夕方のチャイムは今日だけ長い

夕映えの漁港と老漁師

夕方のチャイムは、毎日、四十八秒で終わる。

町の防災無線が流す「夕焼け小焼け」の、一番だけの旋律だ。

午後五時ちょうど、役場の屋上のスピーカーが鳴る。

港の岸壁にも、坂の上の団地にも、同じ音が同じ長さで届く。

私はこの町の役場に入って三年目の、二十七歳の職員だ。

この春から、総務課で防災無線の担当になった。

担当といっても、仕事の大半は点検だった。

月曜の朝に、操作盤の電源とバッテリーを確かめる。

点検表の欄に丸を付けて、判子を押す。

インクの匂いのする、退屈で大切な時間だった。

五時の放送は自動で流れるので、私が何かを押すことはない。

前任の佐々木さんは、二月いっぱいで定年を迎えた。

背の低い、いつも作業ズボンをはいている係長だった。

引き継ぎの最後の日、佐々木さんは操作盤の横の付箋を、指の関節でこつんと叩いた。

「これだけは、読んでおいてくれ」

黄色い付箋は、端が丸まって、色が褪せていた。

鉛筆の字は、何度も上からなぞられて、太くなっていた。

三月十一日は手動。ボタンは離すな。

私は付箋から顔を上げた。

「自動じゃ、ダメなんですか」

「その日だけは、な」

佐々木さんは、それだけ言って、段ボール箱に自分の湯呑みを入れた。

理由は聞けなかった。

聞いてはいけない種類の沈黙が、機械室に降りていた。

窓の外では、遠くで船の汽笛が一度だけ鳴った。

佐々木さんは、その音が消えるまで、箱の蓋を閉めなかった。

操作盤の付箋

三月に入って、私は付箋のことを何度も考えた。

手動送信のボタンは、操作盤の右下にある。

赤いカバーが付いた、非常用のボタンだ。

マニュアルには「自動放送が使えない緊急時に」とだけ書いてある。

三月十一日は、緊急時ではない。

私は先輩の宮川さんに、お茶を淹れながら聞いてみた。

「佐々木さんの付箋、ご存じですか」

宮川さんは、急須を持つ手を止めた。

湯気が、一瞬だけ、彼女の顔の前で止まって見えた。

「あの付箋は、私が入る前からあるよ」

「理由は、誰も?」

「聞いたことない。聞かないのが、この町の礼儀みたいなもんだから」

そう言って、宮川さんは私の湯呑みにだけお茶を足した。

窓の外から、港の潮の匂いが上がってきていた。

三月の海は、まだ冷たい灰色をしていた。

九日の帰り道、私は遠回りをして、岸壁の端まで歩いた。

漁協の事務所があった場所には、今はコンクリートの土台だけが残っている。

その隅に、缶コーヒーが一つ置かれていた。

ラベルは日に焼けて、ほとんど白くなっていた。

毎日替えられているわけではない。それでも、誰かが置き続けているのは、缶の置き方でわかった。

缶は海に背を向けて、土台の入口のほうを向いていた。

私は、しばらく立っていた。

潮風が、コートの裾をめくっていった。

十日の夕方、誰もいなくなってから、私は一人で機械室に上がった。

赤いカバーを開けると、プラスチックが指先で小さく鳴った。

ボタンを押してみる。

スピーカーから、ざあ、という砂のような音が流れた。

声も、曲もない。電波だけが、空に出ていく音だった。

離すと、音は切れた。

「ボタンは離すな」の意味が、指の腹でわかった。

押している間しか、鳴らないのだ。

十秒も押すと、親指の付け根がじんと痺れた。

私は、赤いカバーを静かに閉めた。

明日、この機械の前に立つ自分を、うまく想像できなかった。

夕方のチャイムの頼み

三月十一日は、よく晴れた。

午前中は、いつもどおり窓口が混んだ。

十四時四十六分には、庁内放送で黙禱の合図が流れた。

職員は全員立ち上がり、手を止めて、一分間、目を閉じた。

窓口の列に並んでいた人たちも、誰に言われるでもなく、うつむいた。

プリンターの音だけが、最後まで残っていた。

隣の席の宮川さんは、握った手のひらを、ずっと開かなかった。

私は薄目を開けて、壁の時計を見た。

秒針の音が、いつもより大きく聞こえた。

その沈黙が終わってしばらくして、総務課のカウンターに、一人の男の人が来た。

七十代の後半くらいだろうか。

日に焼けた首筋に、古い紺の作業帽。手には軽トラックの鍵を握っている。

「総務課は、ここでええんか」

「はい。どういったご用件でしょう」

「夕方のチャイムのことだ」

男の人は、帽子を胸の前で握り直した。

「今日の夕方のチャイム。最後まで、鳴らしてもらえんか」

私は、少し戸惑って答えた。

「毎日、最後まで鳴っていますよ。四十八秒で、止まるようになっています」

男の人は、しばらく黙っていた。

「そうか」

がっかりした声ではなかった。

確かめて安心したような、それでも何かが足りないような声だった。

「佐々木は、おらんのか」

「二月で、定年退職されました」

「そうか。そうだったな」

男の人は帽子をかぶり直して、「工藤だ」と名乗った。

「担当は、あんたか」

「はい。この春から」

「ほうか。……頼むわな」

何を頼まれたのかわからないまま、私は頭を下げた。

工藤さんは長椅子には座らず、廊下の窓から海のほうをしばらく眺めていた。

横顔の皺に、昼の光が白く溜まっていた。

それから、玄関を出ていった。

軽トラックのエンジンが、駐車場の砂利を踏んで遠ざかった。

十分もしないうちに、同じエンジンの音が戻ってきた。

窓から見ると、軽トラックは駐車場の隅に、海を向いて停まっていた。

工藤さんは、降りてこなかった。

ただ、運転席で、動かずに座っていた。

窓ガラス越しに、西日が軽トラックの荷台の錆を、橙に光らせていた。

四時を過ぎて、私は操作盤の履歴を開いてみた。

放送の記録は、機械の中のカードに残っている。

十五年分のうち、残っているのは十三年分だった。

三月十一日の欄だけを、年ごとに並べていく。

どの年にも、十七時ちょうどの自動放送が四十八秒で一行ある。

そのすぐ下に、もう一行あった。

手動送信、十秒。

最初の二年だけは違っていた。

手動送信、四十八秒。

曲を丸ごと、人の指で送った年だった。

三年目から、自動に戻っている。そこから十秒の一行が、毎年、同じ位置に続いていた。

操作者の欄には、毎年、同じ四桁の番号があった。

佐々木さんの職員番号だった。

私は、画面を指でなぞりながら、数を数えた。

十年以上、同じ日に、同じ十秒が積み重なっていた。

誰かに頼まれた記録の並びではなかった。

自分で決めたことだけが持つ、きちんとした並び方をしていた。

画面の隅の古いほうの欄には、その前の年の履歴が一行もなかった。

機械ごと入れ替えたのだと、宮川さんが後ろから教えてくれた。

「前の機械は、あの日に、だめになったから」

宮川さんは、それ以上は言わず、自分の席に戻っていった。

私は画面を閉じた。

四時四十分だった。

宮川さんが、湿布を一枚、私の机に置いていった。

「親指、使うんでしょう」

「どうして、それを」

「去年まで、あの人、毎年この日の夕方だけ、親指に貼ってたから」

宮川さんは、それだけ言って、自分の机に戻った。

湿布は、薄荷の匂いがした。

私はそれをポケットに入れて、立ち上がった。

駐車場の軽トラックは、まだ海を向いて停まっていた。

押し続けたボタン

四時五十五分、私は機械室に上がった。

窓から、駐車場の軽トラックが見える。

運転席の影は、さっきと同じ姿勢のままだった。

秒針が、壁の時計の上を、ゆっくりと進んでいく。

喉が、からからに渇いていた。

五時ちょうど、スピーカーが鳴った。

夕焼け小焼け。

旋律は、屋上から港へ、坂の上へと広がっていく。

窓ガラスが、低い音でわずかに震えた。

足元の床から、スピーカーの低音が、靴底に伝わってきた。

屋上の手すりで、カモメが一羽、音に驚いて飛び立った。

私は、赤いカバーを開けた。

指先は冷えているのに、掌だけが汗ばんでいた。

そして、ボタンに親指を載せた。

四十八秒は、思ったより長かった。

最後の音が、海のほうへ細く消えていく。

その瞬間、私はボタンを押した。

ざあ、という砂のような音が、空に出ていった。

私は、ボタンを離さなかった。

軽トラックのドアが開いた。

工藤さんが降りてきた。

海に向かって立ち、胸の前で帽子を取った。

白い髪が、夕日の色に染まっていた。

工藤さんは、ゆっくりと頭を下げた。

ざあ、という音は、まだ続いている。

親指の付け根が痺れてきた。それでも、私はボタンを離さなかった。

数えながら、私は思っていた。

この十秒は、誰のための十秒なのだろう。

工藤さんが、頭を上げた。

帽子をかぶり直して、私のいる窓のほうを、見上げた。

その手が、軽く上がった。

私は、そこでようやく、ボタンを離した。

音が切れた。

港の空が、急に広くなった気がした。

静けさの中で、遠い波の音が、ようやく耳に戻ってきた。

帽子を取る人

玄関で、工藤さんは待っていた。

「ご苦労さん」

「あの、さっきのは……」

「鳴らしてくれたな」

工藤さんは、帽子の縁を指でなぞった。

「毎日鳴るもんが、あの日だけ鳴らんかった」

「十五年前の、ですか」

「うちのは、漁協の事務所におった。あのチャイムが鳴ったら、戸締まりして帰る人だった」

工藤さんは、遠くの岸壁を見ていた。

帽子の縁の汗じみを、指が何度も撫でていた。

「鳴らんかったから、まだ事務所におるような気がしてな」

「…………」

「だから毎年、最後まで鳴り終わるのを、あそこで待つんだ」

私は、何も言えなかった。

言葉を探すことが、そのまま失礼になる気がした。

「佐々木はな、あの日、屋上におった」

工藤さんは言った。

「停電で、機械が動かんかった。発電機を回して、ボタンを押し続けたそうだ」

「押しても、鳴らなかった」

「ああ。あとで聞いたら、アンテナのほうが倒れとったんだと」

「…………」

「あいつは、そのことを、俺にも町の誰にも言わんかった。何年もな」

「じゃあ、十秒は」

「三年目の三月に、あいつが勝手に足した」

工藤さんの口の端が、わずかに緩んだ。

「四十八秒じゃ、帽子を取って、頭を下げて、被り直すのに足りんと言ってな」

「頼まれたわけじゃ、ないんですね」

「俺が頼んだのは、最後まで鳴らしてくれ、それだけだ」

工藤さんは、帽子をかぶり直した。

「あとは、佐々木が毎年、勝手に押しとった」

その言葉を聞いて、私は履歴の画面を思い出した。

同じ四桁の番号が、十年以上、同じ位置に並んでいた。

あの日、押しても鳴らなかったボタンを、佐々木さんは、毎年、十秒ぶんだけ多く押していた。

「あいつがおらんようになって、今年は来ても無駄かと思った」

工藤さんは言った。

「けど、あんたの指が、離さんでくれたな」

私は、親指の痺れた手を、背中に隠した。

工藤さんは、軽トラックのドアを開けて、ふと振り返った。

「来年も、頼むわな」

「はい」

「十秒は、あんたの好きにしたらええ」

「いえ。十秒は、このままにします」

工藤さんは何も言わずに、帽子の縁を少し下げた。

軽トラックは、坂を下りて、港のほうへ消えていった。

その夜、私は機械室に戻った。

窓の外では、港の灯りが一つずつ増えていた。

操作盤の横の付箋は、蛍光灯の下で、昼よりも古く見えた。

裏返すと、いつ書かれたのか、ごく小さな字があった。

誰か、頼む。

鉛筆の跡は、佐々木さんの字だった。

私は、ポケットから鉛筆を出して、付箋の表の下に一行だけ書き足した。

五十八秒。

それから、赤いカバーを閉めた。

夕方のチャイムは、毎日、四十八秒で終わる。

三月十一日だけは、五十八秒かかる。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。