
シャッターを半分だけ上げた店に、雨の匂いが入ってきた。
四月の雨は、まだ冬の残りを含んでいて、指の先から冷えていく。
私は作業台に、値札の束と、粘着テープと、油の染みたウエスを並べた。
店を畳むと決めたのは、先月のことだ。
父の代から数えて、この商店街でいちばん間口の狭い店だった。
鞄と、ベルトと、ランドセル。
革のものなら、たいてい直した。
春先はいつも、ランドセルの修理でいちばん忙しかった。
その父は、直しても代金を取らないことがあった。
私はそれを、この店が終わる理由だと思っていた。
みなみ銀座という名前の商店街で、まだ営業しているのは七軒しかない。
両隣は、シャッターに直接、貸店舗の紙が貼られている。
うちの店の看板は、あしだ鞄店、と書いてある。
鞄を売ったことは、私の記憶にある限り、一度もない。
売るのではなく、直す店だった。
店の中は、革とミシン油と、糊の匂いが層になっている。
子どもの頃は、この匂いが服につくのが嫌だった。
今は、この匂いのしない部屋で眠ると、うまく寝つけない。
父は今、川を渡った先の施設にいる。
店の奥で倒れたのは、3年前の冬だった。
命に別状はなかったけれど、右手の指が、思うように閉じなくなった。
針を持てない手で、父は半年ほど店に立ち、それから何も言わずに立たなくなった。
私はそれまで、東京で商業施設のテナントを回る仕事をしていた。
戻ってきたのは、父のためというより、店を畳むためだったと思う。
畳むのに、3年もかかってしまった。
畳むと決めてから、私は毎日のように、この店の値段を数えていた。
ミシンは、下取りに出せば少しになる。
裁ち板は、たぶん引き取り手がない。
棚の上の、色見本の革の切れ端は、ただのごみだ。
数えているあいだじゅう、私はどこかで、父を責めていたのだと思う。
帳簿にきちんと数字が並んでいれば、この店は残ったはずだ、と。
けれど、店を残したかったのかと自分に聞くと、答えに詰まった。
私はただ、父に、間違っていたと言わせたかったのかもしれない。
母は、私が小学生のうちに家を出た。
出ていく前の晩、母が父に言った言葉を、私はまだ覚えている。
「うちは、慈善事業じゃないの」
父は答えなかった。
ミシンの音だけが、薄い壁越しに聞こえていた。
その音が止まらないので、母は荷物をまとめたのだと、私は長いあいだ思っていた。
棚を空にしていると、いちばん下の段から、背表紙の擦り切れた帳簿が出てきた。
父の字には癖がない。
職人らしい荒っぽさもなければ、几帳面さもない。
ただ、読める字で、日付と、品名と、金額だけが並んでいる。
私はそれを、資源ごみの束の上に置いた。
置いてから、なぜかもう一度、手に取った。
※
この店には、雨の日によく客が来た。
革は濡れると縫い目から傷む。
だから壊れるのも、持ち込まれるのも、たいてい雨の日だ。
あの夕方も、雨だった。
私は店の奥の座敷で、算数のドリルを広げていた。
引き戸が鳴って、ランドセルを胸に抱えた男の子が入ってきた。
抱えているのは、背負えないからだ。
左の肩ベルトが、付け根から切れていた。
傘は持っていなかった。
自分は濡れているのに、ランドセルの蓋のほうだけを腕でかばうようにして立っていた。
肘の抜けたトレーナーの袖から、雨の粒が床に落ちた。
父は作業台から顔を上げて、ランドセルを受け取った。
ベルトの断面を指の腹でなぞって、それから裏返して、背あての縫い目を見た。
「これは、糸が切れたんじゃないな」
「革のほうが、疲れとる」
男の子は、うつむいたまま言った。
「いくらですか」
父は答えずに、ミシンの前まで歩いていった。
それからこちらを振り返って、心底困ったという顔をした。
「困ったな」
「新しいミシンが入るから、練習台になる鞄を探しとるんだ」
男の子は、意味が分からないという顔をした。
「今、うちで直すと、こっちの練習になる」
「だから、代金はもらえん」
男の子は、ズボンのポケットから、小さく畳んだ紙幣を出しかけて、止めた。
「本当ですか」
「本当だ」
父は、私のほうを見なかった。
私も、ドリルから顔を上げなかった。
やがて、ミシンが鳴りはじめた。
低い、途切れ途切れの音だった。
革を縫う音は、布を縫う音とはまるで違う。
針が革を突き抜けるたびに、ぷつ、ぷつ、と、指の腹を刺すような音がする。
父はときどき手を止めて、糸を引き、机の端で長さを測り直していた。
男の子は、丸椅子に浅く腰かけて、その手元をずっと見ていた。
靴下が濡れていて、床のタイルに、足の形がうっすら残っていた。
父は縫いながら、一度だけ、その足元を見た。
それから、何も言わずに手を動かし続けた。
父は針を入れる前に、必ず錐で穴を開ける。
革は、ミシンの針だけでは通らない場所がある。
錐を持つときの父の手は、私が知っているどの父よりも静かだった。
三十分ほどして、父はランドセルを差し出した。
男の子はそれを背負って、肩を二度、三度と動かした。
それから、深く頭を下げて帰っていった。
引き戸を閉めるとき、雨の音がひとかたまり、店に入ってきた。
私は、父の背中に聞いた。
「新しいミシン、来るの」
父は、糸くずを摘まみながら言った。
「来るかもしれん」
それが嘘だとは、思わなかった。
子どもは、来るかもしれん、を、来る、と聞く。
その夜、私は座敷で、あの子は誰かと父に聞いた。
父は、知らん、と言った。
知らない子の鞄を、ただで直したのだ。
私は、ずるいと思った。
自分の父が、家の中より外に優しいような気がしたのだと思う。
※
私のランドセルの肩ベルトが切れたのは、その翌年の秋だった。
体育館の下足箱の角に引っかけて、右側の付け根が裂けた。
父は、店の閉まったあとに直してくれた。
私は座敷から、ミシンの背中を眺めていた。
翌朝、玄関に置かれたランドセルは、右のベルトだけが太い糸で縫われていた。
左には、何もなかった。
私はそれを、直したのだから当たり前だと思って背負った。
学校で、クラスの男子に、それどうしたのと聞かれた。
切れたから直したの、と答えた。
それだけの話だった。
※
店を継いでから、私は帳簿を電子化しようとした。
売上の入っていない行が、あまりに多かったからだ。
父はまだ、店の隅の丸椅子に座っていた頃だった。
私は父に、はっきり言った。
「無料の修理をやめて」
「一件やるたびに、材料費と、時間と、電気代が消えてる」
父は、湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていた。
右手の指は、もう湯呑みの取っ手をつまめない。
「あれは、練習だ」
「練習でお店は続かない」
「続かんかったな」
父はそう言って、少しだけ笑った。
笑われると、こちらの言葉が行き場をなくす。
私は帳簿を閉じて、奥へ引っ込んだ。
その日から、私は代金の欄に0と書くことをやめた。
正しいことをしていると思っていた。
実際、正しかったのだと思う。
売上は、少しだけ増えた。
客は、少しずつ減った。
隣の乾物屋の木崎さんに、レジ袋を分けてもらいながら言われたことがある。
「お父さん、うちの孫の通学鞄も直してくれたのよ」
「お代は、って聞いたら、練習だからって」
私は、そうですか、とだけ答えた。
商店街には、その手の話がいくつも転がっていた。
転がっているのに、店には残らない。
残らないから、閉めることになる。
私は長いあいだ、そう計算していた。
閉店の相談に来てくれた商工会の人にも、同じことを言われた。
帳簿を見せると、その人は困ったように笑った。
「お父さん、これ、赤字じゃなくて、寄付ですね」
寄付。
その言葉が、しばらく耳に残った。
寄付なら、少なくとも、誰かの手に渡っているはずだった。
けれど私には、渡った先が見えていなかった。
※
父の施設は、川を渡って、堤防沿いに20分ほど歩いたところにある。
月に二度、洗濯物を持って行く。
父は窓際の椅子で、たいてい外を見ている。
話しかけると、返事は返ってくる。
ただ、話が少しずつ、ずれていく。
「店、閉めることにしたから」
「そうか」
「道具、どうしようか」
「錐は、置いとけ」
「錐だけ」
「錐は、買うと高い」
私は笑ってしまった。
ミシンでも、裁ち板でもなく、錐だという。
父は、外を見たまま続けた。
「両側は、忘れんようにな」
「両側」
「うん」
それきり、父は黙った。
窓の外では、鉄橋を渡る電車が、川の音を一度だけ消していった。
私は洗濯物の袋を畳んで、帰った。
帰りの堤防は、風が川下から吹いていた。
両側、という言葉を、私は父の混乱のせいだと思った。
※
その帳簿をもう一度開いたのは、片づけを始めて四日目の、やはり雨の日だった。
捨てる前に、税務の書類が挟まっていないかを確かめるつもりだった。
代金の欄が0の行は、思っていたよりずっと多かった。
数えているうちに、手が止まった。
0の行の半分近くが、同じ苗字だったからだ。
三沢、と書いてある。
最初の行は、私が小学生だった年の、六月だ。
品名の欄には、ランドセル、左肩ベルト、とある。
そこから、同じ苗字が、年に一度か二度、途切れずに続いていた。
ランドセル、右肩ベルト。
ランドセル、錠前。
ランドセル、背あて。
そして、通学鞄、持ち手。
通学鞄、底鋲。
ベルト、穴あけ。
部活の道具袋、口の金具。
金額の欄は、全部、0だった。
父は、一人の子どもの持ち物を、その子が大きくなっていく順番のとおりに、直し続けていた。
ランドセルから、通学鞄へ。
通学鞄から、部活の道具袋へ。
品名の並びだけで、その子の背が伸びていくのが分かる。
そして、私が代金の欄に0と書くのをやめさせた年で、その苗字は途切れていた。
喉の奥が、乾いた。
私は、その年のことを覚えている。
帳簿を閉じて奥へ引っ込んだ、あの日のことだ。
あのあと、店の引き戸が鳴って、すぐに閉まった日が何度かあった。
私が応対に出ると、相手はたいてい、いえ、また来ます、と言って帰っていった。
また来ます、と言った人の顔を、私はひとつも覚えていない。
覚えていないまま、私はレジを締めていた。
私はページを戻して、そこで初めて、右端の細い欄に気がついた。
摘要、と印刷された欄だ。
ふだんは空白のその欄に、父は、この行にだけ何か書いていた。
代金の欄が0のその行には、摘要に、両側、とだけ書かれていた。
両側。
父が施設の窓際で言った、あの言葉だった。
私は帳簿を作業台に置いて、しばらく雨の音を聞いていた。
意味は、分からなかった。
分からないまま、私はその帳簿を、資源ごみの束から抜いて、引き出しに戻した。
※
引き戸が鳴ったのは、その週の土曜日だった。
閉店の貼り紙を出したあとだったから、私はもう客が来るとは思っていなかった。
入ってきたのは、作業服の男の人と、小学生くらいの男の子だった。
男の人は、黒いランドセルを胸に抱えていた。
抱えているのは、背負えないからだ。
右の肩ベルトが、付け根から切れていた。
私は、その立ち方を知っていた。
「すみません、もう閉められると聞いたんですけど」
「三沢といいます」
「ランドセルの修理って、まだやってもらえますか」
名前を聞いて、私は、返事をする前に引き出しのほうを見てしまった。
三沢さんは、私よりいくつか年上に見えた。
作業服の胸には、給食を運ぶ会社の名前が刺繍されていた。
「息子のなんです」
「学校で、鉄棒に引っかけたって」
男の子は、父親の後ろで、床のタイルの目を数えるみたいに下を向いていた。
私は、うちはもう店じまいで、と言いかけて、その先を続けられなかった。
奥のミシンには、まだ糸が通っている。
「見せてください」
受け取ったランドセルは、思ったより軽かった。
ベルトの断面を、指の腹でなぞる。
糸ではなく、革のほうが裂けている。
父が言っていた、疲れている、というやつだ。
「直せます」
三沢さんは、そこで初めて、はっきりと息を吐いた。
それから少し迷って、こう言った。
「あの、こちらのお父さんに、昔、直してもらったことがあって」
「僕が、小学生のときです」
「肩のベルトが切れて、うちにお金がなかったんです」
「母に言えなくて、自分で持ってきました」
「そうしたら、新しいミシンが入るから練習台を探してる、って言われて」
私は、うなずくこともできずに立っていた。
「本気で信じてましたよ、僕」
三沢さんは笑った。
「中学に上がるとき、通学鞄の持ち手が抜けて、また来たんです」
「そのときも、新しいミシンが入るから、って」
「小学校から中学まで、ずっと新しいミシンが入る予定の店なんだな、と思ってました」
男の子が、父親の作業服の裾を引っぱった。
三沢さんは、その手をそっとほどいて続けた。
「あとで母が、払いに来たんです」
「近所の人に、鞄の修理はただじゃない、って言われたらしくて」
「そうしたら、練習させてもらったのはこっちだから、本当はうちが払う立場だ、って」
「母は、玄関で謝るみたいに頭を下げて、それから、うちに帰って泣いてました」
「僕は、なんで泣いてるのか分かりませんでした」
店の外を、傘を差した誰かが通り過ぎていった。
雨の音が、少しだけ強くなった。
「それで、変な話なんですけど」
三沢さんは、自分の右の肩のあたりに手をやった。
「直してもらったあと、学校で誰にも気づかれなかったんです」
「切れたのは左だったのに、返ってきたランドセルは、右にも同じ縫い目が入ってて」
「太い糸で、わざと見えるように」
「左右がおそろいだから、修理じゃなくて、そういう作りに見えるんですよ」
「クラスの子に、それどこのやつ、って聞かれました」
「羨ましがられたんです、僕」
男の子が、私の作業台に肘をついて、切れたベルトを覗き込んだ。
「これ、直したら、直したってわかる」
父親が、律、と小さくたしなめた。
私は、指で断面の位置を示しながら答えた。
「わかる直し方と、わからない直し方があるの」
「どっちがいい」
男の子は、少し考えてから言った。
「わからないほう」
三沢さんが、息子の頭のうしろを、手のひらで一度だけ包んだ。
三沢さんは、そこで少し黙った。
「直してもらったって、誰にも言わずに済みました」
あの雨の夕方、父はミシンの前で、何度も手を止めて糸の長さを測っていた。
あれは、片側を縫うための長さではなかったのだ。
私は、帳簿の摘要の欄を思い出していた。
壊れていない側にも、父は同じ針を入れていた。
両方が同じなら、それはもう修理ではなく、はじめからそういう鞄になる。
私は、自分のランドセルのことを思い出した。
納戸の段ボールに、まだ入っている。
右のベルトだけが、太い糸で縫われていた。
左には、何もなかった。
父は、私には、隠す必要がないと思ったのだ。
三沢さんが、奥のミシンのほうを見て言った。
「結局、新しいミシンって、入ったんですか」
私は答える前に、その黒い機械を見た。
父が使い、いま私が使っている、腕の曲がった古いミシン。
台の木は、肘の当たるところだけ、色が抜けている。
この店に新しいミシンが入ったことは、一度もなかった。
※
私はその場でランドセルを預かった。
「明日には直ります」
「おいくらでしょうか」
三沢さんが財布を出そうとした。
私は、自分でも思っていなかった言葉を口にしていた。
「うち、閉める前に、道具の使い納めをしてるんです」
「だから、練習になります」
三沢さんは、動きを止めた。
それから、目のふちを一度だけこすって、頭を下げた。
男の子が父親を見上げて、小さな声で聞いた。
「お父さん、なんで泣いてるの」
三沢さんは、なんでもない、と言った。
その晩、私はミシンの前に座った。
右の肩ベルトに、太い糸で、わざと見えるように縫い目を入れた。
それから、壊れていない左のベルトにも、同じ針を入れた。
革を突き抜ける音が、あの雨の夕方と同じ高さで鳴った。
作業台の隅には、父の錐が転がっている。
買うと高い、という、あの錐だ。
閉店の貼り紙は、まだ剥がしていない。
剥がすとも、決めていない。
シャッターを半分だけ上げた店に、また雨の匂いが入ってくる。