
「今日は、よう出来とるよ」
その一言を、俺は五十八年のあいだ、まるごと信じて生きてきた。
言うたのは芦名すずさんという人で、俺より七つ上やった。
硝子は、焼くときやのうて、冷ますときに割れる。
熱いうちは何べんでも形を変えるくせに、冷めていく途中の、ほんの少しの無理を覚えとって、あとから音もなく裂ける。
あの人がついた嘘も、たぶん、そういうものやったのだと思う。
※
昭和三十八年の春に、俺は潟江の浦戸硝子へ入った。
十七やった。
富山湾へ細く突き出した町で、風の向きが変わると、家のなかまで潮の匂いが入ってきた。
町には薬をこしらえる家が何軒もあって、うちの工場は、その薬を入れる瓶ばかりを吹いとった。
胃の薬の褐色の瓶、目薬の小さい瓶、赤ん坊に飲ませる水薬の、口の広いやつ。
炉は朝の四時から焚いた。
竿の先の硝子種は、飴のように垂れて、そのくせ触れば一生消えん痕を残す。
俺は三月のあいだ、竿を回すことしかさせてもらえんかった。
回し方が悪いと、種が偏る。
偏った種で吹いた瓶は、口が、どちらかへ寄る。
※
検品場は、炉場から板一枚を隔てた北側にあった。
そこだけは火の気がのうて、冬は指がかじかむほど寒かった。
すずさんは、その部屋にひとりで座っとった。
前掛けをして、白い布巾を膝に置いて、瓶をひとつずつ手に取る。
光にかざしもせん。
すずさんは、瓶の口を、指の腹で、いつも右まわりに撫でた。
一周して、なんでもなければ、合格の木箱へ。
指が途中で止まれば、はねもん箱へ。
はねもん、というのは、この土地で不良品のことをそう言う。
俺が初めて検品場を覗いた日、すずさんは顔も上げんと言うた。
「炉場のもんは、こっち入ってこられんがいちゃ」
声が低くて、思うたより年上に聞こえた。
それが芦名すずさんやった。
※
月にいっぺん、薬屋の主人が荷を取りに来た。
帳場でひとしきり世間話をして、帰り際に、必ず同じことを言う。
「口が甘いのだけは、勘弁してくだはれ」
薬が漏れれば、荷ごと駄目になる。
荷ごと駄目になれば、詫びに行くのは工場のほうやった。
だから検品場は、炉場より寒いくせに、工場でいちばん怖い部屋やと言われとった。
女工は何人か入っては、みな半年ももたずに辞めた。
見落としの責めを、ひとりで負わされる部屋やからやと、あとになって知った。
すずさんは、その部屋に、十年おった。
※
六月に、初めて自分の竿で吹かせてもらえた。
親方の横に立って、息を入れる。
種は思うたより重くて、俺の息では、なかなか膨らまんかった。
十二本吹いて、まともに立ったのは三本やった。
それを盆に載せて、検品場へ運んだ。
すずさんは黙って一本目を取った。
指が右まわりに動いて、一周して、合格の箱へ落ちた。
二本目も、三本目も、同じやった。
「今日は、よう出来とるよ」
それが、あの人が俺にかけた最初の言葉やった。
帰りの坂で、俺は瓶を吹く真似を何べんもした。
その晩、飯が喉を通らんかった。
残りの九本は、はねもん箱に入った。
戸を閉める間際、すずさんは、はねもん箱から一本だけ拾うて、前掛けの隠しに入れた。
何をしとるのか訊く気にもならんかった。
はねもんなんぞ、砕いて種に戻すだけのものやと思うとったからだ。
※
それから俺は、毎日、自分の吹いた瓶を自分で運ぶようになった。
運搬は下っ端の仕事やから、誰も不審がらん。
検品場の戸を開けると、寒い空気と、消毒みたいな匂いがした。
すずさんは、いつも同じ椅子に、同じ座り方で座っとった。
「あんた、名前は」
「日野といいます。日野宗一」
「そう」
その日は、それで終わった。
次の日は、
「宗一。変な名やね」
それで終わった。
三日目に、俺は初めて笑わせようとして、失敗した。
※
冬になると注文が立て込んで、夜の九時まで炉を落とさんかった。
検品場も遅うなる。
ある晩、瓶を運んでいくと、すずさんが火鉢に金網を置いて、餅を焼いとった。
検品場は火気厳禁のはずやった。
「見んかったことにしられ」
「見ました」
「見んかったことに」
すずさんは、焼けた餅を半分に千切って、俺の手のひらへ載せた。
熱かった。
落としたら怒られると思うて、俺は手のなかで転がしながら食うた。
すずさんが笑うのを、そのとき初めて見た。
笑うと、七つ上には見えんかった。
※
それから、夜の検品場は俺の場所になった。
すずさんは餅を焼き、俺は瓶を運び、片付けが終わるまで、板の間に座って喋った。
喋る、というても、喋るのはほとんど俺のほうやった。
学校をやめた話。
兄が東京へ出たきり、盆にも帰ってこん話。
母が薬売りの荷を縫うて、指の腹が針の穴だらけになっとる話。
すずさんは、うんうんと聞いて、自分のことは何ひとつ言わんかった。
どこから通うとるのか。
いくつのときからこの工場におるのか。
家に誰がおるのか。
訊くと、決まって同じ返事やった。
「そんなもん、聞いてどうするがいちゃ」
※
一度だけ、すずさんの帰り道をつけたことがある。
どこに住んどるのかも知らんのが、なんだか悔しかったのだ。
すずさんは、工場を出ると、駅とは反対の坂を上がって行った。
上がりきったところに、古い長屋が三軒ならんどった。
その一番端の戸を開ける前に、すずさんは立ち止まって、前掛けを外し、きれいに畳んで鞄へしまった。
それから、髪を撫でつけて、笑う顔をこしらえてから、戸を開けた。
中から、年寄りの咳の音がした。
俺は坂の下で、それを見とった。
翌日、検品場で、俺は何も言わんかった。
すずさんも、何も言わんかった。
ただ、その日の餅は、いつもより大きく千切ってあった。
※
一度だけ、二人で海へ行った。
三月の、まだ風の冷たい日曜やった。
潟江の浜には、冬のあいだ打ち上げられた硝子の破片が転がっとる。
波にもまれて、角がすっかり丸うなっとった。
すずさんは、それを拾うては指で撫でて、また砂へ置いた。
「これ、うちらの工場のがやろか」
「かもしれん」
「ここまで丸うなるのに、なんぼかかると思う」
俺は答えられんかった。
「あんたが生まれる前のやよ、たぶん」
すずさんは、丸くなった一片を陽に透かして、それから、砂の上へ丁寧に戻した。
割れたもんを、割れたまま大事にする手つきやった。
その日、俺は言おうとして、言えんかった。
言えんかったのは、すずさんに縁談があるという噂を、その前の週に炉場で聞いたからやった。
七つ上の人に、十八の見習いが何を言えるものかとも思うた。
※
年が明けて、俺は少しずつ腕が上がった――と、思うとった。
はねもん箱に俺の瓶が入ることは、ほとんどのうなった。
親方は何も言わんかった。
それが不満やった。
ある晩、俺はすずさんに愚痴をこぼした。
「親方は、俺のことを見とらん」
すずさんは、瓶を撫でる手を止めんかった。
「見とるよ」
「見とらんちゃ。合格ばっかりやのに、一言も言わん」
そのとき、すずさんの指が、瓶の口の途中で止まった。
ほんの一瞬やった。
指はすぐにまた動いて、その瓶は、合格の箱へ落ちた。
「宗一さん」
初めて、名前を呼ばれた。
「あんたは、なんのために吹いとるがけ」
意味が分からんかった。
「そら、ええ瓶をこしらえるためやろ」
「そうけ」
その晩、餅は焼かんかった。
※
検品場の壁には、月ごとの帳面が下がっとった。
その日の合格の数と、はねもんの数と、差引の金高が、細い字で書いてある。
一番下に、いつも同じ端数があった。
六百二十円。
何の金なのか、俺には分からんかった。
訊いたら、すずさんは帳面を裏返した。
「あんたの見るもんでない」
※
年が明けて二月の、雪の朝やった。
その日の一本目を運んでいくと、すずさんの指が、いつもの場所で止まらんかった。
すうっと一周して、そのまま合格の箱へ落ちた。
俺は何も思わんかった。
いつものことやと思うとった。
すずさんは、その瓶が箱に落ちる音を、しばらく聞いとった。
それから、膝の布巾をたたみ直した。
「宗一さん」
「はい」
「今日は、よう出来とるよ」
いつもと同じ言葉やったから、俺は「ども」とだけ言うて、炉場へ戻った。
戻る途中で、一回だけ、振り返った。
すずさんは、窓のほうを向いとった。
※
昭和四十年の、二月の終わりやった。
朝、親方が炉場で俺を呼んだ。
「日野。来月から、お前ひとりで吹け」
十二本のうち三本しか立たんかった男が、二年で、一人前の竿を持つことになった。
俺は、その足で検品場へ走った。
早う言いたかった。
誰よりも先に、あの人に。
戸を開けると、椅子に誰も座っとらんかった。
前掛けが、椅子の背に、きちんと畳んでかけてあった。
すずさんは、その朝から工場へ来んかった。
※
事務のおばさんが言うには、前の日の夕方に、辞めると届けを出したそうやった。
行き先は誰も知らんかった。
縁談やろう、と皆が言うた。
俺は三日、飯を食わんかった。
四日目に、炉へ火を入れた。
一人で吹いた。
その月、俺の瓶は、はねもん箱に十七本入った。
前の月まで、一本も入っとらんかったのに。
※
三月の締めの日に、事務のおばさんが帳面をつけながら、独り言のように言うた。
「今月から、あれが要らんようになったねえ」
「あれ、て」
「六百二十円のことよ」
俺は、帳面を覗き込んだ。
一番下の端数が、消えとった。
「芦名さんが、毎月、自分の給金から引いてもろうとった分やちゃ」
耳の奥が、しんと鳴った。
「なんの分ですか」
おばさんは、ようやく手を止めて、俺を見た。
「はねもんを、合格に入れた分やがいね」
※
合格の箱に入った瓶は、そのまま薬屋へ行く。
薬屋は瓶に薬を詰めて、蓋を締めて、荷に積む。
口の寄った瓶は、蓋が甘い。
甘い蓋は、荷のなかで、薬を漏らす。
だから、はねもんを一本通すたびに、誰かが弁償せんならん。
すずさんは、それを、毎月、自分の給金から払うとった。
六百二十円。
当時の俺の月給の、ちょうど十分の一やった。
※
俺は炉場へ戻って、その日吹いた瓶を全部、自分で並べた。
十七本。
どれも、口が右へ寄っとった。
竿を右手で持つ癖が、そのまま形になっとった。
二年間、俺はそれに一度も気づかんかった。
気づかんですんだのは、あの人の指が、毎日、俺の癖のところで止まって、それでも合格の箱へ落としてくれとったからやった。
俺は自分の腕が上がったと思うとった。
上がっとったのは、あの人が黙って払うた金の額やった。
※
その夜、俺は初めて、自分の吹いた瓶を自分で割った。
十七本、全部やった。
割れる音は、思うとったより小さかった。
それから五年、俺は口の寄らん瓶が吹けるようになった。
十年で、親方の竿を継いだ。
二十八で所帯を持って、娘が二人できた。
浦戸硝子は平成十年に畳んだ。
薬の瓶は、みんなプラスチックになった。
妻は、俺が瓶の口ばかり見とるのを、よう笑うた。
「あんた、人の顔より、瓶の口のほうをまじまじ見るね」
そう言われて、返す言葉がなかった。
娘の授業参観にも、俺は工場の前掛けのまま行った。
それでも、妻は何も言わんかった。
言わんでも分かっとったのだと、今は思う。
妻は十年前に、先に逝った。
※
今は、家の裏の納屋に小さい炉をひとつ置いて、注文があるときだけ吹いとる。
七十五になった。
息はもう続かんし、竿も重い。
それでも、火を落とすと、次に入れるのが億劫になるのが分かっとるから、落とさん。
去年の秋の、雨の午後やった。
納屋の戸を叩く音がした。
二十半ばくらいの女の人が、傘を持って立っとった。
「日野宗一さん、ですか」
「そうやけど」
女の人は、鞄から小さい紙包みを出した。
開くと、褐色の薬瓶が一本、出てきた。
古い瓶やった。
口が、右へ寄っとった。
※
「祖母が、これを吹いた人に返してこいと」
心臓が、ひとつ、遅れて打った。
「おばあさんの、名前は」
「芦名すず、といいます」
俺は、その場に座り込みそうになった。
「どうして、俺が吹いたと分かるがですか」
女の人は、少し困った顔をした。
「口が右に寄っとる瓶は、日野いう人が吹いたがや、と。祖母が、そればっかり言うもんで」
「……生きとられるが」
「はい。九十二です」
※
翌週、俺は瓶を持って、山あいの施設へ行った。
廊下の突き当たりの、日の当たる部屋やった。
すずさんは、窓のほうを向いて、車椅子に座っとった。
髪は真っ白で、背中がずいぶん小そうなっとった。
目は、もうほとんど見えんのだと、孫の人が先に言うてくれとった。
「芦名さん」
呼ぶと、首だけがこっちを向いた。
「宗一さんけ」
五十八年ぶりの声は、あの検品場の声と、同じ低さやった。
※
俺は、瓶をすずさんの手に握らせた。
すずさんの指が、瓶の口を、右まわりに撫でた。
一周して、途中で止まった。
止まった場所を、指は何べんもなぞった。
「これは、あんたが十七の秋に吹いたやつやね」
「……そうです」
「はねもん箱から拾うたがよ」
「知っとります」
「そうけ」
すずさんは、笑うた。
笑うと、やっぱり、七つ上には見えんかった。
※
「なんで、黙っとったがですか」
訊くのに、五十八年かかった。
すずさんは、しばらく黙っとった。
それから、瓶を膝の上に置いて、言うた。
「あんたの口は、ずうっと、ちょっこし右に寄っとったよ」
「……はい」
「毎日、ちょっこしずつ、寄り方が減っとった」
「はい」
「二月に、初めて、寄っとらん瓶が来たがいちゃ」
窓の外で、雨樋の水が鳴っとった。
「それで、もう、ええと思うた」
※
辞めたのは、縁談やなかった。
あの朝、親方が俺に一人で吹けと言うたのと、すずさんが届けを出したのは、同じ日のことやった。
二人は、同じものを見とった。
見とったのに、俺だけが、何も知らんかった。
「言うてくれたら、よかったのに」
「言うたら」
すずさんは、瓶の口を、また撫でた。
「あんた、うちのために吹くようになるがいちゃ」
「……」
「瓶は、飲む人のために吹かんと、割れるがよ」
※
それから俺は、言えんかったことを、ひとつだけ言うた。
三月の浜で言えんかった言葉を、そのまま言うた。
すずさんは、返事をせんかった。
かわりに、瓶を持った手を、俺のほうへ差し出した。
「握って」
言われるままに、俺は瓶ごと、その手を握った。
骨と皮ばかりの、冷たい手やった。
すずさんは、その手のなかで、俺の指の節を、ゆっくり右まわりに撫でた。
検品場で、瓶にしとったのと同じ手つきやった。
「あのな、宗一さん」
「はい」
「最初の三本だけは、ほんまやよ」
「え」
「六月の、あんたが初めて吹いた三本。あれは、ほんまに、よう出来とった」
※
俺は、七十五になって、人の前で泣いた。
すずさんは、俺が静かになるまで、指を止めんかった。
帰り際に、車椅子の背が、少しだけこっちを向いた。
「今度は、うちに検めさせてくれんけ」
「……次のは、口、寄っとらんですよ」
「そんなもん、撫でてみんと分からんちゃ」
※
帰り道、俺は遠回りをして、潟江の浜へ下りた。
六十年前と同じように、砂のなかに硝子の破片が転がっとった。
拾うて、指で撫でた。
角が、すっかり丸うなっとった。
この一片も、割れた日には、鋭かったはずやった。
それが波に何万回も転がされて、ようやく、手のひらを傷つけん形になる。
硝子は、焼くときやのうて、冷ますときに割れる。
割れんかったものだけが、こうして丸うなる。
※
家に帰って、俺は納屋の炉に火を入れた。
種を巻いて、竿を回して、息を入れた。
息はすぐに切れて、思うた半分も膨らまんかった。
それでも、口は、寄らんかった。
吹き終えた瓶を、徐冷炉の棚に並べる。
ここからは、ただ待つ。
急いで出せば、割れる。
一晩かけて、ゆっくり冷ます。
あの人がうちにくれた五十八年も、たぶん、そういうものやったのだと思う。
五十八年かけて、ゆっくり冷ましたのだと思う。
棚の上の瓶が、朝の光で、ひとつだけ、飴色に光っとった。