余命半年の彼女

コスモスの花(フリー写真)

今日、彼女と別れた。

原因は、彼女の病気だった。

俺は二十六歳で、彼女は三十歳になったばかりだった。

四つ年上の史織さんは、駅裏の小さな靴修理店で働いている。

その彼女が「余命半年」と告げたのは、二月の終わりの夕方だった。

その日まで、何も変わらない毎日が続くと信じていた。

革の匂いのする店

史織さんの店は、シャッターを半分だけ上げた路地の奥にあった。

扉を開けると、革と接着剤の匂いがした。

壁には持ち主を待つ靴が、値札のように並んでいる。

俺が通い始めたのは、営業まわりの途中で靴底が剥がれたのがきっかけだった。

「歩き方に癖がありますね。左のかかとだけ、削れています」

作業台の向こうから、彼女は顔も上げずに言った。

指先は、削れたゴムを手早く外していく。

「癖って、直るものですか」

「直りませんよ。直すのは、靴のほうです」

そう言って、彼女はようやく俺を見て笑った。

その笑い方が、妙に頭に残った。

それから俺は、用もないのに靴を持って通うようになった。

半年後、付き合ってほしいと言ったのは俺だった。

「たっくん、私は四つも上だよ」

「靴の減り方に、年は出ませんよ」

そう言い返すと、彼女は噴き出した。

付き合って最初の冬、彼女は一度だけ、行きたい場所を口にした。

「冬の海が見たいな。誰もいない浜で、ぼうっとするの」

「じゃあ、今度の連休に行こう」

「うん。楽しみにしてる」

結局、その連休は、俺の出張で流れてしまった。

彼女は「また今度ね」と笑って、その話を二度としなかった。

付き合って二年になる。

その間、彼女が俺に甘えたことは、一度もなかった。

疲れた顔をしていても「大丈夫」と言う。

風邪をひいても、店を閉めなかった。

愚痴をこぼすのは、いつも俺のほうだった。

二年目の冬、閉店後の作業台で、彼女は靴の磨き方を教えてくれた。

「クリームはね、先に手のひらで温めるの」

「手で?」

「そう。冷たいままだと、革が受け付けてくれないから」

彼女の指先は、ひび割れて、絆創膏が何枚も巻かれていた。

「痛くないの」

「職人の手は、これでいいの」

そう言って、彼女は俺の手を取り、革の上で円を描かせた。

布越しに、彼女の体温が伝わってきた。

薄暗い店の中で、蛍光灯だけが低く鳴っていた。

その音まで、今でも耳に残っている。

俺が熱を出した冬のことも、よく覚えている。

彼女は店を早く閉めて、おかゆを作りに来てくれた。

「寝てて。起きたら、ちゃんと食べるんだよ」

湯気の向こうで、彼女は小さく鼻歌をうたっていた。

目を覚ますと、彼女は床に座ったまま、俺の靴を磨いていた。

「何してんの」

「待ってる間、暇だったから」

今思えば、それが彼女なりの甘え方だったのかもしれない。

誰かに何かをしてあげている間だけ、彼女は自分の弱さを手放せたのだろう。

毎月二日の千円は返さなくていいという話を読んだとき、あの夜の靴墨の匂いを思い出した。

去年の秋、彼女は笑いながら言った。

「たっくんの靴、また左だけ減ってる。次に会うとき、直してあげる」

俺はその言葉を、それきり忘れていた。

余命半年と言われた夜

思えば、予兆はあった。

去年の暮れあたりから、彼女は昼のお弁当を残すようになっていた。

「最近、階段がきつくてさ。年かな」

駅の階段で足を止める彼女に、俺は冗談で返した。

「四つ上なんだから、仕方ないですよ」

彼女は「失礼だなあ」と笑った。

そのとき彼女が階段の手すりを強く握っていたことに、俺は今になって気づく。

白くなった指の関節が、まぶたの裏に残っている。

あの笑顔の下で、彼女はどれだけの不安を抱えていたのだろう。

俺は、気づこうともしなかった。

二月の初めには、直してもらうつもりで黒い営業靴を店に預けた。

それが、最後に彼女の店へ入った日になった。

二月の終わり、彼女は定休日でもないのに俺を呼び出した。

待ち合わせは、駅前の小さな喫茶店だった。

窓の外では、みぞれまじりの雨が降っていた。

彼女は、頼んだ紅茶に一口も口をつけなかった。

「病院に行ってきたの」

「どこか悪いの」

「うん」

そこで言葉が途切れた。

カップの縁を、彼女の爪が何度もなぞっている。

「癌なんだって。もう、あちこちに広がってる」

「すぐ治るんだろ?」

自分の声が、ひどく幼く聞こえた。

彼女は黙って、首を横に振った。

「あと半年だって」

「半年って、いつから数えるの」

「今日から、だって」

そう言ったあと、彼女は俺の前で初めて泣いた。

声は出さなかった。

涙だけが、テーブルの木目に落ちていった。

店員が追加のお冷やを置いて、静かに離れていった。

昨日まで、一緒にラーメンを食べて笑っていたのに。

余命半年という四文字が、彼女の口から出てくる現実が、うまく飲み込めなかった。

頭で理解しようとしても、胸のどこかが追いつかなかった。

俺は何も言えずに、冷めていく自分の珈琲を見ていた。

帰り道、傘を忘れたことにも気づかなかった。

肩に落ちるみぞれが、冷たいのかどうかも分からなかった。

アパートに着いても、電気をつける気になれなかった。

暗い部屋で普段履きの靴を脱ぐと、かかとの減りが目に入った。

左だけ、斜めに削れている。

あの人は、毎日これを見てくれていたのだと思った。

諦めがついたという声

一週間、俺は何をしていたのか覚えていない。

会社には行った。飯も食べた。

ただ、スマホの中の彼女の名前を、何度も開いては閉じた。

次の週末、俺は彼女の部屋を訪ねた。

「半年あるなら、思い出をたくさん作ろう」

玄関先で、俺は言った。

「旅行にも行こう。行きたいって言ってた海も、約束してた温泉も」

「ううん」

彼女は静かに首を振った。

部屋には、洗ったばかりの洗濯物が干してあった。

いつもと変わらない柔軟剤の匂いがした。

棚の上には、預かりものの靴が札をつけて並んでいた。

「お客さんの靴は、全部お返ししてから、店を閉めるつもり」

「そんな先のことまで」

「職人だからね。途中のままは、嫌なの」

「たっくんと過ごした二年間は、夢みたいだった。毎日、本当に楽しかった」

「だったら」

「でもね、やっと諦めがついたの。どんなに頑張っても、半年なんだって」

「諦めるなよ」

「諦めたから、笑えてるんだよ」

そう言った彼女の声は、少しも震えていなかった。

それが、かえって怖かった。

「これ以上一緒にいたら、もっと一緒にいたいって思っちゃう」

「思えばいいだろ」

「そのまま終わるのは、悲しすぎるから」

彼女は俺の目を、まっすぐ見た。

「たっくんのことは、いい思い出として取っておきたいの。だから、会うのはこれっきりにしよう」

俺は言い返す言葉を探した。

けれど、どの言葉も、彼女がもう何度も考え抜いたもののように思えた。

玄関の戸が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。

追いかけなかったのは、追いかける資格がないと思ったからだ。

預けたままの黒い靴

別れた翌日から、俺の毎日は音を失った。

会社では、先輩に声をかけられた。

「お前、最近顔色悪いぞ。飯、食ってるか」

「大丈夫です」

大丈夫、という言葉が、彼女の口癖だったと思い出した。

夜、遠回りをして、彼女の店の前を通った。

シャッターは半分だけ上がり、奥の明かりがついていた。

作業台に向かう背中が、細く見えた。

ガラス越しに、ヤスリで革を削る乾いた音が聞こえた。

サッ、サッ、と一定のリズムで、彼女の呼吸のようだった。

俺は路地の入口に立ったまま、足が動かなかった。

入ってしまえば、余命半年という数字ごと、彼女の決めたことを壊してしまう。

そう思って、帰った。

家に着いて、二月に預けた靴のことを思い出した。

取りに行く用事さえ、もう俺にはなかった。

ポケットの半券は片方だけ残されるという話を読んで、残される側の静けさを知った気がした。

三週間が過ぎても、連絡はしなかった。

彼女からも、来なかった。

三月の終わりの朝、アパートの玄関に小さな段ボール箱が置かれていた。

差出人の名前は、どこにもなかった。

箱を開けると、革の匂いが立ちのぼった。

中には、預けたままだった黒い営業靴が入っていた。

手に取ると、革は丁寧に磨かれていた。

靴底は新しくなっていた。

左のかかとだけでなく、右のかかとも。

内側の中敷きに、小さな紙が貼ってあった。

そこには、彼女の字で、短く書かれていた。

「次に会うときは、もうないから。先に直しておきました」

俺はその場に、座り込んだ。

彼女は、会えない「次」の分まで、先に直していった。

翌朝、俺はその靴を履いて駅まで歩いた。

かかとが、左右同じ高さで地面を打つ。

傾いていた世界が、少しだけ真っ直ぐになった気がした。

朝の人混みの中で、誰も俺の足元を見てはいない。

それでも俺だけは、昨日までと違う歩幅を知っていた。

彼女は最後まで、俺に甘えてくれなかった。

けれど、俺の歩き方だけは、先に直していってくれた。

忘れない、と言う必要はなかった。

毎朝、踵が覚えている。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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