一枚だけの写真を焼きに来る女
「一枚だけで、いいんです」。駅前の写真店に、毎月台所の写真を焼きに来る女性がいた。一枚だけの写真で、窓ガラスの端を暗くしてほしいという頼み。その本当の意味を、私…
思い切り泣きたいとき、この場所へ来てください。大切な人を失ったこと、届かなかった気持ち、間に合わなかった言葉——悲しい話には、悲しいからこそ伝わる本当のことが詰まっています。号泣できる実話風短編を集めました。
「一枚だけで、いいんです」。駅前の写真店に、毎月台所の写真を焼きに来る女性がいた。一枚だけの写真で、窓ガラスの端を暗くしてほしいという頼み。その本当の意味を、私…
三月十一日の昼、窓口に来た老人は「夕方のチャイムを、最後まで鳴らしてくれ」とだけ言った。毎日四十八秒で止まるはずの音と、操作盤の付箋に残された「ボタンは離すな」…
閉店を相談しに帰省した商店街の理容室で、八十一歳の祖父は毎朝十時に空の椅子へ白い布を掛けていた。祖父の予約表に十九年書かれ続けた名前と、その横の小さな点。父を見…
電話に出る前、兄は必ず咳払いをする。その一拍が嫌いだった俺は、帰省の朝、兄の運転する市営バスに乗った。スピーカーから流れた低い声に、背中が固まる。兄の咳払いが隠…
日曜八時の電話は、八時ちょうどに鳴って一分で切れる。ご飯は食べたか、ならええ、ほな。十一年それだけの電話を、俺は三回に一回わざと取らなかった。ある日曜、実家の勝…
避難所の体育館に伸びた公衆電話の列。その一番うしろには、夕方だけ先頭へ割り込み、受話器を耳に当てても一言も話さない橋本さんがいた。僕はその声を、奥さんのものだと…
毎週土曜の午後、絵本の棚の前に立つ老人の膝にだけ、店の猫は迷わず乗った。古書店の猫の席に挟まれた四つ折りの紙を、私は長いあいだ見落としていた。老人は一度も猫の名…
軽トラの助手席のドアは、外からしか開かない。ホームへ向かう私の背中を、姉は改札を過ぎるまで見ている。毎朝、ドアを開けてから二秒だけ私の顔を見る姉は、部品は千九百…
白内障の手術だと言って、八十三の祖父が俺の1Kに三週間泊まりに来た。食卓で向かい合うと、祖父の目はいつも俺の右耳の横にある。仕事を辞めたことを隠している俺を、ま…
深煎りの匂いは、坂の途中の焙煎所から二階の窓まで上がる。娘が学校へ行かなくなって一年、俺はその匂いを焼くのをやめた。きらい、とあの子が言うたからだ。北風の強い夜…
団地の商店棟で37年、鋏だけを握ってきた。妻は3年前から丘の施設にいて、俺を先生と呼ぶ。理容椅子は客が座る前に半回転させる。それがうちの店のやり方だった。壊れた…
店の奥、水道の脇の白いバケツには、売り物にならないはね出しの花が挿してある。毎月14日、そこから一輪だけが消える。電話をかけてくるのは毎回ちがう人で、みんな22…
夜行バスの中でスマホが光った。『クウの散歩を記録しました 2.4キロ 38分』。もう歩けるはずのない犬の記録が、なぜ今日も届き続けるのか。確かめるためだけに引き…
昭和四十四年、雪深い湯の町の写真館。療養に来た娘・佐紀さんに頼まれ、僕は毎日一枚だけ町を撮った。裏を見ないでとわたした写真の、その裏に綴られていた言葉――万華鏡…
山あいの窯場で妹を静かに見送った陶芸家の私。強くあろうと涙をこらえ続ける私に、四歳の姪がかけたひと言が、凍りついた心を静かにほどいていく。妹を残した若い医者への…