
七十をこえた私の掌の上で、その独楽はまだ、よく回る。
軸の先はすり減って、けれど芯だけは、まっすぐだ。
回り終えるまでの、ほんの十数秒。
私はいつも、息をとめて、それを見ている。
独楽が倒れると、部屋がしんと、もとの静けさに戻る。
その静けさの底に、あの子の声が、まだ沈んでいる。
※
あれは、町じゅうが灯火管制で、黒くしずんでいた頃のことだ。
私は、時計の修理を生業にしていた。
柱時計、懐中時計、嫁入りのときの細い腕時計。
戦が深くなっても、人は時を気にした。
いや、時を気にせずには、いられぬ世の中だった。
朝の汽車、配給の列、空を見上げるべき刻限。
一分の遅れが、その日の暮らしを、丸ごと狂わせた。
私の小さな仕事場は、いつも歯車の油のにおいが、していた。
耳を澄ませば、大小の時計が、てんでばらばらに時を刻んでいる。
その音の中に座っていると、外の世界が、すこし遠くなった。
窓には黒い幕を垂らし、手元だけを、小さな灯りで照らす。
拡大鏡をはめ、髪一筋ほどのぜんまいを、息をつめてさわる。
手元がほんの少し狂えば、預かりものの時計が、だめになる。
だめにすれば、その家の段取りが、ひとつ狂う。
だから私の指は、いつも油で黒く、こわばっていた。
食べていくための、それが私の言い分だった。
息子の実は、七つだった。
痩せた肩に、いつも木屑をつけて、私のそばに座っていた。
「父ちゃん、これ、何の歯車?」
そう聞かれても、私はろくに、振り向かなかった。
「いま手がふさがってる。あっちで遊んでなさい」
そればかりを、口癖のように、言っていた気がする。
実はしょげるでもなく、土間の隅で、ひとり何かを削っていた。
小刀は危ないと叱ると、その時だけは、手を止めた。
けれど私が背を向けると、また、かりかりと木を削る音がした。
その音は、時計の針の音にまぎれて、いつしか聞き慣れていた。
昼には、欠けた茶碗に番茶を入れて、そっと私の脇に置いてくれた。
湯気の立つそれを、私は手も止めずに、すすった。
礼のひとつも、言ってやらなかった。
あの子は、よく私に、時計のことを聞いた。
「時計はどうして、勝手に進むの?」
私は、ぜんまいが、ためた力をすこしずつ手放すからだ、と答えた。
「じゃあ、ためた力がなくなったら、どうなるの?」
止まるんだ、と私は言った。
巻き直してやらにゃ、二度と動かん、と。
あの子は、ふうん、と言って、それきり黙った。
いま思えば、あの問いに、私はちゃんと答えて、いなかった。
ためた力を手放しそびれれば、独楽も人も、回らぬままなのだ。
いつも明日があると、私は、高をくくっていた。
ある夕飯のあと、実が、ちゃぶ台の上に、そっと何かを置いた。
不格好な、木の独楽だった。
「父ちゃんが、前にくれたやつ」
言われて、ようやく、思い出した。
いつだったか、端材で、あの子に削ってやったものだ。
軸の据わりが悪く、すぐに倒れる、出来の悪い独楽。
作ってやったことさえ、私は半ば、忘れていた。
それを実は、紐がてらてら光るほど、回し込んでいた。
「見てて」
実が紐を巻き、畳の上で回した。
独楽は危なっかしく傾きながら、それでも、けなげに回った。
芯がぶれて、こまのへりが、とんとんと畳を叩く。
「父ちゃんも、いっしょにやろう」
私は、ちらと見て、また手元の懐中時計に、目を戻した。
「父ちゃんは忙しいんだ。明日には仕上げにゃならん」
実は、ふうん、と言った。
そして、すこし考えてから、こう言った。
「父ちゃんが手すきになったら、いっしょに回そうね」
私は、ああ、とだけ答えた。
ぜんまいの巻き上がる、かちかちという音に、紛れて。
いつか、手のすいた日に。
その「いつか」を、私はずっと、棚の上に置きっぱなしにしていた。
独楽が倒れる、小さな音を、背中で聞きながら。
※
そのうち、町の子らは、山あいの寺へ、疎開することになった。
実の番も、すぐに、まわってきた。
女房は、夜なべして、薄い布団を打ち直していた。
私は、ひとことも、手伝わなかった。
預かりものの時計が、たまっていたからだ。
発つ朝は、霜がおりて、井戸の水が、刃のように冷たかった。
霜柱が、下駄の歯の下で、きしきしと鳴った。
実は、あの独楽を握って、なかなか手を開かなかった。
「持っていってはいかん。向こうでなくすだろう」
私は、その手から、独楽を取り上げた。
そして、自分の仕事場の棚に、ことりと置いた。
「帰ってきたら、いくらでも回せる」
実は、棚の独楽を、じっと見上げていた。
何か言いたげな口を、けっきょく、つぐんだ。
汽車が出るとき、私は、仕事場を空けられなかった。
見送りは、女房に、任せた。
のれんの隙間から、小さな背中が遠ざかるのを、横目で見た。
風呂敷を背負った肩が、いやに、薄かった。
振り返ってくれたら、手くらい、振ってやろうと思った。
あの子は、とうとう、振り返らなかった。
いま思えば、振り返れなかったのだ。
取り上げられた独楽を、棚に、残してきたのだから。
はじめのうちは、たどたどしい字の便りが、ぽつぽつと届いた。
芋を掘ったこと。鐘の音が大きいこと。早く帰りたいこと。
私は、忙しさにかまけて、ろくに返事を、書かなかった。
次に書く、次の手すきに書く、とそればかり、思っていた。
あの子の便りの、最後の一枚に、独楽の絵が描いてあった。
丸にひとすじ、線を引いただけの、たどたどしい絵。
その下に、「いつまわせる?」と、一行だけ書いてあった。
私は、その一枚にも、返事をしないままだった。
梅雨のころ、寺のあたりが焼けた、と便りがあった。
焼夷弾は、山あいの寺さえ、見のがしては、くれなかった。
その夜から、私は時計の音を、まともに、聞けなくなった。
どの時計も、ただ、過ぎていく時を、数えているだけに思えた。
実は、還らなかった。
還らなかった、と書く、この四文字に、私は四十年かかった。
女房は、その秋に床につき、はかなくなった。
私は、仕事場の棚の独楽を、見ないようにして、暮らした。
棚に置いたままの、その場所だけ、埃が積もらなかった。
見れば、あの朝の、冷たい井戸の水を、思い出す。
開かなかった、小さな手の、あたたかさを思い出す。
※
夏のおわりに、寺から、小さな風呂敷包みが、届いた。
焼け残った子らのわずかな持ち物を、寺の人が集めてくれていた。
私は震える指で、その結び目を、ひとつずつ、ほどいた。
中から出てきたのは、煤けた手ぬぐいと、独楽が、二つ。
ひとつは、私が削ってやった、あの出来の悪い独楽だった。
持っていってはいかんと、棚に置いたはずの、ものだ。
あとで近所の人に聞いて、知った。
汽車に乗る前、実がこっそり、棚から取って懐に入れていたのだと。
紐は、汗で黒く光るほど、擦り切れていた。
軸は、見たこともないほど、なめらかに、すり減っていた。
一人で、何百回も、何千回も、回したのだろう。
父のいない、山あいの寺の、板の間で。
そして、もうひとつ。
それは小さく、いびつで、まだ削りかけの、独楽だった。
子どもの手に余る小刀の傷が、木肌に、いくつも残っていた。
軸はまだ尖っておらず、回せば、きっとすぐに、倒れただろう。
誰のために、それを作っていたのか。
私には、聞くまでもなく、わかった。
土間の隅で、背を向けた私のうしろで、かりかりと鳴っていた音。
あれは、私の独楽を、削っていた音だったのだ。
削りかけの独楽の窪みには、小さな指の脂が、染みていた。
私は、その窪みに、自分の親指を、そっと当ててみた。
あの子の指は、こんなにも、小さかったのか。
手すきになったら、いっしょに回すための。
二つ並べて、親子で回すための、二つめの独楽。
私は、削りかけの独楽を握って、肩を震わせて、泣いた。
歯車の油のにおいの中で、いつまでも、泣いた。
七十をこえたいまも、私はその二つを、桐の箱に入れている。
手すきの日など、とうとう、来はしなかった。
いや、来させなかったのは、私だ。
忙しいというのは、いちばんやさしい、逃げ口上だった。
時計は、いくらでも直せる。
狂った歯車は、入れ替えればいい。
遅れた針は、また、合わせ直せばいい。
けれど、あの夕方の畳の上、
「いっしょにやろう」と差し出された、小さな手の刻限だけは、
どんな名工にも、二度と、巻き戻せない。
ぜんまいの切れた時計は、巻き直せば、また動く。
だが、私が手放してしまったあの子の時間は、もう、巻けない。
夜更け、時計の針の音だけが、家じゅうに、響く。
その音は、もう、私を急かしはしない。
ただ、過ぎてしまった時を、静かに、数えている。
今日も私は、削りかけの独楽を、紙やすりで、そっと撫でる。
少しずつ、少しずつ、軸を、整えてやる。
撫でるたびに、木屑が、ほんの少し、私の膝に落ちる。
その木屑のにおいが、あの土間の隅の音を、連れてくる。
いつか、これがまっすぐ回る日まで。
その日が来たら、二つ並べて、回してみるつもりだ。
父ちゃんは、ようやく手がすいたよ、と。
遅くなって、すまなかったな、と。
独楽が回りきって、ことりと、倒れる。
丸にひとすじの、あの絵の独楽が、いまならわかる。
あれは、私と、自分と、二つの独楽の、つもりだったのだ。
その静けさの中で、私はいつも、あの子の返事を、待っている。