兄の咳払いのあとに声が高くなる

夕暮れの静かなバス停留所

兄は電話に出る前に、必ず咳払いをする。

呼び出し音が途切れた直後、受話口の向こうで喉が鳴る。

こほん、と短く。それから、少し高い声で「もしもし」と言う。

兄の咳払いは、俺が物心ついたころから変わらない。

固定電話が携帯電話になっても、画面に「兄」と出る名前だけが変わった。

通話がつながる。一拍、間が空く。喉が鳴る。

俺は、その一拍が嫌いだった。

弟と話すのに、わざわざ身なりを整える間がいる。そう言われている気がしたからだ。

兄とは歳が離れている。実家を出てからは、盆と正月くらいしか顔を合わせない。

あとは月に一度、日曜の夜に電話がある。母の様子を伝え合うだけの、決まりごとのような通話だった。

「元気か」

「まあまあ」

「母さん、膝がまた痛いらしい」

「そっちから連絡してやってよ」

「そうする」

会話はいつも、それで終わる。

俺は在宅で動画編集の仕事をしている。毎日、画面の音声波形を眺めている。

だから人の声の癖には、少しだけ敏感なほうだと思う。

兄の「もしもし」は、咳払いの前と後でまるで別人だ。

咳払いの前の兄は、何も言わずに息だけをしている。

後の兄は、喉の浅いところから、作った明るさで声を出す。

そのたびに俺は、通話のあいだに分厚いガラスを一枚、置かれた気分になった。

盆に実家で顔を合わせても、兄は同じだった。

食卓の向かいで麦茶のグラスを持ち上げ、「仕事、どうだ」と訊く。

声はやはり、喉の浅いところで鳴っている。

兄の咳払いが始まるのは、いつも会話の最初の一言の手前だった。

「普通」と俺が答える。

「そうか」と兄が言う。

それで、話は終わる。

仲が悪いわけではない。ただ、近づくための足場が、二人のあいだになかった。

日曜夜の着信履歴

先週の日曜も、着信は兄だった。

咳払い。一拍。「もしもし」。

「母さんの誕生日、帰れるか」

「仕事が詰まってる」

「そうか」

「でも、考えとく」

兄はしばらく黙った。受話口に、細い息だけが残った。

「無理なら、いい。母さんには俺から言っとく」

「うん」

「じゃあ」と言ったのは、やっぱり俺のほうが先だった。

通話が切れたあとも、俺は画面を見ていた。

履歴には「兄」の名前が、同じ曜日、同じ時刻で並んでいる。

兄のほうから、話を切り上げようとしたことは、一度もない。

気づいたのは、そのときだった。

二年分の履歴を指でさかのぼっても、順番は変わらない。

兄が先にかけ、兄が先に黙り、俺が先に切る。

いつも先に電話を終わらせていたのは、俺だった。

俺は父の顔を覚えていない。

覚えているのは、声だけだ。

廊下の端から端まで届く、低くて重い、鉄の板みたいな声。

その声が家から消えたのは、俺がまだ幼いころだった。

なのに、低い声を聞くと、今でも肩が勝手に縮む。

テレビのナレーションが低くなると、リモコンに手が伸びる。

一人暮らしを始める日、母が段ボールにラジオを入れてくれた。

低い声の男が喋ると、部屋の空気がざらつく。

だから俺は、高い声のパーソナリティばかりを選んで聴いてきた。

自分の弱さを、趣味の好みだと言い換えて暮らしてきたのだと思う。

仕事でもそうだった。この前、取引先の担当者に言われた。

「ナレーション、もう少し低く、渋くできませんか。信頼感が欲しいので」

俺は、はい、と答えた。声の高さを下げる処理をかけながら、指先が冷えていくのが分かった。

兄の電話が嫌いなのは、そのせいではない。そう思っていた。

結局、俺は母の誕生日に帰る切符を買った。

買ったあとで、画面の予約完了の文字を、しばらく見ていた。

兄に連絡は入れなかった。入れる言葉が、思いつかなかった。

理由は、うまく言えない。

金曜の夜、新幹線に乗った。

窓の外を、見慣れた駅の看板が流れていく。

在来線に乗り換えると、車内は急に静かになった。

窓際の席で、ヘッドホンを外した。

動画編集の癖で、車内アナウンスの声を、無意識に聞き分けていた。

若い女性の声だった。少し高く、よく通る。

安心する声だ、と思った。

高い声は、怖くない。

俺はずっと、そう信じて生きてきた。

最寄り駅に着いたのは、終バスのあとだった。実家までは、暗い道を歩いた。

母の台所で聞いた話

翌朝の実家の台所は、煮物と味噌の匂いがした。

母は膝をかばいながら、俺の好きな卵焼きを焼いてくれた。

「兄ちゃんはね、今日は午後からお仕事だって」

「ふうん」

「あんたが帰ってくるって聞いて、昨日の夜、何度も確かめてきたのよ」

「何を」

「帰る日。時間。ほんとに来るのかって」

俺は返事の代わりに、味噌汁をすすった。

母がフライパンを揺する。卵の焼ける音が、台所に広がった。

「あの子、昔から電話の前に喉を鳴らすでしょう」

「ああ。あれ、どうにかならないのかな」

母は笑って、少し間を置いた。

「あんたは小さいころ、低い声の人の前では、いつも母の後ろに隠れていた」

「覚えてないよ」

「そうね。覚えてなくていいの」

母は、それ以上は何も言わなかった。

卵焼きの端が焦げて、「あら」と小さく声を上げた。

俺は、仕事の話をした。取引先のこと、新しい機材のこと。

「ナレーションの録り直しがあってさ。クライアントが、低い声がいいって」

「へえ」

「俺、低い声の処理が、ずっと苦手でさ」

母の箸が、ふと止まった。

母は何度もうなずいた。けれど視線は、台所の窓の外へ向いていた。

窓の向こうには、バス通りが見える。

母はときどき、そこを通る市営バスを、目で追っていた。

戸棚の横に、市営バスの時刻表が画鋲で留めてあった。

何本かの便に、赤い鉛筆で丸がついている。

「それ、何」

「ああ。兄ちゃんの便」

母は、さらりと言った。

「ときどきね、乗るのよ。買い物のついでに」

「兄貴の運転だって、知っててか」

「知ってるわよ。向こうは、気づかないふりをしてくれるけど」

母は赤い丸を、指先でなぞった。

「いい声なのよ、あの子の車内放送」

そう言いかけて、母は口を閉じた。

「……聞けば分かるわ。あんたも、乗ってみたら」

俺は曖昧に笑って、味噌汁をおかわりした。

兄の咳払いの手前

昼過ぎ、母に頼まれて駅前の薬局へ向かった。

実家から駅前までは、市営バスが通っている。

停留所で待っていると、緑色の車体がゆっくり近づいてきた。

運転席に、兄がいた。

紺色の帽子を目深にかぶり、白い手袋をはめている。

兄は前を見たままで、俺には気づかなかった。

乗降口のステップを上がる。整理券を一枚、抜き取る。

兄は、整理券の音にも顔を向けなかった。

俺は後ろのほうの席に座った。ヒーターの匂いと、古いシートの匂いがした。

バスが動き出す。

そのとき、車内のスピーカーが鳴った。

「ご乗車ありがとうございます。このバスは、駅前行きです」

俺の背中が、固まった。

ヘッドホンをしていないことを、このとき初めて悔やんだ。

逃げ場は、どこにもなかった。

低かった。

太くて、重くて、床を這うように車内へ広がる声だった。

廊下の端から端まで届いた、あの声によく似ていた。

肩が縮んだ。指先が冷えて、握った整理券がしわになった。

電話の向こうの高い声とは、似ても似つかない。

兄の咳払いの向こうに、こんな声が隠れていたのか。

そう思った自分に、俺は少し驚いた。

「次は、八幡町。八幡町です」

声は、一語ずつ、ゆっくり落ちてくる。

前の席で、小さな女の子が母親の膝の上から身を乗り出した。

「バスのおじさんの声、おっきい。かっこいい」

女の子は、声をまねた。「つぎはー、はちまんちょー」

母親が慌てて口を押さえて、周りに頭を下げた。

運転席の肩が、ほんの少し揺れた。笑ったのだと思う。

次の「八幡町」の語尾が、わずかに柔らかくなった。

気づくと、俺の肩は下りていた。

窓の外を、シャッターの閉まった商店街が流れていく。

停留所で、杖をついた老婦人が乗ってきた。

兄はバスの床を傾けて、乗降口を低くしたまま待っている。

「足元、お気をつけて」

低い声だった。老婦人は、顔をほころばせた。

「ありがとうねえ。あんたの声を聞くと、落ち着くんよ」

兄は前を向いたまま、帽子のつばに指を当てた。

怖くなかった。

この声は、兄の声なのだ。

電話の向こうで、俺がずっと聞いていたのは、作られた声のほうだった。

折り返しの休憩所

終点の駅前で、乗客が降りていく。

俺は最後に降りた。運賃箱の前で、整理券と小銭を出す。

兄が、帽子のつばを上げた。

目が合った。

兄の喉が動いた。こほん。

「……お前、帰ってたのか」

高い声だった。いつもの、作った声。

俺は小銭を落とした。硬貨が運賃箱の縁で鳴って、足元に転がった。

「さっきのでいい」

「え」

「さっき、アナウンスしてた声でいい。そっちで喋ってよ」

兄は黙った。白い手袋の指が、ハンドルの縁を掴んだ。

折り返しの発車まで、時間があった。

兄は運行表に何か書き込み、車庫脇のベンチに俺を連れていった。

自動販売機で缶コーヒーを二本買って、一本をよこした。

夕方の風が、銀杏の葉を足元へ運んでくる。

兄はベンチの端に座り、しばらく缶を握っていた。

それから、咳払いをしなかった。

「お前が小学校に上がる前の冬だった」

低い声だった。バスの中の声と、同じだった。

「父さんが出ていって、しばらくして、俺の声が変わった。そっくりになった」

「……うん」

「お前を呼んだんだ。こっち来い、って。そしたらお前、息ができなくなるくらい泣いて」

「それで」

「お前は、俺の声の前で、母さんの背中にしがみついてた」

俺は、覚えていなかった。

覚えていないのに、肩が縮む理由だけが、体に残っていた。

夕方のバスが、車庫の前で低くアイドリングしている。

その音が、兄の声と同じ高さで、胸の奥に響いた。

「ごめんな」

兄が言った。

「謝ることじゃない」

「でも、驚かせただろ。アナウンスで」

「驚いた」

「うん」

「でも、怖くなかった。女の子が、かっこいいって言ってた」

兄は帽子を握ったまま、少し笑った。

その笑い方は、俺の知っている兄の笑い方ではなかった。声の奥で、肩が震えていた。

「だから、喉を鳴らして、声を上に持ち上げた。お前の前だけ」

「電話の前のあれは」

「お前の声が聞こえたら、準備しないと、って。癖になった」

「いつから」

「高校のころ。カラオケで、一人で練習した」

「カラオケで?」

「ボイスレコーダーに録ってな。何回も聞き返して、お前に怖がられない高さを探した」

兄は缶のプルタブを、爪で弾いた。小さな音がした。

「笑うだろ」

「笑わないよ」

俺の声が、少し震えた。

兄の咳払いは、俺を拒むものではなかった。

怖がらせないための、扉の開け閉めだった。

「バスはな、いいんだ」

兄は帽子を脱いで、膝に置いた。

「ここなら、誰も俺の声を怖がらない。アナウンスしてる間だけは、地声でいられる」

兄が運転手になった理由は、聞かなかった。

聞かなくても、分かった。

母が赤鉛筆で丸をつけた、時刻表を思い出した。

母は知っていた。兄が地声で話せる場所を。

俺だけが、知らなかった。

兄は、俺が泣いたあの冬から、一度も自分の声で、俺の名前を呼んでいなかった。

「圭太」

兄が、低い声で言った。父によく似た声で。

少しも、怖くなかった。

缶コーヒーは、いつのまにかぬるくなっていた。

二人で飲み干すと、兄は運転席へ戻っていった。

発車のブザーが、夕暮れの車庫に低く響いた。

俺はベンチから、バスの尾灯が見えなくなるまで見送った。

その夜、携帯が鳴った。画面に「兄」と出る。

通話をつなぐと、受話口の向こうで、兄が咳払いをした。今度は、声を作るためではなかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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