絵日記の最後のページ

縁側

朝霧の深い半島の先端で、病院の裏口に座り込んでいる一匹の老犬を見つけたのは、妻が亡くなった五年前の夏の終わりだった。

毛は茶と白のまだら模様で、左の耳が半分ちぎれていた。

痩せた体に肋骨が浮き、それでも僕の靴の先を嗅ぎ、ゆっくり尻尾を二回だけ振った。

妻の千代はその犬の前にしゃがみ、迷いもせずに名前を決めた。

「ハナちゃん」

花みたいな模様だから、と言って笑った妻の白いうなじが、今でも目に焼きついて離れない。

千代はその三日後に病院の検査結果を僕に見せ、半年後には夏の終わりの朝、僕の腕の中で静かに息を引き取った。

五十四歳だった。

告別式の日、僕は棺桶の傍にいるべきだったのに、ハナが急に発作を起こしたという知らせを受けて、礼服のまま車を飛ばして病院に戻った。

ハナはその夜、無事に戻ってきた。

けれど、妻の最後の時間に僕は間に合わなかった。

その夜、僕は葬儀場の駐車場で、ずぶ濡れのハナと車の中に座り、妻の写真をダッシュボードに置いて、声を出さずに夜明けまで座っていた。

ハナだけが、あの夏の妻と過ごした家に残った。

伊豆半島の先、石廊崎に近い小さな漁港町で、僕は動物病院を一人で続けている。

町の人口は千人を切り、患者の多くは半径五キロ以内の漁師の飼い犬や、網元の納屋に住み着いた猫たちだ。

古い木造の診察室の窓を開けると、入道雲の下に黒く沈んだ岬と、潮が引いたあとの磯の匂いが入ってくる。

朝は診察、午後は往診、夕方には誰もいない海沿いの道をハナと歩く。

ハナの足音と僕の長靴の音と、港に繋がれた漁船の舫い綱が軋む音だけが、この五年間の僕の暮らしのすべてだった。

ハナは気づけば十五歳になり、後ろ足の関節を痛めて走れなくなり、夏の熱気に舌を出して荒く息をするようになった。

獣医である僕には、この犬が次の夏を見られないことがわかっていた。

腎臓の数値は上がり続け、診察台にハナを乗せるときの重さが、三年前の半分ほどに軽くなっていた。

それでも僕は、朝の味噌汁を二杯作り、一杯をハナの器に冷まし、それをハナが食べる音を聞きながら、妻の遺影に箸を合わせる生活をやめられなかった。

毎朝、仏壇の前で線香を一本だけ立てる。

千代が好きだった白檀の香りが、古い畳の上を、静かに這っていく。

妻が死んでから、僕は誰かを幸せにする力を、もう持っていないと思って生きてきた。

東京に嫁いだ一人娘の明日香から、何年ぶりかの電話が入ったのは六月の半ばだった。

「さくらの夏休み、そっちに帰ってもいい?」

明日香は三年前に夫と離婚し、八歳になる娘のさくらを一人で育てていた。

妻の葬式の日、僕は式の最中に席を立ち、ハナを病院に連れて行ってしまった。

ハナが発作を起こしたのは本当だが、父として、祖父として、あの日、僕がそばにいなかったことを、明日香は忘れていないはずだ。

それ以来、電話のたびに会話は三分で途切れた。

明日香の声は硬く、僕の声は低かった。

「泊まる場所は、うちでいいのか」

「お父さんしか、いないでしょう」

その短い会話の中に、とうとう壊れなかった糸が一本だけ残っているのがわかって、僕は電話を切ったあと、ハナの首の下を長いこと撫でていた。

七月の最後の週、明日香とさくらが駅まで迎えに来た僕の軽自動車に乗り込んできた。

さくらは、写真でしか見たことのない孫だった。

ランドセルを背負う年ごろの女の子は、後部座席でハナを見つけるなり、歓声を上げて抱きついた。

ハナは最初は戸惑ったように僕を見上げ、それから、諦めたように首を預けた。

さくらが車のシートに頬を寄せて、小さな声で「あったかい」と言ったとき、バックミラー越しに、明日香が窓の外を見て、口元を手で押さえているのがわかった。

海沿いの坂道を登るあいだ、僕は何も言えなかった。

五年ぶりに後部座席から聞こえてくる人の気配は、思っていたよりも、ずっと重たかった。

さくらは翌朝から、家の前の防波堤にハナを連れて歩くようになった。

ハナの足はもう遅く、二十メートル歩いては休む。

さくらはハナの前に座り、水筒の水を手のひらに注いで飲ませてやった。

「おじいちゃん、ハナちゃんは何歳?」

「十五だ。人間でいうと、七十を過ぎているな」

「じゃあ、おじいちゃんとおんなじくらいだ」

五十八の僕は笑った。

五年ぶりに、声を立てて笑った。

明日香が台所で皿を洗う音が、その笑い声に重なって聞こえた。

夕方、明日香は庭の千代が植えた夾竹桃の下で、真新しい絵日記帳をさくらに渡した。

水色の表紙に「なつやすみ」と白い活字で印字された、どこの文房具屋でも売っているような、ありふれたものだった。

「夏休みの宿題だから、毎日描きなさい」

「うん」

さくらは縁側にぺたりと座り、クレヨンの箱を広げ、ハナを横に寝かせて、真剣な顔で鉛筆を動かし始めた。

さくらの描く絵は、左上に日付、右に天気のマーク、真ん中に下手くそだけれど懸命な線で描かれた日々の出来事、そして下の欄に短い文章が書いてあった。

「はなちゃんと、なみをみた」

「はなちゃんが、おひるねした」

「おじいちゃんが、わらった」

僕はその背中を、縁側の向こうから眺めていた。

夏の光が、さくらの髪の先で跳ねていた。

その夜、さくらが寝てから、明日香が台所で僕に静かに言った。

「お母さんが死んだ日のこと、ずっとお父さんのせいにしてた」

僕は茶碗を持つ手を止めた。

「でも、お母さんね、死ぬ前の週に手紙をくれたの。お父さんはハナと一緒にいる人だから、心配しないで、って」

明日香はそう言い、蛇口を閉めた。

水の音が消えると、外の波音だけが残った。

千代が病室で、一人でそんな手紙を書いていたことを、僕はこのとき初めて知った。

娘のために、父と犬のことを、書き残していてくれていたのだ。

僕はうまく返事ができず、ただ、茶碗の底を見ていた。

明日香は小さくため息をつき、それ以上は何も言わなかった。

その沈黙が、責めるためのものではないことは、五年の距離のあとで、ようやく僕にもわかった。

八月に入って三日目の朝、ハナが餌を食べなかった。

僕はそれが何を意味しているかを知っていた。

さくらを呼び、明日香を呼び、三人でハナの横に座った。

ハナはもう目を開けなかったが、さくらが首の下を撫でると、尻尾を一度だけ、畳の上でとんと鳴らした。

僕はその音を、一生忘れないだろうと思った。

さくらはずっと泣いていた。

それから、子供の力いっぱいの声で言った。

「ハナちゃん、えらかったね、えらかったね」

ハナの息が止まったのは、午後の二時だった。

庭の夾竹桃が、白い花びらを地面に落としていた。

僕はハナの胸に手を当てて、心音が止まっていることを確認し、それでも、もう一度だけ聴診器を当ててみた。

獣医としてこの手で何百回もしてきた動作が、今日はなぜか、手が震えて、まっすぐに聴けなかった。

明日香が僕の肩を、小さな力でそっと掴んだ。

「お父さん」

その一言を聞くまで、僕は自分が泣いていることに気づかなかった。

ハナの骨を、千代の墓の隣に埋めた。

さくらは泣き腫らした目で、手のひらに隠し持っていた何かを、ハナの骨壺の上に置いた。

「おじいちゃん、絵日記の最後のページ、破いたの」

「なんで、破いたんだ」

「ハナちゃんにあげたかったの。ハナちゃんが寂しくないように」

破られたページは小さく折りたたまれ、クレヨンの匂いがまだ残っていた。

僕はそれを開いてはいけないような気がして、しばらく持ったまま動けなかった。

「おじいちゃん、見てもいいよ」

さくらがそう言うので、震える手で折り目を開いた。

そこには、縁側に座っている僕の後ろ姿が描かれていた。

背中を丸めて、夜の庭を見ている。

横にはハナが寝ていた。

絵の下に、クレヨンの赤い字で短い言葉が書いてあった。

「おじいちゃん、ないてるの、さくらしってたよ。でも、さくらもおかあさんも、おじいちゃんのこと、だいすきだよ」

僕はその一行を、三回読んだ。

五年間、誰にも見られていないと思っていた背中が、ずっと、小さな誰かに見つめられていたのだ。

僕は膝から崩れ落ちるように座り込み、声を出さずに泣いた。

明日香が後ろから僕の肩に手を置いた。

その手は、五年ぶりの、温かさだった。

夏の終わりに、明日香とさくらは東京に戻っていった。

駅のホームで、さくらが僕の手を握って、こう言った。

「おじいちゃん、来年もハナちゃんのとこに来るから、また、お絵描きする」

「ああ。来年な」

僕は、その約束を、ハナの骨壺にだけ届く声で、もう一度繰り返した。

病院に戻って診察室の明かりを点けると、机の上に、さくらが置いていった絵日記帳があった。

最後のページは破られて、ハナのもとにある。

けれど、最後の前のページを開くと、そこにも、もう一枚、絵が増えていた。

三人と一匹が、夕焼けの海を並んで見ている絵だった。

僕は次の夏も、その前の夏も、その次の夏も、ここでこの絵日記の続きを待っていようと思った。

妻が残してくれたのは、ハナではなく、きっとこの夕焼けの中に並んでいる、僕たちの時間そのものだった。

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