世界一やさしい娘

公開日: 夫婦 | 子供 | 家族 | 心温まる話

昨夜、俺は嫁とケンカをした。

きっかけは本当に些細なことだった。

小学2年生になる娘の○美が、突然バイオリンを習いたいと言い出したのだ。

嫁は嬉しそうに言った。

「○美が自分から習いたいって言うの珍しいよ。やらせてあげたいな。」

だけど、その日は仕事でトラブル続きだった俺は、ついイライラしてしまった。

「どうせ一時の思いつきだろ。ほっとけば三日で忘れるさ。」

それでも嫁は諦めない。

「せっかく本人がやりたいって言ってるんだよ?」

我慢が効かず、俺はとうとう怒鳴ってしまった。

「仕事で疲れてるんだ、いい加減に黙ってろ!」

その一言で空気は凍りつき、気まずいままケンカは終わった。

翌朝も険悪な雰囲気のまま、俺も嫁も仕事に出た。

その日の夕方、仕事から帰宅すると、嫁はまだ目を赤く泣き腫らしていた。

罪悪感でいっぱいになり、顔を伏せた俺に、嫁が静かに声をかけた。

「あ…違うの。あのね、ちょっとこれを見て。」

嫁が差し出したのは、新聞の求人欄の切り抜きだった。

『封筒に紙を入れるだけの簡単な仕事です!』

よくあるDM封入のアルバイト募集の記事だ。

「これがどうしたの?」

俺が不思議そうに尋ねると、嫁が涙をこぼしながら話し始めた。

「今日ね、この会社から電話があったの。」

「…?」

「○美が、この会社に電話して『働きたい』って言ったんだって。」

俺は驚き、言葉を失った。

嫁は泣きながら続けた。

「電話に出た人が声が幼いしおかしいと思って、○美に家の連絡先を聞いて電話をくれたの。」

そこで嫁の涙が止まらなくなった。

「○美に確認したらね……、『ママとパパがケンカしてるのは自分のせいだってわかったから、すごく悲しかった。だから私も働いて、パパのお仕事がどれだけ大変なのかを知りたかった。私が働いたらお金がもらえるし、バイオリンも習える。それならパパもママもケンカしなくて済むから、それが一番いいと思ったの』って言うのよ…。」

その瞬間、俺の胸は締め付けられ、気が付くと涙がこぼれていた。

嫁はさらに小さな声で、

「ごめんね…」

と呟いた。

その言葉がまた、胸に突き刺さった。

ふと顔を上げると、ドアの隙間から○美が心配そうにこちらを覗いていた。

俺は○美を部屋に呼び入れると、わざと厳しい顔をして説教した。

「お前はまだ働かなくていいんだ。その代わり、勉強を頑張りなさい。」

そして、声を震わせながらこう続けた。

「バイオリンは習っていいぞ。ただし、途中でやめるとか言うなよ。その代わり、ママとパパもケンカしないようにするからな。わかったか?」

強い口調で言ったつもりだったのに、俺の目からは涙が止まらなかった。

こんな幼い娘にまで気を遣わせていたことが情けなくて、同時に、こんなにも優しい娘に育ってくれたことが嬉しくて、涙が溢れ続けた。

○美はそんな俺を見て、心配そうに小さくうなずいた。

ああ、本当に俺の娘は世界一の娘だ。

心からそう思った。

関連記事

倉庫(フリー写真)

おじさんとの約束

数年前の話です。 僕が大学生の頃、日雇いのアルバイトをしていました。 事務所に電話で翌日のアルバイトの予約をして、現場に行って働いていました。 主にやっていた仕事は…

ウェディングドレス姿の女性(フリー写真)

可愛い一人娘

この前、一人娘が嫁に行った。 目に入れても痛くないと断言できる一人娘が嫁に行った。 結婚式で「お父さん、今までありがとう。大好きです」と言われた。 相手側の親も居た…

菜の花畑(フリー写真)

本当の豊かさ

中国のとある大富豪の男性が、自分の息子を田舎の土地に送りました。 裕福な生活を当たり前と思っている息子に、一度『貧しさ』というものを体験してもらい、自分たちの生活がどれだけ幸せな…

駅のホーム(フリー写真)

花束を持ったおじいちゃん

7時16分。 私は毎日、その電車に乗って通学する。 今から話すのは、私が高校生の時に出会った、あるおじいちゃんとのお話です。 ※ その日は7時16分の電車に乗るまでまだ…

夫婦の重ねる手(フリー写真)

妻からの初メール

不倫していた。 4年間も妻を裏切り続けていた。 ネットで出会った彼女。 最初は軽い気持ちで逢い、次第にお互いの身体に溺れて行った。 ずる賢く立ち回ったこともあり…

数式(フリー素材)

天才数学者の意志

人は彼のことを「神童」とも「天才」とも「未来を嘱望された若手数学者」とも形容する。 ただ一貫しているのは、彼の頭脳力と、それに劣らない人格に対する尊敬と敬愛だろう。 20…

夫婦の手(フリー写真)

空席に座る子

旦那の上司の話です。亡くなったお子さんの話だそうです。 主人の上司のA課長は、病気で子供を失いました。 当時5歳。幼稚園で言えば、年中さんですね。 原因は判りません…

青空

あなたの腕に抱かれて

娘を背に、小さな日の丸の旗を振って、あなたを見送ってから―― もう、半世紀が過ぎてしまいました。 たくましいあなたの腕に抱かれたのは、ほんの、ほんのつかの間でした。 …

おむすび(フリー写真)

母の意志

僕が看取った患者さんに、スキルス胃がんに罹った女性の方が居ました。 余命3ヶ月と診断され、彼女はある病院の緩和ケア病棟にやって来ました。 ある日、病室のベランダでお茶を飲み…

夕日が見える町並み(フリー写真)

幸せだった日常

嫁と娘が一ヶ月前に死んだ。 交通事故で大破。 単独でした。 知らせを受けた時、出張先でしかも場所が根室だったから、帰るのに一苦労だった。 でもどうやって帰ったの…