椿油の小瓶を今も開けられない
取り壊しの報せが届いて、私は三十年ぶりに祖母の髪結いの家へ入りました。くもった鏡台の引き出しに転がっていた椿油の小瓶と、土間の棚で一本だけ歯を上に向けて立てられ…
取り壊しの報せが届いて、私は三十年ぶりに祖母の髪結いの家へ入りました。くもった鏡台の引き出しに転がっていた椿油の小瓶と、土間の棚で一本だけ歯を上に向けて立てられ…
九官鳥のおかえりという二言だけが、四十年たった今も耳の奥に残っている。北の山あいの谷へ単身赴任した若き日、凍える独りの夜を支えてくれた一羽の鳥に、私はある約束を…
いつか島へ行こう——七海と交わした親友との約束を、私は仕事を口実に先延ばしにし続けた。彼女がいなくなった夏、鳴らさないまま仕舞っていた水色の風鈴を抱え、私は初め…
父の独楽を、私は四十年ものあいだ箱の奥に仕舞っていた。戦時中、時計の修理に追われ、幼い息子と遊んでやれなかった父。手すきになったらいっしょに回そう、という約束は…
中学二年の春、私は父にもう弁当はいらないと言った。父はその朝から二度と私の弁当を作らなかった。二十年後、実家の押入れから出てきたアルミの弁当箱と料理雑誌の切り抜…
北海道の漁村で写真を撮り続けた兄が旅立った。荷物を引き取りに行った二月の部屋で、押し入れの奥から黒い表紙の兄の手帳が出てきた。毎年三月十四日にだけ、撮影記録のな…
高校時代、毎日同じ電車で隣に座っていた後輩の女の子。告白できぬまま別れて十年以上が経ったあと、俺が知ったこと。…
弟の航が亡くなる前日、十一年後の兄が過去の自分へ宛てた手紙。風呂場の鼻歌、ベンチの端の背番号十八、青いお守り。葬儀の庭で知った自慢の弟の本当の意味を、静かに綴る…
手が震える母がつくる茶色い弁当を、毎日バケツに空けていた高校二年の秋。海老を入れた朝の最後のお弁当に私が返した言葉と、母の手帳に残された二行が、二十年たった今も…
夜のパン屋で働く恋人とケンカをした晩、俺は謝る代わりに、ごめん用の丸パンを笑う一通を送ってしまった。雪の峠で届くまでに五十七分かかった彼女の最後の一行と、冷蔵庫…
小学四年の春、親戚の農家で一番小さい子犬を選んだ。柴犬のナツは毎日、俺の靴下をくわえて玄関で待っていた。高校で不良仲間とつるむようになった俺は、ある日曜の朝、ま…
寝不足の朝、妻の作った朝食を床にぶちまけた私。その夜、家で待っていたのは大好物のビーフシチューと、豆腐を小さく切った味噌汁の椀だった。八つ当たりを悔い、洋食屋の…
一九九五年一月十七日の朝、神戸・魚崎の文化住宅で私と倫子を隔てたのは一メートル半でした。前の晩の些細な言い合いで別々に敷いた布団。その位置に彼女の答えが隠れてい…
喧嘩をした土曜の朝のあと、菜月からの返信はぷつりと途切れた。鳴った着信と、遅れて届いた「ごめんね」。三年後の命日、私が初めて送った一通が、途切れた言葉の続きを探…
「沖縄に行かない?」という母の電話を、就職活動中の私は五分で切りました。半年後、母は逝きました。四十九日のあとに叔母が持ってきた絵日記の写真の裏には、母の字で七…