封筒詰めの仕事に電話した娘
バイオリンを習いたいと言った八歳の娘のことで、俺は妻に「黙ってろ」と怒鳴った。翌日、娘は新聞の求人欄にあった封筒詰めの仕事に電話をかけ、「働きたい」と告げた。切…
バイオリンを習いたいと言った八歳の娘のことで、俺は妻に「黙ってろ」と怒鳴った。翌日、娘は新聞の求人欄にあった封筒詰めの仕事に電話をかけ、「働きたい」と告げた。切…
九月の日曜日、建て替えを考える家族と住宅展示場を回った私は、三軒目の和室で癖のように檜の大黒柱を二回叩いた。背後で、二十年ぶりに旧い呼び名で呼ばれた。転校の日に…
漢字が読めず、壁のメニューの中でカタカナのオムライスだけを頼んだ十六歳の春。笑い声の中で同級生がかけた一言と、二十年後に見習いの少年へ手渡した昼ごはんの話。オム…
裂けた学ランの背中を白い糸で縫った日から、三十年近く。制服バンクの受付に、その上着が返ってきた。襟の裏には七人分の名前が重なり、背中の白い縫い目だけが、秋の光の…
鳥取・倉吉の本屋で起きた万引き騒動。たった千円だと言い張る親たちに、校長先生はあの静かな一言だけを返しました。伝説として町に語り継がれた言葉よりも、先生が最後ま…
中学三年の十月、担任が朝の会で一人の名前を大声で呼びました。その日の昼から、からかいは止みました。二十年後、先生の出席簿の正の字を見せられて、僕はあの朝が偶然で…
書道教室の秋の課題は、自分らしく生きる言葉を半紙に一枚書くこと。いつも「平気」としか書かない小学五年のソウタと、「大丈夫」が口癖の私。書き損じの紙の裏に小さく残…
松江の実家のガラスのショーケースには、三十年前からただの小石が千代紙の上に飾られていた。弟ばかり愛されていると思って育った私は、その石を弟のものだと決めていた。…
亡くなった息子ひなたの四年目のお盆、六歳の娘が雲の切れ間の光を指さして言った。髪の長いお姉さんが、黄色いお花の髪どめをして手をつないでいるよ、と。誰にも話してい…
千葉の社宅で、妻と並べたテーブルのお皿は二枚だった。娘の景子が産まれて三枚、康平が産まれて四枚。景子が三つの冬に縁を欠いたお皿を、彼女はいつも欠けた側を自分に向…
二十四時間営業のスーパーの深夜、斜めの棚から落ちた柿は、誰にも選ばれずに廃棄ノートに書かれる。十一月のある夜、仕事帰りの女の子が、その傷んだ柿を五つ、定価で買っ…
事故で足が動かなくなった私が通れる店は、なぜか毎年少しずつ増えていきました。商店街の入口にはめられた木のスロープは、どれも手前の角の落とし方が同じです。乾物屋の…
何もする気が起きず、四日も仕事を休んだ俺の部屋に、強面の課長が現れた。五分で降りてこい、の一言から連れて行かれた路地裏のバーで、課長が頼んだのはホットミルク。痛…
いしばし商店の棚には、丸い字の値札と、角ばった値札の二種類が並んでいました。奥さんが入院した週、ご主人はラジオの会社対抗クイズで九十八点と答えます。残りの二点が…
病院の個室のドアの裏に残された『治らない もうだめだ』の一行。二週間後には励ましの言葉で埋まり、改装工事のペンキ塗りでも消されなかったドア裏の落書きが、名前も知…