彼は何時何分かだけ聞いた

車

三時四十二分。

その答えを口にするまでに、十一年かかった。

霧の中では、音より光が先に来る。

対向車のライトが、白い壁の奥でぼうっと膨らむ。

それから少し遅れて、濡れた路面を剥がすタイヤの音が届く。

だから霧の夜は、耳より先に目が疲れる。

わたしは砂見という海沿いの町で、車の救援をしている。

夜勤ばかりの、ロードサービスの隊員だ。

パンク、バッテリー上がり、鍵の閉じ込み、路肩の溝に落ちた軽トラック。

呼ばれれば行く。

行って、直せるものは直し、直せないものは積んで下ろす。

それだけの仕事だ。

砂見から山へ入る国道は、十月の終わりから四月まで、霧か雪のどちらかを被っている。

峠のトンネルの手前に、路肩が少しだけ広くなった場所がある。

車が止まるのは、たいていそこだ。

到着すると、わたしは無線に告げる。

「柏木、現着。二時十八分」

場所と、時刻。

それだけを、毎晩、何度も口にしてきた。

この癖がどこから来たのか、去年の冬まで、一度も考えたことがなかった。

白い軽自動車を、今年で手放すことになった。

十四年落ちで買って、それから十一年。

さすがに次の車検は通らないと、工場の人に言われた。

引き取りの前の晩、わたしは駐車場で、車の中のものを段ボールに移していた。

シートの下から出てきたのは、錆びた十円玉と、乾いたガムと、爪切りだった。

ダッシュボードを開けると、車検証と保険証券の下に、分厚い道路地図帳が入っていた。

背表紙が日に焼けて、白くなっていた。

わたしはそれを、十一年、一度も開いていなかった。

十一年前、わたしは大学の四年生で、運転がこわかった。

免許は二年生の夏に取った。

けれど、ハンドルを握ると、いつも肩が耳の高さまで上がった。

助手席に人を乗せると、その人の呼吸まで気になった。

だから、白い軽は買ったきり、ほとんど動かなかった。

十二月の、夕方だった。

大学の裏の駐車場で、エンジンがかからなくなった。

キーを回すと、カチ、と乾いた音が一度鳴るだけだった。

雪の降りだしそうな空で、指がすぐにかじかんだ。

ボンネットの開け方も、そのとき初めて調べた。

隣の敷地は自動車整備の専門学校で、フェンスの向こうから、油の匂いのする風が来ていた。

「バッテリーですね、それ」

声のほうを見ると、フェンス越しに男の子が立っていた。

つなぎの袖を肘までまくって、手だけがやけに大きく見えた。

「音でわかるんですか」

「わかりますよ、そのくらいは」

彼はフェンスを回り込んできて、自分の車からケーブルを出した。

赤と黒のクリップを、迷いなく留めていく。

「エンジンって、だいたい音で言ってきます」

「なにを」

「痛いとか、まだ平気とか」

指が長かった。

工具を、手のひらではなく指先だけで回す人だった。

それが、三戸部律だった。

律は、わたしの車をよく直した。

ワイパーのゴム、ヘッドライトのくもり、ベルトの鳴き。

「これ、あと二年は走りますよ」

「そんなに乗らないよ、わたし」

「もったいない」

彼は、わたしが運転を避けていることを、一度も笑わなかった。

かわりに、自分が運転した。

助手席に乗るのはわたしのほうで、律はいつもわたしの車のキーを、当たり前みたいに受け取った。

そして、必ず同じことをした。

律は助手席側のダッシュボードを開け、地図帳を出して、同じあたりのページを開き、指の腹で折り目をつけるのだ。

ナビはついていたのに、彼は紙のほうを開いた。

「癖なの、それ」

「まあ」

「どこ見てるの」

「べつに」

そう言って、地図帳をまたダッシュボードに戻す。

わたしは、几帳面な人なのだと思っていた。

夏に一度、海まで行った。

砂見の海は、夏でも水がつめたい。

律は靴を脱いで、波打ち際で足首まで浸かって、それから戻ってきた。

濡れた足のまま、砂の上に大きな円を描いた。

「ここが砂見」

そう言って、円の外側に線を引いた。

「ここが峠」

線の先に、もうひとつ小さな円を描いた。

「ここが二尾」

「二尾って、なんにもないとこでしょ」

「なんにもないですよ」

「じゃあなんで描くの」

律は答えなかった。

かわりに、砂の上の線を、指でなぞり直した。

「みさきさん、いつか、この線を運転してみたらいいのに」

「無理」

「無理じゃないですよ」

「峠なんて、夜は霧でしょ。無理」

律は笑って、それ以上は言わなかった。

波が来て、円も線も、順番に消えた。

一度、律はわたしの手を取って、ボンネットに置かせたことがある。

「今、アイドリング」

手のひらに、細かい震えが伝わってきた。

「これが速くなったら、なんか変です」

「わかんないよ、そんなの」

「わかるようになりますよ」

「ならないって」

彼は、それには答えなかった。

ただ、わたしの手をボンネットに置いたまま、しばらく黙っていた。

秋の初め、律はわたしの車のヘッドライトを磨いた。

古い車のライトは、表面が曇って黄色くなる。

彼は耐水ペーパーを何枚も用意して、番手を上げながら、円を描くように削っていった。

アパートの前の、狭い駐車場だった。

金木犀の匂いが、どこからか流れてきていた。

一時間かかった。

終わったとき、ライトは新品みたいに透きとおっていた。

「これで、夜、見えます」

「夜、走らないってば」

「走りますよ」

そのときは、変なことを言う人だと思っただけだった。

律はそのあと、流しで長いこと手を洗っていた。

水を止めても、指先が小刻みに動いていた。

わたしは、疲れたのだと思った。

秋の終わりごろから、律は箸を落とすようになった。

はじめは、笑い話だった。

「握力なくなってきたな、俺」

「整備士がそれでいいの」

「よくないですね」

彼のアパートで、鍋をつついていた夜のことだ。

律は落とした箸を拾おうとして、二回、指をすべらせた。

そのとき、テーブルの下で、彼の手が小さく震えているのが見えた。

わたしは見なかったことにした。

それが一番いけなかったのだと、あとになって思う。

十二月、律は専門学校を辞めた。

理由は、電話で、二行だけ聞いた。

「手の力が、だんだん抜けていく病気なんだそうです」

「なにそれ」

「治らないやつです」

わたしは、なにを言えばいいのかわからなかった。

「工具、持てなくなるの」

「そのうち」

「そのうちって」

「わかりません」

沈黙の長さだけが、正確に伝わってきた。

年が明けて、律のアパートに行った。

部屋は片付いていた。

片付いている、というより、物が減っていた。

工具箱がなかった。

「売ったの」

「後輩にあげました」

「なんで」

「持ってても、鳴らないので」

彼はいまから別れの話をするのだと、わたしは思った。

言われる前に泣かないようにしようと決めて、膝の上で手を組んだ。

けれど律が言ったのは、まったく違うことだった。

「みさきさん、ひとつ、頼んでいいですか」

「なに」

「峠の霧が晴れるところを、見てきてほしいんです」

わたしは、彼の顔を見た。

冗談を言っている顔ではなかった。

「……いつ晴れるの」

「わかりません」

「わからないって」

「晴れるときは、急に晴れるらしいです」

「わたし、夜の峠なんて走れない」

「知ってます」

「知ってて言ってるの」

「はい」

腹が立った。

こんなときに、なんでそんな、意味のないことを頼むのか。

「見てきて、それで、どうするの」

「教えてください」

「なにを」

「何時何分だったか」

その冬、わたしは峠に通った。

腹を立てたまま、通った。

意地だったのだと思う。

はじめの夜は、トンネルの手前の路肩まで行くのに、二時間近くかかった。

三十キロも出せなかった。

前を走るトラックのテールランプだけを見て、それが消えると、路肩に寄せて息をした。

肩は、耳の高さまで上がったままだった。

霧は晴れなかった。

帰って、律に電話をした。

「晴れなかった」

「そうですか」

「何時何分とかじゃない。ずっと真っ白だった」

「わかりました」

それだけだった。

十日に一度くらいのつもりが、週に二度になった。

二月には、三日に一度になっていた。

理由はうまく言えない。

行かないと、その日が終わらない感じがした。

峠の路肩に、わたしは自分の場所を決めた。

ガードレールの錆びた継ぎ目が、ちょうど二本並んでいるところ。

そこに寄せて、エンジンを切って、窓を少し開ける。

霧の夜は、音がしない。

正確には、音が遠くなる。

沢の水の音が、布を一枚かぶせたみたいに聞こえる。

わたしは毎回、その場所から律に電話をした。

「今日も、だめ」

「はい」

「そっちは」

「変わりません」

彼は自分の話をしなかった。

わたしが霧の話をして、彼が「はい」と言う。

それだけの電話を、何十回もした。

そのあいだに、わたしは峠まで四十分で行けるようになっていた。

二月の半ばに、一度だけ、路肩で止まっている車を見た。

ハザードだけが、霧の中で赤く点いていた。

わたしは自分の車を後ろに寄せて、窓を開けた。

運転席にいたのは、わたしより少し年上くらいの女の人だった。

「バッテリーかもしれません」

そう言われて、わたしはなにもできなかった。

ケーブルを持っていなかった。

持っていても、つなぎ方を知らなかった。

三十分ほどして、黄色いランプを回した車が上ってきた。

降りてきた人は、なにも聞かずにボンネットを開けた。

赤と黒のクリップを、迷いなく留めていった。

見覚えのある手つきだった。

その夜、わたしは律にその話をした。

「なにもできなかった」

「そうですか」

「ケーブル、積んどいたほうがいいのかな」

「積んどいてください」

「つなぎ方、教えて」

律は、電話の向こうで少し笑ったようだった。

「赤が先です」

「赤が先」

「外すときは、黒が先」

わたしは、ダッシュボードのメモ用紙に書いた。

その紙は、たぶんまだ、あの車のどこかに入っている。

三月に入ると、峠の路肩にフキノトウが出た。

車を降りて、二つだけ摘んだ。

律に渡すつもりだったが、渡さないまま、鞄の中で黒くなった。

三月の、最後の週だった。

その夜は、ひどい霧だった。

トンネルの手前で、自分の車のボンネットの先が見えないくらいだった。

わたしはいつもの継ぎ目に寄せて、エンジンを切った。

そして、待った。

眠ってしまって、寒さで目が覚めた。

窓の外が、明るかった。

霧が、下から順に薄くなっていた。

谷のほうから風が入って、白い壁が、布をほどくみたいに横へ流れていった。

峠の下に、砂見の町の灯りが見えた。

数えられるくらいの、少ない灯りだった。

反対側には、二尾の谷が黒く沈んでいて、そこにも、いくつか灯りがあった。

わたしは、時計を見た。

三時四十二分。

電話をかけた。

律は、一回目のコールで出た。

「晴れた」

「はい」

「今、晴れてる」

「はい」

「……三時四十二分」

しばらく、なにも聞こえなかった。

それから、紙をめくる音がした。

「三時四十二分」

律は、そう繰り返した。

「うん」

「ありがとうございます」

「見に来ればよかったのに」

わたしがそう言うと、律は少し黙って、それから言った。

「もう、いいですよ」

「なにが」

「もう、行かなくていいです」

電話は、そこで切れた。

四日後、律のアパートは空になっていた。

管理人は、引っ越し先を知らないと言った。

携帯は、つながらなくなっていた。

わたしは、捨てられたのだと思った。

その思い込みを、十一年、抱えて歩いた。

大学を出て、わたしは砂見に残った。

事務の仕事を二年やって、辞めた。

それから、今の会社に入った。

なぜロードサービスなのかと、面接で聞かれた。

わたしはそのとき、「夜の道が平気だから」と答えた。

自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。

以来、十一年、あの峠を走っている。

引き取りの前の晩に戻る。

わたしは駐車場で、道路地図帳を開いた。

折り目は、すぐに見つかった。

紙がそこだけ黒くなるくらい、何度も指でなぞられていた。

けれど、そのページは峠ではなかった。

峠のページは、その一枚手前だった。

折り目がついていたのは、峠を越えて、その次の、わたしが一度もめくらなかったページだった。

二尾。

砂の上に、律が小さな円を描いた町だ。

わたしは車のドアにもたれて、しばらく地図帳を持っていた。

赤が先。外すときは黒が先。

それを、わたしは毎晩、何十回もやっている。

無線に時刻を告げるとき、わたしの肩は下りている。

いつからそうなったのか、思い出せない。

峠のガードレールの錆びた継ぎ目を、いまだに目印にしている。

夜の霧の中で、対向車のライトが膨らむのを、こわいと思わなくなっている。

こわがっていた人間が、こわがらなくなるまでに、何回かかるのか。

何十回か、と、わたしは思った。

次の非番の日、わたしは二尾へ行った。

十一年で、はじめて峠を越えた。

昼の峠は、拍子抜けするほど明るかった。

二尾は、ほんとうになんにもない谷の町だった。

コンビニが一軒と、郵便局と、廃校を使った公民館。

それから、小さな自動車学校があった。

看板に、こう書いてあった。

「運転補助装置 ご相談ください」

わたしは、車を停めた。

ガラス戸の向こうに、事務室が見えた。

長い机に、レバーやリングのついた装置がいくつも並んでいた。

手ではなく、腕や、足や、あごで操作するための道具だった。

その奥に、律がいた。

痩せていた。

指はあのころのままの長さで、けれど、机の上で少し内側に曲がっていた。

工具は、持っていなかった。

かわりに、装置のリングを、手の甲で押していた。

わたしがガラス戸を開けると、律は顔を上げた。

驚いた顔をしなかった。

というより、驚くより先に、手が動いた。

机の上の装置からそっと離れて、こちらへ、半分だけ持ち上がった。

「みさきさん」

「うん」

「何時何分ですか」

わたしは、笑ってしまった。

十一年ぶりの最初の言葉が、それだった。

「三時四十二分」

律は、手帳を開かなかった。

胸のポケットを探るしぐさすら、しなかった。

「合ってます」

「覚えてたの」

「三十一回目でした」

「なにが」

「みさきさんが、峠に行った回数です」

わたしは、事務室の入口に立ったまま動けなくなった。

鞄の持ち手が、指に食い込んでいた。

「座りますか」

律は、事務室のパイプ椅子を、手の甲で引いた。

わたしは座らずに立っていた。

机の上の装置のひとつに、目がいった。

細いリングだった。

「これ、なに」

「アクセルです。手で引くやつ」

「律が使うの」

「俺のは、まだ足が動くので」

「じゃあ、誰の」

「これから乗る人のです」

「数えてたの」

「はい」

「霧のこと、聞いてたんじゃないの」

律は少し考えるようにして、それから言った。

「途中から、こわいって、言わなくなったので」

窓の外で、谷の風が木を鳴らしていた。

「俺、もう、みさきさんを乗せられないので」

そう言って、彼は自分の手を見た。

「だから、逆にしただけです」

わたしは、なにか言おうとして、言葉が出てこなかった。

かわりに、鞄から地図帳を出して、机の上に置いた。

黒くなったページを開いた。

律は、それを長いこと見ていた。

「ここ、なんにもないですよ」

「知ってる」

「よく来ましたね、峠越えて」

「四十分で来た」

律は、笑った。

あのころと同じ、目のところだけで笑う笑い方だった。

帰りは、日が暮れてから峠を越えた。

霧が出ていた。

対向車のライトが、白い壁の奥でぼうっと膨らむ。

それから遅れて、タイヤの音が届く。

音より、光が先だ。

けれど今日は、そうではなかった。

事務室で、律の手が先に動いた。

声より、先に。

わたしはいつもの継ぎ目に車を寄せて、エンジンを切った。

窓を少し開けた。

沢の水が、遠くで鳴っていた。

無線は入っていない。

告げる相手もいない。

それでも、わたしは時計を見た。

七時十六分。

そして、来週も二尾まで行こうと思った。

霧は、たぶん晴れない。

晴れなくても、いい。

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