木登りは村のどの男の子より上手かった。

スズは、この村の誰よりも山が好きだった。

男に生まれていれば、きっと村一番の強力になっていたと、父までがそう言った。

だが、スズは女だった。

だから、結界石の内側へは、一歩も入れなかった。

幼い日、一度だけ、スズが石に手をかけたことがある。

越えようとしたわけではない。ただ、冷たい石を、掌で確かめていた。

それを見た母親が、血相を変えてスズを抱き上げ、家へ連れ帰った。

あの日から、スズは二度と、石に触れなかった。

ただ、遠くから、石の向こうの峰を、いつまでも見上げていた。

宿坊の土間は、いつも味噌と、濡れた白衣の匂いがした。

スズは、その匂いの中で育った。

講の衆の草鞋を編み、白衣を洗い、握り飯を握る。

女は山に入れずとも、山で生きる者を、麓で支えていた。

「男は山を登り、女は山を守るのさ」

スズの母は、そう言って娘の髪を結った。

スズは、その言葉に、一度も頷かなかった。

子どもの頃、俺たちはよく、山裾の杉林で日が暮れるまで遊んだ。

結界石より下の、女でも入れる森だ。

木の枝を刀にして斬り合い、沢で山女魚を追った。

けれどスズは、遊びの途中でふと、木々の間から覗く頂を見上げるのだった。

「あそこには、なにがあるんだろうね」

俺が「岩と、風と、雲だ」と答えると、スズは、そう、と静かに笑った。

その横顔が、なぜだか、俺は忘れられなかった。

登拝の季節になると、村は夜明け前から動きだす。

菅笠をかぶり、白衣を着た講の衆が、宿坊の土間にずらりと並ぶ。

俺は背負子に荷を括りつけ、縄の食い込む肩をひとつ回す。

出立の合図の法螺貝が、まだ暗い谷に長く尾を引いて響く。

そのたびに、スズは結界石のところまで見送りに来た。

塩をきかせた握り飯と、青い樒の枝を、俺の懐に押し込んでくれる。

握り飯は、いつも少し温かかった。

暗いうちから、竈の前に立っていたのだと、それでわかった。

「気をつけてね」と、それだけ言う。

そうして、石の手前で足を止める。

石の内側と外側で、俺たちはいつも別れた。

俺が振り返ると、スズはもう背を向けて、宿坊へ戻る坂を上っていた。

泣いた顔を、俺に見せたことは一度もなかった。

ただ、坂を上る背中が、いつもより少しだけ、丸く見えた。

季節のあいだ、スズは宿坊の窓辺によく立っていた。

男たちの白い列が、朝霧の中を頂へ消えていくのを、じっと見送る。

列が見えなくなっても、しばらく、そこを動かなかった。

俺は下山のたび、その窓に、まず目をやる癖がついた。

スズは、いつも同じ場所に立って、待っていた。

俺の姿を見つけると、ようやく、窓の奥へ引っ込んだ。

夏の宵宮には、麓の社に灯が並んだ。

スズは、そんな夜、いちばん綺麗な浴衣を着た。

提灯の明かりの下で、俺たちは、いつまでも他愛のない話をした。

「大人になったら、二人で山の下の町へ行こう」

俺がそう言うと、スズは笑って、けれど首を振った。

「私は、ここがいい。ここで、山を見ていたい」

その横顔に、社の灯が、やわらかく揺れていた。

下山して土間に荷を下ろすと、スズは決まって同じことを聞いた。

「頂は、どんなだった」

俺は覚えているかぎりを話した。

夜明けの雲海が、足の下で燃えるように染まること。

奥宮の板戸の隙間から漏れる、古い線香の匂い。

風が岩を撫でて鳴る、笛のような音。

岩陰に、この季節だけ咲く、白い小さな花が群れていること。

スズは囲炉裏の火を見つめたまま、ひとつも聞き漏らすまいという顔で頷いていた。

時々、目を閉じて、まるでその風に吹かれているような顔をした。

あるとき、俺は少し意地の悪いことを言った。

「そんなに聞いて、羨ましくならんのか」

言ってすぐ、悔いた。

スズは火箸で灰を掻きながら、けれど、静かに笑った。

「私はね、もうあの頂を見たことがあるのよ」

強がりだと思った。

行けない者の、精一杯の強がりだと。

俺は何も言い返せず、ただ握り飯の礼を言った。

スズは、それ以上何も言わなかった。

スズには、肌身離さず持っている櫛があった。

黄楊の、飴色に艶の出た古い櫛だ。

歯が一本だけ、根元から欠けている。

毎晩、寝る前に、スズはその櫛で長い髪を梳いた。

梳くというより、何かを撫でるような、ゆっくりとした手つきだった。

「祖母の形見なの」と、スズは言った。

「祖母もね、この山が誰より好きな人だったの」

その祖母のことを、スズはあまり語らなかった。

若くして向こうへ行った人だ、とだけ聞いた。

ただ、櫛を梳く手つきだけが、祖母の話をするときは、いつもより丁寧になった。

欠けた歯のところを、指でそっとなぞる癖があった。

俺たちの祝言の日取りが、秋の終わりに決まった。

村の衆が、それは良い夫婦になると口々に言った。

スズは、祝言のための紅い帯を、俺に見せてくれた。

「似合うかな」と、珍しく、少し恥ずかしそうにした。

俺は、似合う、としか言えなかった。

不器用な男で、それ以上の言葉を持っていなかった。

スズは、それでも嬉しそうに、帯を胸に抱いた。

祝言を待つ、そんなある晩のことだった。

スズは、あの黄楊の櫛を、そっと俺の掌に載せた。

「この櫛の片割れが、あの頂で待っているの」

「だからいつか、これを頂上まで届けてほしい」

俺は、熱でもあるのかと、スズの額に手を当てた。

櫛に片割れも何もない。

歯の欠けた古い櫛が、頂で誰かを待っているはずもない。

俺は笑って、櫛をスズの手に戻した。

「祝言が済んだら、なんぼでも頂の話をしてやる」

スズは、戻された櫛を、少し寂しそうに握りしめた。

「そうね」と、小さく言った。

その声の低さに、俺はもっと早く気づくべきだった。

その冬、スズは胸を病んだ。

はじめは、ただの風邪だと皆が思っていた。

だが、根雪が谷を埋める頃には、床から起き上がれなくなっていた。

咳が、夜通し宿坊の廊下に響いた。

医者は、麓の町から、雪を漕いで通ってくれた。

けれど、首を振って帰る日が、だんだんと増えていった。

スズの母は、竈の前で、声を殺して泣いていた。

山は、冬のあいだ閉ざされる。

雪に結界石も埋もれ、講の衆の姿も消える。

荷を担ぐ仕事もない。

俺は毎日、宿坊の奥の部屋で、スズの枕元に座っていた。

スズは日ごとに軽くなっていくようだった。

頬がこけ、手首が、俺の指で回るほどに細くなった。

それでも、俺の手を握る力だけは、不思議と最後まで残っていた。

「頂は、どんなだった」

熱に浮かされながら、スズは幾度もそう聞いた。

俺は、覚えているかぎりを、何度でも話した。

雲海のこと。線香の匂いのこと。岩に咲く白い花のこと。

話すたびに、スズは、少しだけ安らいだ顔をした。

「あの白い花を、いつか見てみたい」

ある晩、スズは天井を見つめて、そう言った。

「山が開いたら、一輪、持って帰ってやる」

俺がそう言うと、スズは、ゆっくりと首を横に振った。

「持って帰らなくていいの。あの場所に、咲いているままでいい」

その言葉の意味も、俺はまだ、わかっていなかった。

病がひどくなっても、スズは、櫛だけは手放さなかった。

梳く力もなくなった手で、ただ、欠けた歯のところを、指でなぞっていた。

「祖母もね、最後まで、この櫛を握っていたんだって」

そう言って、スズは、窓の外の、雪に埋もれた山のほうを見た。

俺は、かける言葉を持たなかった。

ただ、細くなった手を、両手で包んでいた。

雪解けの水がようやく音を立てはじめた、早い春の朝だった。

障子の外が、白く明るみはじめた頃。

スズは、眠るように旅立った。

握り飯を握る、あの温かい手が、ゆっくりと開いた。

開いた掌の中に、あの黄楊の櫛があった。

俺は、それをただ見ていることしかできなかった。

片割れが待っている、という言葉の意味を、俺は何ひとつわかっていなかった。

欠けた歯のところを、俺は、スズがしていたように、指でなぞった。

雪が引き、山が口を開ける季節が来た。

俺は、その年いちばん重い荷を背負った。

懐には、青い樒と、スズの櫛を包んで入れた。

樒は、俺が竈の前に立って、暗いうちから握った握り飯の礼のつもりだった。

結界石の前で、俺は一度、足を止めた。

スズがいつも立っていた、あの石の外側に。

石の内側から振り返ると、坂を上る後ろ姿が、今にも見える気がした。

俺は、冷たい石を掌で撫でた。

スズが幼い日に触れた、その同じ石を。

そうして、山へ入った。

石段を一段上がるごとに、俺はスズの声を思い出した。

頂は、どんなだった。

その問いに、俺はもう二度と、答えを持ち帰れない。

それでも、この櫛だけは、頂まで運ばねばならなかった。

三日かけて、俺は講の衆を奥宮まで案内した。

荷は重かったが、不思議と足は軽かった。

道々、白衣の男たちが、家に残した者の話をした。

女房のこと、子のこと、年老いた母のこと。

誰もが、麓に、待つ誰かを持っていた。

俺だけが、もう、待つ人を持っていなかった。

奥宮の前で、俺は荷を下ろし、深く頭を垂れた。

講の衆の道中の無事を、まず祈るのが強力の習いだ。

けれどその朝、俺が祈ったのは、それだけではなかった。

どうか、この櫛の行く先を、教えてください。

板戸の隙間から、古い線香の匂いが、細く流れてきた。

皆が寝静まった、四日目の夜明け前。

俺は一人、頂のはずれにある古い石仏のところへ登った。

登拝の衆が、小さな願いの品を置いていく仏だ。

欠けた盃、色の褪せた布切れ、名の消えた木札。

長い歳月のあいだに、無数の祈りが、ここに積もっていた。

俺は、スズの櫛を、その仏の膝に供えようとした。

手を伸ばした、そのときだった。

石仏の陰に、同じ黄楊の櫛が、半ば苔に埋もれて在った。

俺は、二つの櫛を並べて、朝の薄明かりにかざした。

飴色の艶も、木目の流れも、寸分たがわなかった。

歯の欠けた場所まで、鏡に映したように同じだった。

対の櫛だった。

一つの黄楊から、二つに割って作られた、片割れどうしだった。

俺は、ようやくわかった。

遠い昔、スズの祖母もまた、この頂を誰より焦がれていたのだ。

そして、祖母を想う男が――おそらくは、俺と同じ強力が――禁を破って、祖母の櫛の片割れを、こうしてここへ運んだのだ。

女が越えられぬ結界石の、その向こうへ。

苔の深さが、そのまま、過ぎた歳月の長さだった。

どれほどの想いが、この片割れを、ここまで運ばせたのか。

禁を破ることは、村を追われることでもあったろう。

それでも、その男は登ったのだ。

愛する人の願いを、ただ、叶えるために。

スズが見ていたのは、祖母の目を通した頂だったのだ。

「もう見たことがある」という言葉は、強がりではなかった。

祖母が語り聞かせた、この夜明けの雲海を、スズはずっと胸に抱いていた。

だから、あんなにも安らいだ顔で、俺の話を聞いていたのだ。

そして、離ればなれになった二つの櫛を、もう一度、頂で会わせてほしかった。

祖母と、祖母を想った男の、届かなかった片割れを。

それが、スズの願いだった。

俺は、スズの櫛を、祖母の櫛のとなりにそっと置いた。

二つの櫛は、また一つの黄楊に戻ったように、寄り添って並んだ。

風が岩を撫でて、笛のように鳴った。

岩陰には、あの白い小さな花が、今年も群れて咲いていた。

持って帰らなくていい、咲いているままでいい――スズの言葉が、ようやく胸に落ちた。

スズは、この花が、この頂に咲き続けることを、願っていたのだ。

スズが、隣で頷いている気がした。

下りの道で、俺は麓の絵馬掛けのことを思い出していた。

山とは逆を向いて掛かった、女の名の絵馬たち。

あれは、この山を焦がれ続けた女たちの願いだったのだ。

越えることの許されぬ結界の前で、それでも頂を想い、けれど山に向かって願うことさえ憚られて、板の裏を見せて掛けられた願い。

祖母の名も、きっとあの中にあった。

触るもんじゃねえと祖父が言ったのは、あれが、あまりに切ない祈りだったからだ。

俺は社に着くと、絵馬掛けの前に立った。

そして、俺は絵馬の一枚一枚を、そっと山のほうへ向け直した。

女の名の願いが、ようやく頂を向いた。

雨に打たれ続けた文字が、朝の光を受けて、少しだけ乾いたように見えた。

一枚だけ、墨のすっかり消えた古い絵馬があった。

名も、願いも、もう読めない。

けれど俺は、それを、いちばん山のよく見える場所へ掛け直した。

あなたの名は、俺が覚えておく。

心の中で、そう告げた。

あれから、長い年月が流れた。

俺はもう、荷を背負えぬ齢になった。

山の禁も、とうに解かれた。

今では、白衣を着た娘たちが、笑いながら結界石を越えていく。

あの石は、もう誰も止めない。

スズが生きていたら、きっと真っ先に駆け上っていっただろう。

そうして、頂で振り返り、俺を手招きしたに違いない。

それでも俺は、時々あの頂を思う。

石仏の陰で寄り添う、二つの黄楊の櫛を。

苔に埋もれて、それでも離れずにいる、あの片割れどうしを。

スズが、祖母の目を通してずっと見ていた、あの夜明けの雲海を。

春が来れば、頂の岩陰に、また白い花が咲くだろう。

誰に見せるでもなく、ただ、咲いているままに。

それでいいと、スズは言った。

今なら、その意味が、少しだけわかる気がする。

頂は、どんなだった。

――今なら、うまく話せる気がする。

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