父の道具袋で待っていた犬

温かな光の工房と山の景色

親父の道具袋の中に、シゲは丸まっていた。

知らせを聞いた朝、私は退院してきたばかりで、まだ抱いていた長女の重みも体に馴染んでいなかった。

居間の電気は点いていなかった。

縁側の障子だけが、北陸の十二月の薄い光で、じわりと白く透けていた。

親父は何も言わずに、作業場の戸を顎で指した。

私の家は、加賀の城下町から少し外れた、卯辰山の麓にあった。

代々続いた小さな大工の家で、家業を継いだのは私が三人姉弟の長女だったからだ。

弟も妹も建築の道には進まなかった。

私は高校を出てすぐ、親父の助手としてこの家に残った。

平成元年の春、十八のときだった。

親父は寡黙な男で、私に何かを教える言葉を、ほとんど持たなかった。

「見て覚えろ」と「やってみろ」と、その二つしか言わない人だった。

褒められた覚えがない。

叱られた覚えも、ほとんどない。

ただ、私が鉋を強く押しすぎたとき、無言で道具を取り上げて、刃の角度を直して、また私の手に返した。

それだけの男だった。

シゲは、私が見習いになって半年が経った、平成元年の秋に、ふらりと作業場の戸口に現れた。

土砂降りの夕方だった。

ずぶ濡れの黒い仔犬が、削り屑の山の上で震えていた。

首輪はなかった。

骨が浮いていた。

私は持っていた手拭いで、その犬の体をぐるりと拭いた。

親父は、玄関土間に立ったまま、しばらくその犬を見ていた。

「飼ったらどうだ」とも、「捨ててこい」とも言わなかった。

ただ次の日の朝、作業場の片隅に、古い箱を伏せて屋根のようにしてあった。

その下に、藁が敷いてあった。

私が起きて見にいくと、犬はそこで、丸まっていた。

私は、その日からその犬を、シゲと呼んだ。

何故シゲにしたのか、自分でもよく覚えていない。

ただ、親父の親方が「茂吉」という人で、その親方が二十年前にこの作業場で鑿を握っていたという話を、子供の頃に聞いた覚えがあった。

シゲ、と呼ぶと、その犬は耳をぴくりと動かして、こちらを見上げた。

仔犬のうちは、まだ目に幼さが残っていた。

夜、私が縁側で帳簿を付けていると、シゲは私の足元で、丸い体をきゅっと縮めて寝た。

親父は、何も言わなかった。

ただ、台所のすみに、犬用の小さな茶碗が、いつのまにか一つ増えていた。

私はその茶碗を見たとき、なぜか胸が、ことりと音を立てた。

親父が町まで降りて、わざわざ買ってきたものだった。

「これ、いつ買ったの」と訊くと、親父はちょっとだけ、口元を曲げた。

返事はなかった。

シゲは、作業場の片隅で十七年を生きた。

私が鉋を引くと、シゲは削り屑の山の上で、目を細めて寝ていた。

親父が鑿を打つと、その音に合わせて尻尾の先だけを、とん、とん、と動かした。

冬になると、シゲは作業場の隅にある、親父の古い道具袋の上で眠った。

革の道具袋だった。

親父が二十歳のときに買ったもので、もう四十年近く使い込んだ、色の褪せた、ぼろぼろの袋だった。

底が膨らんで、犬一匹がちょうど丸まれる窪みになっていた。

シゲは、いつもそこで眠った。

親父がその袋を必要とする日でも、シゲがその上にいると、親父は別の袋を出してきて、何も言わずに使った。

シゲをどけることをしなかった。

私が「親父、こっちの袋を使ったら」と言うと、親父は首を横に振った。

「あいつが今、要る場所だ」

それだけ言って、別の袋を肩にかついだ。

その晩、私はその言葉を、何度か、心の中で繰り返した。

四十年近く、毎日肩にかついで現場に持っていく道具袋を、犬一匹のために置いていく親父の背中が、台所の方からも見えた。

雪の朝、シゲは道具袋の上で、白い息を吐いて目を開けていた。

その吐息が、革の上で、薄い湯気のようになって、すぐに消えた。

親父は、シゲを起こさないように、抜き足で道具袋の脇を通り、別の袋に手を伸ばした。

その背中を、私は、台所の戸の隙間から、しばらく見ていた。

私が結婚したのは、平成十二年の春だった。

相手は隣町の役所で働く穏やかな男で、シゲのことを大事にしてくれた。

私たちは、私の実家と作業場の続きにある離れに住んだ。

家業を継いだ私は、家を出るわけにはいかなかった。

夫は何も言わずに、私の家に入ってくれた。

シゲは、私たちの離れの縁側にも来るようになったが、夕方になると必ず、親父の作業場の道具袋の上に戻った。

夜は、そこで眠った。

夫はそれを面白がって、「シゲは親父さんの犬になってきたな」と笑った。

私は、なぜか少し寂しかった。

でも、シゲが選ぶ場所を、私が変えようとは思わなかった。

平成十八年の十一月、私は初めての子を授かった。

予定日は十二月の頭だった。

産休に入って、家のことを片付けていた私は、シゲの食が細くなっていることに気づいた。

シゲはもう、人間でいえば八十歳を超えていた。

獣医に連れていくと、レントゲンを撮ってもらった。

先生は、レントゲンの写真を私に見せながら、ゆっくりと言った。

「お腹の中に、もう薬では追いつかないものがあります」

私は、何も言えなかった。

「冬を、越せるかどうかです」

その日、シゲを連れて帰ってきた。

シゲは、いつもの道具袋の上で、ゆっくりと丸まった。

親父は、夕飯を食べながら、私の話を聞いた。

茶碗を持つ手が、一度だけ、止まった。

それから、「分かった」とだけ言って、また米を口に運んだ。

予定日の十日前から、シゲは食べなくなった。

水も、ほとんど口にしなくなった。

それでも、道具袋の上で、ゆっくりと目を閉じて、ときどき耳だけを動かした。

私が手を伸ばすと、温かい鼻先を、私の指の腹に、そっと押し当ててきた。

その日の夜中、私に陣痛がきた。

夫が車を出してくれた。

私はシゲのほうを振り返って、「行ってくる」と声をかけた。

シゲは、目を開けて、私を見た。

その目が、何かを言いたげに、私の顔の上をゆっくりと動いた。

最後の「シゲ」という呼びかけを、私が口にしたかどうか、もう覚えていない。

ただ、玄関を出る前に、親父が作業場の戸を開けて、シゲのそばに胡坐をかいたのが見えた。

「行ってこい」

それだけ言った。

私が誰に向かって言われたのか、それも分からなかった。

陣痛は長かった。

朝になり、昼になり、夕方になっても、子は出てこなかった。

母が病院に駆けつけた。

夫が二度、病室を出ては戻ってきた。

夜が明けた頃、ようやく女の子が産まれた。

私は意識が朦朧としたまま、その小さな体を胸に抱いた。

「シゲは」と、私は母に訊いた。

母は、少し間を置いてから言った。

「父さんがついてる。大丈夫」

私は、それで眠った。

入院は、思っていたより長かった。

産後の経過が思わしくなく、五日ほど寝込んだ。

熱が下がるまで、シゲのことを訊くたびに、母は「父さんがついてる」と同じ言葉を繰り返した。

母の手は、私の額の上で、いつもより長く止まっていた。

夫が、長女を抱いて何度も病室に来てくれた。

私は、生まれたばかりのその子の重みを、自分の腕の中に何度も確かめながら、もう一方の手で、隣にあるはずのシゲの背中を、なぜか探していた。

入院四日目の朝、私は夢を見た。

シゲが、作業場の戸口に立っていた。

毛艶の良い、若い頃のシゲだった。

尻尾を振っていた。

私が「シゲ」と呼ぶと、シゲは作業場の中に駆け込んでいって、いつもの道具袋の上に、すとん、と腹を落として丸まった。

そして、目を細めて、こちらを見た。

その目が、ありがとう、と言っているような気がした。

私は、夢の中で泣いた。

夢の中の自分は、シゲは大丈夫なんだ、と何度も思った。

目が覚めて、その夢のことを母に話した。

母は、ほとんど反応しなかった。

ただ、私の額に手を当てて、「もう少し寝ていなさい」と言った。

退院したのは、出産から一週間後の朝だった。

夫が運転する車で、家まで戻った。

家の門の前で、私はまず作業場のほうを見た。

戸は閉まっていた。

夫が、長女を抱いて先に居間に入った。

私は、土間に荷物を置いて、親父のところへ行った。

親父は、居間の角の自分の椅子に、いつもどおり座っていた。

新聞を読んでいたが、私が入ると、新聞を畳の上にゆっくりと置いた。

私の顔を、しばらく、じっと見た。

それから、作業場の戸を、顎で指した。

「行ってやれ」

私は、長女を母に渡して、ひとりで作業場に入った。

戸を引くと、線香の匂いがした。

冷えた、清潔な匂いだった。

作業場の隅、いつもの場所に、親父の古い道具袋が置かれていた。

その上に、薄い布が掛けられていた。

私が布をめくると、シゲが、丸まっていた。

毛は梳かれていた。

体は、もう温かくなかった。

息も、していなかった。

それでも、いつもどおり、道具袋の窪みに、ぴったりと体をはめて、親父の作業場のほうを向いて、目を閉じていた。

私は、その場にしゃがみ込んで、シゲの背中に手を置いた。

毛の下の骨が、指に当たった。

声を上げて泣くこともできなかった。

ただ、肩が震えるだけで、息ができなかった。

しばらくして、親父が後ろに立っていることに気づいた。

私は、振り向かなかった。

親父も、声をかけなかった。

私の背中の上の方に、視線が当たっているのが分かった。

私が、ようやく言葉を絞り出した。

「いつ」

「四日目の朝だ」

「四日目」

「お前が出産して、四日目の朝だ」

私の中で、夢の光景が、ゆっくりと重なった。

毛艶の良い、若い頃のシゲが、作業場の戸口に立っていた、あの夢。

道具袋の上に、すとん、と腹を落として丸まった、あの夢。

ありがとう、と目で言っているような気がした、あの瞬間。

「あんたは、夢を見ただろう」

親父が、そう言った。

私は、振り返らないまま、頷いた。

「そうか」

それだけだった。

私は、しばらく作業場の床にしゃがんでいた。

シゲの背中に手を置いたまま、何時間そうしていたか、自分でも分からない。

外で長女が泣く声が、薄く聞こえた。

私が立ち上がろうとして、思わずよろけた。

道具袋の縁に手をついた。

そのとき、袋の口の隙間から、何かが少しだけ覗いていた。

古い、薄い大学ノートの背だった。

私は、それを、ゆっくりと引き出した。

表紙は、煤けていた。

何も書かれていなかった。

私は、しゃがんだまま、表紙を開いた。

中には、親父の字で、絵日記のようなものが、書かれていた。

字も、絵も、不器用だった。

鉛筆書きと、ボールペンの混ざった、見たことのない親父の文字だった。

最初の頁の日付は、平成元年の十月の終わりだった。

——犬を拾った。妙子が、シゲと名付けた。妙子が嬉しそうにしていたので、何も言わなかった。

私の名前が、そこにあった。

私は、その頁を、何度か読み返した。

次の頁。

——シゲ、削り屑の上で寝ている。妙子が鉋を引くと、目を細める。

その次の頁。

——シゲ、道具袋の上で寝るようになった。袋が温かいのだろう。

その次。

——シゲ、妙子が嫁いだ晩、玄関で動かなかった。三十分待って、私が抱き上げて作業場に戻した。

——シゲ、夜中に一度起きて、私の手の甲を舐めた。

——シゲ、今日は外を見ていた。妙子が出かけたのを、覚えているらしい。

頁を捲るたびに、シゲと、私の名前が、交互に書かれていた。

私が知らない時間の、シゲと親父の二人きりの時間が、そこにあった。

——シゲ、しなびた。獣医が薬では追いつかぬと言った。

——シゲ、道具袋の上で、長く眠る。

——妙子に陣痛が来た。シゲのそばを離れたくなかったが、玄関先で見送った。

——夜明け、シゲの呼吸が浅い。私は、シゲのそばに胡坐をかいた。

——夜が明けてから半日、シゲは私の指の腹を、何度か舐めた。

——妙子が産んだのは、女の子だった。電話が来た。シゲに、伝えた。

——その晩、シゲは私の方を向いたまま、ゆっくりと目を閉じた。息は、しばらくしてから、止まった。

——シゲ、よう来てくれた。よう、おってくれた。

そこで、絵日記は終わっていた。

最後の頁の隅に、不器用な犬の絵が、鉛筆で描かれていた。

道具袋の上で、丸まっている犬の絵だった。

私は、その絵を、指でなぞった。

絵の輪郭が、震えていた。

親父の指も、震えていたのだろう、と思った。

私は、ノートを胸に抱えて、立ち上がった。

振り返ると、親父は、作業場の戸口に立ったまま、こちらを見ていなかった。

外の、卯辰山のほうを見ていた。

冬の薄い陽が、山の背を白く照らしていた。

私は、ノートを抱えたまま、親父の背中に向かって、ようやく声を出した。

「親父」

親父は、振り向かなかった。

「シゲは、親父の道具袋の隅で、丸まったまま、親父のほうを向いて、静かに眠っていたんだね」

私の声は、震えていた。

親父は、しばらく動かなかった。

外を見たまま、左手で、目元を一度だけ、こすった。

それから、低い声で、ただ一言、言った。

「あいつは、よう、おってくれた」

その声は、私が四十年近くこの家で聞いてきた親父の声の中で、いちばん、柔らかかった。

私は、その場でもう一度、しゃがみ込んだ。

涙は、もう、止まらなかった。

親父は、振り返らないまま、作業場の戸を、ゆっくりと閉めて、外に出ていった。

戸の閉まる音が、いつもより小さかった。

私は、その音を聞きながら、シゲの背中に、ノートを置いた。

ノートの上に、シゲの体の温もりが、もう一度だけ、戻ってくるような気がした。

戻ってこなかった。

それでも、私は、しばらくそのままにしていた。

長女は、もう二十歳になった。

去年、東京の大学を出て、地元の役所に勤めている。

シゲのことを、長女は知らない。

写真でしか、見たことがない。

それでも、長女は、犬が好きだ。

去年の春、家に来た野良の柴を、長女が引き取りたいと言い出した。

私は、すぐには答えなかった。

親父は、もう作業場には立てない。

足腰が弱って、居間の角の椅子と、布団の上を行き来する暮らしになった。

それでも、その柴の話を聞いたとき、親父は、いつもの椅子から、低い声で言った。

「あの道具袋、まだあるか」

私は、頷いた。

「あの上で、寝かしてやれ」

それだけ言って、また新聞に目を落とした。

私は、台所に立ったまま、しばらく、声を、できるだけ抑えて、肩だけを震わせていた。

長女には、聞こえないように、口元を手で覆っていた。

親父は、いつもの椅子で、新聞のほうに目を落としていた。

私の背中を、見ていないふりをしていた。

その「見ていないふり」を、親父はもう、何十年もしてきた。

私が幼かった日も、嫁いだ晩も、シゲが旅立った朝も、親父は、ただ、見ていないふりをしていた。

私は、それを、ようやく分かるようになった。

シゲの絵日記のノートは、今も、親父の道具袋の中にある。

私は、それを、私の手元には置いていない。

親父の道具袋は、作業場の隅に、まだ同じ場所にある。

長女が引き取った柴は、シゲのいた場所の上で、丸まって眠る。

夜、私が作業場の戸を引いて中を覗くと、薄い月の光の中で、犬の小さな背中が、上下している。

シゲと、同じ場所だった。

シゲと、同じ姿勢だった。

私は、何も言わずに、戸を閉める。

親父の道具袋は、もう四十年以上、この作業場にある。

私のシゲの、十七年の眠りの跡が、その上に、ぴったりと残っている。

それは、洗っても、消えなかった。

消そうとも、思わなかった。

私は、その跡の上に、長女の柴が、また丸まって眠るのを、台所の戸の隙間から、しばらく、見つめていた。

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