母の匂いと記憶

実家の玄関は、記憶より低くなっていた。

鴨居に頭がつきそうになって、俺は思わず身を屈めた。

「大きゅうなったんじゃないよ。あんたが猫背になったんよ」

上がり框で、母が笑った。

五月の連休、三年ぶりの帰省だった。

二等船室の窓から島影が滑っていくのを眺めているうちに、うたた寝をして、汽笛の音で目が覚めた。

桟橋には、潮と重油の匂いが満ちていた。

俺の勤める港と同じ匂いのはずなのに、なぜか少しだけ違って、優しかった。

フェリーを降りると、造船の町は、あの頃のままの顔をしていた。

ドックのクレーンが夕焼けを背負って立ち、路地には、どこかの台所から煮干しの出汁の匂いが流れてくる。

俺は隣の県の港で、船の塗装の仕事をしている。

三十五にもなって独り身で、盆も正月も「仕事が立て込んどるけえ」と、帰らずにきた。

今年帰る気になったのは、姉に二人目の子が生まれたからだ。

実家はいま、里帰り中の姉と、生まれたての赤ん坊と、三歳の甥とで膨れ上がっていた。

かつて俺の部屋だった二階の四畳半は、甥のおもちゃ箱と昼寝布団に占領されている。

「あんた、母さんの部屋で寝りんさい」

夕飯の席で、母は当たり前のように言った。

俺は味噌汁を口に運びかけたまま、少し固まった。

三十五の息子が、母親の隣で寝る。

そのことの気恥ずかしさを、母はまるで分かっていないようだった。

食卓には、俺の好物ばかりが並んでいた。

小鰯の天ぷらと、筍の煮物と、わかめの酢の物。

「電話くらいしてから帰りんさいよ。慌てたじゃないの」

「した方が慌てるじゃろう」

「憎たらしいこと」

姉が赤ん坊をあやしながら笑った。

「あんた、母さんね、昨日から天ぷらを揚げる気満々じゃったんよ」

「電話、しとらんのに」

「なんとなく分かるんと。今年は帰ってくる気がするけえ、言うて」

俺は箸を止めて、皿の上の天ぷらを見た。

衣の端が、少し焦げていた。

昔から、母の天ぷらはいつも少し焦げている。

揚げながら、他の料理をこしらえるからだ。

味噌汁は、いりこの出汁だった。

勤め先の町の、どこの定食屋でも出会えなかった味が、湯気ごと胸に入ってきた。

「うまいな」

「あんたは昔から、それしか言わんね」

母は割烹着の袖で口元を隠して笑った。

その割烹着が、ずいぶん色褪せていることに、俺はその時はじめて気づいた。

何年着ているのか、見当もつかなかった。

母は今年で六十八になる。

背中が、少し丸くなった。

湯呑みを持つ手の甲に、見覚えのない染みがいくつも増えていた。

食後、茶の間の茶箪笥の前で足が止まった。

ガラス戸の隅に、色の抜けたシールが一枚、貼られたままだった。

幼い俺が貼った、ロボットのシールだ。

三十年、誰も剥がさなかったらしい。

甥がそれを指さして「これなに」と俺を見上げた。

「おじちゃんの、宝物じゃ」

自分でも思いがけない言葉が出て、俺は少し笑った。

夜になっても、俺はなかなか布団に入れなかった。

母の隣で寝る。

たったそれだけのことが、妙に落ち着かなかった。

母が風呂から上がる音を聞いてから、俺はサンダルをつっかけて夜の町に出た。

「ちょっと歩いてくるわ」

「鍵、開けとくけえね」

港の風は、五月でもまだ湿って冷たかった。

防波堤の常夜灯が、油を流したような黒い海面に、ぽつりぽつりと揺れている。

遠くの造船所が、青白い溶接の光を、稲妻のように瞬かせていた。

子どもの頃、あの光を花火だと思っていた。

シャッターの下りた商店街を、店の名前を一つずつ思い出しながら歩いた。

文房具屋、金物屋、乾物屋。

半分は、看板の字が読めなくなっていた。

通りの角に一軒だけ、明かりの点いた理髪店があった。

幼馴染の吉井の店だ。

ガラス戸を開けると、閉店後の床を掃いていた吉井が「おう」と眉を上げた。

「帰っとったんか」

「姉ちゃんとこに、二人目が生まれてな」

「知っとるよ。おばちゃんが言いよったもん」

吉井は笑って、待合のパイプ椅子を俺に押し出し、冷蔵庫から缶コーヒーを二本出した。

「じいさんの代から数えて、この通りで残っとるのは、うちと酒屋だけになったわ」

「よう続けとるな」

「船があるけえな。船のある町の床屋は、潰れんのよ」

吉井は自分の言葉に、自分でうなずいた。

「お前の母ちゃん、月イチでうちに来るんで。髪を切りに」

「そうなんか」

「そのたびに自慢しよるで。息子は大きい船を塗りよる、言うてな」

俺は返事に困って、鏡の中の自分を見た。

潮と塗料で焼けた、無愛想な男が座っていた。

「去年、新しいフェリーの就航がテレビに映ったろう。あの時なんか、おばちゃん、手帳に船の名前を控えとったで」

「……なんじゃそれ」

「あれはうちの息子が塗った船かもしれん、言うてな。嬉しそうじゃった」

俺は、母にそんな話をした覚えがなかった。

いつかの電話で、社名をぽろっと漏らしただけだ。

母はそれを、ずっと覚えていたのだ。

覚えて、手帳に、船の名前を書きつけていたのだ。

「なんで自慢なんかするんかのう。俺は、大したことはしとらんのに」

「親いうんは、そういうもんじゃろう」

三年前に父親の店を継いだ男は、鏡を拭きながら、そう言った。

缶コーヒーがぬるくなるまで、俺たちはとりとめのない話をした。

帰り道、防波堤に腰を下ろして、長いこと海を見た。

波が防波堤を叩く音の合間に、係留された漁船のロープが、きい、きい、と鳴いていた。

母の手帳の、几帳面な細い字を思った。

見たこともないのに、はっきりと思い浮かんだ。

家に帰る道すがら、俺は携帯を取り出して、母の番号を表示してみた。

発信履歴を遡っても、母の名前は、正月の一度きりだった。

向こうの着信履歴は、どうなっているのだろう。

かけようとして、切ったりして、いないだろうか。

そう思ったら、夜風が急に冷たくなった。

家に戻ると、零時を回っていた。

母はもう、寝息を立てていた。

豆電球の橙色の下で、俺は音を立てないように、隣の布団に潜り込んだ。

その瞬間だった。

布団が、陽の匂いがした。

昼間、母が干してくれたのだろう。

五月の光をたっぷり吸った、乾いた布の匂い。

そしてその奥に、薄荷と、糸のような、懐かしい匂いがあった。

母の匂いだった。

忘れていた記憶が、堰を切ったように溢れてきた。

引っ越す前の、古い借家。

自分の部屋なんてなくて、俺は毎晩、母の隣で寝ていた。

枕元には今と同じ茶箪笥があって、俺が貼ったロボットのシールがあって、その上に姉のお手玉が三つ載っていた。

母は洋裁の内職をしていた。

俺が布団に入ってからも、隣の部屋でミシンを踏んでいた。

カタカタカタ、という規則正しい音が、襖越しの豆電球の光と一緒に、俺の子守唄だった。

時々ミシンが止まると、俺はかえって目を覚ました。

静けさより、あの音のある夜の方が、よく眠れた。

台風で停電した夜は、母はミシンを止めて、蝋燭の灯りで手縫いをしていた。

「休めばええのに」と言うと、母は針を持ったまま笑った。

「約束の日は、台風を知らんけえ」

母の仕事に、休みの日はなかった。

薄荷の匂いは、母の指の匂いだ。

あかぎれだらけの指先に、母は毎晩、薄荷の入った軟膏をすり込んでいた。

針を持つ指が割れると、よその人の布に血がつくけえ、と。

銭湯の帰り道は、母と手をつないで歩いた。

母の指はいつもささくれていて、つなぐと少しだけ痛かった。

あの頃はそれが嫌で、すぐに手を離した。

今なら、いくらでもつないでいられるのに。

母の財布は、いつも膨らんでいた。

開くと、レシートの束の奥に、俺と姉の古い写真が挟まっていた。

縫い上がった他所様の服を風呂敷に包んで、母は月に二度、バスで町の洋品店へ納めに行った。

帰りの紙袋の底には、いつも俺と姉のための小さな菓子が入っていた。

「ついでじゃけえ」と母は言った。

そのついでが、どれだけ待ち遠しかったか。

熱を出した夜のことも思い出した。

母は一晩中、俺の額の手ぬぐいを替え続けた。

うとうとと目を開けるたび、豆電球の下に母の顔があった。

「大丈夫。母ちゃんはここにおるよ」

その声だけで、熱の夜は怖くなくなった。

運動会の弁当も思い出した。

卵焼きと、蛸の形のウインナーと、俺の嫌いな人参だけ、いつも隅に小さく刻んで入れてあった。

食べられるようになった年、母は自分のことのように喜んだ。

雨の日、傘を持って校門に立っていた母は、自分の肩ばかり濡らして帰った。

二十年以上前の記憶が、匂いに乗って、次から次へと押し寄せてくる。

俺は暗い天井を見たまま、身動きが取れなくなっていた。

そして、思い出したくなかった記憶に、たどり着いた。

中学の入学式の、前の夜だ。

夜中に目が覚めると、隣の部屋でミシンの音がしていた。

襖の隙間から覗くと、母が学生服に向かっていた。

親戚のお下がりの、型の古い学生服だった。

母はそれを一度ぜんぶ解いて、仕立て直していた。

針を持つ指に、白い軟膏が光っていた。

翌朝、枕元にきちんと畳まれた学生服を見て、俺は言ったのだ。

「新品がよかった」

母は、少しだけ黙って、それから言った。

「ごめんな」

それだけだった。

俺はその学生服を、卒業まで着た。

袖が短くなったと言うたび、母は一晩で袖を伸ばしてくれた。

三年間で、三度。

大人になってから、姉に聞いた話がある。

あの学生服の袖の裏には、折り返した縫い代が、たっぷり畳み込んであったのだそうだ。

袖の裏には、俺が伸びる分の布が、先に畳まれていた。

母はあの夜、中学三年分の俺の背丈を測って、針を動かしていたのだ。

新品がよかった、と言った朝の、母の顔を思い出そうとした。

思い出せなかった。

俺は襖の隙間のミシンの音ばかり覚えていて、あの朝の母の顔だけ、どうしても思い出せない。

きっと俺は、母の顔を見ずに、あの一言を言ったのだ。

十八で家を出た朝のことも、思い出した。

母はフェリー乗り場まで来て、紙袋を押し付けた。

中には、握り飯と、真新しい軍手が三双、入っていた。

「塗装の仕事は、手が荒れるけえ」

俺の就職先の仕事の中身を、母は誰より先に調べていた。

自分の手はあんなに荒れたままで、息子の手の心配をしていた。

船が桟橋を離れるとき、母は手を振らなかった。

代わりに、深々と頭を下げていた。

あの姿の意味が、あの頃の俺には分からなかった。

思えば母は、自分のものを何も買わなかった。

割烹着も、下駄も、手提げも、いつも同じだった。

俺と姉のものだけが、季節ごとに新しくなった。

それを、当たり前だと思っていた。

当たり前というのは、誰かが黙って支えているから、当たり前に見えるだけなのに。

布団の中で、俺は自分の掌をそっと開いた。

塗料の染みと、硬くなった皮。

いつの間にか、俺の手も、荒れた手になっていた。

母と同じ、働く者の手だ。

そのことだけが、なぜだか少し、誇らしかった。

隣で、母の寝息が続いている。

豆電球の明かりに、白髪の増えた頭が見えた。

布団から出た肩が、あんなに小さい。

幼い俺を背負って、雨の坂道を上った背中が、あんなに小さい。

目の奥が熱くなって、俺は布団を口まで引き上げた。

声を立てないように、息を殺した。

三十五の男が、母の隣で、ばれないように泣いた。

あの頃の俺と同じ布団の中で、あの頃は知らなかったことばかりを、思いながら。

朝、目が覚めると、母の布団はきれいに畳まれていた。

台所から、いりこの出汁の匂いがした。

まな板の音が、規則正しく響いている。

あのミシンの音と、同じリズムだった。

「よう寝とったね」

「……ああ」

「三年分、寝りんさい」

朝飯の前に、仏間で線香を上げた。

写真の中の父は、もう俺より若い。

「あんたの仕事、父さんにも見せたかったねえ」

背中で、母の声がした。

「……ああ」

父は俺が十のときに、海の事故で逝った。

それから母は、ミシン一台で、俺と姉を育て上げたのだ。

愚痴ひとつ、聞いた覚えがない。

俺と姉の前で、母はいつも、忙しそうで、元気だった。

それがどれほどのことだったか、この年になって、ようやく輪郭が見えてくる。

線香の煙が、まっすぐに上っていった。

朝飯の後、母に頼まれて、茶箪笥の上の段から客用の茶碗を下ろした。

奥に、見覚えのある湯呑みがあった。

縁の欠けた、不格好な湯呑み。

小学生の俺が、初めての小遣いで買った、母の日の湯呑みだった。

「これ、まだあったんか」

「あんたが初めて買うてくれたもんじゃもん」

「欠けとるが」

「欠けとっても、使えるんよ」

母はそれを俺の手から取って、大事そうに布巾で拭いた。

欠けた湯呑みと、色褪せた割烹着と、剥がれないシール。

この家には、俺が忘れてきたものばかりが、大事に残っている。

「今日は何が食べたいん」

「なんでもええよ」

「なんでもええが、いちばん困るんよ」

母は笑いながら、俺の茶碗に飯を大盛りにした。

昼前、母が買い物に出ると言うので、荷物持ちについて行った。

「ええよ、一人で行けるけえ」

「ええから」

商店街までの坂を、母と並んで下りた。

母の歩幅が、記憶より小さくなっていた。

俺は歩調を落として、気づかれないように合わせた。

坂の途中の石段で、母は一度だけ腰を下ろした。

「年は取りとうないねえ」

冗談めかした声が、少しだけ、本当に聞こえた。

魚屋の店先で、母は小鰯を選びながら、店主に俺を顎で示した。

「息子。帰っとるんよ」

「知っとるよ。ゆうべ吉井んとこに寄ったんじゃろう」

狭い町だ。

店主は笑いながら、小鰯をひと掴み、おまけに足してくれた。

「男前になったのう。船を塗りよるんじゃて」

「まあ……はい」

「おばちゃん、あんたの話ばっかりするんで。耳にタコができるわ」

母は「言うほどしとらんよ」と口を尖らせて、それでも嬉しそうだった。

帰りの坂道で、母は八百屋の袋を俺に持たせながら言った。

「あんた、ちゃんと食べよるん」

「食べとるよ」

「顔が細うなった」

「気のせいじゃ」

「母さんには分かるんよ」

それきり、母は何も言わなかった。

ただその晩、夕飯の品数が、一品増えていた。

連休の最後の日、俺は午後のフェリーで発つことにした。

「港まで送るけえ」

「ええよ、家におりんさい」

「ええから」

昨日の俺と同じ返事をして、母は先に下駄を履いた。

桟橋で、母は紙袋を押し付けてきた。

中には、握り飯と、小鰯の天ぷらの残りと、真新しい軍手が三双、入っていた。

十八の春と、同じ中身だった。

「軍手の指先だけ、厚う縫うといたけえ」

見れば、指先に細かい針目が並んでいた。

ミシンではなく、手縫いの針目だった。

「盆にも帰るわ」

「仕事、大丈夫なん」

「大丈夫。……次は、割烹着を買うてくる」

母はきょとんとして、それから、袖で口元を隠して笑った。

「ほんなら、白いのがええね」

船が桟橋を離れると、母は手を振る代わりに、深々と頭を下げた。

息子の乗る船と、海に向けて。

今なら、あの姿の意味が分かる。

俺はデッキの手すりを握ったまま、母が見えなくなるまで、頭を下げ返した。

遠ざかる町の上に、ドックのクレーンが立っている。

実家の玄関が低くなったわけじゃない。

俺が、あの人の背中で育った分だけ、大きくなっただけだ。

母さん、いつもありがとう。

どうか、長生きしてください。

布団の匂いを、指先の薄荷の匂いを、忘れないうちに、必ずまた帰るから。

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