母から最後にかかってきた電話を、私は五分で切りました。
「沖縄に行かない?」
それが、母の用件でした。
私は就職活動の最中で、三日後にも面接が控えていました。
だから、今は忙しいと答えました。
母は少し黙ってから、本当に駄目かと、もう一度だけ訊きました。
就職が決まったら行く、と私は言いました。
その電話の意味を、私は絵日記の写真を見るまで知りませんでした。
母が亡くなったのは、それから半年も経たない冬のことです。

私が育ったのは、福井の三国という、港のある町です。
冬になると、日本海から風が真横に吹きつけます。
軒の下に吊るした干物が、一晩じゅう鳴っているような町でした。
家族は、父と母と私の三人でした。
その父を、私は中学二年の冬に亡くしました。
配送の仕事の帰りに、国道の交差点で事故に遭ったのです。
それから母は、朝はスーパーの惣菜場、夕方は仕出し屋で働きました。
手は、いつも水にふやけていました。
私が県外の大学に進めたのは、その手のおかげです。
母は、そのことを一度も口にしませんでした。
仕送りの封筒に、短い手紙が入っていることがありました。
「風邪ひかんように」
たいてい、それだけでした。
父のことを、母はほとんど話しませんでした。
仏壇の写真も、事故の前の年に撮った、作業着のままのものです。
事故の日、私は部活から帰って、玄関で靴を脱いでいました。
そこへ電話が鳴りました。
受話器を取った母の背中が、ゆっくり丸くなったのを覚えています。
それから母は、私のほうを振り返らずに言いました。
「ちょっと、病院に行ってくるわ」
その声が、いつもと同じ調子だったことが、かえって怖かったです。
葬儀のあいだも、母は一度も取り乱しませんでした。
親戚の前で笑ってお茶を出す母を見て、私は腹が立ちました。
母が泣いたのを見たのは、あとにも先にも一度だけです。
私の高校の合格発表の日、玄関で靴を揃えながら泣いていました。
背中しか見えなかったので、私は気づかないふりをしました。
三国の冬は、日が暮れるのが早いです。
四時を過ぎると、港の水面が鉛の色になります。
その色を見ながら、私は自転車で坂を上って帰りました。
台所の窓だけが、いつも明るく点いていました。
母は、私が帰るまで、必ず起きて待っていました。
先に寝ていてくれ、と何度言っても、やめませんでした。
就活の途中の電話
大学三年の七月は、説明会と面接で埋まっていました。
私は毎朝、スーツの襟にアイロンを当ててから家を出ました。
五社受けて、五社とも駄目でした。
そういう日が続いていた時期です。
母の電話は、その夜にかかってきました。
画面に母の名前が出たとき、私は正直、少し身構えました。
電話の用件が、たいてい仕送りの話だったからです。
「今、大丈夫け」
「うん、ちょっとだけなら」
「沖縄に行かない?」
唐突すぎて、私は一度聞き返しました。
「沖縄?」
「うん。宮古島」
母の声は、いつもより少しだけ高く聞こえました。
「なんで急に」
「なんとなく。前に行ったろ」
私は、洗っていない食器を流しに運びながら答えました。
「今は無理やって。就活やし」
「そっか」
「秋になったら、たぶん落ち着くし」
「本当に駄目け」
母が同じことを二度訊くのは、珍しいことでした。
私は、少し面倒に思いました。
「就職決まったら行くって」
「そうやね」
電話の向こうで、換気扇の音がしていました。
母は、たぶん台所に立ったまま話していたのだと思います。
「じゃあ、体に気ぃつけて」
「うん」
それが、私が母と交わした最後の会話です。
切ったあと、私は面接の想定問答をもう一度めくりました。
母の声の、最後のわずかな沈みには気づきませんでした。
気づいていたとしても、私は同じことを言ったでしょう。
その頃の私は、自分のことで手いっぱいでした。
四畳半の下宿には、面接で配られた会社案内が積んでありました。
スーツは一着しかなく、毎晩ハンガーに掛けて風を通しました。
エントリーシートの志望動機を、何度書き直したか分かりません。
書きながら、自分が空っぽに思えてきます。
家族構成の欄に、父の名前を書けないことも、少し引っかかっていました。
面接で家族の話を振られると、うまく答えられませんでした。
母のことを話すと、同情されているような気がして嫌だったのです。
だから私は、家の話を避けるようになりました。
母の電話を短く切った理由も、たぶんそこにあります。
沖縄の話を続ければ、金の話になると思っていました。
そんな余裕はないと、言われる前に言いたかったのです。
母は、一度もそんな話をしたことがなかったのに。
下宿の窓から、大学のグラウンドの照明が見えました。
夜の十時を過ぎても、誰かが走っている音がします。
その音を聞きながら、私は履歴書の写真を貼り直しました。
証明写真の自分の顔が、どうしても険しく見えるのです。
何枚撮り直しても、同じでした。
知らされなかった半年
母が倒れたという連絡が来たのは、十二月の初めでした。
叔母からの電話でした。
私は新幹線と特急を乗り継いで、夜遅くに病院へ着きました。
母は、もう話せる状態ではありませんでした。
二日後の朝に、息を引き取りました。
病名を聞かされたのは、そのあとです。
癌でした。
しかも、七月の時点で、余命は半年と告げられていたのです。
「なんで教えてくれんかったんですか」
私は、叔母に食ってかかりました。
叔母は、私の顔を見ずに答えました。
「姉さんが、言うなって」
「あんたの就職が決まるまでは、絶対に言うなって」
医者にも、親戚にも、母はそう頼んでいたのだそうです。
「心配したら、面接どころやないやろって」
私は、何も言い返せませんでした。
葬儀のあいだ、私は自分の手の甲ばかり見ていました。
泣き方が分からなかったのだと思います。
家に帰ると、母の台所はきれいに片付いていました。
流しには、水切りかごも伏せてありました。
冷蔵庫の中も、ほとんど空でした。
使いかけの調味料が、一本もなかったのです。
台所の引き出しには、私の好きだった菓子が二袋だけ残っていました。
賞味期限は、翌年の春になっていました。
帰省したときに出すつもりだったのだと思います。
その二袋を、私は捨てられませんでした。
母の部屋の鏡台には、病院の予約票が一枚だけ伏せてありました。
日付は、七月の半ばです。
つまり、あの電話の数日前でした。
私は、その紙を裏返したまま、元の場所に戻しました。
母は、片付けてから入院したのだと分かりました。
仏壇の前に、父の写真と並んで、小さな貝殻がひとつ置いてありました。
白い、手のひらに乗るくらいの巻き貝でした。
それが何なのか、そのときの私には分かりませんでした。
叔母は、通夜の晩にぽつりと言いました。
「姉さん、最後まで痛み止めを断っとったよ」
「なんでですか」
「頭がぼんやりすると、電話がうまく話せんからって」
私は、その言葉の意味を、何日か考えました。
母がかけようとしていた電話は、一本だけだったのだと思います。
その一本のために、母は痛みを抱えたまま声を整えていました。
換気扇の音の向こうで、母がどんな顔をしていたのか。
それだけは、どうしても想像がつきません。
絵日記の写真
四十九日の法要が終わったあと、叔母が紙袋をひとつ持ってきました。
「姉さんから、預かってたもん」
中に入っていたのは、小学生の頃の私の絵日記でした。
表紙に、三年二組、と自分の字で書いてあります。
角が丸くなるほど、繰り返し開かれた跡がありました。
私は、居間の畳の上で、それをめくりました。
夏休みの宿題です。
プールのこと、祖母の家のこと、蝉のこと。
字は大きく、線は雑でした。
八月のページには、蝉の抜け殻の絵が三つ並んでいました。
その横に、母の丸が赤鉛筆で打ってあります。
宿題を見てくれたのは、いつも母でした。
働いて帰ってきてから、台所の椅子に座って見るのです。
赤鉛筆の丸は、どのページにもひとつずつありました。
ただし、宮古島のページにだけ、丸がありませんでした。
赤鉛筆で書き込む代わりに、母は写真を挟んだのだと思います。
丸をつけてしまえば、宿題として終わってしまうからです。
終わらせたくない一枚だったのでしょう。
その途中のページに、一枚の写真が挟まっていました。
絵日記の写真は、四つ角が白く擦れていました。
何度も抜き差しされた紙の擦れ方でした。
写っていたのは、砂浜に立つ三人です。
父が真ん中で、私が父の腰にしがみついています。
母は、少しだけ離れて立って、こちらを見て笑っていました。
海の色が、絵の具のように濃く写っていました。
宮古島でした。
父の会社の社員旅行が中止になって、積立が返ってきた年でした。
母は最初、返ってきた金を貯金に回すと言ったそうです。
父が押し切ったのだと、あとから聞きました。
旅行のあいだ、写真を撮っていたのは父です。
だから、父が写っている写真は、この一枚しかありません。
通りかかった人に頼んで、撮ってもらったのだと思います。
母は、写真に写るのを嫌がる人でした。
その母が、この一枚だけは、まっすぐこちらを見ています。
小学三年の夏、うちが一度だけ行った、家族旅行です。
写真の下のページには、こう書いてありました。
「おきなわのうみはきらきらしていて、くももきれいで、すごくたのしかった」
そして、その次の行です。
「おおきくなったら、おかねをためて、おとうさんとおかあさんをまたつれていってあげる」
自分で書いたはずの一行を、私はまったく覚えていませんでした。
絵日記の写真を裏返すと、母の字がありました。
写真の裏には、母の字で、日付だけが書いてあった。
七月二十日。
旅行の日付だろうと、私はそのときは思いました。
実際、写真の日付は七月の下旬で間違いありません。
けれど、それなら、わざわざ裏に書く必要はないはずです。
アルバムには、同じ旅行の写真が何枚も貼ってありました。
裏に日付が書かれていたのは、この一枚だけでした。
三口という数字
年が明けてから、私は母の遺品を少しずつ片付けました。
衣装箪笥の一番下の引き出しに、缶の菓子箱がありました。
中には、書類がきちんと重ねて入っていました。
父の保険の証書。
私の学資保険の満期の通知。
そして、信用金庫の旅行積立の受取証が、束になっていました。
毎月三千円の払い込みが、十年分ありました。
私は、その紙の隅の数字に目を留めました。
口数の欄に、三、とあります。
父が亡くなったのは、私が中学二年のときです。
それなのに、口数の欄は、最初から最後まで三のままでした。
最後の受取証は、あの電話の月のものでした。
七月分の払い込み。
その次の月から、記録は途切れています。
私は、缶の中の紙を全部、畳の上に並べました。
十年ぶんの紙が、畳の目に沿って、きれいな長方形になりました。
母の字は、どの紙も同じ筆圧でした。
後日、私は信用金庫の窓口へ行きました。
解約の手続きに、時間はかかりませんでした。
窓口の年配の女性が、伝票を見ながら顔を上げました。
「お母さま、毎月、窓口にいらしてましたよ」
「振込ではなくて、ですか」
「ええ。現金でね」
通帳から落とすほうが楽なはずです。
それでも母は、毎月ここまで歩いてきていました。
「口数を増やす相談をされたことも、ありました」
「増やす?」
「ええ。でも、三口のままでいい、と」
私は、礼を言って窓口を離れました。
外は、みぞれが降りはじめていました。
母が毎月歩いた道を、私は反対向きに戻りました。
坂の途中に、古い旅行会社の看板が残っています。
そこに、色の褪せた沖縄のポスターが貼ってありました。
私は、束を抱えたまま、しばらく動けませんでした。
翌日、叔母に電話をかけて、そのことを話しました。
叔母は、少しのあいだ黙っていました。
「姉さん、毎年、七月の二十日だけは休んどったよ」
「二十日、ですか」
「うん。惣菜場も、仕出しも、その日だけは」
私は、絵日記の写真の裏を思い出しました。
母が電話をかけてきたのも、七月の二十日でした。
叔母の話は、そこで終わりませんでした。
「あの日な、姉さん、朝から海に行っとったんよ」
「三国の?」
「うん。浜で、貝殻ひとつ拾ってくるんが決まりみたいでね」
仏壇の貝殻の意味が、そこでようやく分かりました。
母は、行けなかった旅行の代わりに、毎年その日、近くの海へ行っていたのです。
そして、貝殻をひとつ持ち帰って、父の写真の横に置いていました。
十年分の貝殻が、どこにあるのかを、私は探しました。
仏壇の引き出しに、古い煎餅の缶がありました。
蓋を開けると、白い貝殻が並んでいました。
数えると、九つでした。
十個目は、あの夏、まだ仏壇の前に置かれたままでした。
私は、九つの貝殻を一つずつ手に取りました。
どれも同じ種類の、白い巻き貝です。
三国の浜には、こればかりが打ち上がります。
内側に、細い油性ペンで年が書いてありました。
いちばん古いものは、父が亡くなった年の夏でした。
つまり母は、父を送った最初の夏から、あの日を守っていたのです。
七月二十日の貝殻
私が就職を決めたのは、その年の秋のことです。
内定の通知が届いた日、私は仏壇の前に座りました。
報告する相手は、もう写真の中にしかいません。
会社の名前を言って、私は少しだけ言葉に詰まりました。
母が知っている会社ではありません。
説明しても仕方がないと思い、業種だけを言いました。
それから、ごめん、と一度だけ声に出しました。
謝る相手が聞いていないことは、分かっています。
それでも、言わずに立ち上がることができませんでした。
線香をあげてから、私は缶の蓋を開けました。
九つの貝殻と、十個目。
指で触ると、どれも表面がすべすべになっていました。
毎年、誰かが繰り返し撫でた跡です。
母が毎月払い続けていた旅行積立は、最後まで三人分のままだった。
父が亡くなっても、母は口数を減らしませんでした。
あの絵日記に書かれた約束が、三人ぶんだったからだと思います。
母は、子どもの書いた一行を、十年ぶん積み立てていたのです。
そして、期限が見えた年の七月に、一度だけ電話をかけてきました。
私は、その電話を五分で切りました。
翌年の七月二十日、私は宮古島の砂浜に立ちました。
缶の中の貝殻を、十個とも持って行きました。
波打ち際に並べて、写真と同じ角度から一枚だけ撮りました。
海の色は、二十年前と同じでした。
風の匂いも、たぶん同じでした。
砂は思っていたより粗くて、素足には少し痛いくらいです。
近くで、家族連れが三人、同じように写真を撮っていました。
父親がカメラを構えて、母親が少し離れて立っています。
その並びが、写真の中とまったく同じでした。
私は、しばらくそちらを見ていました。
母の笑っている場所には、誰も立っていません。
それでも、そこに立つのを、私はやめました。
同じように悔いを抱えた人の話として、
もしもし、お母さんを、私は何度も読み返しています。
左手で書かれた最初で最後のラブレターも、同じ引き出しにしまってあります。
絵日記は、今も私の本棚にあります。
毎年七月二十日になると、私はそのページを開きます。
そして、四つ角の擦れた写真を、もう一度抜いて、また戻します。