フクは夜だけ出かけていく

夕暮れの川辺と犬、自転車の少女

「今夜も、行くんかね」

父がそう声をかけるのが、うちの夜のはじまりだった。

フクは、夜になると玄関で一度だけ、短く鳴いた。

返事をしたことは、一度もなかった。

鳴いたあと、フクはしばらく待つ。

誰も何も言わないと、自分で引き戸の隙間に鼻を差し込んで、外へ出ていった。

朝には帰っている。

台所の水入れに顔を突っ込んで、喉を鳴らして飲んで、それから昼まで眠った。

フクの前脚の内側だけが、いつも灰色に汚れていた。

父は、土手で寝転んどるんやろ、と言った。

私も、そう思っていた。

思っていたというより、そう思っておくことにしていた。

うちは大分の、川沿いの町にある。

国道からひとつ内側に入った古い二階建てで、玄関の引き戸は建て付けが悪く、いつも五センチほど閉まりきらない。

父は毎年直すと言って、毎年直さない。

その隙間が、フクの通用口だった。

私は町の放課後児童クラブで働いている。

夕方まで子どもたちと過ごして、連絡帳に一言ずつ書いて、床に散らばった消しゴムのかすを掃いて帰る。

先週は、小学2年生の男の子が、紙飛行機の翼の角度を変えては投げるのを、閉所の時間までずっと繰り返していた。

飛ばないほうがいい、と彼は言った。

飛んだら、取りに行かんといけんけん。

私は笑って、じゃあ一緒に取りに行こうと言った。

そういう仕事を、私は選んだ。

選んだ理由を、人に説明したことはない。

子どもたちは、迎えが遅い日ほど、玄関のほうを見る。

見ていることを、こちらに知られたくないという顔で見る。

私はその横顔が、どうしても放っておけない。

帰り道は、川沿いの土手を自転車で走る。

秋になると、風に川の匂いと、どこかの家の風呂の匂いが混じる。

玄関を開けると、フクが顔だけ上げて、また目を閉じる。

このごろのフクは、玄関の段差でよろける。

後ろ脚が、思ったところに着かないらしい。

爪の音が、昔は廊下じゅうに響いていたのに、今は畳の上でしか聞こえない。

私はその音を聞くたび、玄関でひとつだけ鳴いていた頃のことを思い出す。

朝と晩、私はチーズの欠片に薬を包んで、フクの舌の上に置く。

フクは薬だけを器用に残して、チーズを飲み込む。

そのたび私は、まだこの子は元気なのだと、勝手に安心する。

あの一声に、私は一度も返事をしなかった。

面倒だったからではない。

返事をする資格が、自分にはないと思っていたからだ。

フクを連れてきたのは、祖母だった。

母が家を出ていった夏の終わりに、祖母は川の中州から、痩せた犬を抱えて帰ってきた。

首に、切れた紐の残りが巻きついていた。

「拾うたもんは、福ていうんよ」

祖母はそう言って、玄関先でその犬に水をやった。

父は反対しなかった。

反対する元気が、その頃の父にはなかったのだと思う。

私は中学生で、母のいない台所の音の少なさに、まだ慣れていなかった。

包丁の音が一種類になり、洗い物の時間が半分になる。

家というのは、人が減ると音が減るのだと、そのとき初めて知った。

その晩、父は仏壇のろうそくを二本立てて、長いこと座っていた。

仏壇には、母の写真はない。

出ていった人の写真は、置く場所がないのだと、そのとき初めて知った。

フクは最初の晩、玄関から動かなかった。

祖母は座布団を持ってきて、フクの隣に座り、朝までそこにいた。

翌朝、私が起きると、祖母は座ったまま眠っていて、フクだけが起きていた。

私と目が合うと、フクは尻尾の先だけを、二回振った。

その振り方が、犬というより、遠慮している人みたいだった。

祖母は、フクを散歩に連れていくとき、必ず川上へ向かった。

下流には芝の広い河川敷があって、犬を連れた人はみんなそちらへ行くのに、祖母は決まって上へ上へと歩いた。

「川は、上から流れてくるやろ」

それだけ言って、あとは何も説明しない人だった。

私も、学校から帰ると、よくついて行った。

祖母は土手の同じ場所で必ず立ち止まって、丘の方を見上げた。

丘の上には、白い建物がひとつだけ建っていた。

「あそこは景色がええんよ」

「行ったことあるん」

「なかよ。見たらわかる」

祖母は笑って、また歩き出す。

フクは、その立ち止まりのあいだ、いつも同じところに座った。

舗装の切れ目の、雨のあとでも乾くのが早い、少し盛り上がったところだ。

祖母が歩き出すまで、フクは動かない。

私が引っぱっても、動かなかった。

「その子は、待つのが上手なんよ」

祖母はそう言って、リードを私の手から取り上げた。

歩きながら、祖母はずっとフクに話しかけていた。

この川はな、山の向こうから来るんよ。

去年の台風で、この辺は水がここまで来たんよ。

返事をしない相手に、祖母は同じ調子で喋り続けた。

土手の途中で野蒜を見つけると、しゃがんで根ごと引き抜き、袋も持たずに手に握って歩いた。

白鷺が浅瀬に立っているのを見つけると、フクは必ず耳を伏せて、じっとした。

「あれは、動かんほうが勝ちなんよ」

祖母がそう言うと、フクは本当に、鷺が飛ぶまで動かなかった。

自転車で通りかかった近所の吉良さんが、ハルヨさん、また上まで行くん、と笑った。

祖母は、上まで行かんと、下まで戻れんやろ、と言い返した。

吉良さんは意味が分からんという顔をして、それでも笑って走っていった。

冬になると、祖母はこたつでみかんを剥いて、フクの前に房を並べた。

フクは一度も食べなかった。

それでも祖母は毎日並べて、フクが食べないのを確かめてから、自分で食べた。

「食べんのを見んと、うちが食べれんのよ」

意味は分からなかったが、その言い方が可笑しくて、私は笑った。

祖母も笑って、みかんの筋を丁寧に取った。

祖母の指はいつもみかんの色に染まっていて、風呂に入っても落ちなかった。

学校で誰かにその話をしたら、笑ってもらえた。

家のことを人に話して笑ってもらえたのは、あれが最後だったかもしれない。

あの頃の私は、まだよく笑っていた。

高校に上がって、私は家に帰らなくなった。

国道沿いのファミリーレストランでバイトを始めて、そこの先輩の車で朝まで走り回った。

理由らしい理由はなかった。

家にいると、母がいないことをずっと考えてしまう。

それだけだった。

明け方の土手を、先輩の車で走ったことがある。

川面が白く光って、鷺が一羽、水際に立っていた。

祖母の言葉を思い出しかけて、私は窓を閉めた。

思い出したくないものほど、こういうときに勝手に出てくる。

深夜に帰ると、フクは必ず玄関で待っていて、前脚を私の腰に掛けてきた。

「よだきい」

私はそう言って、その脚を払った。

このあたりの言葉で、面倒くさい、という意味だ。

何度も払っているうちに、フクは飛びつかなくなった。

廊下の途中で立ち止まって、私が階段を上がるのを見ているだけになった。

見ている、というのが、いちばんこたえた。

祖母は何も言わなかった。

父が私を怒鳴ると、祖母は必ず間に入って、まだ子どもやけん、と言った。

それが、いちばん嫌だった。

子ども扱いされているからではない。

かばわれるだけの理由が、自分に何ひとつないことを、突きつけられる気がしたからだ。

だから私は、祖母の顔もあまり見なくなった。

一度だけ、明け方に帰ると、台所の電気がついていた。

祖母が、火にかけた鍋の前に座っていた。

味噌汁の湯気で、窓が白く曇っていた。

「寝とけばいいのに」

私がそう言うと、祖母は鍋を見たまま答えた。

「フクが起きとったけん」

フクは、私の足元で、とっくに寝そべっていた。

私は何も言わずに、階段を上がった。

あのとき、椀を出して座っていれば、と今は思う。

祖母は私を待っていたことを、最後まで犬のせいにした。

祖母の物忘れが目立ちはじめたのは、私が高校を出て、県外の専門学校を途中でやめて戻ってきた頃だった。

鍋を火にかけたまま、川へ行こうとする。

夜中に引き戸を開けて、フクの名前を呼びながら、土手の方へ歩いていく。

父が二度、警察に電話をかけた。

二度とも、フクが先に見つけた。

土手の、あの立ち止まる場所だった。

三度目の前に、父は丘の上の施設に申し込んだ。

祖母が毎日見上げていた、あの白い建物だった。

荷造りの日、祖母は自分の服より先に、フクの水入れを紙袋に入れた。

父が、それは置いていくやつやから、と取り上げた。

祖母は少し考えて、それから、うちのがおるけん、と言った。

うちのが誰なのか、そのとき誰も聞き返さなかった。

「景色がええんよ、あそこは」

車に乗るとき、祖母は同じことを言った。

覚えていて言ったのか、たまたま同じ言葉が出ただけなのか、私には分からなかった。

分からないまま、私は助手席のドアを閉めた。

私が面会に行ったのは、一度だけだ。

自転車で坂を上がって、汗だくで受付に名前を書いた。

祖母は、窓際の椅子に座って、外を見ていた。

西側の、川がよく見える窓だった。

私が声をかけると、祖母はゆっくり振り向いて、それから、にこりと笑った。

「どちらさん」

その一言で、私は何も言えなくなった。

「立石です」

「立石さん。ようおいでました」

祖母は他人に対する丁寧な言い方で、そう言った。

その手が、私の知っている手だった。

親指の付け根に、包丁で切った古い傷がある。

私はその手を握ることも、名乗り直すこともできずに、椅子の背に手を置いたまま立っていた。

天気の話をして、川の水が少ないという話をして、十分ほどで私は帰った。

廊下を歩きながら、体の芯が冷えていくのが分かった。

坂を下りていくと、門の外の植え込みのところに、茶色い塊がいた。

フクだった。

いつからいたのか分からない。

家からここまで、川沿いをずっと上ってきたのだ。

私はフクの前にしゃがんで、首の後ろを一度だけ掴んだ。

「帰り。ついて来んで」

フクは私を見上げて、それから、坂の上をゆっくり見た。

私は自転車にまたがって、振り返らずに下りた。

フクが夜に出かけるようになったのは、その次の日からだ。

父は、フクは彼女がおるんやろ、と言って笑った。

近所の吉良さんが、お宅の犬、夜に丘の方へ上がりよるで、と教えてくれた。

夜だけ出かける犬の話を、吉良さんは面白がっていた。

私は、そうなんですね、とだけ答えた。

頭のどこかでは、分かっていた。

分かっていて、確かめに行かなかった。

確かめてしまえば、自分が行かないでいる理由が、どこにもなくなるからだ。

私は毎晩、玄関の一声を聞いて、聞かなかったふりをした。

布団に入ってから、引き戸のがたつく音がする。

それを聞いてしまうと、しばらく眠れなかった。

朝、フクの水入れが空になっているのを見て、また眠ったふりをした。

そうやって、季節がふたつ過ぎた。

祖母は、秋のはじめに旅立った。

眠るように静かだったと、父は言った。

私は葬儀のあいだ、一度も泣かなかった。

泣けないことを誰にも見られたくなくて、ずっと下を向いていた。

参列者は少なかった。

吉良さんが焼香のあと、私の横に来て、小さい声で言った。

「お宅の犬な、ずっと丘に上がりよったで」

私は、はい、とも、いいえ、とも言えなかった。

吉良さんは、ええ犬やなあ、とだけ言って、帰っていった。

その夜、フクが玄関で鳴いた。

いつもの短い一声ではなかった。

長く、細く、途切れながら、何度も鳴いた。

父が引き戸を開けてやったが、フクは外へ出なかった。

隙間から入ってくる風の匂いを嗅いで、それから、廊下の途中で伏せた。

その日から、フクは二度と夜に出かけなくなった。

夜だけ出かける犬は、その日でいなくなった。

どうして知っているのか、私には聞けなかった。

施設へ荷物を引き取りに行ったのは、それから何日か経った午後だった。

段ボールひとつぶんの服と、櫛と、使いかけの塗り薬。

それだけだった。

受付で書類を書いていると、夜勤明けだという職員の女の人が、廊下を小走りで追いかけてきた。

浦上さん、と名札にあった。

「立石さんの、お孫さんですか」

私がうなずくと、浦上さんは、少し迷うような顔をした。

「怒られるかもしれんのですけど」

そう前置きして、浦上さんは、建物の裏へ回ってくださいと言った。

裏は、雑草の伸びた斜面になっていた。

枯れかけたすすきの匂いがして、足の裏で小石が鳴った。

「ここです」

浦上さんが指したのは、斜面の下を走る細い側溝だった。

「裏の斜面の側溝に、蓋の外れたところが一箇所だけあるんです」

外れた穴は、大人が屈んでも通れないくらいの幅だった。

縁のコンクリートが、そこだけ白く擦れて、粉を吹いていた。

私は指でなぞってみた。

指先に、乾いた灰色がついた。

落ち葉と土の匂いの下から、雨のあとの側溝の、あの冷たい匂いがした。

私は、フクの前脚の内側の灰色を思い出した。

土手の土ではなかった。

ここだった。

「職員のあいだで、直さんでおこうって話になったんです」

浦上さんは、いたずらがばれた子どもみたいに笑った。

「夏に、業者さんが直しに来られたんです」

「事務長が、そこはええですって断ったんですよ」

断った理由を、事務長は誰にも説明しなかったのだという。

見上げると、二階の西側に、窓がひとつあった。

その真下に、私たちは立っていた。

「あの道をフクちゃんに教えたのは、真央さんですよ」

帰り際、玄関で浦上さんが言った。

私が面会に来た日、フクは門の外にいたのだという。

私が坂を下りたあと、フクは追ってこなかった。

坂を上って、建物の裏へ回った。

その日の夜勤が、浦上さんだった。

「窓を叩く音がしてね、開けたら、犬がおって」

「びっくりして、追い払おうとしたんですけど」

そのとき、ベッドの上で祖母が体を起こしたのだと、浦上さんは言った。

「ハルヨさんが、真央、って呼んだんです」

私は、その名前を、久しぶりに人の口から聞いた気がした。

「うちのこと、分からんようになっとったんです」

そう言うと、浦上さんは首を横に振った。

「顔は分からんでも、名前だけは、するっと出る方がおられるんです」

それから毎晩、フクは同じ時間に来たのだという。

職員が窓を開けて、フクちゃんが来たよ、と声をかける。

「フクちゃんが来たよ、って声をかけると、必ず、真央が来た、って言い直しんさるんです」

浦上さんは、抱えていた黒い表紙のノートを差し出した。

面会の記録だった。

日付と、時間と、面会者の名前が並んでいる。

私の名前は、いちばん上に一度だけあった。

汗だくで受付に書いた、あの日だ。

その下から、日付が毎日のように続いていた。

時間の欄は、どれも同じような数字だった。

夜の十時前後に、細かい字で、几帳面に並んでいる。

雨の日には、雨、と小さく書き添えてあった。

書いたのは、その晩の夜勤の人たちだ。

誰かが書きはじめて、誰も、やめようと言わなかったのだと思う。

面会者の欄に書いてあったのは、フク、ではなく、私の名前だった。

家に帰ると、フクは廊下の途中で眠っていた。

前脚の内側の毛は、もうほとんど白い。

私はその脚を、手のひらで包んだ。

フクは目を開けて、尻尾の先だけを二回振った。

拾われてきた朝と、同じ振り方だった。

夜になっても、フクはもう玄関へ行かない。

行く場所が、なくなってしまったからだ。

それでも私は、皿を洗い終わったあと、玄関の電気をつける。

引き戸の隙間から、川の匂いが入ってくる。

私は玄関に立って、一度だけ、返事をした。

「フク」

廊下の奥で、爪の音がひとつ鳴った。

それだけだった。

それだけで、じゅうぶんだった。

祖母は、拾うたもんは福やと言っていた。

拾われたのは、たぶん、私のほうだった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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