
日曜八時の電話は、八時ちょうどに鳴って、一分で切れた。
俺は二十九の秋まで、その電話を、三回に一回、わざと取らなかった。
八時ちょうどに、一秒も早くも遅くもなく、着信が鳴る。
画面に「母」と出る。
親指が、赤いボタンの上で止まる。
押しはしない。ただ、鳴り終わるまで見ている。
二十コール。きっかり二十回で、母は諦める。
留守電には、何も残らなかった。
無音が十秒だけ録音されて、ぷつりと切れる。
取った日の電話は、いつも同じだった。
電話の最初には、いつも小さく息を吸う音がひとつ入った。
「も、もしもし」
母の「もしもし」の「も」だけが、いつも一拍、長かった。
「陽介。元気か」
「元気」
「ご飯は食べたか」
「食べた」
「ならええ。ほな」
そこで切れる。
最初から最後まで、六十秒。
挨拶と、飯の確認と、「ならええ」。
それが、母の電話のすべてだった。
愛媛の大洲に、母は一人で暮らしている。
父は夜勤の警備で、日曜の夜はいつも家にいない。
二十九の俺は、世田谷の1Kで動画を編集して食っている。
日曜の夜は、月曜の納品に向けた追い込みの時間だった。
ヘッドホンの中の波形に、八時の着信が割り込む。
その一分が、俺には、集中の途切れる一分だった。
上京したての頃は、まだ律儀に取っていた。
大学の寮の廊下で、壁に背をつけて、六十秒を受けた。
同室の連中が、通りすがりに冷やかした。
「また母ちゃんか」
「一分だけだけどな」
「短いな。うちなんか一時間だぞ」
短い、と言われるたびに、なぜか俺は、少しだけ恥ずかしかった。
母の電話が短いことが、母の愛情の薄さのように聞こえたからだ。
俺は、そう聞こえるのを、母のせいにした。
去年の十一月の日曜を、よく覚えている。
客先からの修正指示が、三件も重なった夜だった。
着信が光り、俺は画面を伏せた。
伏せたスマホの振動が、座卓の木を伝って、低く鳴り続けた。
俺は二十まで、数えていた。
数えている自分に気づいて、舌打ちが出た。
無視しているくせに、鳴り終わるのを毎回、待っている。
その矛盾には、見ないふりをした。
日曜八時の電話が止むと、部屋は、前よりも静かになった。
話すことがないなら、かけてこなければいい。
俺は本気で、そう思っていた。
思ったまま、十一年が過ぎた。
十八で家を出た春から、一度も欠かさず、電話は鳴り続けていたのに。
亜美が持ち上げたスマホ
その日曜も、八時に画面が光った。
隣では亜美が、座卓の向かいで麦茶の氷を揺らしていた。
焼き魚の匂いが、まだ部屋に残っていた。
「出なよ」
「あとでかけ直す」
「かけ直したこと、あった?」
言い返せなかった。
ヘッドホンを外すと、換気扇の音がやけに大きく聞こえた。
着信は、二十回で止まった。
亜美が黙って、俺のスマホを取り上げた。
通話履歴を、親指でゆっくりスクロールしていく。
「毎週、日曜の八時ちょうど。六十秒前後。ねえ、これ、すごくない?」
「何が」
「十一年分だよ。一回も遅れてない」
「几帳面なんだよ。ずっと縫製工場の検品をやってた人だから」
「几帳面な人が、毎週一分だけなの?」
「話すことがないんだろ。田舎の人だから」
言ってから、嫌な言い方だと思った。
亜美は眉を寄せたが、責めはしなかった。
「お母さん、電話で何か言った? 陽介の心配以外に」
「一回だけ聞いたことがある。母さんは元気かって」
「それで」
「『こっちは変わらん』。それだけ」
「他には」
「ない」
「その、ない、のところが気になるんだよなあ」
亜美は氷をひとつ口に入れ、かりりと噛んだ。
窓の外で、隣のベランダの洗濯物が風に鳴っていた。
「うちの父もね、電話だと急に敬語になるの。娘にまで」
「緊張してんの」
「してる。声が小さくなって、最後に『じゃ』って切る」
「うちの母も、『ほな』で切る」
「ほら。似てる」
「似てない」
「似てるって。私ね、電話って、慣れてる人でも緊張するよ」
「母さんは緊張なんかしない。毎週かけてくるんだから」
「毎週かけられる人は、毎週緊張してるのかもしれないよ」
俺は返事をしなかった。
その理屈は、面倒な方向へ傾いていく気がした。
亜美はスマホを、画面を伏せて、座卓の端に置いた。
その置き方がひどく丁寧で、俺は少しだけ腹が立った。
「陽介はさ、お母さんの声、ちゃんと聞いたことある?」
「毎週聞いてる」
「内容じゃなくて、声」
俺は、また返事をしなかった。
亜美が帰ったあと、俺はひとりで留守電の一覧を開いた。
母の名前の下に、同じ長さの録音が、ずらりと並んでいた。
十秒。十秒。十秒。
いちばん古いものを、再生した。
無音だった。
いや、無音ではなかった。
遠くで冷蔵庫が唸っていて、その奥に、息を吸う小さな音がひとつあった。
そのあと、何も言わずに、録音は切れた。
俺はそれを、回線の雑音だと思った。
翌週、同期の加瀬と、新宿の安い居酒屋で飲んだ。
「おふくろの電話、うざくね? うちは週に三回だぞ」
「うちは週に一回。一分で終わる」
「それ、最高じゃん」
「最高なんだけどさ」
俺はジョッキの泡を見ていた。
「なんか、提出されてる感じがするんだよ」
「提出?」
「宿題を、毎週、出されてるみたいな」
加瀬は笑って、枝豆の殻を皿に落とした。
俺も笑った。
笑いながら、自分の言葉が、妙に当たっている気がした。
納品は、月曜の朝だった。
台所のカレンダー
去年の正月、俺は三年ぶりに大洲へ帰った。
実家の台所は、昔と同じ匂いがした。
出汁と、石油ストーブと、古い畳の匂い。
母は割烹着の裾で手を拭きながら、玄関で待っていた。
「おかえり」
その四文字は、すらりと出た。
母は、口数の少ない人だった。
喋るときは、言葉を選ぶ前に、一度、唇を結ぶ。
「ほら、あれ」「あの、ええと」と、言い換えが多い。
俺はそれを、歳のせいだと思っていた。
母は携帯電話を持たない。
居間の隅の電話台に、昔ながらの固定電話が、今も置かれている。
炬燵の上には、みかんと、母の老眼鏡があった。
壁のカレンダーの日曜の欄にだけ、鉛筆の小さな数字が並んでいた。
「7:40」
どの日曜にも、同じ字で、同じ時刻が書いてある。
「これ、何」
「あれ。あの、……ええんよ」
母は笑って、カレンダーの上に手のひらを重ねた。
町内会の当番か何かだろうと、俺は勝手に決めた。
母は、字のきれいな人だった。
月に一度、段ボールに米と干物を詰めて、東京へ送ってくる。
箱の中には、いつも便箋が一枚だけ入っている。
三行。必ず三行で、最後は「からだに気をつけて」だ。
その便箋を、俺は読んだあと、いつも引き出しに放り込んでいた。
元日の朝、母と二人で、近所の神社へ初詣に行った。
石段の脇で、霜柱が靴の下で砕けた。
母は、おみくじを引いて、俺に差し出した。
「陽介、読んで」
「自分で読めるでしょ」
「ええけん。読んで」
俺は声に出して、読んだ。
「大吉。待ち人、来る。急がず、あせらず、ことを運べ」
母は目を閉じて、最後まで聞いていた。
「ええ運やね」
それだけ言って、おみくじを帯の間にしまった。
夕飯は、鯛めしと、里芋の煮っころがしだった。
「うまいか」
「うまい」
母は箸を持ったまま、少し嬉しそうに頷いた。
母が一続きの長い文を話すのを、その夜も、俺は一度も聞かなかった。
そのことを、不思議にも思わなかった。
食後、母は黙って皿を洗い、俺は居間でバラエティを見ていた。
画面の芸人が台詞を噛んで、客席がどっと笑った。
流しの水の音が、一瞬だけ、止まった。
俺は、気づかなかった。
夜勤に出る前、父は玄関で靴紐を結びながら言った。
「陽介。日曜の電話は、出てやれ」
「出てるよ、ほぼ」
「ほぼ、か」
父はそれきり、何も言わずに出ていった。
引き戸の閉まる音が、冷えた廊下に長く残った。
夜中に、水の音で目が覚めた。
台所の灯りが、襖の隙間から細く伸びていた。
母の背中が、流しの前で、小さく揺れていた。
声を出しているのかどうかは、分からなかった。
俺は布団をかぶり直して、眠った。
帰りの日、母は駅まで送ってくれた。
改札の前で、母は紙袋を渡した。
中身は、みかんと、手ぬぐいで包んだ握り飯だった。
「気ぃ、つけて」
その「き」を言う前に、母の喉が小さく動いた。
俺は、電車の時間ばかり気にしていた。
小四の秋の音読
先月、取引先の仕事で、パン屋の主人のインタビューを編集した。
主人は、言葉の詰まる人だった。
「こ、こ、この、パンは」
その「こ」が、三回、四回と続く。
ディレクターの井上さんが、画面を覗いて言った。
「つまってるとこ、全部詰めましょう。テンポ悪いんで」
「全部、ですか」
「全部。視聴者は待てないですよ」
俺は波形の山を、ひとつずつ切っていった。
「こ、こ、この」が、「この」になる。
三分の動画が、二分四十秒になる。
再生すると、主人は、なめらかに話していた。
きれいな動画だった。
――あの主人の、話し方ではなかった。
そのとき、画面の主人の口が、「も」の形に開いて止まった。
小学四年の秋の居間が、急に目の前に立った。
当時、音読の宿題があった。「ごんぎつね」だった。
俺はちゃぶ台で、母に聞いてもらっていた。
つっかえるたびに、母は「もう一回」と言った。
その日、俺は面倒になって、言った。
「母さんも読んでみてよ」
母は少し迷ってから、教科書を受け取った。
「ご、ご、ご、ごん」
母の喉が、ひゅっと鳴った。
その音が、十歳の俺には、おかしかった。
「母さん、変な読み方」
俺は笑った。
たぶん、三秒ほどだった。
母は何も言わなかった。
教科書を閉じて、俺の膝の上にそっと戻した。
「そうやね。母さん、下手やけん」
それきり母は、俺の前で、声に出して読むものを一切手にしなくなった。
学校の連絡帳も、回覧板も、「陽介、読んで」と俺に渡した。
俺はそれを、母が忙しいからだと思っていた。
その月の授業参観に、母は来なかった。
仕事だと言った。
教室の後ろの、空いた椅子の数を、俺は黙って数えた。
中学のとき、友達を家に呼ばなくなった。
母に会わせたくない、とは、自分にも言わなかった。
高校の三者面談には、父が夜勤明けの顔で来た。
十九年、そのことを、思い出しもしなかった。
編集室の壁の時計は、午後二時を回っていた。
日曜だった。
俺はパン屋の動画のタイムラインを開き、切った部分を、全部元に戻した。
井上さんには、「やっぱり、こっちです」とだけ送った。
それから、スマホで松山行きの空席を探した。
指が、勝手に動いていた。
機内の窓の下に、瀬戸内の海が、鈍い銀色に伸びていた。
母の声を、思い出そうとした。
出てきたのは、「ならええ。ほな」の、六文字だけだった。
十一年、毎週聞いてきた声のはずだった。
それなのに俺は、母が何かを話した声を、ひとつも覚えていなかった。
七時四十分の勝手口
伊予大洲の駅に降りたのは、七時十二分だった。
川から上がってくる風が、頬に冷たかった。
家まで、歩いて二十分。
坂の途中で、柿の葉が足元で乾いた音を立てた。
勝手口の曇りガラスに、台所の灯りが滲んでいた。
七時四十分ちょうどだった。
鍵を回しかけて、手を止めた。
中から、声がしたからだ。
「も」
一音だけ。
「も、も、も」
詰まる音が、ガラス越しに低く響いた。
「も、も、もしもし」
間があって、また「も」から始まる。
遠くで犬が吠えて、すぐに止んだ。
曇りガラスの端の、透明な小さな部分に、目を寄せた。
母は壁のカレンダーに向かって、立っていた。
割烹着の背中。左手は食卓の縁を握りしめて、指の関節が白い。
鍋から上がる湯気が、蛍光灯の下でほどけていた。
食卓には、台所用のタイマーが置かれている。
「だ、だ、だいじょうぶ」
母は、自分に向かって、小さく言った。
それから、また「も」を言った。
「陽介。元気か」
そこで、母の声はつかえずに出た。
次の「ご飯は食べたか」も、出た。
「ならええ。ほな」
出た。
そして最初の「も」に、また戻っていく。
母は受話器を握る前に、必ず息を一つ吸ってから、胸の前で手を組んでいた。
その息の音を、俺は十一年、電話口で聞いていた。
雑音だと思っていた音だった。
「も」を、母は二十回、言い直していた。
母が八時ちょうどにかけられたのは、七時四十分から台所の壁に向かっていたからだった。
タイマーが鳴った。
母は一度、深く息を吸った。
受話器を持ち上げ、ボタンを押す。
俺のコートの中で、スマホが震えた。
「母」の文字が光った。
勝手口の外で、俺は、ひと呼吸ぶんだけ待った。
そして、出た。
「……もしもし」
「も、もしもし」
受話器の声と、ガラスの向こうの生の声が、半拍ずれて重なった。
「陽介。元気か」
「元気」
「ご飯は食べたか」
ここだった。
いつもなら、俺は「食べた」と言う。
「まだ」
言った瞬間、向こう側の音が消えた。
冷蔵庫の唸る音だけが、ガラス越しに聞こえた。
一秒。五秒。十二秒。
母の台本には、この返事が、なかった。
やがて、吸う息の音がした。
「そ、そ、そ、そ……」
詰まる。
待て、と俺は自分に言った。先に言うな。
「そ、れ、は、いけん」
そこから先は、母の声に、もう台本はなかった。
「う、う、う……うどん、ゆ、ゆ、茹でる、けん」
「か、か、か……帰って、き、きたら、ええ」
一語ずつ、母は、石を積むように話した。
俺は勝手口の戸を、静かに開けた。
母が振り向いた。
受話器を耳に当てたまま、目を見開いた。
「……もう、帰っとる」
電話の中と、台所の向こうと、両方から、俺の声がした。
母の口が、「よ」の形に開いたまま、固まった。
十一年、母が日曜ごとに稽古していたのは、小学四年の秋に俺が笑った、あの「も」だった。
日曜八時の電話のあと
うどんは、母が茹でた。
湯気の向こうで、母は、ゆっくりと話した。
「も」で何度も詰まった。
俺は、先回りして言葉を足すのを、やめた。
待つ時間のほうが、思っていたより、ずっと短かった。
「ならええ、は」
母が、箸を置いて言った。
「いちばん、言いやすいんよ」
「うん」
「陽介が、食べたって、言うてくれたら、そこで、終わるけん」
「うん」
「長いのは、あかんね」
「長くていい」
母は笑った。
笑うときだけは、一音も詰まらなかった。
「電話はな、顔が見えんけん、むつかしい」
「うん」
「こうして向かいに座っとったら、陽介が待ってくれとるんが、分かる」
母はそう言って、丼の縁を、指でなぞった。
「あのときな」
「うん」
「母さんも、ちょっと、笑ろた」
「え」
「そうせな、泣きそうやったけん」
母は、丼の湯気に、目を細めた。
俺は、熱いうどんを、ゆっくり、すすった。
流しの水の音が、台所に長く続いていた。
翌週の日曜、俺は東京の1Kで、八時の五分前から時計を見ていた。
八時ちょうどに、俺のほうから発信した。
呼び出し音が、一回で止まった。
息を吸う音が、ひとつ。
「も、もしもし」
日曜八時の電話は、今も八時ちょうどに鳴る。ただ、もう一分では切れない。