父の道具袋で待っていた犬

温かな光の工房と山の景色

親父の道具袋の中に、シゲは丸まっていた。

知らせを聞いた朝、私は退院してきたばかりで、まだ抱いていた長女の重みも体に馴染んでいなかった。

居間の電気は点いていなかった。

縁側の障子だけが、北陸の十二月の薄い光で、じわりと白く透けていた。

親父は何も言わずに、作業場の戸を顎で指した。

※

私の家は、加賀の城下町から少し外れた、卯辰山の麓にあった。

代々続いた小さな大工の家で、家業を継いだのは私が三人姉弟の長女だったからだ。

弟も妹も建築の道には進まなかった。

私は高校を出てすぐ、親父の助手としてこの家に残った。

平成元年の春、十八のときだった。

親父は寡黙な男で、私に何かを教える言葉を、ほとんど持たなかった。

「見て覚えろ」と「やってみろ」と、その二つしか言わない人だった。

褒められた覚えがない。

叱られた覚えも、ほとんどない。

ただ、私が鉋を強く押しすぎたとき、無言で道具を取り上げて、刃の角度を直して、また私の手に返した。

それだけの男だった。

※

シゲは、私が見習いになって半年が経った、平成元年の秋に、ふらりと作業場の戸口に現れた。

土砂降りの夕方だった。

ずぶ濡れの黒い仔犬が、削り屑の山の上で震えていた。

首輪はなかった。

骨が浮いていた。

私は持っていた手拭いで、その犬の体をぐるりと拭いた。

親父は、玄関土間に立ったまま、しばらくその犬を見ていた。

「飼ったらどうだ」とも、「捨ててこい」とも言わなかった。

ただ次の日の朝、作業場の片隅に、古い箱を伏せて屋根のようにしてあった。

その下に、藁が敷いてあった。

私が起きて見にいくと、犬はそこで、丸まっていた。

私は、その日からその犬を、シゲと呼んだ。

何故シゲにしたのか、自分でもよく覚えていない。

ただ、親父の親方が「茂吉」という人で、その親方が二十年前にこの作業場で鑿を握っていたという話を、子供の頃に聞いた覚えがあった。

シゲ、と呼ぶと、その犬は耳をぴくりと動かして、こちらを見上げた。

仔犬のうちは、まだ目に幼さが残っていた。

夜、私が縁側で帳簿を付けていると、シゲは私の足元で、丸い体をきゅっと縮めて寝た。

親父は、何も言わなかった。

ただ、台所のすみに、犬用の小さな茶碗が、いつのまにか一つ増えていた。

私はその茶碗を見たとき、なぜか胸が、ことりと音を立てた。

親父が町まで降りて、わざわざ買ってきたものだった。

「これ、いつ買ったの」と訊くと、親父はちょっとだけ、口元を曲げた。

返事はなかった。

※

シゲは、作業場の片隅で十七年を生きた。

私が鉋を引くと、シゲは削り屑の山の上で、目を細めて寝ていた。

親父が鑿を打つと、その音に合わせて尻尾の先だけを、とん、とん、と動かした。

冬になると、シゲは作業場の隅にある、親父の古い道具袋の上で眠った。

革の道具袋だった。

親父が二十歳のときに買ったもので、もう四十年近く使い込んだ、色の褪せた、ぼろぼろの袋だった。

底が膨らんで、犬一匹がちょうど丸まれる窪みになっていた。

シゲは、いつもそこで眠った。

親父がその袋を必要とする日でも、シゲがその上にいると、親父は別の袋を出してきて、何も言わずに使った。

シゲをどけることをしなかった。

私が「親父、こっちの袋を使ったら」と言うと、親父は首を横に振った。

「あいつが今、要る場所だ」

それだけ言って、別の袋を肩にかついだ。

その晩、私はその言葉を、何度か、心の中で繰り返した。

四十年近く、毎日肩にかついで現場に持っていく道具袋を、犬一匹のために置いていく親父の背中が、台所の方からも見えた。

雪の朝、シゲは道具袋の上で、白い息を吐いて目を開けていた。

その吐息が、革の上で、薄い湯気のようになって、すぐに消えた。

親父は、シゲを起こさないように、抜き足で道具袋の脇を通り、別の袋に手を伸ばした。

その背中を、私は、台所の戸の隙間から、しばらく見ていた。

※

私が結婚したのは、平成十二年の春だった。

相手は隣町の役所で働く穏やかな男で、シゲのことを大事にしてくれた。

私たちは、私の実家と作業場の続きにある離れに住んだ。

家業を継いだ私は、家を出るわけにはいかなかった。

夫は何も言わずに、私の家に入ってくれた。

シゲは、私たちの離れの縁側にも来るようになったが、夕方になると必ず、親父の作業場の道具袋の上に戻った。

夜は、そこで眠った。

夫はそれを面白がって、「シゲは親父さんの犬になってきたな」と笑った。

私は、なぜか少し寂しかった。

でも、シゲが選ぶ場所を、私が変えようとは思わなかった。

※

平成十八年の十一月、私は初めての子を授かった。

予定日は十二月の頭だった。

産休に入って、家のことを片付けていた私は、シゲの食が細くなっていることに気づいた。

シゲはもう、人間でいえば八十歳を超えていた。

獣医に連れていくと、レントゲンを撮ってもらった。

先生は、レントゲンの写真を私に見せながら、ゆっくりと言った。

「お腹の中に、もう薬では追いつかないものがあります」

私は、何も言えなかった。

「冬を、越せるかどうかです」

その日、シゲを連れて帰ってきた。

シゲは、いつもの道具袋の上で、ゆっくりと丸まった。

親父は、夕飯を食べながら、私の話を聞いた。

茶碗を持つ手が、一度だけ、止まった。

それから、「分かった」とだけ言って、また米を口に運んだ。

※

予定日の十日前から、シゲは食べなくなった。

水も、ほとんど口にしなくなった。

それでも、道具袋の上で、ゆっくりと目を閉じて、ときどき耳だけを動かした。

私が手を伸ばすと、温かい鼻先を、私の指の腹に、そっと押し当ててきた。

その日の夜中、私に陣痛がきた。

夫が車を出してくれた。

私はシゲのほうを振り返って、「行ってくる」と声をかけた。

シゲは、目を開けて、私を見た。

その目が、何かを言いたげに、私の顔の上をゆっくりと動いた。

最後の「シゲ」という呼びかけを、私が口にしたかどうか、もう覚えていない。

ただ、玄関を出る前に、親父が作業場の戸を開けて、シゲのそばに胡坐をかいたのが見えた。

「行ってこい」

それだけ言った。

私が誰に向かって言われたのか、それも分からなかった。

※

陣痛は長かった。

朝になり、昼になり、夕方になっても、子は出てこなかった。

母が病院に駆けつけた。

夫が二度、病室を出ては戻ってきた。

夜が明けた頃、ようやく女の子が産まれた。

私は意識が朦朧としたまま、その小さな体を胸に抱いた。

「シゲは」と、私は母に訊いた。

母は、少し間を置いてから言った。

「父さんがついてる。大丈夫」

私は、それで眠った。

入院は、思っていたより長かった。

産後の経過が思わしくなく、五日ほど寝込んだ。

熱が下がるまで、シゲのことを訊くたびに、母は「父さんがついてる」と同じ言葉を繰り返した。

母の手は、私の額の上で、いつもより長く止まっていた。

夫が、長女を抱いて何度も病室に来てくれた。

私は、生まれたばかりのその子の重みを、自分の腕の中に何度も確かめながら、もう一方の手で、隣にあるはずのシゲの背中を、なぜか探していた。

入院四日目の朝、私は夢を見た。

シゲが、作業場の戸口に立っていた。

毛艶の良い、若い頃のシゲだった。

尻尾を振っていた。

私が「シゲ」と呼ぶと、シゲは作業場の中に駆け込んでいって、いつもの道具袋の上に、すとん、と腹を落として丸まった。

そして、目を細めて、こちらを見た。

その目が、ありがとう、と言っているような気がした。

私は、夢の中で泣いた。

夢の中の自分は、シゲは大丈夫なんだ、と何度も思った。

目が覚めて、その夢のことを母に話した。

母は、ほとんど反応しなかった。

ただ、私の額に手を当てて、「もう少し寝ていなさい」と言った。

※

退院したのは、出産から一週間後の朝だった。

夫が運転する車で、家まで戻った。

家の門の前で、私はまず作業場のほうを見た。

戸は閉まっていた。

夫が、長女を抱いて先に居間に入った。

私は、土間に荷物を置いて、親父のところへ行った。

親父は、居間の角の自分の椅子に、いつもどおり座っていた。

新聞を読んでいたが、私が入ると、新聞を畳の上にゆっくりと置いた。

私の顔を、しばらく、じっと見た。

それから、作業場の戸を、顎で指した。

「行ってやれ」

私は、長女を母に渡して、ひとりで作業場に入った。

戸を引くと、線香の匂いがした。

冷えた、清潔な匂いだった。

作業場の隅、いつもの場所に、親父の古い道具袋が置かれていた。

その上に、薄い布が掛けられていた。

私が布をめくると、シゲが、丸まっていた。

毛は梳かれていた。

体は、もう温かくなかった。

息も、していなかった。

それでも、いつもどおり、道具袋の窪みに、ぴったりと体をはめて、親父の作業場のほうを向いて、目を閉じていた。

私は、その場にしゃがみ込んで、シゲの背中に手を置いた。

毛の下の骨が、指に当たった。

声を上げて泣くこともできなかった。

ただ、肩が震えるだけで、息ができなかった。

※

しばらくして、親父が後ろに立っていることに気づいた。

私は、振り向かなかった。

親父も、声をかけなかった。

私の背中の上の方に、視線が当たっているのが分かった。

私が、ようやく言葉を絞り出した。

「いつ」

「四日目の朝だ」

「四日目」

「お前が出産して、四日目の朝だ」

私の中で、夢の光景が、ゆっくりと重なった。

毛艶の良い、若い頃のシゲが、作業場の戸口に立っていた、あの夢。

道具袋の上に、すとん、と腹を落として丸まった、あの夢。

ありがとう、と目で言っているような気がした、あの瞬間。

「あんたは、夢を見ただろう」

親父が、そう言った。

私は、振り返らないまま、頷いた。

「そうか」

それだけだった。

※

私は、しばらく作業場の床にしゃがんでいた。

シゲの背中に手を置いたまま、何時間そうしていたか、自分でも分からない。

外で長女が泣く声が、薄く聞こえた。

私が立ち上がろうとして、思わずよろけた。

道具袋の縁に手をついた。

そのとき、袋の口の隙間から、何かが少しだけ覗いていた。

古い、薄い大学ノートの背だった。

私は、それを、ゆっくりと引き出した。

表紙は、煤けていた。

何も書かれていなかった。

私は、しゃがんだまま、表紙を開いた。

中には、親父の字で、絵日記のようなものが、書かれていた。

字も、絵も、不器用だった。

鉛筆書きと、ボールペンの混ざった、見たことのない親父の文字だった。

最初の頁の日付は、平成元年の十月の終わりだった。

——犬を拾った。妙子が、シゲと名付けた。妙子が嬉しそうにしていたので、何も言わなかった。

私の名前が、そこにあった。

私は、その頁を、何度か読み返した。

次の頁。

——シゲ、削り屑の上で寝ている。妙子が鉋を引くと、目を細める。

その次の頁。

——シゲ、道具袋の上で寝るようになった。袋が温かいのだろう。

その次。

——シゲ、妙子が嫁いだ晩、玄関で動かなかった。三十分待って、私が抱き上げて作業場に戻した。

——シゲ、夜中に一度起きて、私の手の甲を舐めた。

——シゲ、今日は外を見ていた。妙子が出かけたのを、覚えているらしい。

頁を捲るたびに、シゲと、私の名前が、交互に書かれていた。

私が知らない時間の、シゲと親父の二人きりの時間が、そこにあった。

——シゲ、しなびた。獣医が薬では追いつかぬと言った。

——シゲ、道具袋の上で、長く眠る。

——妙子に陣痛が来た。シゲのそばを離れたくなかったが、玄関先で見送った。

——夜明け、シゲの呼吸が浅い。私は、シゲのそばに胡坐をかいた。

——夜が明けてから半日、シゲは私の指の腹を、何度か舐めた。

——妙子が産んだのは、女の子だった。電話が来た。シゲに、伝えた。

——その晩、シゲは私の方を向いたまま、ゆっくりと目を閉じた。息は、しばらくしてから、止まった。

——シゲ、よう来てくれた。よう、おってくれた。

そこで、絵日記は終わっていた。

最後の頁の隅に、不器用な犬の絵が、鉛筆で描かれていた。

道具袋の上で、丸まっている犬の絵だった。

私は、その絵を、指でなぞった。

絵の輪郭が、震えていた。

親父の指も、震えていたのだろう、と思った。

※

私は、ノートを胸に抱えて、立ち上がった。

振り返ると、親父は、作業場の戸口に立ったまま、こちらを見ていなかった。

外の、卯辰山のほうを見ていた。

冬の薄い陽が、山の背を白く照らしていた。

私は、ノートを抱えたまま、親父の背中に向かって、ようやく声を出した。

「親父」

親父は、振り向かなかった。

「シゲは、親父の道具袋の隅で、丸まったまま、親父のほうを向いて、静かに眠っていたんだね」

私の声は、震えていた。

親父は、しばらく動かなかった。

外を見たまま、左手で、目元を一度だけ、こすった。

それから、低い声で、ただ一言、言った。

「あいつは、よう、おってくれた」

その声は、私が四十年近くこの家で聞いてきた親父の声の中で、いちばん、柔らかかった。

私は、その場でもう一度、しゃがみ込んだ。

涙は、もう、止まらなかった。

親父は、振り返らないまま、作業場の戸を、ゆっくりと閉めて、外に出ていった。

戸の閉まる音が、いつもより小さかった。

私は、その音を聞きながら、シゲの背中に、ノートを置いた。

ノートの上に、シゲの体の温もりが、もう一度だけ、戻ってくるような気がした。

戻ってこなかった。

それでも、私は、しばらくそのままにしていた。

※

長女は、もう二十歳になった。

去年、東京の大学を出て、地元の役所に勤めている。

シゲのことを、長女は知らない。

写真でしか、見たことがない。

それでも、長女は、犬が好きだ。

去年の春、家に来た野良の柴を、長女が引き取りたいと言い出した。

私は、すぐには答えなかった。

親父は、もう作業場には立てない。

足腰が弱って、居間の角の椅子と、布団の上を行き来する暮らしになった。

それでも、その柴の話を聞いたとき、親父は、いつもの椅子から、低い声で言った。

「あの道具袋、まだあるか」

私は、頷いた。

「あの上で、寝かしてやれ」

それだけ言って、また新聞に目を落とした。

私は、台所に立ったまま、しばらく、声を、できるだけ抑えて、肩だけを震わせていた。

長女には、聞こえないように、口元を手で覆っていた。

親父は、いつもの椅子で、新聞のほうに目を落としていた。

私の背中を、見ていないふりをしていた。

その「見ていないふり」を、親父はもう、何十年もしてきた。

私が幼かった日も、嫁いだ晩も、シゲが旅立った朝も、親父は、ただ、見ていないふりをしていた。

私は、それを、ようやく分かるようになった。

※

シゲの絵日記のノートは、今も、親父の道具袋の中にある。

私は、それを、私の手元には置いていない。

親父の道具袋は、作業場の隅に、まだ同じ場所にある。

長女が引き取った柴は、シゲのいた場所の上で、丸まって眠る。

夜、私が作業場の戸を引いて中を覗くと、薄い月の光の中で、犬の小さな背中が、上下している。

シゲと、同じ場所だった。

シゲと、同じ姿勢だった。

私は、何も言わずに、戸を閉める。

親父の道具袋は、もう四十年以上、この作業場にある。

私のシゲの、十七年の眠りの跡が、その上に、ぴったりと残っている。

それは、洗っても、消えなかった。

消そうとも、思わなかった。

私は、その跡の上に、長女の柴が、また丸まって眠るのを、台所の戸の隙間から、しばらく、見つめていた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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