手渡しのブーケ
「式には出ん」と言い続けた父は、娘の結婚式で着る服がわからないと言いました。宍道湖のシジミ漁師の家の鴨居に十九年掛かったままの礼服と、切られなかった仕立て札。ブ…
「式には出ん」と言い続けた父は、娘の結婚式で着る服がわからないと言いました。宍道湖のシジミ漁師の家の鴨居に十九年掛かったままの礼服と、切られなかった仕立て札。ブ…
淡路の線香屋のもとへ、五年も遅れて亡き妻からの手紙が届きました。同封されていた細い紙は、五年経ってもまだ匂ったのです。なぜ五年だったのか。香りの長さに託された約…
四歳の私に母は「日曜日かな」と言い残して出て行きました。筑豊の炭住で玄関を見つめ続けた三十年、物干しの黄色い洗濯ばさみだけがなぜ褪せなかったのか。祖母の手帳と五…
山形の将棋駒工房で、脳に障害のある兄は三十年ただ歩だけを彫り続けました。父の帳面に残された一行の日付と、裏の字だけが深く彫られた三千枚の駒。守っているつもりで、…
不倫を四年続けた私が、機械の苦手な妻に携帯メールを教えました。十日後に届いた一通は、濁点も改行も抜けた不器用な文章。後日カレンダーの裏に見つけた九枚の練習書きが…
地震で水道が止まった能登の坂道。豆腐屋の店先に伸びた列で、三度並んで三度とも順番を譲った彫り物の男は、湯気にだけ礼を言って去りました。誰も名前を知らないその人が…
十勝の除雪車に乗る私は、兄の長靴がなぜ右足だけすり減るのか知らずにいました。封も切られぬままロッカーの底に眠っていた合格通知、柱に一本もない兄の背比べの線、二十…
五十年のあいだ、薬を一粒も飲まずに逝った銭湯の祖父。葬儀のあと、常連の理髪師が届けてくれた手紙には、生まれたばかりの私の命と引き換えに立てた誓いが綴られていまし…
山の観測所に勤めるあなたは、秋の沢の鉄砲水から私を庇って逝きました。所長さんの手に握られていた桜の櫛、遺された双子、観測野帳の余白に残された小さな言葉、今も続く…
藍染職人の継母を、私は最後まで「お母さん」と呼べなかった。青い手が苦手だった私を川から押し上げ、そのまま帰らなかった人。遺された日記のダイヤル錠は、私の誕生日で…
塾を辞めた高校生だった僕に、坂の途中の珈琲店の店長さんは「うち、すぐそこだから」と言って閉店後の席を貸してくれました。二年後に知ったその嘘の本当の重さと、十四年…
社会人になって初めての給料で母に何か贈りたかったのに、素直になれず「こんな安物かよ」と口走ってしまった三千円のエプロン。三年後に見つけた家計簿の余白が、その値札…
父の出て行った家で、母は市場と総菜屋を掛け持ちして俺を育てた。曲がった俺が過ちを犯した日も、家庭裁判所の帰り道も、母は決して泣かなかった。二十歳の冬、一枚の合格…
仏壇の隅にある一回り小さい位牌。生まれる前に亡くなった兄のものだと聞かされ、俺はその存在をうっとうしいと思っていた。母と怒鳴り合った雨の日、頭の中に響いた舌足ら…
三年ぶりに帰省した俺は、家の事情で母の隣に布団を並べることになった。布団に染みた陽の匂いの奥にあった薄荷と糸の匂いが、忘れていた記憶を呼び覚ます。指のあかぎれ、…