傷んだ柿を五つ買った夜

柿(フリー写真)

落ちた果物は、もう売り物にならない。

それを最初に教えてくれたのは、父だった。

二番目に教えてくれたのは、二十四時間営業のスーパーの、斜めの棚だった。

三番目に教えてくれたのは、深夜の果物売り場で、傷んだ柿を五つ買っていった女の子だった。

三番目の先生のことを、私は十年経った今も、柿の季節になると思い出す。

私は奈良の山あいの、柿農家の次男に生まれた。

富有柿を作る家だった。

十一月になると、畑は朝の霧に沈み、霧が晴れると、山の斜面が一面、橙色になる。

その色を、私は小さいころから当たり前だと思っていた。

家を出たのは二十一のときだ。

兄が家を継ぐと決まっていて、次男の私には、畑に居場所がなかった。

母は「帰ってきたいときは、帰ってき」と言った。

父は、何も言わなかった。

大阪の国道沿いにある二十四時間営業のスーパーで、私は働き始めた。

深夜のシフトだった。

夜十時から朝七時まで、レジと品出しと、廃棄の仕分けをした。

店の中は、冬でも冷房が効いていた。

果物は温度に弱いからだ。

十一月の夜、外より中のほうが寒い店で、私は毎晩、柿の棚を見ていた。

その年の柿は、よく出来ていた。

父から段ボールが届いた。

新聞紙にくるまれた柿が、十二個。

新聞紙は、地元の新聞だった。

日付は、収穫の三日前だった。

開けたとき、私は、店の柿より家の柿のほうが赤いと思った。

思ったが、誰にも言わなかった。

家の柿の話をすれば、家を出た理由まで話すことになる気がした。

十二個の柿は、一週間かけて、一人で食べた。

最後の一つは、少し傷んでいた。

私はそれを、傷んだ面を切り落として、普通に食べた。

うちの店も、入口のすぐ近くに、柿を山のように積んだ。

斜めの棚だった。

斜めの棚の果物は、よく落ちる。

お客さんが一つ取ると、隣の一つが転がる。

転がった柿は、拾って棚に戻す。

戻すが、その柿はもう、誰にも選ばれない。

落ちた場所に傷がつき、翌日には、そこから色が変わる。

傷んだ柿は、廃棄ノートに「柿、二」と書いて、裏の箱に入れる。

それが、斜めの棚の決まりだった。

店員が持って帰るのにも、限度がある。

私は、傷んだ柿を見るたびに、父の台所を思い出していた。

父は収穫の時期になると、夜、一人で台所に座った。

落ちた柿を、小さなナイフで剥いていた。

「落ちた柿は、終わりや」

父は、私にそう教えた。

教えながら、父は毎晩、落ちた柿を自分で食べていた。

出荷できない柿を、家族にも食べさせず、自分だけで食べていた。

皮は、新聞紙の上に、きれいに一本の輪になって置かれていた。

私はそれを、父の意地だと思っていた。

意地でない理由があるとは、そのころ、考えたこともなかった。

斜めの棚と廃棄ノート

青果の主任は、岩佐さんという五十代の人だった。

岩佐さんは、果物に力を入れていた。

「果物はな、入口の顔や」

そう言って、毎朝、柿の向きを一つずつ直した。

へたを下に、赤い面を通路に向けて。

深夜は、その顔が崩れていく時間だった。

私の仕事は、崩れた顔を直し、落ちた柿を箱に入れることだった。

廃棄ノートは、レジの下にあった。

日付と、品名と、数。

十一月の最初の週で、「柿」の行は、四十を超えていた。

岩佐さんは、朝、そのノートを見て、ため息をついた。

ため息をついたあと、必ず「しゃあない」と言った。

しゃあない、と言いながら、落ちにくい並べ方を、毎朝考えていた。

深夜のスーパーには、いろんな人が来る。

作業着のまま弁当を買う人、寝間着の上にコートを着た人、泣きながら牛乳を買っていく人。

三日に一度、おにぎりを二つだけ買う老人がいた。

その人は、必ず、レジで「寒いな」と言った。

私も「寒いですね」と返した。

それが、深夜の会話のすべてだった。

その老人も、一度だけ、柿を買った。

棚の奥の、一番きれいな一つを、両手で持ってレジに来た。

「孫が来る」と、その夜だけは、寒いな、と言わなかった。

そのころ、毎晩のように来るカップルがいた。

来るのは、いつも夜の十一時すぎだった。

先に来るのは、男の人だった。

三十手前くらいで、紺のジャンパーを着ていた。

右手の人差し指に、いつも絆創膏を巻いていた。

包丁で切った跡だと、私は勝手に思っていた。

その人は、店に入ると、籠を持たずに、店の中をぐるぐる回った。

肉の前で止まり、豆腐の前で止まり、また肉に戻る。

料理をする人の歩き方だった。

私の母も、スーパーでは同じ歩き方をする。

値札を、一つずつ指で確かめていた。

二十分ほどして、女の子が入ってくる。

仕事帰りらしく、大きな鞄を肩にかけていた。

鞄には、いつも、丸めた白い上着が突っ込まれていた。

女の子が自動ドアをくぐると、男の人は、必ず駆け寄った。

駆け寄って、その日の献立を話す。

「今日は、鶏と大根」

「昨日も大根やったやん」

「大根、安いねん」

「ほんなら、明日も大根やな」

二人は、いつも果物の棚の前あたりで落ち合った。

そして、男の人は、柿を一つ取るとき、必ず棚の奥に手を伸ばした。

奥にあるのは、朝に並べた、一番きれいな柿だ。

私は、レジから、それを見ていた。

奥から取る人だな、と思っていた。

それだけのことだった。

レジでは、女の子が小銭を数えた。

十円玉を一枚ずつ、手のひらに並べて。

男の人は、その横で、袋を広げて待っていた。

二人は、店の外の自転車で帰った。

一台の自転車に、二人で乗っていた。

女の子の鞄が、荷台で揺れていた。

自転車が国道の向こうに消えるまで、私は自動ドアの前で見ていた。

あの二人だけが、毎晩、同じ時間に、同じ棚の前で笑っていた。

私は、その笑い声を、冷房の音の中で聞いていた。

聞いていて、少し、うらやましかった。

真っ赤できれいだね

その夜も、二人は柿の棚の前で落ち合った。

「柿、おいしそうやね」

女の子が言った。

男の人が、「ほんまや」と、棚を眺めた。

女の子は、柿が好きだったのだと思う。

「すごいね」

「真っ赤できれいだね」

「立派だねえ」

「神さまが作ったみたい」

ひたすら、柿を褒めていた。

私は離れたレジで聞いていて、うれしかった。

家の柿を褒められたような気がした。

柿を作っているのは、神さまではなく、父のような人だ。

そう言いたかったが、言うわけにもいかなかった。

女の子が、一つ手に取った。

それが、落ちた柿だった。

夕方に転がって、私が棚に戻した一つだった。

下の面が、茶色くへこんでいた。

「あっ」

女の子が声を上げた。

「これ、可哀想だよ」

「あ、ほんとだね。落ちたのかな」

「きっと買ってもらえないよね、これ」

「そうだろうねえ」

女の子は、少しのあいだ、黙っていた。

柿を、両手で持っていた。

「これ、買っていい?」

「ええっ」

「他にも傷んでる柿、今日は買って帰りたいな」

男の人は、困った顔をした。

「でも、安くないし、今あんまりお金ないよ」

「今日剥いて食べちゃだめ? 剥くのめんどい?」

女の子は、棚の柿を一つずつ裏返していた。

へこんだ柿だけを、籠に入れていく。

「せっかくこんなに綺麗に生まれて来たのに、捨てられたら凄く可哀想だよ」

「お金は私が出す」

「じゃ、じゃあ分かったよ」

男の人は、苦笑いをしていた。

籠には、傷んだ柿が五つ、入っていた。

私は、その五つを、レジで一つずつ袋に入れた。

へこんだ面を、下にして。

定価だった。

半額のシールを貼る権限は、深夜の私にはなかった。

女の子は、十円玉を一枚ずつ並べて、五つ分を払った。

男の人が、財布を出そうとして、女の子に止められていた。

今思えば、岩佐さんに電話してでも、半額にしてあげればよかった。

「ありがとうございました」

私の声は、いつもより小さかった。

女の子は、袋を胸に抱えて、自動ドアを出ていった。

男の人は、その隣で、鞄を持ってやっていた。

自転車の荷台で、今夜は、鞄ではなく、柿の袋が揺れていた。

廃棄ノートの「柿」の行は、その夜、増えなかった。

私はレジの下からノートを出して、しばらく眺めていた。

朝、岩佐さんが出勤してきて、ノートを見た。

「昨日、柿、落ちんかったんか」

「落ちました。五つ」

「ほんなら、なんで書いてへん」

「売れました」

岩佐さんは、眉を上げた。

「売れた? 傷んだんが?」

「五つ、まとめて」

私は、二人の話をした。

岩佐さんは、黙って聞いて、それから言った。

「お前、半額にせんかったんか」

「権限が、ないので」

「次からは、せえ。わしが許す」

それだけ言って、柿の向きを直し始めた。

直しながら、岩佐さんは小さく「神さまが作ったみたい、か」と繰り返した。

その背中が、少し笑っているように見えた。

岩佐さんは、その朝、柿の山の一番手前に、落ちた柿を一つ、わざと置いた。

「売れるか、見とけ」

その柿は、昼のうちに売れたと、夕方の人から聞いた。

自分の家が農家だから、野菜や果物は生きている、と思うときがある。

経営の側から見れば、そんなことは言っていられない。

それでも、あの五つの傷んだ柿が袋に入ったとき、私は、ぼんやりと、日本人でよかったなと思った。

なぜそう思ったのかは、今もうまく言えない。

傷んだ柿を剥く手

次の夜も、二人は来た。

男の人は、いつものように、先に来て、店の中を回った。

肉の前で止まり、豆腐の前で止まった。

それから、柿の棚の前に来た。

手を伸ばした。

奥ではなかった。

手前の、下の面を見ずに、一番手前の柿を一つ取った。

私は、レジから見ていた。

その柿は、昼に落ちて、私が戻した一つだった。

男の人は、へこんだ面を確かめるように指でなぞって、籠に入れた。

絆創膏の指で。

女の子が来たとき、男の人は、献立を言わなかった。

「柿、剥いといたで」

「え、昨日の?」

「五つとも。傷んだとこは、俺が食べた」

「食べたの?」

「甘かった」

女の子は、鞄を床に置いて、笑った。

笑いながら、男の人の絆創膏の指を、軽く叩いた。

「また切ったん」

「柿、滑るねん」

私は、レジで、袋を数えるふりをしていた。

その日から、男の人は、棚の手前から柿を取る人になった。

落ちた柿を、わざわざ探して取る人になった。

私は、岩佐さんに言われたとおり、その柿に半額のシールを貼った。

男の人は、シールを見て、一度だけ私を見た。

何も言わなかった。

私も、何も言わなかった。

ただ、その夜から、落ちた柿を棚に戻すとき、へこんだ面を少しだけ通路に向けるようになった。

見つけやすいように。

岩佐さんの「顔」の決まりには、反していた。

岩佐さんは、気づいていて、何も言わなかったのだと思う。

それでよかったのだと、今は思う。

女の子は、レジに来るたびに、私に言った。

「昨日の柿、甘かったです」

「傷んだところを剥いたら、中は普通なんですね」

私は、「そうですね」としか言えなかった。

父の台所を思い出していた。

落ちた柿を、一人で剥いていた父の手を。

新聞紙の上の、一本の輪になった皮を。

あの柿も、剥けば、中は普通だったのだ。

その週の休み、私は実家に電話をかけた。

父は、収穫で疲れているはずの時間に出た。

「柿、送ったで」

「届いた。今年のは、赤い」

「ほうか」

私は、店の二人の話をした。

傷んだ柿を五つ買った女の子の話を。

父は、しばらく黙っていた。

「その子は、ええ食べ方を知っとるな」

「落ちた柿は終わりや、言うてたやん」

「終わりや。売り物としてはな」

父の声は、いつもより、少し柔らかかった。

「食べ物としては、終わってへん。わしが毎晩食うとるやろ」

「なんで、一人で食うん」

父は、少し間を置いた。

「お前らに、傷んだもんを食わすわけにいかんやろ」

私は、電話を握ったまま、何も言えなかった。

意地だと思っていたものが、意地ではなかった。

父は、一番きれいな柿を出荷し、二番目にきれいな柿を家族に出し、落ちた柿を自分で食べていた。

その順番を、三十年、一人で守っていた。

電話を切ったあと、私は店の裏の段ボールを見に行った。

その夜の廃棄の箱には、柿が三つ入っていた。

私はそれを、家に持って帰って、剥いた。

へこんだ面を切り落とすと、中は、父の言うとおりだった。

ハイどーぞの石が二つ並んだ日という話を、この前読んだ。

捨てられるはずのものを、誰かが拾い上げる話だった。

読みながら、あの籠の中の、五つの柿を思い出していた。

落ちた柿の行き先

私がその店を辞めたのは、二年後の春だった。

父が腰を痛め、兄だけでは収穫が回らなくなった。

母から電話があって、私は、次の日に辞表を書いた。

辞める前の夜、岩佐さんが、廃棄ノートを一冊、私にくれた。

「お前が入ってからの分や。持って帰れ」

「柿」の行を、私は帰りの電車で数えた。

三年で、六百を超えていた。

六百の柿が、裏の箱に入り、どこかへ消えた。

その中の五つだけが、誰かの台所で剥かれた。

あの二人は、私が辞める半年ほど前から、来なくなっていた。

引っ越したのか、昼の店に変えたのか、わからない。

最後に見た夜、女の子は、鞄の白い上着を、もう突っ込んでいなかった。

畳んで、腕にかけていた。

男の人の指に、絆創膏はなかった。

それだけが、変わっていた。

実家に戻って、八年になる。

今は、私が斜めの棚の側ではなく、柿を落とす側にいる。

収穫のとき、どうしても、何個かは落ちる。

落ちた柿は、出荷の箱には入れない。

父がしていたように、夜、台所で剥く。

父は、もう、剥く手が震える。

私が剥いて、父と一緒に食べる。

皮は、父のようには、一本の輪にならない。

「甘いな」

「落ちたやつや」

「落ちても、甘いな」

父は、毎年、同じことを言う。

私も、毎年、同じ返事をする。

「落ちても、柿や」

父は、そのたびに、少し鼻を鳴らす。

笑っているのだと、最近になってわかった。

一人で食べていた柿を、今は二人で食べている。

母が、台所の入口で、それを見ている。

「あんたら、二人とも、同じ顔して食べるんやな」

母はそう言って、湯を沸かしに行く。

三年前から、うちの柿は、直売所と、ネットの注文で売るようになった。

兄の嫁が、注文の画面を見る係だ。

今年の十一月、兄の嫁が、台所に来て、画面を見せた。

「これ、変わった注文があるんやけど」

大阪の住所だった。

柿を二箱。

備考欄が、埋まっていた。

「傷のある柿があれば、それを入れてください。捨てられる前に、うちに送ってください。」

備考欄には、捨てられる前に、と書いてあった。

私は、画面を、長いあいだ見ていた。

注文した人の名前に、覚えはなかった。

あの女の子の名前を、私は、一度も聞いたことがない。

だから、同じ人かどうかは、わからない。

わからないまま、私は、落ちた柿を二箱、詰めた。

へこんだ面を、下にして。

封筒詰めの仕事に電話した娘の話のように、小さな手が、大きなものを動かすことがある。

あの夜の十円玉も、そうだったのだと思う。

十円玉を一枚ずつ並べた手が、落ちた柿を五つ、誰かの台所まで運んだ。

そして十年後、同じ言葉が、私の畑まで届いた。

今年の柿は、赤い。

父が、箱を覗いて言った。

「ええ食べ方を知っとる人が、おるんやな」

私は、「うん」とだけ答えて、箱の蓋を閉じた。

落ちた果物は、もう売り物にならない。

それでも、誰かの台所に、行き先はある。

十年前の深夜のスーパーで、傷んだ柿を五つ買った女の子が、私にそれを教えてくれた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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