彼は何時何分かだけ聞いた

車

三時四十二分。

その答えを口にするまでに、十一年かかった。

※

霧の中では、音より光が先に来る。

対向車のライトが、白い壁の奥でぼうっと膨らむ。

それから少し遅れて、濡れた路面を剥がすタイヤの音が届く。

だから霧の夜は、耳より先に目が疲れる。

わたしは砂見という海沿いの町で、車の救援をしている。

夜勤ばかりの、ロードサービスの隊員だ。

パンク、バッテリー上がり、鍵の閉じ込み、路肩の溝に落ちた軽トラック。

呼ばれれば行く。

行って、直せるものは直し、直せないものは積んで下ろす。

それだけの仕事だ。

砂見から山へ入る国道は、十月の終わりから四月まで、霧か雪のどちらかを被っている。

峠のトンネルの手前に、路肩が少しだけ広くなった場所がある。

車が止まるのは、たいていそこだ。

到着すると、わたしは無線に告げる。

「柏木、現着。二時十八分」

場所と、時刻。

それだけを、毎晩、何度も口にしてきた。

この癖がどこから来たのか、去年の冬まで、一度も考えたことがなかった。

※

白い軽自動車を、今年で手放すことになった。

十四年落ちで買って、それから十一年。

さすがに次の車検は通らないと、工場の人に言われた。

引き取りの前の晩、わたしは駐車場で、車の中のものを段ボールに移していた。

シートの下から出てきたのは、錆びた十円玉と、乾いたガムと、爪切りだった。

ダッシュボードを開けると、車検証と保険証券の下に、分厚い道路地図帳が入っていた。

背表紙が日に焼けて、白くなっていた。

わたしはそれを、十一年、一度も開いていなかった。

※

十一年前、わたしは大学の四年生で、運転がこわかった。

免許は二年生の夏に取った。

けれど、ハンドルを握ると、いつも肩が耳の高さまで上がった。

助手席に人を乗せると、その人の呼吸まで気になった。

だから、白い軽は買ったきり、ほとんど動かなかった。

十二月の、夕方だった。

大学の裏の駐車場で、エンジンがかからなくなった。

キーを回すと、カチ、と乾いた音が一度鳴るだけだった。

雪の降りだしそうな空で、指がすぐにかじかんだ。

ボンネットの開け方も、そのとき初めて調べた。

隣の敷地は自動車整備の専門学校で、フェンスの向こうから、油の匂いのする風が来ていた。

「バッテリーですね、それ」

声のほうを見ると、フェンス越しに男の子が立っていた。

つなぎの袖を肘までまくって、手だけがやけに大きく見えた。

「音でわかるんですか」

「わかりますよ、そのくらいは」

彼はフェンスを回り込んできて、自分の車からケーブルを出した。

赤と黒のクリップを、迷いなく留めていく。

「エンジンって、だいたい音で言ってきます」

「なにを」

「痛いとか、まだ平気とか」

指が長かった。

工具を、手のひらではなく指先だけで回す人だった。

それが、三戸部律だった。

※

律は、わたしの車をよく直した。

ワイパーのゴム、ヘッドライトのくもり、ベルトの鳴き。

「これ、あと二年は走りますよ」

「そんなに乗らないよ、わたし」

「もったいない」

彼は、わたしが運転を避けていることを、一度も笑わなかった。

かわりに、自分が運転した。

助手席に乗るのはわたしのほうで、律はいつもわたしの車のキーを、当たり前みたいに受け取った。

そして、必ず同じことをした。

律は助手席側のダッシュボードを開け、地図帳を出して、同じあたりのページを開き、指の腹で折り目をつけるのだ。

ナビはついていたのに、彼は紙のほうを開いた。

「癖なの、それ」

「まあ」

「どこ見てるの」

「べつに」

そう言って、地図帳をまたダッシュボードに戻す。

わたしは、几帳面な人なのだと思っていた。

※

夏に一度、海まで行った。

砂見の海は、夏でも水がつめたい。

律は靴を脱いで、波打ち際で足首まで浸かって、それから戻ってきた。

濡れた足のまま、砂の上に大きな円を描いた。

「ここが砂見」

そう言って、円の外側に線を引いた。

「ここが峠」

線の先に、もうひとつ小さな円を描いた。

「ここが二尾」

「二尾って、なんにもないとこでしょ」

「なんにもないですよ」

「じゃあなんで描くの」

律は答えなかった。

かわりに、砂の上の線を、指でなぞり直した。

「みさきさん、いつか、この線を運転してみたらいいのに」

「無理」

「無理じゃないですよ」

「峠なんて、夜は霧でしょ。無理」

律は笑って、それ以上は言わなかった。

波が来て、円も線も、順番に消えた。

※

一度、律はわたしの手を取って、ボンネットに置かせたことがある。

「今、アイドリング」

手のひらに、細かい震えが伝わってきた。

「これが速くなったら、なんか変です」

「わかんないよ、そんなの」

「わかるようになりますよ」

「ならないって」

彼は、それには答えなかった。

ただ、わたしの手をボンネットに置いたまま、しばらく黙っていた。

※

秋の初め、律はわたしの車のヘッドライトを磨いた。

古い車のライトは、表面が曇って黄色くなる。

彼は耐水ペーパーを何枚も用意して、番手を上げながら、円を描くように削っていった。

アパートの前の、狭い駐車場だった。

金木犀の匂いが、どこからか流れてきていた。

一時間かかった。

終わったとき、ライトは新品みたいに透きとおっていた。

「これで、夜、見えます」

「夜、走らないってば」

「走りますよ」

そのときは、変なことを言う人だと思っただけだった。

律はそのあと、流しで長いこと手を洗っていた。

水を止めても、指先が小刻みに動いていた。

わたしは、疲れたのだと思った。

※

秋の終わりごろから、律は箸を落とすようになった。

はじめは、笑い話だった。

「握力なくなってきたな、俺」

「整備士がそれでいいの」

「よくないですね」

彼のアパートで、鍋をつついていた夜のことだ。

律は落とした箸を拾おうとして、二回、指をすべらせた。

そのとき、テーブルの下で、彼の手が小さく震えているのが見えた。

わたしは見なかったことにした。

それが一番いけなかったのだと、あとになって思う。

十二月、律は専門学校を辞めた。

理由は、電話で、二行だけ聞いた。

「手の力が、だんだん抜けていく病気なんだそうです」

「なにそれ」

「治らないやつです」

わたしは、なにを言えばいいのかわからなかった。

「工具、持てなくなるの」

「そのうち」

「そのうちって」

「わかりません」

沈黙の長さだけが、正確に伝わってきた。

※

年が明けて、律のアパートに行った。

部屋は片付いていた。

片付いている、というより、物が減っていた。

工具箱がなかった。

「売ったの」

「後輩にあげました」

「なんで」

「持ってても、鳴らないので」

彼はいまから別れの話をするのだと、わたしは思った。

言われる前に泣かないようにしようと決めて、膝の上で手を組んだ。

けれど律が言ったのは、まったく違うことだった。

「みさきさん、ひとつ、頼んでいいですか」

「なに」

「峠の霧が晴れるところを、見てきてほしいんです」

わたしは、彼の顔を見た。

冗談を言っている顔ではなかった。

「……いつ晴れるの」

「わかりません」

「わからないって」

「晴れるときは、急に晴れるらしいです」

「わたし、夜の峠なんて走れない」

「知ってます」

「知ってて言ってるの」

「はい」

腹が立った。

こんなときに、なんでそんな、意味のないことを頼むのか。

「見てきて、それで、どうするの」

「教えてください」

「なにを」

「何時何分だったか」

※

その冬、わたしは峠に通った。

腹を立てたまま、通った。

意地だったのだと思う。

はじめの夜は、トンネルの手前の路肩まで行くのに、二時間近くかかった。

三十キロも出せなかった。

前を走るトラックのテールランプだけを見て、それが消えると、路肩に寄せて息をした。

肩は、耳の高さまで上がったままだった。

霧は晴れなかった。

帰って、律に電話をした。

「晴れなかった」

「そうですか」

「何時何分とかじゃない。ずっと真っ白だった」

「わかりました」

それだけだった。

※

十日に一度くらいのつもりが、週に二度になった。

二月には、三日に一度になっていた。

理由はうまく言えない。

行かないと、その日が終わらない感じがした。

峠の路肩に、わたしは自分の場所を決めた。

ガードレールの錆びた継ぎ目が、ちょうど二本並んでいるところ。

そこに寄せて、エンジンを切って、窓を少し開ける。

霧の夜は、音がしない。

正確には、音が遠くなる。

沢の水の音が、布を一枚かぶせたみたいに聞こえる。

わたしは毎回、その場所から律に電話をした。

「今日も、だめ」

「はい」

「そっちは」

「変わりません」

彼は自分の話をしなかった。

わたしが霧の話をして、彼が「はい」と言う。

それだけの電話を、何十回もした。

そのあいだに、わたしは峠まで四十分で行けるようになっていた。

※

二月の半ばに、一度だけ、路肩で止まっている車を見た。

ハザードだけが、霧の中で赤く点いていた。

わたしは自分の車を後ろに寄せて、窓を開けた。

運転席にいたのは、わたしより少し年上くらいの女の人だった。

「バッテリーかもしれません」

そう言われて、わたしはなにもできなかった。

ケーブルを持っていなかった。

持っていても、つなぎ方を知らなかった。

三十分ほどして、黄色いランプを回した車が上ってきた。

降りてきた人は、なにも聞かずにボンネットを開けた。

赤と黒のクリップを、迷いなく留めていった。

見覚えのある手つきだった。

その夜、わたしは律にその話をした。

「なにもできなかった」

「そうですか」

「ケーブル、積んどいたほうがいいのかな」

「積んどいてください」

「つなぎ方、教えて」

律は、電話の向こうで少し笑ったようだった。

「赤が先です」

「赤が先」

「外すときは、黒が先」

わたしは、ダッシュボードのメモ用紙に書いた。

その紙は、たぶんまだ、あの車のどこかに入っている。

※

三月に入ると、峠の路肩にフキノトウが出た。

車を降りて、二つだけ摘んだ。

律に渡すつもりだったが、渡さないまま、鞄の中で黒くなった。

※

三月の、最後の週だった。

その夜は、ひどい霧だった。

トンネルの手前で、自分の車のボンネットの先が見えないくらいだった。

わたしはいつもの継ぎ目に寄せて、エンジンを切った。

そして、待った。

眠ってしまって、寒さで目が覚めた。

窓の外が、明るかった。

霧が、下から順に薄くなっていた。

谷のほうから風が入って、白い壁が、布をほどくみたいに横へ流れていった。

峠の下に、砂見の町の灯りが見えた。

数えられるくらいの、少ない灯りだった。

反対側には、二尾の谷が黒く沈んでいて、そこにも、いくつか灯りがあった。

わたしは、時計を見た。

三時四十二分。

電話をかけた。

律は、一回目のコールで出た。

「晴れた」

「はい」

「今、晴れてる」

「はい」

「……三時四十二分」

しばらく、なにも聞こえなかった。

それから、紙をめくる音がした。

「三時四十二分」

律は、そう繰り返した。

「うん」

「ありがとうございます」

「見に来ればよかったのに」

わたしがそう言うと、律は少し黙って、それから言った。

「もう、いいですよ」

「なにが」

「もう、行かなくていいです」

電話は、そこで切れた。

※

四日後、律のアパートは空になっていた。

管理人は、引っ越し先を知らないと言った。

携帯は、つながらなくなっていた。

わたしは、捨てられたのだと思った。

その思い込みを、十一年、抱えて歩いた。

※

大学を出て、わたしは砂見に残った。

事務の仕事を二年やって、辞めた。

それから、今の会社に入った。

なぜロードサービスなのかと、面接で聞かれた。

わたしはそのとき、「夜の道が平気だから」と答えた。

自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからなかった。

以来、十一年、あの峠を走っている。

※

引き取りの前の晩に戻る。

わたしは駐車場で、道路地図帳を開いた。

折り目は、すぐに見つかった。

紙がそこだけ黒くなるくらい、何度も指でなぞられていた。

けれど、そのページは峠ではなかった。

峠のページは、その一枚手前だった。

折り目がついていたのは、峠を越えて、その次の、わたしが一度もめくらなかったページだった。

二尾。

砂の上に、律が小さな円を描いた町だ。

※

わたしは車のドアにもたれて、しばらく地図帳を持っていた。

赤が先。外すときは黒が先。

それを、わたしは毎晩、何十回もやっている。

無線に時刻を告げるとき、わたしの肩は下りている。

いつからそうなったのか、思い出せない。

峠のガードレールの錆びた継ぎ目を、いまだに目印にしている。

夜の霧の中で、対向車のライトが膨らむのを、こわいと思わなくなっている。

こわがっていた人間が、こわがらなくなるまでに、何回かかるのか。

何十回か、と、わたしは思った。

※

次の非番の日、わたしは二尾へ行った。

十一年で、はじめて峠を越えた。

昼の峠は、拍子抜けするほど明るかった。

二尾は、ほんとうになんにもない谷の町だった。

コンビニが一軒と、郵便局と、廃校を使った公民館。

それから、小さな自動車学校があった。

看板に、こう書いてあった。

「運転補助装置 ご相談ください」

わたしは、車を停めた。

ガラス戸の向こうに、事務室が見えた。

長い机に、レバーやリングのついた装置がいくつも並んでいた。

手ではなく、腕や、足や、あごで操作するための道具だった。

その奥に、律がいた。

痩せていた。

指はあのころのままの長さで、けれど、机の上で少し内側に曲がっていた。

工具は、持っていなかった。

かわりに、装置のリングを、手の甲で押していた。

わたしがガラス戸を開けると、律は顔を上げた。

驚いた顔をしなかった。

というより、驚くより先に、手が動いた。

机の上の装置からそっと離れて、こちらへ、半分だけ持ち上がった。

「みさきさん」

「うん」

「何時何分ですか」

※

わたしは、笑ってしまった。

十一年ぶりの最初の言葉が、それだった。

「三時四十二分」

律は、手帳を開かなかった。

胸のポケットを探るしぐさすら、しなかった。

「合ってます」

「覚えてたの」

「三十一回目でした」

「なにが」

「みさきさんが、峠に行った回数です」

わたしは、事務室の入口に立ったまま動けなくなった。

鞄の持ち手が、指に食い込んでいた。

「座りますか」

律は、事務室のパイプ椅子を、手の甲で引いた。

わたしは座らずに立っていた。

机の上の装置のひとつに、目がいった。

細いリングだった。

「これ、なに」

「アクセルです。手で引くやつ」

「律が使うの」

「俺のは、まだ足が動くので」

「じゃあ、誰の」

「これから乗る人のです」

「数えてたの」

「はい」

「霧のこと、聞いてたんじゃないの」

律は少し考えるようにして、それから言った。

「途中から、こわいって、言わなくなったので」

窓の外で、谷の風が木を鳴らしていた。

「俺、もう、みさきさんを乗せられないので」

そう言って、彼は自分の手を見た。

「だから、逆にしただけです」

わたしは、なにか言おうとして、言葉が出てこなかった。

かわりに、鞄から地図帳を出して、机の上に置いた。

黒くなったページを開いた。

律は、それを長いこと見ていた。

「ここ、なんにもないですよ」

「知ってる」

「よく来ましたね、峠越えて」

「四十分で来た」

律は、笑った。

あのころと同じ、目のところだけで笑う笑い方だった。

※

帰りは、日が暮れてから峠を越えた。

霧が出ていた。

対向車のライトが、白い壁の奥でぼうっと膨らむ。

それから遅れて、タイヤの音が届く。

音より、光が先だ。

けれど今日は、そうではなかった。

事務室で、律の手が先に動いた。

声より、先に。

わたしはいつもの継ぎ目に車を寄せて、エンジンを切った。

窓を少し開けた。

沢の水が、遠くで鳴っていた。

無線は入っていない。

告げる相手もいない。

それでも、わたしは時計を見た。

七時十六分。

そして、来週も二尾まで行こうと思った。

霧は、たぶん晴れない。

晴れなくても、いい。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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