父の独楽

温かな光の工房の風景

七十をこえた私の掌の上で、その独楽はまだ、よく回る。

軸の先はすり減って、けれど芯だけは、まっすぐだ。

回り終えるまでの、ほんの十数秒。

私はいつも、息をとめて、それを見ている。

独楽が倒れると、部屋がしんと、もとの静けさに戻る。

その静けさの底に、あの子の声が、まだ沈んでいる。

あれは、町じゅうが灯火管制で、黒くしずんでいた頃のことだ。

私は、時計の修理を生業にしていた。

柱時計、懐中時計、嫁入りのときの細い腕時計。

戦が深くなっても、人は時を気にした。

いや、時を気にせずには、いられぬ世の中だった。

朝の汽車、配給の列、空を見上げるべき刻限。

一分の遅れが、その日の暮らしを、丸ごと狂わせた。

私の小さな仕事場は、いつも歯車の油のにおいが、していた。

耳を澄ませば、大小の時計が、てんでばらばらに時を刻んでいる。

その音の中に座っていると、外の世界が、すこし遠くなった。

窓には黒い幕を垂らし、手元だけを、小さな灯りで照らす。

拡大鏡をはめ、髪一筋ほどのぜんまいを、息をつめてさわる。

手元がほんの少し狂えば、預かりものの時計が、だめになる。

だめにすれば、その家の段取りが、ひとつ狂う。

だから私の指は、いつも油で黒く、こわばっていた。

食べていくための、それが私の言い分だった。

息子の実は、七つだった。

痩せた肩に、いつも木屑をつけて、私のそばに座っていた。

「父ちゃん、これ、何の歯車?」

そう聞かれても、私はろくに、振り向かなかった。

「いま手がふさがってる。あっちで遊んでなさい」

そればかりを、口癖のように、言っていた気がする。

実はしょげるでもなく、土間の隅で、ひとり何かを削っていた。

小刀は危ないと叱ると、その時だけは、手を止めた。

けれど私が背を向けると、また、かりかりと木を削る音がした。

その音は、時計の針の音にまぎれて、いつしか聞き慣れていた。

昼には、欠けた茶碗に番茶を入れて、そっと私の脇に置いてくれた。

湯気の立つそれを、私は手も止めずに、すすった。

礼のひとつも、言ってやらなかった。

あの子は、よく私に、時計のことを聞いた。

「時計はどうして、勝手に進むの?」

私は、ぜんまいが、ためた力をすこしずつ手放すからだ、と答えた。

「じゃあ、ためた力がなくなったら、どうなるの?」

止まるんだ、と私は言った。

巻き直してやらにゃ、二度と動かん、と。

あの子は、ふうん、と言って、それきり黙った。

いま思えば、あの問いに、私はちゃんと答えて、いなかった。

ためた力を手放しそびれれば、独楽も人も、回らぬままなのだ。

いつも明日があると、私は、高をくくっていた。

ある夕飯のあと、実が、ちゃぶ台の上に、そっと何かを置いた。

不格好な、木の独楽だった。

「父ちゃんが、前にくれたやつ」

言われて、ようやく、思い出した。

いつだったか、端材で、あの子に削ってやったものだ。

軸の据わりが悪く、すぐに倒れる、出来の悪い独楽。

作ってやったことさえ、私は半ば、忘れていた。

それを実は、紐がてらてら光るほど、回し込んでいた。

「見てて」

実が紐を巻き、畳の上で回した。

独楽は危なっかしく傾きながら、それでも、けなげに回った。

芯がぶれて、こまのへりが、とんとんと畳を叩く。

「父ちゃんも、いっしょにやろう」

私は、ちらと見て、また手元の懐中時計に、目を戻した。

「父ちゃんは忙しいんだ。明日には仕上げにゃならん」

実は、ふうん、と言った。

そして、すこし考えてから、こう言った。

「父ちゃんが手すきになったら、いっしょに回そうね」

私は、ああ、とだけ答えた。

ぜんまいの巻き上がる、かちかちという音に、紛れて。

いつか、手のすいた日に。

その「いつか」を、私はずっと、棚の上に置きっぱなしにしていた。

独楽が倒れる、小さな音を、背中で聞きながら。

そのうち、町の子らは、山あいの寺へ、疎開することになった。

実の番も、すぐに、まわってきた。

女房は、夜なべして、薄い布団を打ち直していた。

私は、ひとことも、手伝わなかった。

預かりものの時計が、たまっていたからだ。

発つ朝は、霜がおりて、井戸の水が、刃のように冷たかった。

霜柱が、下駄の歯の下で、きしきしと鳴った。

実は、あの独楽を握って、なかなか手を開かなかった。

「持っていってはいかん。向こうでなくすだろう」

私は、その手から、独楽を取り上げた。

そして、自分の仕事場の棚に、ことりと置いた。

「帰ってきたら、いくらでも回せる」

実は、棚の独楽を、じっと見上げていた。

何か言いたげな口を、けっきょく、つぐんだ。

汽車が出るとき、私は、仕事場を空けられなかった。

見送りは、女房に、任せた。

のれんの隙間から、小さな背中が遠ざかるのを、横目で見た。

風呂敷を背負った肩が、いやに、薄かった。

振り返ってくれたら、手くらい、振ってやろうと思った。

あの子は、とうとう、振り返らなかった。

いま思えば、振り返れなかったのだ。

取り上げられた独楽を、棚に、残してきたのだから。

はじめのうちは、たどたどしい字の便りが、ぽつぽつと届いた。

芋を掘ったこと。鐘の音が大きいこと。早く帰りたいこと。

私は、忙しさにかまけて、ろくに返事を、書かなかった。

次に書く、次の手すきに書く、とそればかり、思っていた。

あの子の便りの、最後の一枚に、独楽の絵が描いてあった。

丸にひとすじ、線を引いただけの、たどたどしい絵。

その下に、「いつまわせる?」と、一行だけ書いてあった。

私は、その一枚にも、返事をしないままだった。

梅雨のころ、寺のあたりが焼けた、と便りがあった。

焼夷弾は、山あいの寺さえ、見のがしては、くれなかった。

その夜から、私は時計の音を、まともに、聞けなくなった。

どの時計も、ただ、過ぎていく時を、数えているだけに思えた。

実は、還らなかった。

還らなかった、と書く、この四文字に、私は四十年かかった。

女房は、その秋に床につき、はかなくなった。

私は、仕事場の棚の独楽を、見ないようにして、暮らした。

棚に置いたままの、その場所だけ、埃が積もらなかった。

見れば、あの朝の、冷たい井戸の水を、思い出す。

開かなかった、小さな手の、あたたかさを思い出す。

夏のおわりに、寺から、小さな風呂敷包みが、届いた。

焼け残った子らのわずかな持ち物を、寺の人が集めてくれていた。

私は震える指で、その結び目を、ひとつずつ、ほどいた。

中から出てきたのは、煤けた手ぬぐいと、独楽が、二つ。

ひとつは、私が削ってやった、あの出来の悪い独楽だった。

持っていってはいかんと、棚に置いたはずの、ものだ。

あとで近所の人に聞いて、知った。

汽車に乗る前、実がこっそり、棚から取って懐に入れていたのだと。

紐は、汗で黒く光るほど、擦り切れていた。

軸は、見たこともないほど、なめらかに、すり減っていた。

一人で、何百回も、何千回も、回したのだろう。

父のいない、山あいの寺の、板の間で。

そして、もうひとつ。

それは小さく、いびつで、まだ削りかけの、独楽だった。

子どもの手に余る小刀の傷が、木肌に、いくつも残っていた。

軸はまだ尖っておらず、回せば、きっとすぐに、倒れただろう。

誰のために、それを作っていたのか。

私には、聞くまでもなく、わかった。

土間の隅で、背を向けた私のうしろで、かりかりと鳴っていた音。

あれは、私の独楽を、削っていた音だったのだ。

削りかけの独楽の窪みには、小さな指の脂が、染みていた。

私は、その窪みに、自分の親指を、そっと当ててみた。

あの子の指は、こんなにも、小さかったのか。

手すきになったら、いっしょに回すための。

二つ並べて、親子で回すための、二つめの独楽。

私は、削りかけの独楽を握って、肩を震わせて、泣いた。

歯車の油のにおいの中で、いつまでも、泣いた。

七十をこえたいまも、私はその二つを、桐の箱に入れている。

手すきの日など、とうとう、来はしなかった。

いや、来させなかったのは、私だ。

忙しいというのは、いちばんやさしい、逃げ口上だった。

時計は、いくらでも直せる。

狂った歯車は、入れ替えればいい。

遅れた針は、また、合わせ直せばいい。

けれど、あの夕方の畳の上、

「いっしょにやろう」と差し出された、小さな手の刻限だけは、

どんな名工にも、二度と、巻き戻せない。

ぜんまいの切れた時計は、巻き直せば、また動く。

だが、私が手放してしまったあの子の時間は、もう、巻けない。

夜更け、時計の針の音だけが、家じゅうに、響く。

その音は、もう、私を急かしはしない。

ただ、過ぎてしまった時を、静かに、数えている。

今日も私は、削りかけの独楽を、紙やすりで、そっと撫でる。

少しずつ、少しずつ、軸を、整えてやる。

撫でるたびに、木屑が、ほんの少し、私の膝に落ちる。

その木屑のにおいが、あの土間の隅の音を、連れてくる。

いつか、これがまっすぐ回る日まで。

その日が来たら、二つ並べて、回してみるつもりだ。

父ちゃんは、ようやく手がすいたよ、と。

遅くなって、すまなかったな、と。

独楽が回りきって、ことりと、倒れる。

丸にひとすじの、あの絵の独楽が、いまならわかる。

あれは、私と、自分と、二つの独楽の、つもりだったのだ。

その静けさの中で、私はいつも、あの子の返事を、待っている。

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