鳴らさなかった風鈴

海辺の村の風鈴と静かな午後

三年ぶりに、風鈴を軒に吊るした。

梅雨の晴れ間の風が、ガラスの内側をくぐって、澄んだ音をひとつ落とした。

その音が怖くて、私はずっと、箱の蓋を開けられなかった。

七海と出会ったのは、二十二の春だった。

同じ日に、同じ会社の門をくぐった。ただ、それだけの縁だった。

研修の初日、緊張で水も喉を通らない私の机に、彼女は黙って缶のお茶を置いていった。

「喉、渇いてるでしょ」

それが、七海の最初の言葉だった。

以来、缶のお茶を一つ多く買うのが、私たちの合図になった。

元気のない日は、何も言わずに、相手の机にそっと置く。

言葉より先に、温かい缶が、いつもそこにあった。

同期は四十人もいたのに、なぜか私たちは、いつも隣にいた。

昼は屋上で、同じ菓子パンを半分こにした。

残業の帰りには、駅前の自販機の前で、どうでもいい話を一時間もした。

くだらないことで笑い転げて、二人して上司に叱られたこともあった。

台風で電車が止まった夜は、二人で会社の床に寝転んで、朝を待った。

窓を叩く雨の音を聞きながら、七海は島の嵐の話をした。

「島の風は、もっとやさしいんだよ。怖くない雨なんて、葵は知らないでしょう」

そう言って、彼女は子どものように笑った。

三年が過ぎ、五年が過ぎても、私たちはまだ、隣にいた。

七海は、私の知らない私を、たくさん知っていた。

泣いた夜のことも、ほんとうは弱いことも。

それでも何も言わず、ただ缶のお茶を、置いてくれる人だった。

七海は、瀬戸内の小さな島の生まれだった。

島には祖母がいて、昔、ガラスの風鈴を作る店をやっていたのだという。

「夏になるとね、家じゅうの軒に風鈴を吊るすの。風が通ると、島ぜんぶが鳴るみたいで」

「おばあちゃんはね、風鈴の音を聞くと、誰でも家に帰りたくなるって言ってた」

「だから軒に吊るすの。いつか帰ってくる人のために」

七海は、よくその話をした。

潮の匂い。蝉の声。坂の途中から見える、青すぎる海。

行ったこともない島の夏が、私の中にも、少しずつ降り積もっていった。

「いつか、葵を連れて帰りたいな」

七海は、遠くを見るような目で、そう言った。

いつか島へ。

それが私と七海の、たった一つの親友との約束だった。

手帳の隅に、私はその一文字を書いた。「島」と。

叶える日のことを、私は何も疑っていなかった。

けれど、いつか、はなかなか来なかった。

私は、仕事に追われていた。

担当が増え、肩書きがつき、休日の鞄にも資料が入っていた。

七海が島の名前を出すたび、私は手帳を開いて、来月、と答えた。

「来年の夏こそ」が、いつしか私たちの口癖になっていた。

その来年が、いったい何回あったのか、もう数えられない。

一度だけ、二人で船の切符を調べたことがあった。

出航の時刻も、泊まる宿の名前も、メモに書いた。

けれどその週末に、私は急な会議を入れてしまった。

「ごめん、また今度」

私はそう言って、メモを鞄の底にしまった。

「いいよ。島は逃げないから」

七海は、いつものように笑ってくれた。

その笑顔に、私はいつまでも甘えていた。

七海の誕生日にも、私は残業で行けなかった。

翌朝、机の上に、私の分のケーキが、小さな箱で置かれていた。

「半分こ、しようと思って」

その箱を、私は冷蔵庫に入れたまま、何日も忘れていた。

あのケーキがどんな味だったか、私は今も思い出せない。

ある夜、七海から電話が鳴った。

会議の最中で、私は画面を伏せた。

かけ直そうと思ったまま、その電話のことを、私は三日も忘れていた。

留守番電話には、短い声だけが残っていた。

「あのね、葵。……ううん、元気? また、お茶しようね」

今思えば、あれは、七海なりの精一杯だったのかもしれない。

七海の咳が長く続いていることに、私は気づかなかった。

屋上で半分こにする菓子パンを、彼女が残すようになったことにも。

気づいたときには、七海の机は、もう半月も空いていた。

病院の白い部屋で、七海はずいぶん細くなっていた。

それでも私の顔を見ると、いつものように笑った。

「来てくれたんだ」

窓辺には、島から持ってきたという小さな貝殻が、いくつも並んでいた。

白く、つるりとして、波の音を閉じ込めているようだった。

細い腕には、点滴の管が、痛々しく続いていた。

枕元には、小さなガラスの風鈴が一つ、置かれていた。

「おばあちゃんのお守り。音がすると、島にいる気がするの」

けれど、その部屋の窓は、固く閉ざされていた。

風のない午後で、風鈴は、ただ静かにそこにあった。

私は、缶のお茶を二つ買ってきていた。

昔のように、一つを彼女の手のひらに置いた。

七海は、それを少しだけ飲んで、嬉しそうに目を細めた。

「ねえ葵、島の風鈴の音、覚えてる?」

細い声で、七海は聞いた。

私は、聞いたことがなかった。

一度も、島へ行かなかったから。

「退院したら、いちばんに聞かせてあげる」

七海は、目を閉じて、そう約束してくれた。

「うん。今度こそ、ぜったい」と私は言った。

七海は、小さく頷いた。

その目が、少しだけ困ったように笑ったことに、私は気づかないふりをした。

帰り際、七海は、私の袖を弱い力で引いた。

「葵。あのね」

何かを言いかけて、彼女は、やっぱりなんでもない、と首を振った。

「また来てね」

それが、七海の声を聞いた、最後だった。

その夏、七海は島へ還った。

私の知らないうちに、誰にも見送られる前に、静かに。

報せを受けた電話を、私は会議室の隅で握りしめていた。

手帳には、その日も、予定が隙間なく並んでいた。

「島」と書いた一文字だけが、何年も、白いままだった。

二人で撮った写真は、一枚もなかった。

いつでも撮れると、明日を信じていたから。

数日後、七海が私に宛てた荷物が、ひとつだけ届いた。

小さな箱だった。

中には、薄い紙にくるまれた、ガラスの風鈴が入っていた。

祖母が遺した、最後の一つだという。

淡い水色のガラスに、白い気泡が、いくつも閉じ込められていた。

まるで、島の海に、陽が散っているようだった。

短冊は、固く折りたたまれていた。

私は、それを開くことができなかった。

開いてしまえば、七海が本当にいなくなる気がした。

箱は、そのまま簞笥の奥にしまった。

風鈴を吊るすこともないまま、二度、夏が過ぎた。

会社を辞めたのは、今年の春だった。

理由は、自分でもうまく言えなかった。

ただ、七海のいない机の並びで、私はもう、笑い方を忘れていた。

退職した次の朝、私は簞笥の奥から、あの箱を取り出した。

三年分の埃を払って、蓋を開けた。

水色の風鈴は、あの日のまま、静かに眠っていた。

私は、一枚の切符を買った。

七海の島へ向かう、片道の切符だった。

船が島に近づくと、潮の匂いがした。

七海の言葉の、そのままの匂いだった。

甲板に出ると、白い波が、船の後ろにずっと続いていた。

島は、七海の話していたとおりだった。

蝉の声。白い灯台。坂の途中から見える、青すぎる海。

港の桟橋は、夏の陽射しに、白く灼けていた。

波が、足元で、ゆっくりと寄せては返していた。

港では、日に焼けた小さな女性が、網を繕って座っていた。

私が七海の名を告げると、その人は、皺の中の目を細めた。

「ああ、あんたが葵さんね」

私は、息が止まりそうになった。

「七海ちゃんがね、よう言うとった。東京に、いちばん大事な友達がおるって」

その人は、坂の上の家を、節くれだった指で示した。

「待っとったよ。ずっと」

港から続く細い坂を、私は風鈴を胸に抱えて登った。

七海の家は、すぐにわかった。

軒の下に、錆びた風鈴の金具が、いくつも残っていたから。

誰もいない家の軒に、私は、持ってきた風鈴を、そっと吊るした。

その一つだけが、新しく光っていた。

島の風が、坂を駆け上がってきた。

水色のガラスが、ちりん、と鳴った。

七海が、世界で一番好きだと言った音だった。

退院したら、いちばんに聞かせてあげる。

その約束を、七海は、こんなかたちで、守ってくれたのだ。

風が、折りたたまれた短冊を、ふわりと開いた。

短冊の裏に、七海の字で『おかえり』と書いてあった。

私は、その場にしゃがみ込んだ。

おかえり、と。

島に帰ったことなど、一度もない私に。

七海は、おかえり、と書いて、待っていた。

自分がもう、ここにいられないと知りながら。

いつか必ず来ると、この風の中で、信じて。

私は、短冊にそっと指を触れた。

七海の字は、少し震えていた。

それでも一文字ずつ、ていねいに、書かれていた。

風鈴が、もう一度、鳴った。

蝉の声に混じって、坂の下から、誰かの笑い声が聞こえた気がした。

喉、渇いてるでしょ。

そう言って缶のお茶を置いてくれた、あの春の声で。

私は、抱えてきたもう一本のお茶を、軒の下にそっと置いた。

「ただいま」

海に向かって、私はそう言った。

青すぎる海が、まぶしくて、しばらく何も見えなかった。

風が止むと、島は、嘘みたいに静かになった。

けれど、また風が来て、風鈴が鳴る。

そのたびに、七海が、ただいま、と笑っている気がした。

遠くで、船の汽笛が、ひとつ鳴った。

軒の風鈴は、いつまでも、いつまでも鳴っていた。

島ぜんぶが、七海の声で、鳴っているようだった。

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