
「今夜も、行くんかね」
父がそう声をかけるのが、うちの夜のはじまりだった。
フクは、夜になると玄関で一度だけ、短く鳴いた。
返事をしたことは、一度もなかった。
鳴いたあと、フクはしばらく待つ。
誰も何も言わないと、自分で引き戸の隙間に鼻を差し込んで、外へ出ていった。
朝には帰っている。
台所の水入れに顔を突っ込んで、喉を鳴らして飲んで、それから昼まで眠った。
フクの前脚の内側だけが、いつも灰色に汚れていた。
父は、土手で寝転んどるんやろ、と言った。
私も、そう思っていた。
思っていたというより、そう思っておくことにしていた。
※
うちは大分の、川沿いの町にある。
国道からひとつ内側に入った古い二階建てで、玄関の引き戸は建て付けが悪く、いつも五センチほど閉まりきらない。
父は毎年直すと言って、毎年直さない。
その隙間が、フクの通用口だった。
私は町の放課後児童クラブで働いている。
夕方まで子どもたちと過ごして、連絡帳に一言ずつ書いて、床に散らばった消しゴムのかすを掃いて帰る。
先週は、小学2年生の男の子が、紙飛行機の翼の角度を変えては投げるのを、閉所の時間までずっと繰り返していた。
飛ばないほうがいい、と彼は言った。
飛んだら、取りに行かんといけんけん。
私は笑って、じゃあ一緒に取りに行こうと言った。
そういう仕事を、私は選んだ。
選んだ理由を、人に説明したことはない。
子どもたちは、迎えが遅い日ほど、玄関のほうを見る。
見ていることを、こちらに知られたくないという顔で見る。
私はその横顔が、どうしても放っておけない。
帰り道は、川沿いの土手を自転車で走る。
秋になると、風に川の匂いと、どこかの家の風呂の匂いが混じる。
玄関を開けると、フクが顔だけ上げて、また目を閉じる。
このごろのフクは、玄関の段差でよろける。
後ろ脚が、思ったところに着かないらしい。
爪の音が、昔は廊下じゅうに響いていたのに、今は畳の上でしか聞こえない。
私はその音を聞くたび、玄関でひとつだけ鳴いていた頃のことを思い出す。
朝と晩、私はチーズの欠片に薬を包んで、フクの舌の上に置く。
フクは薬だけを器用に残して、チーズを飲み込む。
そのたび私は、まだこの子は元気なのだと、勝手に安心する。
あの一声に、私は一度も返事をしなかった。
面倒だったからではない。
返事をする資格が、自分にはないと思っていたからだ。
※
フクを連れてきたのは、祖母だった。
母が家を出ていった夏の終わりに、祖母は川の中州から、痩せた犬を抱えて帰ってきた。
首に、切れた紐の残りが巻きついていた。
「拾うたもんは、福ていうんよ」
祖母はそう言って、玄関先でその犬に水をやった。
父は反対しなかった。
反対する元気が、その頃の父にはなかったのだと思う。
私は中学生で、母のいない台所の音の少なさに、まだ慣れていなかった。
包丁の音が一種類になり、洗い物の時間が半分になる。
家というのは、人が減ると音が減るのだと、そのとき初めて知った。
その晩、父は仏壇のろうそくを二本立てて、長いこと座っていた。
仏壇には、母の写真はない。
出ていった人の写真は、置く場所がないのだと、そのとき初めて知った。
フクは最初の晩、玄関から動かなかった。
祖母は座布団を持ってきて、フクの隣に座り、朝までそこにいた。
翌朝、私が起きると、祖母は座ったまま眠っていて、フクだけが起きていた。
私と目が合うと、フクは尻尾の先だけを、二回振った。
その振り方が、犬というより、遠慮している人みたいだった。
※
祖母は、フクを散歩に連れていくとき、必ず川上へ向かった。
下流には芝の広い河川敷があって、犬を連れた人はみんなそちらへ行くのに、祖母は決まって上へ上へと歩いた。
「川は、上から流れてくるやろ」
それだけ言って、あとは何も説明しない人だった。
私も、学校から帰ると、よくついて行った。
祖母は土手の同じ場所で必ず立ち止まって、丘の方を見上げた。
丘の上には、白い建物がひとつだけ建っていた。
「あそこは景色がええんよ」
「行ったことあるん」
「なかよ。見たらわかる」
祖母は笑って、また歩き出す。
フクは、その立ち止まりのあいだ、いつも同じところに座った。
舗装の切れ目の、雨のあとでも乾くのが早い、少し盛り上がったところだ。
祖母が歩き出すまで、フクは動かない。
私が引っぱっても、動かなかった。
「その子は、待つのが上手なんよ」
祖母はそう言って、リードを私の手から取り上げた。
歩きながら、祖母はずっとフクに話しかけていた。
この川はな、山の向こうから来るんよ。
去年の台風で、この辺は水がここまで来たんよ。
返事をしない相手に、祖母は同じ調子で喋り続けた。
土手の途中で野蒜を見つけると、しゃがんで根ごと引き抜き、袋も持たずに手に握って歩いた。
白鷺が浅瀬に立っているのを見つけると、フクは必ず耳を伏せて、じっとした。
「あれは、動かんほうが勝ちなんよ」
祖母がそう言うと、フクは本当に、鷺が飛ぶまで動かなかった。
自転車で通りかかった近所の吉良さんが、ハルヨさん、また上まで行くん、と笑った。
祖母は、上まで行かんと、下まで戻れんやろ、と言い返した。
吉良さんは意味が分からんという顔をして、それでも笑って走っていった。
冬になると、祖母はこたつでみかんを剥いて、フクの前に房を並べた。
フクは一度も食べなかった。
それでも祖母は毎日並べて、フクが食べないのを確かめてから、自分で食べた。
「食べんのを見んと、うちが食べれんのよ」
意味は分からなかったが、その言い方が可笑しくて、私は笑った。
祖母も笑って、みかんの筋を丁寧に取った。
祖母の指はいつもみかんの色に染まっていて、風呂に入っても落ちなかった。
学校で誰かにその話をしたら、笑ってもらえた。
家のことを人に話して笑ってもらえたのは、あれが最後だったかもしれない。
あの頃の私は、まだよく笑っていた。
※
高校に上がって、私は家に帰らなくなった。
国道沿いのファミリーレストランでバイトを始めて、そこの先輩の車で朝まで走り回った。
理由らしい理由はなかった。
家にいると、母がいないことをずっと考えてしまう。
それだけだった。
明け方の土手を、先輩の車で走ったことがある。
川面が白く光って、鷺が一羽、水際に立っていた。
祖母の言葉を思い出しかけて、私は窓を閉めた。
思い出したくないものほど、こういうときに勝手に出てくる。
深夜に帰ると、フクは必ず玄関で待っていて、前脚を私の腰に掛けてきた。
「よだきい」
私はそう言って、その脚を払った。
このあたりの言葉で、面倒くさい、という意味だ。
何度も払っているうちに、フクは飛びつかなくなった。
廊下の途中で立ち止まって、私が階段を上がるのを見ているだけになった。
見ている、というのが、いちばんこたえた。
祖母は何も言わなかった。
父が私を怒鳴ると、祖母は必ず間に入って、まだ子どもやけん、と言った。
それが、いちばん嫌だった。
子ども扱いされているからではない。
かばわれるだけの理由が、自分に何ひとつないことを、突きつけられる気がしたからだ。
だから私は、祖母の顔もあまり見なくなった。
一度だけ、明け方に帰ると、台所の電気がついていた。
祖母が、火にかけた鍋の前に座っていた。
味噌汁の湯気で、窓が白く曇っていた。
「寝とけばいいのに」
私がそう言うと、祖母は鍋を見たまま答えた。
「フクが起きとったけん」
フクは、私の足元で、とっくに寝そべっていた。
私は何も言わずに、階段を上がった。
あのとき、椀を出して座っていれば、と今は思う。
祖母は私を待っていたことを、最後まで犬のせいにした。
※
祖母の物忘れが目立ちはじめたのは、私が高校を出て、県外の専門学校を途中でやめて戻ってきた頃だった。
鍋を火にかけたまま、川へ行こうとする。
夜中に引き戸を開けて、フクの名前を呼びながら、土手の方へ歩いていく。
父が二度、警察に電話をかけた。
二度とも、フクが先に見つけた。
土手の、あの立ち止まる場所だった。
三度目の前に、父は丘の上の施設に申し込んだ。
祖母が毎日見上げていた、あの白い建物だった。
荷造りの日、祖母は自分の服より先に、フクの水入れを紙袋に入れた。
父が、それは置いていくやつやから、と取り上げた。
祖母は少し考えて、それから、うちのがおるけん、と言った。
うちのが誰なのか、そのとき誰も聞き返さなかった。
「景色がええんよ、あそこは」
車に乗るとき、祖母は同じことを言った。
覚えていて言ったのか、たまたま同じ言葉が出ただけなのか、私には分からなかった。
分からないまま、私は助手席のドアを閉めた。
※
私が面会に行ったのは、一度だけだ。
自転車で坂を上がって、汗だくで受付に名前を書いた。
祖母は、窓際の椅子に座って、外を見ていた。
西側の、川がよく見える窓だった。
私が声をかけると、祖母はゆっくり振り向いて、それから、にこりと笑った。
「どちらさん」
その一言で、私は何も言えなくなった。
「立石です」
「立石さん。ようおいでました」
祖母は他人に対する丁寧な言い方で、そう言った。
その手が、私の知っている手だった。
親指の付け根に、包丁で切った古い傷がある。
私はその手を握ることも、名乗り直すこともできずに、椅子の背に手を置いたまま立っていた。
天気の話をして、川の水が少ないという話をして、十分ほどで私は帰った。
廊下を歩きながら、体の芯が冷えていくのが分かった。
坂を下りていくと、門の外の植え込みのところに、茶色い塊がいた。
フクだった。
いつからいたのか分からない。
家からここまで、川沿いをずっと上ってきたのだ。
私はフクの前にしゃがんで、首の後ろを一度だけ掴んだ。
「帰り。ついて来んで」
フクは私を見上げて、それから、坂の上をゆっくり見た。
私は自転車にまたがって、振り返らずに下りた。
※
フクが夜に出かけるようになったのは、その次の日からだ。
父は、フクは彼女がおるんやろ、と言って笑った。
近所の吉良さんが、お宅の犬、夜に丘の方へ上がりよるで、と教えてくれた。
夜だけ出かける犬の話を、吉良さんは面白がっていた。
私は、そうなんですね、とだけ答えた。
頭のどこかでは、分かっていた。
分かっていて、確かめに行かなかった。
確かめてしまえば、自分が行かないでいる理由が、どこにもなくなるからだ。
私は毎晩、玄関の一声を聞いて、聞かなかったふりをした。
布団に入ってから、引き戸のがたつく音がする。
それを聞いてしまうと、しばらく眠れなかった。
朝、フクの水入れが空になっているのを見て、また眠ったふりをした。
そうやって、季節がふたつ過ぎた。
※
祖母は、秋のはじめに旅立った。
眠るように静かだったと、父は言った。
私は葬儀のあいだ、一度も泣かなかった。
泣けないことを誰にも見られたくなくて、ずっと下を向いていた。
参列者は少なかった。
吉良さんが焼香のあと、私の横に来て、小さい声で言った。
「お宅の犬な、ずっと丘に上がりよったで」
私は、はい、とも、いいえ、とも言えなかった。
吉良さんは、ええ犬やなあ、とだけ言って、帰っていった。
その夜、フクが玄関で鳴いた。
いつもの短い一声ではなかった。
長く、細く、途切れながら、何度も鳴いた。
父が引き戸を開けてやったが、フクは外へ出なかった。
隙間から入ってくる風の匂いを嗅いで、それから、廊下の途中で伏せた。
その日から、フクは二度と夜に出かけなくなった。
夜だけ出かける犬は、その日でいなくなった。
どうして知っているのか、私には聞けなかった。
※
施設へ荷物を引き取りに行ったのは、それから何日か経った午後だった。
段ボールひとつぶんの服と、櫛と、使いかけの塗り薬。
それだけだった。
受付で書類を書いていると、夜勤明けだという職員の女の人が、廊下を小走りで追いかけてきた。
浦上さん、と名札にあった。
「立石さんの、お孫さんですか」
私がうなずくと、浦上さんは、少し迷うような顔をした。
「怒られるかもしれんのですけど」
そう前置きして、浦上さんは、建物の裏へ回ってくださいと言った。
裏は、雑草の伸びた斜面になっていた。
枯れかけたすすきの匂いがして、足の裏で小石が鳴った。
「ここです」
浦上さんが指したのは、斜面の下を走る細い側溝だった。
「裏の斜面の側溝に、蓋の外れたところが一箇所だけあるんです」
外れた穴は、大人が屈んでも通れないくらいの幅だった。
縁のコンクリートが、そこだけ白く擦れて、粉を吹いていた。
私は指でなぞってみた。
指先に、乾いた灰色がついた。
落ち葉と土の匂いの下から、雨のあとの側溝の、あの冷たい匂いがした。
私は、フクの前脚の内側の灰色を思い出した。
土手の土ではなかった。
ここだった。
「職員のあいだで、直さんでおこうって話になったんです」
浦上さんは、いたずらがばれた子どもみたいに笑った。
「夏に、業者さんが直しに来られたんです」
「事務長が、そこはええですって断ったんですよ」
断った理由を、事務長は誰にも説明しなかったのだという。
見上げると、二階の西側に、窓がひとつあった。
その真下に、私たちは立っていた。
※
「あの道をフクちゃんに教えたのは、真央さんですよ」
帰り際、玄関で浦上さんが言った。
私が面会に来た日、フクは門の外にいたのだという。
私が坂を下りたあと、フクは追ってこなかった。
坂を上って、建物の裏へ回った。
その日の夜勤が、浦上さんだった。
「窓を叩く音がしてね、開けたら、犬がおって」
「びっくりして、追い払おうとしたんですけど」
そのとき、ベッドの上で祖母が体を起こしたのだと、浦上さんは言った。
「ハルヨさんが、真央、って呼んだんです」
私は、その名前を、久しぶりに人の口から聞いた気がした。
「うちのこと、分からんようになっとったんです」
そう言うと、浦上さんは首を横に振った。
「顔は分からんでも、名前だけは、するっと出る方がおられるんです」
それから毎晩、フクは同じ時間に来たのだという。
職員が窓を開けて、フクちゃんが来たよ、と声をかける。
「フクちゃんが来たよ、って声をかけると、必ず、真央が来た、って言い直しんさるんです」
浦上さんは、抱えていた黒い表紙のノートを差し出した。
面会の記録だった。
日付と、時間と、面会者の名前が並んでいる。
私の名前は、いちばん上に一度だけあった。
汗だくで受付に書いた、あの日だ。
その下から、日付が毎日のように続いていた。
時間の欄は、どれも同じような数字だった。
夜の十時前後に、細かい字で、几帳面に並んでいる。
雨の日には、雨、と小さく書き添えてあった。
書いたのは、その晩の夜勤の人たちだ。
誰かが書きはじめて、誰も、やめようと言わなかったのだと思う。
面会者の欄に書いてあったのは、フク、ではなく、私の名前だった。
※
家に帰ると、フクは廊下の途中で眠っていた。
前脚の内側の毛は、もうほとんど白い。
私はその脚を、手のひらで包んだ。
フクは目を開けて、尻尾の先だけを二回振った。
拾われてきた朝と、同じ振り方だった。
夜になっても、フクはもう玄関へ行かない。
行く場所が、なくなってしまったからだ。
それでも私は、皿を洗い終わったあと、玄関の電気をつける。
引き戸の隙間から、川の匂いが入ってくる。
私は玄関に立って、一度だけ、返事をした。
「フク」
廊下の奥で、爪の音がひとつ鳴った。
それだけだった。
それだけで、じゅうぶんだった。
祖母は、拾うたもんは福やと言っていた。
拾われたのは、たぶん、私のほうだった。