10分後の別れ

恋人

その夜は、付き合って三年目の記念日でした。

彼は手料理を用意して、私の帰りを待っていてくれました。

※

けれど私は、仕事が長引いてしまい、約束の時間に帰れませんでした。

ようやく帰宅した時には、せっかくの料理は冷めてしまっていました。

※

私はいつもどおり、軽く謝って済ませようとしました。

ところが、その日の彼は違いました。

言葉が強く、態度もきつかったのです。

※

私も体調がよくなく、仕事のストレスも溜まっていました。

話しているうちに、理性より苛立ちが先に出てしまいました。

そして、言ってはいけない言葉を投げつけました。

※

「もういい。

こんな些細なことで、そこまで怒ることないでしょ。

あなたは自分の都合でしか物事を考えられないの?」

※

彼は黙りました。

反論も、言い訳もせず、ただ沈黙しました。

その沈黙が、あとになって思えばいちばん怖かったのに。

※

少しして、私も言い過ぎたと気づきました。

けれど素直に謝れず、席を立ちました。

頭を冷やそうと思い、家を出たのです。

※

いつも通う小さな喫茶店で、三十分ほど時間をつぶしました。

コーヒーを飲みながら、ようやく冷静になっていきました。

※

彼は、ただ怒りに任せて責めたわけじゃない。

今日という日を、私以上に大切にしていたからこそ、あんなふうになったのではないか。

そう考えた瞬間、胸の奥がじくじく痛みました。

※

私の振る舞いは最低だった。

身勝手だった。

彼の気持ちを踏みにじった。

そう思うほど、早く帰って謝りたくなりました。

※

私は、家に向かって歩き出しました。

けれど、帰宅すると。

彼は家にいませんでした。

※

料理はそのまま。

携帯電話も机の上に置いたまま。

几帳面な彼が携帯を忘れるなんて、珍しいことでした。

※

私は近くにいるのだと思いました。

すぐ戻ってくるつもりで、家を出たのだろうと。

だから私は、近辺を歩き回りました。

公園。

近くの空き地。

いつも彼が立ち寄る場所。

けれど、どこにもいませんでした。

※

彼の実家に電話をしました。

友人にも電話をしました。

携帯を覗き、連絡先を片っ端から辿りました。

でも、誰も彼を知らないと言いました。

※

家に戻り、二時間が経ちました。

私はその時、少し腹を立てていました。

帰ってきたら頬をつねってやろう、と。

心配させすぎだ、悪ふざけが過ぎる、と。

明日は休日だから、こんなことをしているのだろう、と。

※

それが、彼との最後の夜になりました。

※

事故が起きたのは、家の近くの一方通行の十字路でした。

横から飛び出してきた車と衝突し、即死だったそうです。

※

時刻は、10時20分。

ちょうど私が家を出て、十分が経った頃でした。

※

私は、その数字を何度も頭の中で反芻しました。

十分。

たった十分。

私が喫茶店へ向かって歩いていた時間。

彼が、私のために外へ出た時間。

※

警察から、彼の遺品について聞かされました。

そこにあったのは、たった三つだけでした。

※

缶コーヒーが一本。

女性用のガウンジャケットが一着。

現金が百二十円。

※

それを聞いた瞬間、息が止まりました。

ガウンジャケットは、私のものでした。

寒い夜に、私が外へ出たのを見て、追いかけようとしたのかもしれない。

それとも、仲直りのあとに「はい、これ」って肩に掛けてくれるつもりだったのかもしれない。

※

缶コーヒーも、未開封だったと聞きました。

彼はいつも、私が疲れている時に缶コーヒーを買ってくれる人でした。

きっと、あの夜も。

あの冷えた料理の前で、きつい言葉をぶつけたあとでも。

私を責めながらも、私を気遣っていた。

※

そして、百二十円。

ジュース一本分にも満たない、ほんの少しの小銭。

でも私は、それがいちばん苦しかった。

その小さな金額の中に、彼の「今すぐ、何かをしてあげたい」という優しさが詰まっている気がしたからです。

※

私はその場で、声にならない声を出しました。

涙が止まりませんでした。

※

一緒に帰りたかった。

ただそれだけのことが、どうしてできなかったのだろう。

※

あの夜の私は。

彼の愛情の大きさを、あまりにも軽く見ていました。

そして、失って初めて。

彼がどれほど私の毎日を支えていたのかを知りました。

※

悔しかった。

情けなかった。

胸の奥が、ずっと痛かった。

※

缶コーヒー一本。

ジャケット一着。

百二十円。

※

彼の優しさは、最後の瞬間まで、私のほうを向いていました。

だからこそ私は、いまでもあの夜を思い出すたび、同じ言葉を胸の中で繰り返してしまいます。

※

一緒に帰りたかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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